mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

起承転結

2023-06-25 09:22:29 | 日記
 ワグネルが叛乱を起こしたというニュースを聞いて、おっ、いよいよ「転」がはじまったとウクライナ贔屓の私は、喜んだ。「起」はロシアのウクライナ侵攻、「承」はウクライナの反攻。結構、拮抗しているようだ。さあいよいよロシアの後退戦が始まるかと思っていたら、ワグネルの叛乱。ロシア領内の州の軍事施設を制圧して、モスクワへ向かっていると報道は緊張の高まりを伝える。プーチンが叛乱を裏切りとして非難したから、軍は制圧へ乗り出すかと,わたしの期待は高まる。
 今朝になると、ワグネルはベラルーシへ入り、プーチンはクーデター疑惑の調査を中止し、加わった兵士たちの罪を問わないと発表したともいう。なんだ、大山鳴動ネズミ一匹じゃないか。面白くねえなあ。
 とまあ、わたしは全くの野次馬である。野次馬は、しかし、浮世離れしているわけではない。生活現実を踏まえて見知らぬ世界やよく知る世界の意外な展開に期待して覗き込む。あくまでも覗き込んでいるだけだから、当事者性はない。ハラハラしてみていても、展開する事態への、責任の欠片は何処にも見当たらない。
 ロシア? イヤな国だねえ。ウクライナ? 何だわたしらの日常じゃんか。こりゃあ、ひどい。頑張れ、ゼレンスキー。でも、そう思うだけ。
 ワグネルの叛乱は、仮想のドラマではなく現実の展開だから、ますます予測ができなくてオモシロイ。ということは逆に、映画やドラマであれば、予測できるのか。
 そうなんだね。予測できるというより、大きくズレることを予め組み込んでみている。かなり破天荒な展開になっても、ドラマなんだからそれはユルセる。予想と違って大きくズレている方が、よりオモシロさは膨らむ。しかしいくらズレても、ベースの「現実認識」と接点がなくなって,離陸してしまってはいけない。これが仮想世界と現実との「緊張感」を担保する。
 このドラマに組み込まれた現実世界との「接点」が、へえ、こんなところに目をつけたかと感心することもある。岩井圭也の小説『永遠についての証明』(KADOKAWA、2018年)もそうだ。天才的数学者が「難問」の探求自体が面白くてどんどんのめり込む。衣食住の暮らしの基本も忘れてゴミ屋敷に住まい栄養失調になってヘロヘロになるが、目前の「難問」に心惹かれて、そのイメージ世界に,文字通り没入してしまう。
 いつだったか朝日新聞に若手女性研究者の自殺を惜しみ、優秀な研究者を見捨てる文科行政を批判する記事があったなあ。あれも若い研究者がはじめ、それを誇らしく思う親に支えられて暮らし、続く何年かは文科省から月30万円ほどの研究費を得て暮らしていくが、その期限が切れて行き詰まる。結婚するがそれも離婚にいたり、ついに経済的に破綻して、自死するところまで追い詰められた方の話であったか。それを思い出させた。この女性研究者の話には、研究課題である「難題」そのものが持つ「永遠性」への言及がなかった。「優秀な研究者」という取材記者の思い入れだけが際立っていた。「永遠性」というのは、そうなんだ、そういう難しいモンダイがこの世界にあるんだというワタシの認知がベースにあるから成り立っているイメージなんだ。岩井圭也の小説はそのイメージを膨らませて読者に共有させた上で、この天才がのめり込んでいく傾きをふむふむ成程と思わせた情況を書き込んだ上で、最終版のステージを描き出すから、ヒトの好奇心の悲哀と読み取ることができる。
 リアルの世界というのは、私たちがイメージする世界とは違うが、別物ではない。世界認識としてはおなじ土台の上に設えられている。ただ、ワタシに当事者性が何処に位置しているか、しっかりと位置づけられているとき、それはまさしくリアルな現実世界である。だが、当事者性が脇に置かれ、ははは、オモシロイと野次馬気分でみている世界は、ワタシの外部に起こっている世界だ。それはイメージ世界といっても良い。
 となると、では、今回のワグネルの叛乱とか、ウクライナの戦争というのは、私にとってリアルなのか、イメージなのか。どうも野次馬にとっては、イメージ世界のコトのようだ。えっ? ドラマと一緒なの? 
 もっとも、たとえば水にも、川の水が流れ込む海辺には、淡水でも海水でもない汽水域という領域がある。このイメージに近いか。所謂創作の世界のイメージは、海水のようなものだ。飲むには難しいが眺めている分には懐かしさも含めてふるさとをみるような愛おしさを感じる。淡水は,明らかに飲むための水。野次馬が現実展開に感じている世界は、汽水域だ。鮎じゃないが、汽水域でこそ幼年鮎はすくすくと育つ。ヒトに置き換えてみると若いころの,何でもみてやろう、何でも体験してみようという騒々しい創造性こそ、楠井域の幼年鮎のような所業。それが人の身の習いとなって、高齢者になってからも身の裡から湧き立つ好奇心を支える。
 河口に身を置くワタシたち野次馬は、いつ何時、何かをきっかけにしてオモシロがってるイメージ世界が、わが身のリアルにならないとも限らない。その心奥のざわつきがベースにあって、野次馬気質が掻き立てられ、オモシロイと感じているのかもしれない。つまり、こうもいえようか。オモシロイと感じるのは、いつかわが身に降りかかる現実になるかもというリスクのスリルが加わっているからだ、と。
 そう受けとると、ワグネルの「転」が、暴発に至らず収まったことは、オモシロくない。ご贔屓ウクライナの「結」のためにも、もっとロシアが壊れるような「転」回が期待されるところだ。