mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

最悪を想定する分配感覚の共通性――規範はどうかたちづくられるか(9)

2017-07-30 20:14:36 | 日記
 
 6/28の「規範はどうかたちづくられるか(8)」以来、すっかり無沙汰をしてしまいました。じつは金井良太『脳に刻まれたモラルの起源――人はなぜ善を求めるのか』(岩波書店、2013年)のように脳科学と連結させてモラルや理性を論じる本が、今年に入ってから続々と出版されています。それだけ、脳科学のMRIなど、生体チェックが容易にできるようになって、その分野の進展が目覚ましいのだろうと推測しています。とりあえず、亀田達也『モラルの起源――実験社会科学からの問い』(岩波新書、2017年)を読んで、金井たちのところで紹介していなかったことがらに触れておきます。
 
 この著者は心理学者。文科省が「人文社会系学部の再編」を言っているのに対応して、《……私たちの生きている現代社会の要請に対して実際に「役に立つ」こと、個々の問題に対してマニュアル的な「答え」を与えるのではなく、より原理的なレベルでの「解」を与える可能性を持っていることを少しでも描けたら》と考えて、書いたという本です。心理学や生物進化学、脳科学、哲学などの論議を総合的に紹介しながら、人文社会系の学問がここまで人間のモラルについても解明してきていますよと、説明している。その大部分は、じつは、すでに紹介した金井良太の著書と重なるのだが、その〈第5章 「正義」と「モラル」と私たち〉が面白かったので、紹介しておきます。
 
 この章の出発点に「正義」への二つの疑問が取り上げられて、法哲学者・井上達夫のことばが引用されています。
 
(1)正義は個人を超えるか、いわんや「国境」を超えるか。「国境を越えられない正義」の欺瞞。
(2)正義に名を借りた圧倒的な暴力の存在(への疑問)。「身勝手に国境を超える覇権的正義」。
 
 このうち、(1)を《念頭に置きながら、社会の在り方、なかでも「正しい分配のありかた」を中心に、私たちの正義に対する高い感受性の性質と働きをみていきましょう》と意図を説明しています。
 面白いと思った結論的な部分を鳥瞰しておきます。
 
(ア)功利主義的な分配を差配する「規範的な~べき論」よりも、人々がどう振る舞うことに馴染むかと発想する「実用主義」を採用している。
(イ)分配の規範は文化によって異なる。「平等な分配」ということに人びとは多様な判断を持っているが、強い関心を寄せている。
(ウ)ホモエコノミクスというのは自分の利害のことにだけ関心があって他者の利害に関心を及ぼさないというが、それを「アンフェア」と受け取る感性を持っている。
(エ)市場の倫理と統治の倫理は、対照的な特徴を持つ。両者に共通するのは「生き残りのためのシステムとしてそれぞれ統一的なまとまりをつくっている」。この両者は秩序問題の異なる解き方である。
(オ)社会に存在する規範を、市場の倫理(商人道) と統治の倫理(武士道)とすると、どちらにも属さない社会的寄生者が存在する。商人道と武士道がそれぞれのやり方で社会関係を築けば、それなりに秩序問題は穏やかに解決をみるが、それらがぶつかり合う場面においては、社会的寄生者が主たるありようになっていく。
(カ)格差を嫌う人の脳がある。目に見える他者との利害の差は、ことに心に(良くも悪くも)響く。(キ)ジョン・ロールズのいう「無知のベール」をかぶせなくても、「社会的な分配」と「不確実性への対処」(不慮の事故や不遇に対するリスクを集団として減らす)という課題を前にすれば、「みんな最悪が気になる共通性」が発揮される。「ロールズ[的な思考]は私たちの心の中に、自然かつ頑健な形で存在しているようです」。
 
 上記のようなことを前提にして亀田達也は、最初の疑問(1)に取りかかります。まず「正義は個人を超えるか」は条件付きでクリアされるとみています。そしてその後半部分に取りかかるにあたって「ハーバード大学の哲学者グリーン」を引き合いに出し、《モラルとは生き残りのために「共有地の悲劇」を解く仕組みだと……論じる》。「共有地の悲劇」というのは「共有地に何頭の羊を放すことが妥当か」である。つまりこれは言葉を換えれば、「人びとの間でいかにして平和な暮らしを実現するか」という秩序問題と同一だとみているわけです。
 
 そうして異なる規範(秩序を構成するやり方)を持つ集団の内で、人びとは自然と集団の規範に違反しないように振る舞う感情を身に備えている、つまり、自動モードでやっていける、と。現実には、そううまくは収まらず、怒りや恐れの感情を引き起こす。それを集団は、進化的適応をベースとする自動的な感情の働きが重要だとみているのです。最近の脳科学の成果は、それが脳の感情システムに組み込まれて、強化再生産されているとみています。つまり同じ集団内に限定する限り、「正義は個人を超える」と結論します。「同じ集団内に限定する」というのは、ともに生存している仲間としての共同性の感覚を共有する者同士、と言っていいでしょう。
 
 では、正義は「国境」を超えるか。所属する集団が異なると、規範も異なります。「境界」を越えた一致はありません。グリーンはその壁を超えるのに、《手動モードの働きに希望を見出しています。手動モードというのは、直感的でない、理性的計算による問題解決法です。》
 
 集団間の違いを乗り越える「メタ・モラル」を想定して、功利主義的に考え、《頭を使った「手動モード」を通じて、誰もが「部族(=集団)」の壁を越えて理解できる「共通の基盤(メタモラル)」をつくりだそうというわけです。グリーンのいう「功利主義」にこれ以上踏み込むのはやめますが、グリーンの考え方を次のようにまとめています。
 
《グリーンは、この考え方があくまでも折衷(妥協)であることを認めています。同時に、モラルを異にする「部族」同士の対立が多くの惨状を生み題している今日、共通基盤(メタモラル)を「どこにあるべきか」ではなく、実際に「どこにあるか(ありうるか)」の観点から求める深い実用主義(deep pragmatism)こそが必要であると論じています。》
 
 結論を読むと、なあ~んだと言われかねないほど、平凡な言いぶりに聞こえます。それはつまり、脳科学が検証してきたモラルの現在地点、つまり石橋をたたいて渡ってきた地平ということだからでしょう。でも、そんなものです。直感的には(いくら平凡と言われようとも)すぐにわかることですよね。私はそこに、人類史が積み重ねてきた、身に備わった直感的継承があるからだと考えているのですが、違うでしょうか。

方法的な視線の違い

2017-07-30 10:09:32 | 日記
 
 山折哲雄『これを語りて日本人を戦慄せしめよ――柳田国男が言いたかったこと』(新潮選書、2014年)に、柳田と折口信夫と南方熊楠を対照させて、その三者の方法的な視線の違いを指摘しているところがあった。柳田は「普遍化」を目指し、折口は「始原化」を志向しているのに対して熊楠は「明確な方法的意識があったのだろうか」と疑問を呈し、「彼のどの論文にもみられる狂気のごとき羅列主義」から浮かび上がるのは「カオス還元のイメージ」と掬い上げている。
 
《……柳田は、「一目」という怪異で不可思議な現象を、神に対して捧げる人間の側の「犠牲」という一般的な理論枠組みの中に解かしこんで自然的な現象へと還元しようとしているわけである。要するにかれは、「先住民」とか「犠牲」とか言ったキー・コンセプトを用いて、民俗の不可思議現象をいわば普遍的な枠組みの中に回収して読み解こうとしている……》
 
 対するに折口は、
 
《……眼前に横たわる不可思議な現象をとらえて、それをさらにもう一つの不可思議な現象へと還元する方法であった。……柳田のように合理的に解釈のつく自然的な現象へと還元するのではない。そうではなくて、合理的な解釈を拒むような、もう一つ奥の不可思議な現象へと遡行し、還元していく方法である。》
 
 として、《折口の芸能論と宗教民族論のちょうど接点のところに位置する「翁の発生」》に目を止め、
 
《……「翁」の諸現象についてさまざまな角度からの分析が加えられ……最後になってその議論のほこ先はただ一つの地点へと収斂していく。すなわち「翁」の祖型は「山の神」に由来し、その「山の神」の伝承をさらにたどっていくと最後に「まれびと」の深層世界に行きつくほかはない……》
 
 (微光につつまれた謎のキャラクター)「翁」 → (神韻ただよう)「山の神」 → (彼岸の始原)「まれびと」というずらしと同語反復によって、筋道だった因果律や合理的解釈の入り込む余地のない領域へと導くと解説し、《柳田の自然還元の方法に対して、折口における反自然還元の方法と言っていいかもしれない》と結論的に山折哲雄は言っている。
 
 だが、そうだろうか。私には折口のそれが「反自然還元」とは思えない。折口は自らの感性の始原に突き進んでいったと思う。それは「反自然」というより、自らの現存在も感性そのものをも不思議ととらえ、それがどこから来てどこへ向かうのかを極めようとする志向ではなかったか。じつは柳田の「山の人生」にもそれを感じたことがあった。
 
 「山の人生」で柳田は山人の語り継ぐいろいろな話を採録している。そのなかに、奥山に二人の子どもと暮らす一人の男の話があった。今日も何も食べるものを手に入れることができずに帰ってくると子どもが斧を研いでいる。そして倒木を枕に横になり「俺らを殺してくれろ」という。男は斧を振り上げて二人を殺し、その足で警察に出頭して罪を償ったという「事実」をそのままに記していた、と思う。それを読んだときに私が受けた衝撃は、生きる苦しさという社会関係に位置づけた解読よりも、だれにも頼ることなく始原に生きることの厳しさを思ったものであった。それは、不可知なものや闇に対して抱く「畏れ」や「恐怖心」の根源を感得させるものであった。それは宗教的感性の始原に向き合っている瞬間かもしれなかった。当事農林省の官僚であった柳田がなぜ、それを「事実」のままに記しておいたのか。「山人」という異形の生き方を「平地人」と対照させてみること自体が、(柳田のというより、農耕民の子孫であると思っている私の)始原への旅じゃないか。そう感じたのであった。
 
 ただ、柳田は始原に筆をすすめず、かといって現在からの合理的な解釈に落ち着くことも良しとしなかったために、「事実」そのままに捨て置いたのではないかと、私は受け取った。彼の『遠野物語』もそれと同じ構成をとっている。柳田は、自らの感性の深みを垣間見はするものの、その現在から出立することにした。あるいはこうも言えようか。自らの感性の深みとというよりも、平地人の感性に由来所以の深みがあることを知悉したうえで、しかし現存在を肯定しつつ、安易な解釈を遠ざけるために「事実」の採録に徹したのではないか。
 
 折口はしかし、人の現存在を肯定するどころか、自らの突出する感性に翻弄され、自らを「ほかいびと」の類と見定め、自らの存在を「不可思議現象」とみていたがゆえに、どこから来たかを問わずにはいられなかったのであろう。だがそれは、山折によれば(次元を変えた)「同語反復」であった。この表現がなぜだか、私にはよくわかる。始原への旅は「同語反復」になる。先祖も社会環境も、わが身に受け継がれたDNAも立ち居振る舞いも、身体能力も含めた人間諸力も文化も、なによりことばも、ほとんど混沌の海から引き摺りだすようにして、いつしか身に備わっていたからである。闇の中からなんらかの(身勝手な)法則性によって身に備えてきたがゆえに、遡ったからといって裏づけようのない「同語反復」しか待っていない。
 
 それをそれとして見極めていたのかどうかは知らないが、南方熊楠の「カオス還元という方法」は、まさに混沌の海から引き摺りだしはするものの、容易にことばにして固定することなく、その限定された局面における「狂気のごとき羅列主義」に徹して混沌の海に投げ返していたのではないか。つまり、南方熊楠にとっては、万般を体系化し法則化しようとすること自体が限定を忘れた不遜な所業にみえたのだと思う。ひとはそこまで思い上がってはならない、と。
 
 人はどのようにして文化を受け継ぎ、「かんけい」を紡いできたのか。始原にさかのぼることは、混沌から生まれてきたことを感知することであるとともに、もはや「ことば」にしようのないほどの長年の堆積を、身を通して受け継ぎ紡いできたことを、認知することである。人の営みが、自らの感性を起点にして自らを振り返っているかぎり、その始原に目を向け、そこに混沌とともに、その総体を分節化して「解釈」しようとする愚かさを、出立点において知っておくことが何より意味多いのではないか。そんなことを考えさせた。

また、私の夏休み

2017-07-29 20:26:18 | 日記
 
 激しく雨が降る。すぐに止む。暑さがぶり返す。山から帰ってくると、途端に町の暑さが気持ちを大きく占める。でもやっと、私の夏休みがはじめる。私の、単独行の山プランをたてる。今年は薬師岳に行こうと考えている。というのも、ぼちぼち五日間もの山歩きをつづけることがむつかしくなっているのではないかと心配しているからだ。71歳になる年であったか、飯豊山に行った三泊四日は、その後の大きな自信になった。一日10時間近く、20kgの荷を背負って歩いた。だがこのところ、6,7時間の行程を歩くと、翌日はぐったりしていることが多くなった。やはり後期高齢者になるというのは、如実に力の衰えとして現れるってことか。そう思うようになった。
 
 室堂から歩きはじめ、五色ヶ原を経てスゴ乗越への稜線をたどって薬師岳に向かい、太郎平から折立に下る。昔なら夜行と1泊2日のコース。それを入山前をふくめて、4泊5日で歩く。ま、年寄りの単独行としてはほどほどのところであろう。1日6時間ほどの歩行。ゆっくりと北アルプスの稜線を堪能して来よう。これがじつは、75歳以降の私の山歩きの目安になる。そんな気がしている。
 
 室堂はしかし、観光地化していて、何処も宿はいっぱい。いまさら夜行バスで行くこともないだろう。ふと、室堂手前の天狗平あたりの山荘が目にとまり、電話をしてみた。いっぱいのようではないが、こちらが一人というのを歓迎していないみたいだ。山へ行くこと、ちょっと高い料金をOKしたこともあって、止めてもらえることになった。そのあとの山小屋はどこも、電話で予約をとった。天気は初日を除くとまあまあだ。
 
 ところが、もっていくものを考えていると、飯豊山のときと違って寝具はもちろん、ほとんど食糧も調理用具もいらない。山小屋のサービスを受けて身軽に動ける。毎日が日帰り登山のようなもの。ただ、寒さと雨だけは用心しておかねばならない。荷造りをするほどのこともなく、湯を沸かす用意とお昼にする携帯食料を買い込むだけでよさそうだ。
 
 明日一日、身辺の片づけごとをして、明後日朝に出発する。私の夏休みだ。

岩稜とお花畑の薬師岳と早池峰山(2) 絶好の山日和

2017-07-28 11:05:50 | 日記
 
 さて26日。朝食は7時。湯豆腐などもあって、けっこう盛りだくさん。昨夜のキャンプ食のせいもあって、ゆっくり、たっぷりといただいた。それでも7時45分発。昨日のコンビニによってお昼を調達。このコンビニ、駐車場は、トラックも含めていっぱいであった。
 
 昨日の登山口へ向かう。このとき、早池峰神社に近づくにつれて東へ向かっているのだとわかる。陽ざしが前から差して来て、狭い林道の先がまばゆくて見通せない。カーブに差し掛かると、速度を落とし手をかざして見極めなければならなかった。8時半前に登山口に着く。昨日と違って、車がいっぱい止まっている。岩手ナンバー、盛岡ナンバーが多いが、横浜ナンバーもあった。8時35分、歩きはじめる。
 
 小田越までは昨日と同じルート。早池峰山の稜線の上は雲一つない青空。東の稜線の向こうに少し入道雲が湧きたつ。いかにも夏の高山という風情。舗装路に照り付ける陽ざしがまばゆく暑い。少ししかない木陰に身を寄せるように、道の右へ左へと移動死ながら歩く。やはり35分ほどで小田越に着いた。
 
 今日はずいぶんたくさんの人が入っている。消防自動車が何台も止まっている。消防の活動服を着用した若者が大勢降りている。「訓練」だそうだ。「背負って降りてね」と年寄りが頼んでいる。若いイケメンが笑って「気を付けて」と応じる。「あの子がいい」というものもいれば、「向こうだって選ぶ権利があるかも」と茶化す。
 
 早池峰山への道に踏み込む。9時15分。コメツガや背の高いカエデなどの広葉樹、やはり丈の高い笹に覆われるようになっていて、日陰を歩く。昨日同様、ドラム缶がところどころにおいてある。単独行の若い人がやってくる。道を譲る。年寄りが来る。譲ろうとするが、「いや、ゆっくりなので」と先行しようとしない。ごろた石を踏むように歩くが、昨日のように水に濡れていたりしない。木立の間から見える空は青く、入道雲が湧きたち始めた。振り返ると、昨日登った薬師岳がすっきりとした姿を見せている。と、ぐぇぐぇぐぇという鳥の鳴き声がすぐ近くで聞こえる。ホシガラスが樹の幹に止まって鳴いている。
 
 30分ほど歩いて樹林を抜けると、今度は大きな岩を伝うように登る。前が止まって何かをみている。エーデルワイスがあった。この後何種類か、様子の違うエーデルワイスがあったから、これがハヤチネウスユキソウかどうかはわからないが、カメラのシャッターを押す。その脇にも紫色の小さい花が咲いている。皆それぞれにカメラを構えて立ち止まる。先頭のoktさんが間をあけていいものか思案している。「放っておいて、先行していいですよ」と声をかける。彼は今朝、腰が痛いと言っていたそうだ。無理はできないが、彼のペースをできるだけ乱さないようにしておきたい。
 
 前方の山稜部が見える。「あれが山頂か。意外に近いね」というと、急に皆さん元気が出たように歩を進める。岩の間に花が咲いている。その都度立ち止まる人、構わず登る人、間が離れる。でも、見透しはよく、見えなくなるわけではないから、勝手に歩いてもらう。私と一緒のoktさんが遅れる。脚が不安なようだ。50分ほど登ったところで、kwrさんが「山頂はあそこなのだから、頑張って」というと、上から降りてきた人が「いや、あそこは五合目くらい。山頂はその上にみえます」という。なんだか気力を奪うようなことをいう、と思った。oktさんは「この辺で待ってます」というから、「上の大岩のところまで行って、山頂が見えるところで待ってましょうよ」といって、少しずつでも身体を持ちあげるように励ます。
 
 やっと大岩の麓に着いた。oktさんは「ここで待ちます」というので、彼を措いて大岩を回り込むと、ほんの50m先で、皆さんが休んでいる。下を向いて「皆さん居ますよ。ここまでお出で」とoktさんに声をかける。彼も上がってくる。「←小田越1.5km、早池峰山・山頂1.0km→」と標識があり、その柱に「五合目御金蔵」と書きつけている。「御金蔵」って何だろう。oktさんはここで待つ、あるいはぼちぼち一人で降りるから追いついて、という。ではでは、と彼を残して登りはじめる。山頂に立ったとき、「五合目はあの辺、oktさんは見えてるかしら」とstさんがいって手を振っていたが、よくわからなかった。下山のときすでに彼の姿はなく、小田越で再び会うことになった。彼に聞くと、「皆さんと別れてみていたら、もうあんなに登っていると思うくらい、皆さんは速かった。待っているのも悔しいし、あとで合流してゆっくり降りたのでは迷惑もかけるから、30分ほどいて降りました」という。13時ころには小田越に着いたというから、私たちよりは40分くらい早く下山したことになる。
 あとで考えてみると、五合目を過ぎてからの上りが、急斜面の岩場と30mを超す二段の鉄梯子の上り。その上はさらにまた、大きな岩を攀(よ)じる急登であった。登るときは夢中であるから、疲れも感じない。上から降りてくる人もいる。梯子は二列かかっているから不都合はないが、登る前で立ち往生している人もいて、先を譲ってくれる。もう梯子の先端にいてkwrさんが手を振っている。先行して右側の大岩へ道をとったkwrさんとちがって、msさんは左側の大岩のあいだを上っている。乾いた岩でよかった。すべすべとして黒光りしているこの岩は、雨でぬれたりするとグリップが利かない。
 
 「剣ヶ峰分岐」に着く。左へ400m行けば山頂、右へ1.2km進めば剣ヶ峰に行く。むろん、早池峰山頂の方へ向かう。木道があり、その両側がお花畑になっている。歩一歩立ち止まり、しゃがみ込んで花をうかがう。向こうに赤い屋根の山小屋が見える。kwrさんはもうその脇にいて、手を振っている。こうして山頂に着いた。大きい岩がそちこちにあるから山頂全体を一望することはできないが、広い。早池峰神社の奥社が立っている。鉄剣がたててあるのは、むかし修験道に使っていたからなのか。大勢の人がお昼にしている。11時40分。2時間半のコースタイムより5分早い。いいペースだ。昨日のこともあるから「30分お昼にします」と声をあげ、それぞれ手近なところに座りこんで弁当を広げる。南の薬師岳の方へ向いて座り込みお昼にしているokdさんとmsさん二人の姿が、山頂標識と並んで、向こうの雲に映り、いかにも夏山山頂の一服、という格好。一幅の絵のようだ。何時間でも過ごしていられる。
 
 「えっ、もう行くんですか」と昨日(お昼に)声をあげたmsさんが起ち上げって(えっ、まだ行かないんですか)という顔をして目が合う。「まだ、24分ですよ」というが、先に行ってますというふうに、歩きはじめる。見ると他の方々も、すでに歩きはじめている。mrさんが下りが心配と言っている。kwrさんが「大丈夫、下りになったら降りのモードになるから心配無用」と励ましている。下りになる。上るとき心配していた気配をみせず、mrさんも注意深く降っている。鉄梯子に来る。最後に降りていた私の脚が、mrさんの頭にあたる。「おっ、ごめん」というが、mrさんは私に文句を言う余裕はない。下を向いて、okdさんに「ねえ、早く撮ってぇ」と写真をせがんでいる。okdさんはカメラを出している。kwrさんが「はい撮ります。こちらを向いて、両手をあげてぇ」と声をかける。mrさんが笑っているかどうかは、わからない。私は梯子とは別のルートを岩を伝って降ってしまった。
 
 岩を降りてみると、先頭のmsさんはずうっと遠くを歩いている。そのあとをstさん。着衣とリュックの色で見分けている。上からみると、下の方はすたすたと歩けるように思える。だが実際にその場に行くと、そうはいかない。下方は、小田越までの全体が一望の視野におさまるから、一人の人の歩きがう~んと縮小されて素早く動いているように見えるのだろう。そんなことを考えながら、mrさんの前を下る。足場を選ぶ面倒を軽くしようと考えたのだが、彼女は自分でしっかり選んで、それでいて少しも遅くなることなく、さかさかとついてくる。「下りのモード」になっているのだね。
 
 こうして小田越に着いた。13時30分。oktさんは待ちくたびれただろうと思っていた。途中で下っていた「自然保護」の腕章を巻いた地元のお年寄りといろいろと話しをしていたようだった。上っているときに心筋梗塞を起こした事故のことなどを話す。そうか、深田久弥のように、そういうことにでもなれば、私も案外苦しまなくて彼岸に到達できるかもしれない、と思った。14時に河原の坊駐車場に着く。予定していた時刻よりも、1時間半も早い。これで帰りの温泉にゆっくり浸かれる。
 
 ホテル・ベルンドルフで日帰り温泉を使う。宿泊していたというので半額にしてくれる。何だか儲けたような気分だ。意外にも30分足らずで新花巻駅に着いた。レンタカーを返し、新幹線に乗ろうとする。おっ、あと4分で出るのがあると改札を通ろうとすると「全車指定席」という。切符売り場で8名全員が手続するのには、時間がない。というわけで、1時間後の次の電車に乗ることして、「自由席」のチケッを「指定席」に切り替えてもらう。駅員が「皆さんご一緒の方がいいでしょう」とあれこれ操作をしてくれる。ビールを買い求め、待合室のテーブルを占拠して、また、「宴会」をはじめた。一番早く手続きを済ませたmsさんは(一人で離れて座っては良くないでしょう)となんと、四回も呼び出されてチケットの修正をした。(それほど仲良しではないから)と私は言ったが、駅員は取り合おうとしなかった。なんとも親切なのだね。大宮までの2時間半、「おかげで、女子会ができた」とmsさんはご機嫌であった。

正しさの修正ができないポピュリスト

2017-07-28 07:47:23 | 日記
 
 ヤン=ヴェルナー・ミュラー『ポピュリズムとは何か』(岩波書店、2017年)を読む。ポピュリズムと民主主義の差異について力を入れて検討しているところが面白かった。ポピュリズムは代表制民主主義の場面においてのみ成立する概念と前提しているから、民主主義と紛らわしくなる。あるいは、どこかで民主主義的な制度の下に成立した政権が、いつのまにかポピュリズムと称されるように変質していることも考えられる。だからミュラーは次のように、不可能性の上に可能性を追求するような提示をする。
 
《わたしはまた、ポピュリズムの成功が、いわゆる民主主義の約束に結びついていると提示したい。その約束は、これまで果たされず、そしてある意味でわれわれの社会では決して果たされることのないものである。》
 彼がいう「民主主義の約束」というのは、「現代世界における民主主義の魅力だけでなく、その周期的な失敗を説明する直感」として次のように開いている。
 
《……端的に言えば、人民は統治できるというものだ。少なくとも理論上、ポピュリストは、全体としての人民が共通かつ一貫した意志を持つだけでなく、人民が命令委任の形式で要求したものを正しい代表が実行できるという意味において、人民はまた統治もできると主張する。……民主主義とは自治であり、理想的に統治できるものは、単なるマジョリティではなく、全体である、と。》
 
 そしてこう続ける。
 
《……ポピュリストは、あたかもそうした約束を果たすことができるかのように語り、行動する。彼らはまた、人民が一つで反対派は仮にその存在が認められたとしても、すぐに消え去るかのように語り、行動する。さらに彼らは、人民が、正しい代表に授権さえすれば、自分たちの運命を完全に支配できるかのように語る。もちろん、彼らは人民自体の集合的な能力については語らず、人民自身が実際に国家の職務を占めることができるとも言い張らない。》
 つまり、人民は「代表」を選んで任せると前提する。だが、民主主義は「正しい授権」ということにつねに「保留」をつけている。選ぶときは「マジョリティ」が「授権」する。しかしそこには「マイノリティ」が存在していることが前提になるばかりか、「マジョリティ」の望んでいることと授権されたものの提起する政策が一致するかどうかも不確定である。投票した選挙民(「市民」)の「マジョリティ」によって「授権」した政権担当者の政策が「人民の希望」を正しく代表しているとして「異議を唱えることはできないと主張する」正義性(私は大阪都構想の橋下徹市長を想い起している)こそが、ポピュリズムの本質だと(ミュラーは正義性という表現はしていないが)規定しているのである(ミュラーは「市民」というのを多種多様な利害と希望を持つ存在として用い、「人民」をいうのをルソーのいう「一般意思」のように用いている)。
 
 だが本質規定が面白いのではない。そこから派生するように表現されているポピュリズムの現象形態が、まさに今の安倍政権が右往左往している事態をとらえている。
 
 「恩顧主義(クライエンテリズム)」とミュラーは表現しているが、森友や加計学園にみられる、支持者や親しいものたちへの恩顧やいわゆる「忖度」がシステマティックに行われることを指している。つまり、自分たちが「人民の希望」を正しく代表しているという自信が、「私が依頼したことも指示したこともない」という安倍首相の自信満々の答弁に現れる。つまり、内閣府や財務省を含む各省庁の役人は、完璧に(正しい)私の統制下にあることが正しいという絶対前提がある。
 
 それとほぼ同じように、今日の新聞のトップを飾っている稲田防衛大臣の辞任にいたる、PKO日報の所在を「聞いていない」と答弁する正義性を貫いているのは、「人民の希望」が(正しい)わが身に体現されている自信である。防衛大臣という職責と防衛相という組織と自衛隊という実力組織が彼女の身の裡で一体化している。だから先般の都議選における応援演説のように、「自衛隊、防衛相としても(自民党候補を)よろしくお願いしたい」と平然と言ってのけることができる。
 
 ここまで来て、私が自民党の安倍政権だけをみて面白がっているわけでないことが、わかっていただけるだろうか。たとえば日本共産党というのも、人民意志の体現者という意味では、昔から自信満々であった(中国共産党もまた、それに輪をかけている)。自らは過つことはないという無謬神話も、いまだ健在である。つまりミュラーの本質規定は、目下の政権に当てたものではなく、「民主主義の現在」がぶつかっている課題に焦点をあわせようとしているものなのだ。
 
 この本では2016年の出版というのに、アメリカ大統領・トランプもフランスの大統領選候補・ルペンも、オーストリアの排外主義的な極右候補・ノルベルト・ホーファーも視野に収めている。ちょっと気になって経歴をのぞいてみたら、ドイツで生まれ、イギリスのオックスフォード大学を卒業し、アメリカのプリンストン大学で教鞭をとっているという、政治学の専門家。いわば欧米近代知の集合的研究者といえる。今年の1月に書かれた「日本語版への序文」もあるから、彼の視野に現在の日本も収められていると考えてもいい。
 
 正義性に歯止めをかけることができるのは、人は過つ、人は変わるという認識である。たとえば稲田防衛大臣の場合、彼女が「日報は(あったが)なかったことにしよう」という防衛省幹部の方針に(無言で)同意していたのに、心変わりをして「開示する」ことへ方針転換したと(一部虚偽であったことを)謝罪していれば、その後の右往左往もなかったであろう(もちろん、その時点で、辞任する必要はあったかもしれないが)。安倍首相も初っ端で、モリやカケに関してあんなにきっぱりと「(関与したことは)絶対にありません」といわなくて、立場があるからそうした「忖度」があったかもしれないと(少しでも)余白を残しておけば、こんなに長引かせることはなかった。だが、よく考えてみると、安倍首相も稲田防衛大臣も日本会議に名を連ねる多くの人たちも、皆さん自信満々の「人民の希望」の体現者である。日本共産党も、そこんところを一皮むいて脱出できれば、民主主義政党としてポピュリズムから離脱できるかもしれない。
 
 ま、ここは、そういう市民の希望がある、とだけ記しておこう。