mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

佳いお年をお迎えください。

2015-12-31 08:09:41 | 日記
 
 いい日寄りの歳末である。寒くもなく、晴れの日がつづく。にもかかわらず私は、ここ2週間、山に入っていない。師走のルーティン・ワークを片付けなければならないからであった。年賀を出す、歳末の買い出しに付き合う、網戸や窓の清掃をする、部屋の掃除や、余計なものを処分する断捨離もやらなければならない。年賀の印刷に失敗したり、正月の長旅に必要なお土産も買わねばならない。断捨離は、一向に進まない。それよりも、ふと気づいたことを、こうやって書きつける方が肌身の感覚にあっているから、ついつい椅子に座って片付けは中断してしまう。もうどうでもいいような気分になっている。
 
 2015年の正月は当方が「喪中」であったから、年賀は来ていない。2014年の年賀を整理していたら、長兄からの年賀状が目についた。「穂高連峰(上高地から)」と題する自作の水彩画をつけ、「近況報告」と題して次のように記している。
 
    《去年は後期高齢者になっていくつか新しい体験をし、実り多い一年でした。人生初めての本格登山で石鎚山に登頂(五月)つづいて槍ヶ岳の頂上も極めました(八月)。九月にはジャーナリスト仲間と北朝鮮を訪問、彼の国の奇妙な一面を垣間見てきました。体力の衰えを自覚しながら、週に一度のテニスは何とか続けています。ご休心ください。》
   
 そうだ。次兄も共に、石鎚山や槍ヶ岳に登ったのであった。また2014年には、4月に亡くなった末弟の慰霊登山ということで次兄をともなって大峰山に登り、その足で次弟夫婦に案内してもらって高野山へ行き、末弟Jの水かけ観音を決めてきたのであった。それからであった。長兄も山歩きに意欲をみせるようになり、十月の秋田駒ケ岳や八幡平へ足を延ばすことになったのであった。夏に老母が104歳で亡くなり、長兄は「肩の荷を下ろした」とほんとうにホッとした感懐を口にした。それが気持ちのゆるみをもたらしたのか。老母の49日の日に長兄は急死した。老母が長兄を連れて行った、と思ったものであった。
 
 そうだ、長兄の墓参りにも行こうと思う。末弟の墓はまだできていないから、末弟の奥さんが住まわっている自宅にお邪魔しなければならない。長兄は(生前に)墓所が定まっていたから、一周忌に納骨した。そうしてみると、ご家族を騒がせることなく、訪ねたいときに訪ねることができる。お墓というのは、公のものなのだ。一昨日、行ってきた。
 
 ひっそりとしているかと思っていたら、違った。我が身同様、陽ざしに誘われて来たのかと思われるほど、かなりの数の人たちが三々五々お墓参りをしている。壮大な霊園の、新しく開かれた一角は一周忌のときとほぼ同様に、何割かはまだ墓石が置かれていない。いくつかのお墓には何がしかの花が添えられ、中には線香の煙が立ち上っているのもある。27日に長兄のお墓の掃除をすると聞いていたので、花は用意しなかった。それでよかった。日がたつとドライフラワーになるシックな花が供えられていた。線香に火をつけてしばらく佇んでいたが、長兄が降りてくる気配はなかった。仕事に通うには不便ながら、長く一戸建て住宅に住んだ長兄が、ずらりと並ぶお墓の団地のようなところに納まっているのには、ちょっと違和感を感じるが、ま、ま、これも世の習い。
 
 どうですか、母さんや末弟のJと会えましたか。と話しかけたら、「言うまでもない」ということだろうか、声はない。乳頭山がきつかったのかね? と内心に問うたが、答えは出てこない。
 肩の荷を下ろしたのちに、いろいろとやりたいことはあったであろう。長年のジャーナリズム批評をまとめた、『ジャーナリストよ』と題する出版物も出したばかりであったし、秋田駒ケ岳を登っているときにも携帯電話で、ある新聞社のモンダイについての「相談」を持ち掛けられて、やりとりをしていた。私はこれらの山行にガイド的な役割で同行していたから、長兄に無理をさせたのではないか、どこかで見切って(割って入る)必要があったのを見落としたのではないかと、いまだに気に病んではいる。
 
 だが、(それを別とすれば)長兄の死に方は、ちょっとうらやましいくらいではないか。これといって体調の悪いところはなく、山歩きをし、八幡平の紅葉を「いや、これはいいときに来た」と堪能した直後の深夜、救急車がつくまでの5分ほどの間に、「急性(心筋梗塞とみられる)心臓死」をしたのであった。健康には人一倍気を配っていた。医師から「心臓に注意」という注意を受けたこともなかったのだから、ほんとうに青天の霹靂であった。私から言わせれば、理想的な散華だよ、と思った。
 
 その声を聴きに、お墓に行ったつもりだったが、そうだよとも、無念だよとも、天啓は降りてこない。まだ機が熟していないのか、私の不信心のせいかと見える。
 
 私は無事に、年を越します。今年も一年、このブログにお付き合いくださいまして、ありがとうございました。
 皆様方も、佳い年をお迎えになりますよう、お祈り申し上げます。
 
 追伸:元旦からしばらく、長旅に出ます。また来年、お会いしましょう。ではでは。

「難民」はどう抵抗するか

2015-12-29 08:30:07 | 日記
 
 このブログ、12/27の「パターナリズムと難民問題とジェンダー」における、インド先住民とグローバリズム経済欲望とのぶつかり合いは「文明の衝突」というよりも、「文明との衝突」である。勝敗の力関係は、当然のように、後者の側に有利に配置されている。なぜなら、後者は前者の心裡の「欲望」に火をつけるから、前者は揺さぶられ、内部分裂をし、後者に蹂躙されていずれ姿を消してゆく。グローバリズム側の圧勝である。
 
 前者の側に身を置いて考えてみると、抵抗する根拠となるのは、頑固に伝統を保守する身体の反応であったり、その核となる呪術的・宗教的心情。要するに先住民社会の心の習慣(ハビトゥス)である。「ハビトゥス」というのは「広辞苑」にも載っていて、《個々の階級や集団に特有の無意識的な行動・知覚・判断の様式を生み出す諸要因の集合をいう。フランスの社会学者ブルデューが提起した概念》とある。簡略に言えば、生まれと育ちであり、心の習慣である。
 
 このようにして「文明」の側は、先住民ばかりか、異なる階級や集団(の心の習慣)を次々と破砕して自らの範疇(パラダイム)に組み込んでいく。組み込まれなければ生きていけなくなる。その過程が歴史だと言ってもいい。だが私たちは、歴史のために生きているわけでもないし、文明の(発展の)ために生きているわけでもない。
 
 そう振り返ってみると、この話は先住民のことではなく、私たち自身の話だと気づく。私たちの祖先は、隼人や蝦夷などの縄文人であったかもしれない。あるいは渡来した天皇部族を含む弥生人に属していたかもしれない。そうした先住民としてこの列島に住まうようになり、海を渡ってくる「文明」に対して向き合いながら、私たち自身の「欲望」を肥し、鍛え、あるいは抑制の方法を身に着けてきた。氏族や部族、社会集団の仕組みもまた、それを支えるために変容してきたと言える。これまで最も大きな「文明の侵攻」であった明治以降の変わりようを思い起こしてみると、「難民」にならないで生きてゆくことがいかに大変であったかに、容易に思い当たる。いまのアフリカや中東、ヨーロッパの混沌をみると、海に囲まれて孤立していたこと(地政学的要因)がいかに幸いしたかにも、思いが及ぶ。
 
 吉本隆明は北山修との共著『こころから言葉へ』(弘文堂、1993年)の中で次のように述べている。
 
《人類の歴史あるいは自然史の必然から追い立てられるということは、いくら病気だと言おうが何しようが、まぬがれることは出来ない(……)どんな人だって歴史あるいは自然史の必然から逃れることは不可能だというのが根本にある(……)だからどういう抵抗をするかということだけなんだ。(……)だめなまでもそうしなきゃいけないという、そういうところでしか個人は抵抗できない。》
 
 私たちは、学校教育を受けたことによって(文明の)「言葉」を覚え、「歴史」を知り、「自然史の必然」を感じとることができるようになった。そうすることによって、自らの加持ていることや考えていることを「ことば」にすることもできるようになり、先祖とのつながりを実感をもって語ることができ、偶然や迷信の根拠に出逢って、呪術的な枠組みから開放されれ来た。それは同時に、文明の思考様式に囚われ、その枠組みを通じて考え、感じとるようになってしまったことでもあった。吉本のことばを聞いて、ふと忘れていたことを思い出す。「抵抗」だ。「難民」であることを忘れていたのだ。
 
 《だからどういう抵抗をするかということだけなんだ。(……)だめなまでもそうしなきゃいけないという、そういうところでしか個人は抵抗できない。》
 
 それなりの「豊かな生活」のなかで、「抵抗」することを忘れてきている。「対案を示せ」という与党のことばに腰がふらつく野党の無様さを感じるとき、「なんだ対案もないのか」という感懐を持つのは、「どういう抵抗をするかということだけなんだ」と個人のありようを忘れている。野党に託したり、与党に期待したりすることではない。自らが「どのように抵抗するか」なのだ。その一つの形として、与党に与したり、野党にカンパしたり、デモに足を運んだりすることもあろう。だが、「そういうところでしか個人は抵抗できない」と、新左翼のカリスマと言われた男が見極めていることに、心を打たれた。彼は「難民」であることを終生忘れなかった、といえるのかもしれない。
 
 「どういう抵抗をするか」という参加の仕方に、「暮らし」をどう組み込むのか。それが(難民としての)目下の私の関心である。デモに行ったり野党にカンパをしたりすること(も悪いとは思わないが、そう)ではなく、自らの「日常」において、どのようなハビトゥスを「抵抗」としてかたちづくるか。まず自らを「難民」として日常化できるか。在日日本人という感覚をどう保ちつづけて、立ち居振る舞いをすることができるか。せいぜいそうやって、幕引きを図るしかないのかもしれない。

第17回Seminarを受けて考えたこと(5)自身の欲望をどうとらえるか

2015-12-28 11:46:07 | 日記
 
 今朝(12/28)の新聞の広告を見ていて、あることを、ふと思い出した。「人生の楽しみはエクラ世代から。」と銘打った雑誌「eclat」の広告。「世界のこじゃれたマダムが集結! パリ・ミラノ・Jマダム 私達のお手本はここに!」と大文字で謳っている。《第17回Seminarを受けて考えたこと(4)》(12/14)の末尾で、(つづく、かも)と書きおいたのは、これが気にかかっていたからだと、気づいた次第。
 
 12/3の《第17回Seminar報告(3) 操作する商業主義、鏡に照らして身づくろいをする庶民》でやりとりしていた「流行色」のことだ。Seminarの中では「商業主義」と簡単に片づけた。「流行色に気を配るのは3%」という講師の説明も、「私たちは、ほぼ関係ない」という響きを持っていた。だが、この広告を見て、「欲望はつくられる」ことに触れなくてはと思った。
 
 古希を過ぎてみると、流行遅れも何もあったもんじゃない。ここまでのあるがままを受け容れてくれる人たちとつきあい、文化のレベルが違う人たちとは付き合わない、という選択をするのに何のためらいもない。それは、自分の好みも欲望も力量も奈辺にあるかをほぼ見切っているからである。でも、若い時からそうであったか。いつごろから我が身を見て取れるようになったか。そう考えてみると、なかなか面白い「論題」に行きつく。
 
 デイビッド・リースマンの『孤独な群衆』(加藤秀俊訳、みすず書房、1964年)が出版されたころ、日本は高度成長期の中ほどにあった。東京オリンピックが開催された年。「他人志向型」という言葉が流行した。それについて、社会学者の井上俊は、こう概説している。
 
 《リースマンは、西洋社会の歴史的変動につれて、人々の性格類型が、前近代社会における伝統志向型から近代市民社会における内部志向型へと移行し、さらに現代の大衆社会における他人志向型へと推移していくと考えた。他人志向型は、20世紀アメリカの大都市の上層中産階級にもっとも早く現れ、その後、大衆社会状況の進展につれて広く一般化した。つまり、このタイプは、資本主義の高度化によって生産や仕事そのものよりもむしろ消費や人間関係に重点が移ってくるような社会において支配的となる性格類型であり、またそのような社会にもっともよく適合した性格類型といえる。》
 
 日本人は、「場」への同調圧力が強く、KY(空気が読めない)などと非難するように、基本的に「他人志向型」であったと言われてきた。単独の人の方から考えてみると、「同調圧力が強い」となる。しかし、全体をみている方からすると「場」とか「界」を大切にする感性とみることもできるから、一概にリースマンのいう「他人志向型」と同じとみるわけにはいかないが、日本社会が高度消費社会に移行するにつれて、その両者のギャップは埋まってくるようになったと言える。1960年代の半ばに大学を出るころの私が受け取った感懐は、今風のことばでいうと、自己同一性が見極められない、他人の意見に左右されて(自分の)思いが定まらないことであった。ふらふらしている。あえてリースマンのことばに近づけていえば、「内部指向型」に近かったのである。吉本隆明の『自立の思想的拠点』が出版されたのも1973年のこと。時代そのものが(心理学的に言えば)リースマンの指摘に沿うように、アメリカの後追いをしていたとも言える。
 
 日本に「他人志向型」が定着的に出現したのは1980年代。『ジャパン・アズ・ナンバーワン』というエズラ・ボーゲルの著書がアメリカで出版されたのが1979年(日本に翻訳されたのは5年ほど後)、日本が高度消費社会に突入したと(のちに)言われるようになったころである。象徴的に私の印象に残っているのは、糸井重里による西武百貨店のキャッチ・コピー「不思議大好き」とか「おいしい生活」が一世を風靡したことである。それは「ほしいものがほしいわ」(1988年)という究極のコピーに行きつく。冒頭にあげた「エクラ」のコピー「私達のお手本はここに!」は、糸井の究極のコピーに対する供給者側からの回答というかたちである。
 
 リースマンの上げた三つの性格類型は、時系列的に並んでいて後者が前者を駆逐するというものではなく、上へ上へと堆積するものである。つまり、私たちの親の世代においては「伝統志向型」が強く身体性をかたちづくり(それは根柢では敗戦によって瓦解したが)、私たちの世代においては「内部指向型」が強い傾向をもって青年期を彩り(たぶん、その記憶が身体性として染みついており)、後の世代においては「他人志向型」が強まって「自分探し」という社会風潮をつくりだして、現在に引き継がれていると言える。
 
 「流行色」を商業主義的に制作して指定するという「欲望の刺激」がどこまで続くか(つづいているのか)は、疑問ではあるが、経済のグローバル化がそれを利便に用いていることには違いがない。だが、私たち自身の「欲望」のつくられ方がその利便性に乗っかっていていいのかは、考えてみなければならない。多様性と個別化が進行した結果、たとえば服飾の世界において、月々何千円かの契約をして何着でも衣服を換えることができるリース業種が生まれていると聞く。もう所有の時代ではなく、共有する時代なのだ。しかも服飾コーディネーターが介在して、自分が選んだ衣類の組み合わせにアドヴァイスもしてくれる。他人と違う・世界でひとつの・ものを他人にガイドしてもらう「他人・差異(オンリーワン)・志向型」ともいうような時代になっている。
 
 「性格類型」という一つの側面で世相を切りとって決めつけるわけにはいかないから断定はしないが、昨日この欄で取り上げた「 パターナリズムと難民問題とジェンダー」の「難民問題」に絡んでくると思う。つまり私たち自身の暮らし方(のモデル)をしっかりと見据えた上でグローバリズムの波を受け止めなくては、簡単に押し流されてしまう。都合よく一部を組み込んで外は我が思い通りにというふうには、なかなかうまく行かない。といって、交換経済の波と無縁に暮らしていけるわけでもない。このジレンマに向き合いながら、「流行色委員会」という操作主義的な商業資本のメカニズムの作用をしかと視野に納めておきたい。

パターナリズムと難民問題とジェンダー

2015-12-27 10:11:55 | 日記
 
 篠田節子『インド クリスタル』(角川書店、2014年)を読む。図書館の「今日返却された本」という書架におかれていたのが目に止まった。発行されてからまだ一年にならないのに、珍しいことだ。この作家は今はもう、さほど注目されていないのだろうか。
 
 面白かった。腕をあげたというと、岡目八目のくせに生意気なことを言うと思われるかもしれないが、書くよりも読む方がたいてい優位にものをみることができる(と私は思っている)。逆に言うと、書こうと思っても、思っているほど楽に書けるわけではない。実際書いてみると、自分が思い込んでいたときの5割方しか描き止めることができない。つまり読むということは、自分にできもしない世界を批評的に見る特権を手に入れることなのだ。作家からすると、きつい言葉の批評をみて腹を立て、自分では書けもしないくせにと罵りたくなるかもしれない。だが、自分では書けないのだ。書けなくても批評はできる。そういう意味では、スポーツ観戦とまったく同じだ。この非対称性は、どうしてかは説明できないが、事実そうであることは間違いない。篠田節子は腕をあげた。
 
 小説の「主題」などというと、これまた野暮なことを言いなさんなとお叱りを受けるかもしれない。ここでいう「主題」とは、篠田節子が書きたかったことと、私が読み取ったことの主要点である。この作品の主題はふたつある。ひとつは、「父親的温情主義」である。もうひとつは、グローバリズム経済が生み出す「難民問題」である。
 
 フランス文学者の内藤雅文は、ジューリオ・M・キオーディの「兄弟間の敵対関係 政治的衝突のパラダイム」を翻訳した中で、「paternalism」を「父親的温情主義」と訳した。通常「paternalism」は父権主義と翻訳されることが多いが、それだけだとしばしば居丈高にふんぞり返った父親像しか思い浮かばない。だが、「paternalism」には、同時に、保護的・温情的に子弟に対する側面が張り付いている。つまりは、自分の思う通りに囲い込むことを意味しているのだが、現象面では違って見えてくる。
 
 
★ 父親的温情主義
 
 
 貧しく虐げられた、しかし優秀な能力を秘めた少女を、過酷な環境から救い出し、教育を受けさせて、思いもよらなかった世界で活躍させんと「温情」を施そうとする主人公が、当の少女によってはねつけられる。何度も局面を変えて採りだされるその場面が、篠田節子の恩讐を浮き彫りにするように思える。その根幹に、「かんけい」の枠組みから自由になりたいという切望が流れているように見える。
 
 「貧しく虐げられた少女」というのは、「場」を共有するもののセリフである。この小説に登場する少女は「場」から外れている。それが意外に思われないのは、インドという地だからである。インド社会におけるジャーティ制やカースト制の原型になるであろう差別や排除以前の振る舞いにおける暴力と差別が、あたかも社会全体の桎梏のように頑なにかぶさる。差別や排除というのは、まだ差別とか格差という同類間の範疇にあって起こる。ところが、同類ではなく、存在自体が無視されている「関係」、犬猫と同じかそれ以下に見られていて、関わりをもつこと自体が嫌忌の対象とされている。私も、インドの先住民であるドラヴィダ族がインド-アーリア族の侵入によって南へ追われたことは、世界史の話として知らないわけではなかったが、現実問題として、今もそのような「関係」を生きていたとは思いもよらなかった。インドは、古代と中世と近代とが現在に混在している世界だと、篠田の筆致は描き出す。
 
 
★ 文明の衝突として発生する難民問題
 
 
 物語りは、経済のグローバリズムが未開の暮らしをする人たちを襲ったとき、何が起こるかを描きとろうと展開する。日本のハイテク中小企業の主が、先住民の暮らすインドの辺境に産出される原材料を手に入れようと苦心惨憺する。当然のように、父親的温情主義は、古代を近代へ引き上げると考えている。だが、ほんとうにそうか、と篠田は問うているように見える。結局資源をつまみ食いして(先住民の暮らしをかく乱して)いるにすぎないではないかと思わざるを得ないのだが、進行する事実は、それだけにとどまらない。資源が掘り出され、グローバルな資本が介入し、道路を整備し、森を掘り崩して産出量を増やす。それは自律的に暮らしていた先住民の暮らしの基盤を破壊してしまう
だが、国家も社会も資本も、彼らの暮らしを視野に納めていない。先住民たちはまるで、津波に襲われたように、それに順応しようとして様々な災厄に見舞われ追い詰められていく。グローバリズムは、インドの社会が近代化されていないからこのような問題が発生すると考えているのだが、それはまったく津波の側が、それに襲われる世界の全体性として事態をとらえていない見方と言わねばならない。そう篠田は力説していると読み取った。これが、もう一つの主題である。
 
 著者の篠田がそう思っていたかどうかは知らないが、私は、インド先住民と福島原発周辺地域の人々とを重ねて、この小説を読んだ。原発が設置されることによって(経済的にも)地元が潤うというのは、電力資源をつまみ食いしようとする超近代先進地域・東京の論理である。それが地元を潤す側面は、たしかにそれなりにあったであろうが、それは地元の暮らし方の型(パラダイム)を大きく変更せしめるものでもあった。なによりそれは、それまでの地元の自律的な暮らしの基盤を根底から破壊する所業につながっていた。それを明白に晒して見せたのが、3・11のフクシマであったと思う。「難民問題」といったのは、このことであった。
 
 そのように考えてみると、補助金を与えてコトを推進しようとする(辺野古を含めた)やり方は、父親的温情主義の支配都市の論理である。地元は地元の自律の論理をもって対抗しなければ、根こそぎ支配都市に従属的にしか生きることができない。従属的に生きるとは、父親的温情にすがって生きることを意味する。父―子関係に位置づいて生きるのか、兄弟関係において生きるのか、そこが問われている、ともいえる。力のない地元サイドが「難民」であるのは言うまでもない。
 
 
★ テロの時代を超克するヒント
 
 
 さきほど内藤雅文が「父親的温情主義」と翻訳した、ジューリオ・M・キオーディの「兄弟間の敵対関係 政治的衝突のパラダイム」は、ギリシャ神話のエディプス・コンプレックスを政治的に適用したジクムント・フロイトから説き起こし、絶対君主制をモデルとする父親的温情主義の理論を典拠としてとりあげ、それが自由民主主義に引き継がれて、君主に変わって父親の座に議会(政府)がとってかわったと、次のような面白い指摘をしている。
 
《インド=ヨーロッパ諸語においては、〈兄弟〉を意味する語は、同じ父親を持つ息子を示す語根を拠り所としている。それと逆に、〈兄弟〉を意味するギリシャ語のアデルフォスは、デルフュスという語を含んでおり、これは子宮、あるいは母親の乳房を示す。したがってこの語は遠い母親的な起源を反映させており、それによれば母親を同じくする息子たちが兄弟なのであって、父親を同じくする息子たちが兄弟というわけではないのである。》
 
《兄弟間の衝突がギリシャ神話の中で緩和されるのは、その兄弟が母親を同じくする息子たちであるという事実によって説明されるだろう。そして母親というものは、和解させるような力となる。つまり母親を同じくする息子たちは、暴力に訴えることなく、母親的な役割を引き受ける。ところが逆に、父親はまるで行為の方へ投影されるような、したがって衝突に向かって開かれるような権威を振りかざす。だから父親を同じくする息子たちはその性質上、競争へと向かう傾向がある。》
 
《しかし兄弟のうちの一方がもう一方を支配するのは、何によって成り立つのだろうか。同等の者に対して、上から命令する役割を引き受けるという事実によるのである。したがって支配は常に越権行為である。》
 
 キオーディは歴史的、構造的な考察もしているのだが、上記の語源的なアプローチが示す論題の場は示唆的である。父権主義的な「かんけい」が争いを加速し、母親的な「かんけい」が和解を促進するというのは、ひょっとすると篠田のこの小説の先にある「主題」ではないかと思う。日本でも、現代天皇制の父権主義的な「かんけい」よりも、女性天皇の継承も普通であった時代の「かんけい」に思いを致して、組み立て直すことが必要なのではないか。ジェンダー論も、そのあたりに踏み込んでくると面白いと思ったが、そこまで話を広げるのは、また別の機会にしよう。

三つの兆候

2015-12-24 20:43:44 | 日記
 
 最近、ちょっとしたコトの兆候が起こり、我がことながら驚いている。
 
 そのひとつ。正月に田舎に帰った時の宿を、そちらに住む兄に頼んだ。1週間ほどしても、返事が来ない。兄は(自分の家に泊まれと思っているんじゃないか)と心配した。カミサンも一緒だし、弟も1泊は一緒に付き合うと言っている。いつもならメールでやりとりするのだが、兄は電話でじかに話す方を好んでいる(と私が思っている)。電話をした。
 
「えっ、予約は取ったよ。それメールしたじゃない」
「そうだったかな?」
「お前からの返信メールも受け取ったし……」
「えっ? そう?」
「そのとき私が、良い年をお迎えください、って書いたら、お前から、まだ早すぎるよって返信が来たよ。ちょっと待て……。17日のことよ」
 
 そういう返信を打った覚えはあった。17日のメール「受信」を開いてみると、ちゃんと「遅くなったが予約は取れた。当日夕食をご一緒させてもらう」と兄からメールが入っている。これはエピソード記憶の喪失、認知症の決め手になるような出来事である。う~ん、まいったなあ。
 
 そのふたつ。毎朝コーヒーを淹れる。豆を挽き、手差しのドリップで淹れる。豆を挽いてポンと入れようとしてハッと気づいた。ドリップペーパーをセットしていない。慌てて、少し入った粉を取り出し、ペーパーをセットして淹れなおした。それだけのことだが、いつも無意識に執り行う習慣化した手順を、間違えてしまうというのは、身体の一部(の段取り)が欠落しはじめたのではないのか。これは、ひょっとすると、大変なことではないのか。
 
 そのみっつ。同じくコーヒーを淹れる別の朝のこと。コーヒー豆を挽いて粉にし、ドリップペーパーを敷いたのに移そうとミルを動かしていたとき、なぜかミルが手から滑り落ちそうになった。ミルを落とさないように摑んだはいいが、さかさまになって粉が全部床に落ちてしまった。手が思いと別の動きをしているのか。粉はカミサンが笑いながら始末をし、私はもう一度豆を挽いて、コーヒーを淹れる羽目になった。どうして? というのが、まったくわからない。何かの啓示なのか?
 
 以上の三つが、兆候である。何の? たぶん、老いの兆候だ。吉本隆明は、「老い」というのを健常なときの人の能力が衰えると延長上にとらえないで、別種の人間になるとみた方がよいと『老いを超える』で言っていた。つまり、ふつうの人間の延長上にあるとみると、どうしてこんなこともできないのかと腹も立つ、歩くのが遅いと苛立つことにもなる。だが、人間ではなく別種の「超人間」だとみると、苛立ちも腹立ちもしない。容貌魁偉な乳幼児をみるようなものだ。
 
 ぼちぼち私も、「超人間」の領域に入りつつあるのかもしれない。その兆候が「天の啓示」として示されたのではないか。この先、示される兆候を見落とすことなく、我が「老い」をとらえてみたい。なぜ? とらえていれば、運を天に任せるなどと言わないでも済む。でも、そうか? とも考えている。