mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

深掘りの起点(3)教える/学ぶの壮大なすれ違い

2023-06-17 09:19:23 | 日記
 老元教師の「ボランティア通信」を読んで「深掘り」が必要と私が考えた直接のきっかけは、次のような記述があったからだ。


(教師用指導書通りに教えて、分からない子がたくさんいたことに関し)もっと滑稽(!)だったのは、その分からない子たちを前の席に移動させ、説明を始めたのだった。こんなにも分かっていないのであれば、再度、全員に説明すべきだと思うが、そうはしなかった。このように、オーノー! と思うような指導(?)が、目につく。


 何だ、この老教師も分かってないじゃないか。その分からない子たちだけに再説明をしようと、全員に再説明をしようと、「ただ写しているだけ……それが勉強だと思っている」子どもたちに、どういう違いが生まれるというのか。つまり子どもがワカラナイのは教え子教師の教え方の拙さが原因という次元で見ている限り、この大きなすれ違いはいつまで経っても解消できない。ボランティア教師はこう続ける。


しかし、指摘する時間がないこともあるし、何より担任を傷つけないように言わなければならないと考えると、即アドバイスするというわけにはいかない。悩めるところではある。


 ボランティア教師は(たぶん)自分なら乗り越えられる事態だと思っている。「悩めるところ」は、教え子かを傷つけるかどうか。きっとこのボランティア教師は「いい人」なんだね。現場でいい人であっても構わないが、それをエクリチュールで対象化するときには、自分にも厳しく「事態」を見極めなければならないのではないか。
 何を見極めるのか。この「ボランティア通信」で描かれている事態は、教室の指導でなぜ学力の落差が生じるのか、であろう。むろんそれが、文科省の指導要領と現場児童(教師用指導書と現場教師の指導)のズレといっても構わないが、何がズレているか。文科省のそれは、学力という能力の機能的な育成だけを視野に入れている。だが子ども(あるいはその保護者/社会)は、環境のすべてを受けとり(受け渡し)、いつ知らず選別し、自らの感性や感覚、イメージや思考、判断力や実行力をまるごと身に刻んでいる。その過程で世の中とか世界といった環境に底流している脈絡を身のすべてを動員して自分流に作り上げているのだ。もし学校教育ということで大人が外から投げ込んでいるのが何かと、言葉になる部分だけをごく極単純化して言うと「世界の文法」をセレクトして教えている。ちょうど英文法を日本人が学ぶようなものだ。自国語であれば(文法として)ほとんど意識することなく日本語を使うことはできる。だが外国語として英語を学ぶときには、先ず文法を学んで身につける方が汎用性がある。今の話す英語と違い、昔風の読み書く英語を学んだ世代は受け止めている。それと同じだ。
 このズレが、教育意思側と学ぶ子どもの間には、端からある。前者はエッセンスであり、後者は全体である。当然前者は骨組みだらけ。後者は猥雑なコトゴトがすべてつまっている混沌。エッセンスは混沌を切り分ける骨格の初歩を取り出したもの。断片。子どもは身の回りの猥雑な混沌を切り分けて、ワカルことが求められている。
 そのプロセスは、混沌の海から綱引きをしてモノゴトを引き出しているヒンドゥーの教えのように、ボンヤリとしたイメージであり、教育方法論でも取り上げられてはいない。方法論的には、繰り返し巻き返し習熟させる方法が論題とされはするが、これはいわば「洗脳の方法論」。統治的な視線による教育論である。
 ヒトが生きることを自律的に身に備える技を身につけることについて実際は、現場教師の経験的な自己省察を梃子にして子どもと向き合うかたちで現実化している。だから現場教師がどれだけ自らの身に刻まれた文化的堆積を意識化してみつめ、その固有性を一般化して眼前の子どもたちに向けて繰り出す具体アクションとするか。その自己対象化という無意識の意識化が、現場教師論としては展開される必要があろう(と私は思う)。人との関係の取り結び方であり、所作、振る舞いの作法である。ことに小学校の低学年においては、一つの共通する振る舞い方のパターンを躾けることが第一優先になる。それは単純に、論理的に整合性が保てるかどうかではなく、子どもたちの置かれた情況によって多様で多彩であり、一筋縄ではいかない。教師と児童という二元一次方程式ではなく、世界のシステムと構造と階級階層谷歴史的蓄積が絡んで、三元二次方程式どころか、多元多次方程式を解くように、全人類史が絡んでくる。
 子どもの側からみるだけでも、なぜそんなことを勉強しなくてはならないのという疑問に始まり、モノゴトを分節化する蓋然性というか、必然性、必要性にはじまり、脈絡構成の蓄積経路と手順手管を身につけながら「世界の脈絡」を自分のものにしていくのだ。
 このボランティア教師は助っ人に入った教室のことを、


これは2年生のことだったが、1年生で習ったことを前提に説明していたのだ。しかし、多くの子が忘れていた。それを考慮に入れないでやったから、子どもの頭は?、?、?の状態だった


 と記している。つまり、教える側は(子どもの)アタマに投げ入れたと思っていても、子どもは身に刻まれていないことを簡単に忘れる。これは、学ぶ側は心身一如であっても教える側の知的枠組が、理知性を優位に立て意志(アタマ)が人(カラダ)をコントロールしているしコントロールできると(心身を分離して)序列をつけて考えている結果である。この理知性を優位に立てるところに、現今社会を生きていく道筋が作用して、ますます社会的に有用な理知性の育成へと大人の価値観は傾きを強める。こうして、子どもたちに降りかかる「洗脳の風」は、感性や感覚、価値観に至るまで、すっかりこの世的に染められて、ヒトとしてのあらまほしき姿を忘れているんじゃないかと、もうすっかり彼岸が見え始めた老爺は思っているのである。(つづく)