mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

私の祭壇――やっと「発心」したということかもしれない

2014-12-31 09:49:38 | 日記

 今年一年は、私にとって災厄の年であった。4月に末弟を亡くし、8月に老母が天寿を全うし、10月に長兄が突然に他界した。年男であったのに何という一年であったことか。

 

 それぞれのときに、それぞれの感懐を書き記してきた。その都度、死ぬとは何がどうなることか、(近親者の)死を思うとはどういうことか、喪に服するとはどういうことかと、謂うならば「終活」をするようであった。

 

 末弟と長兄は、いずれも都内に仕事をもち、私同様埼玉県内に住居を構えていた。男兄弟5人のうちの3人が関東地方に暮らしていたわけだが、私一人が取り残されてしまった。その末弟と長兄の供養というか、お線香をあげに行く段になって、やはり残されて独り暮らしとなった弟嫁や兄嫁のところへ出向くことはためらわれ、はてどうしたものかと考えていて、私の部屋に「祭壇」をつくればいいことに思い当たった。

 

 「祭壇」といっても、仏式とかキリスト教という信仰を私はもたない。とは言え、お線香をあげ、しばし思いを馳せることをするには、なにか依代が欲しい。「依代」というのは亡き人の魂と気持ちを交歓する「場」の入口、向こうからこちらに来るだけでなく、こちらから向こうへ思いを寄せる「場」でもある。いつでも立ち寄れるところがいい。

 

 末弟を亡くしたときには、昨年の11月末から亡くなる4月9日までの兄弟間のメールのやりとりを時系列でまとめ、「末弟Jのこと、全経過」として、末弟の遺影を冒頭に掲出してプリントアウトした。母については、「終わり良ければ総て良し」と題して、「危篤の知らせ」から後のことを記し置いて、104歳という天寿を全うしたことを寿いだ。悲しくはなかった。むしろ「母」をどう心裡で落ち着けていいか、一周忌までにゆっくりと考えて、文章にしてみようと兄たちと相談していたのであった。ところが、母の49日を終え、骨休めの旅に出かけた先で長兄が亡くなった。それを記した「長兄との最後の旅」は、八幡平の紅葉の中で写した一枚が冒頭を飾っている。この三つの「祈念文」を中央に祀る。母の遺影もちゃんとある。

 

 私の部屋の南側の一面に、幅一間、高さ150cm、奥行き20cmくらいの窪みがある。その中央に、私が引退した秋に登ったサガルマタ国立公園の1/50000地図。横60cm、縦120cmの大きな地図が架けてある。ちょうど山中の飛行機を降りたルクラを南の端に置き、ナムチェバザールを経て北へと延び、東北端に現地名サガルマタ、別名エベレスト(中国名チョモランマ)とローツェが位置し、それと対面するかのように北側にプモリの7165m峰がある。そのプモリ峰の中腹5500mほどのところまで登って、サガルマタ峰(エベレスト)をみてきたルートの地図。

 

 その地図の右側上部には、ナムチェバザールからパンボチェに進む途次に撮った写真を額に入れて飾ってある。右にアマダブラム峰の座禅する僧侶のような雪をかぶった山がそびえ、遠方に、エベレストとローツェの8000m峰が雪煙をあげている。手前にはチベット仏教の象徴であるタルチョと呼ばれる布旗を連ねたロープが左から右へと流れはためいている。下にはメキシコの4000m峰の写真を4葉おき、友人Tの描いた雪をかぶった富士山の油絵の賀状が添えてある。

 

 その地図の左側には、2001年に登ったインドヒマラヤの6190m無名峰の岩と雪きの写真。中段に中国・九寨溝の清流、下段に、やはり中国・多姑娘山のお花畑のA3版の写真をおいた。ブータンで求めた鬼の面も右上の方にある。下にはどこで求めたか忘れたが、一度演劇的パフォーマンスで使った翁の面をつりさげた。

 

 そうしてふと気が付くと、日光二荒山神社の登拝記念のお守り札、石鎚神社頂上御祈祷の木札、玉比羊神社夏越神符と、神社のお札が三つもある。まあこれも、神仏習合に馴染んだ私の身体性に合っているかもしれない。

 

 カミサンが、香炉とお線香立をどこからか持ち出してきた。お線香立は広い笹の葉をかたどった鋳物製の船の中央にカエルが両腕で抱えるようにお線香を一本もつ格好になる。面白い。だがお線香の燃えた灰が笹の葉の外へ零れ落ちてしまう。そこで、もらった灰皿があったことを思い出して取り出してみると、灰皿のふちにカエルが取りついて今にも飛びつきそうにしている。これがお線香立のカエルとみあって面白い絵姿になる。灰の受け皿にもなる。

 

 こうして私の「祭壇」が出来上がった。私にとっての、原始宗教のスタートである。一年の締めくくりと喪に服するということの自前の「依代」ができたことで、私の気持ちはすっかり落ち着いた。どこかを訪ねて何かをするということは、亡くなった人を介在させてするそちらの方々との行き来であって、私の弔いはまたそれとして、自前で行う。こんな明快な追悼の方法を今ごろになって思いつくというのは、やっと「発心」したということかもしれないと、胸に手を当てて思っている。

 

 さてこの一年間、お付き合いくださいまして、ありがとうございました。ぷららのブログサイトが閉鎖されて別のブログサイトに移行したため、読んでいる方ががらりと変わったのではないかと思います。それでも、日々、40人くらいから140人ほどの方が目を通してくださっていると思うと、それほどには意味のあることを書き記さなければなるまいと、自戒しているところです。

 

 皆様には佳き年をお迎えください。 


ま、ま、急ぐまい。頑張ってね

2014-12-30 17:19:52 | 日記

 12/27のJ・ベアード・キャリコット『地球の洞察――多文化時代の環境哲学』(みすず書房、2009年)について、もう少し踏み込んでおこう。クジラを食べる日本史について浅い判断をしているという瑕疵だけで、彼の展開している所論を葬るには、重要な指摘があるからである。まず彼は、次のように問題提起をする。

 

 《日本では環境倫理が隆盛をきわめているのではないか、またエコロジーにおける自国及び地球全体に対する責務を果たす聖戦において、世界の先頭に立っているのではないか。ところが、あろうことか、事実はそうではないのである。》

 

 「日本で環境倫理が隆盛をきわめている」と見込んだのは、以下のような事実に目を留めているからである。

 

 《確かに日本の耕地は依然として森に覆われている。また、小規模で労働集約的な日本の農業は、環境に対する負荷が少ない。また、これは海外の農産物と競争すれば破壊されることが必至であるため、合衆国政府の驚愕をよそに、日本政府は多大な熱意を傾けてこうした農業を保護している。さらに、日本はその景観のかなりの部分を国立公園や国定公園などの保護区にしている。その結果、日本の農村部の美しさは保たれており、地方でも人口が稠密なわりには、生態学的に見てかなり健康な状態が維持されている。》

 

 ではどうして、日本は彼の期待を裏切るのか。


  
 《しかし、精密な社会学的調査をみると、北米の人々に比べて、日本人には原生自然についての知識や関心がはるかに乏しいことが分かる。》

 

 と指摘して、日本の材木会社が東南アジアの熱帯雨林を破壊している、日本の流し網漁は世界中の大洋を荒らしまわっている、さらにクジラを食べることを、一世紀に満たない浅い歴史であるのに伝統的な食文化のように誤解している、とつづく。前回私がかみついたのは、この最後のクジラの部分だけである。

 

(1) 西洋の技術を取り入れて、自分たちに固有の知の文化を速やかに忘れてしまった。(グラパード)
(2) 日本の伝統的な芸術、宗教、哲学で尊ばれている「自然」は、人間によって栽培されたスケールの小さなものであり、抽象的な様式化されたもの。「森林地を復元してきた人々の関心は、きわめて(実際的)なもの……、人間の物質的な必要を満たしてくれることだった」。(トットマン)
(3) 日本文化は自国の自然環境に細やかに配慮してきた。しかし、それは環境全般に対するものではなかった。配慮の対象となったのは、選ばれた場所(名所など)、……ある種の植物、……一年の中の決まった瞬間、……といったものであり、そうしたものがすべて一定の習いにしたがって組み合わされ、その限りで配慮されていた。(オギュスタン・ベルク)
(4) 日本人の自然と野生生物への賞賛は、……一定の生物種や、美的に重要な自然界の個々の対象に焦点を合わせたものであって、一般的に言って、情緒的、生態学的、思想的に狭い視野から行われていた。(ケラート)

 

 と、「謎」を解こうとしている。これらを読むと、上記の(1)から(4)とそれを読み取っているキャリコットの諸氏が「日本の美」を示す「芸術や宗教や哲学」に対して、強い思い込みをもっていることが分かる。造園や自然や野生生物に対する細やかな配慮は、断片的であり、限定的なものであり、(生活上の)実際性が優先されるものに過ぎなかったというが、そんなことは当たり前であり、読み取る側が勝手に「自然と一体になった日本人の暮らし」から思い入れをしている証左である。

 

 日本人の「自然観」は「謎」などではなく、「自然」にどっぷりと浸り、それに適応して過ごしているものの「じねん」である。むしろ西洋の人々の、「自然」を「環境」ととらえること自体が、日本に暮らすものにとっては、不思議に思える。つまり「自然」を「環境」というとき、自分たち人間存在は「自然」と別物としてみている。それは、絶対神が世界を創造したという物語、しかも「自然」を人間が差配してよいとする物語りから紡がれた観念であろう。「謎」を解くのなら、絶対神の世界創造の物語りがなぜ生まれたかを解き明かす方が第一であろうと思う。単に、工業化社会が全盛になってそれが地球を席巻している今の時点だからこそ、みずからの起こした破壊の巨大さに驚き、環境倫理を探究して、日本人の「原生自然に対する知識や関心の乏しさ」をあげつらっているのだと、みてとる必要がある。もちろん私は、日本人の知識が豊富であったと擁護しようとしているのではない。日本人の対応は「謎」ではないと言っているのである。

 

 キャリコットは、人間主義とか人間中心主義に対置して生態学的人間主義という概念を提起している。つまり、西洋が生み出した近代の工業社会に生態系を組み込んで持続可能な社会をイメージしようとする。ディープ・エコロジーとかソシアル・エコロジーと呼んでいるらしいが、そもそも、人間の自然支配を前提にした「近代工業社会」が、人間を自然の内在的存在とみる日本の人たちにつきつけたものこそ、「逸脱」だったのである。だから、工業社会の発展に応じて自然破壊が進み、それに驚いた時点から、日本では生態学的方向と近代工業化の発展の方向とが確執を醸してきた。いまのアベノミクスにしても、旧来型の景気回復路線であることを考えると、「禅」の質素、倹約という自然観を組み込んだ生活の見直し路線へ転轍するのは、むつかしい。しかもそれは、哲学的課題であると考えてみても、「日本人の課題」であるとは思えない。豊かな暮らしを希望するすべての人々にとって「喫緊の課題」なのだ。ことに先進国の人々は、途上国の人々の暮らしが向上していく過程について、「質素、倹約」をすすめるのであれば、まず隗より始めよ、だ。

 

 西洋の環境保護の動きと日本のそれとが、どれほどの違いがあり、その違いがどういう意味を持っているかを論じる素材を私はまったくもっていないが、異常趣味的に「禅」のすすめをとりあげないで、人間の欲望が限界に突き当たって「自然淘汰」されていくことを待つしかないのかと、類的存在としての私は、推測している。環境哲学が喫緊の課題として「人間の抑制」を説くのだとすれば、「政治」「国際関係」に踏みこななければなるまいと思うのだが、残念ながら、キャリコットはそれに応える視点を示してはいない。ま、ま、急ぐまい。頑張ってねと、応援の声を送って、次世代の方々に期待しようと思っている。


さすが文教都市じゃないか

2014-12-28 17:31:12 | 日記

 年の瀬の好天は今日までというので、残っている網戸洗いとガラス拭きをした。以前は一日で済ませていたものを、2回、3回に分けるようになった。急ぐことはないよと思うからでもあるが、面倒に感じる度合いが強くなっているのかもしれない。そう言えば、もっとこういうところを丁寧にやっていたなあと、窓の桟にたまったゴミを取り除きながら、でも、テキトーで済ませていて、いまの自分をみている目を意識した。こんな調子では、断捨離なんて、とてもじゃないが生きているうちに済ませることなどできない。これからは年末とかお盆というのではなく、毎週何曜日は断捨離に充てるくらいの生活習慣化が必要だね。

 

 今日が図書館の最終日なので返す本は返し、予約して到着している本を受け取りに行く。ふと本棚にスーザン・ソンタークの日記を死後に取りまとめた本をみつけた。『私は生まれなおしている 日記とノート1947-1963』(デイヴィッド・リーフ編 木幡和枝訳、河出書房新社、2010年)。編者のリーフがソンタークの息子だということも、その「まえがき」で知った。ソンタークはレズビアンだと(何かの作品を読んでいて)思っていたから、まさか息子がいるとは思わなかったのだ。むろん私は、愛読者ではなかった。彼女のちょっと身を片隅の方において世界をみている言葉の端々に、気を魅かれて読んだ思いがあるだけであった。

 

 「大きな出来事があると、この作者が生きていたらこんなふうに言ったであろう」と得々と述べる人がいるが、そんなことはわかるわけがない、と息子のリーフが書きはじめる。だから、生前に書かれた日記やノートがあることは知っていたが、スーザンがそれを公表することを望んでいたかどうかは、わからない、と。ただスーザンが生前「日記をおいてある場所はわかるわね」と話したことはあったというから、死後の始末は自分の手に任されたのだと思案している。

 

 この本を私が手に取ったのは、じつは今年の8月に亡くなった母親の二十年分くらいの日記を、私が預かっているからである。それをどうするのかは、兄弟で相談しながら1周忌に何かまとめればいいと思っていた。だが、末弟と長兄がやはり今年亡くなってしまったものだから、呆然自失、母の日記の始末などはすっかり消し飛んでしまった。もちろん言うまでもなく、我が母の日記など、スーザン・ソンタークのそれと並べて考えるようなものではない。そもそもそういうことなど前提にしないで書きつけておいた「備忘録/メモ」程度のものだから、思案するほどのこともないのだが、しかし、息子夫婦が大阪へ行ってしまって独り暮らしになってから、果たして何を考え、何をして過ごしていたか、考えるよすがにはなる。ふとその機縁を感じて手に取っただけである。

 

 スーザンの残した本や日記やノートなどはすべてカリフォルニア大学に売却されることになっていったという。だからいずれ誰かがこれに目を通して公表すると考えたら、生前にスーザンの出版関係を取り仕切っていたリーフ自身が、整理してまとめるのがいいと思って編集にとりかかったそうだ。日記は15歳くらいからの分がチョイスされている。なかなか生々しく、16歳で大学に入ったという秀才だったからであろうが、すでに作品を書く作業を生活の中に組み込んで過ごしている。

 

 図書館で50ページ分くらいを読んだが、借りてくることはしなかった。読む本がたまっている。正月に雪の奥日光に行って、読書三昧と洒落込むことはできる。でも、今日借りた4冊もあれば十分。図書館を出るときになって、いやに今日は人が多いなあと感じた。今年最終日だということ、子どもも大人も、すでに、すっかり歳末と正月の休みに入っているのだ。のんびりと本を読んで暮らす正月なんて、さすが文教都市じゃないか、とちょっと褒めてやった。


クジラを食べる文化史はわずか一世紀にみたないか?

2014-12-27 14:21:07 | 日記

 J・ベアード・キャリコット『地球の洞察――多文化時代の環境哲学』(みすず書房、2009年)を読んでいて、気になる一文を見つけた。

 

 《鯨肉に対する日本人の頑固な嗜好は、数種のクジラを絶滅に追い込んでいる。(日本人のこのような嗜好を満足させることを弁護して、クジラを食べることは自国の文化の一部であり、たとえばスペイン人に闘牛を行う権利があるのと同じように、自分たちにはクジラを食べる権利があると主張する日本人もいる。しかし日本の文化史をみる限り、それを裏付ける事実はない。鯨肉が日本人の食生活に入ってきたのは近年のことであり、その歴史は浅く、一世紀にも満たないのである)。》

 

 この本は、環境哲学者である著者が世界各地の文化が持つ「自然観」を考証して、次の時代のエコロジカルな方向を見定めようとしたものである。各地の文化を7章に分け、そのうちの1章を「仏教と日本」に充てて論じている。その姿勢は、西洋的な「人間-自然」の(人間が自然を支配するという人間中心主義的な)二元論に対して、禅の哲学のうちに「万物の相互依存、したがって万物の統一性を学び、その結果(二元論的な)思考様式が不自然な人為であることがあきらかになる」と評価する。つまり日本文化の持つ自然との一体性に好意的な評価を下しながら、「日本人をめぐるこのような謎」のひとつとして、上記の鯨肉の食文化を取り上げている。

 

 キャリコットの、広範囲の文献を渉猟した形跡を記すアンソロジーには敬服しながらも、上記の一文「その歴史は浅く、一世紀にも満たない」を目にしたとき、「エッ、そうだったの?」と驚きを禁じ得なかった。

 

 さっそく手近のWikipediaで調べてみると、奈良時代から室町時代にかけて鯨肉を贈答していた記録はある。しかし、貴族や高位の武家が食していたというのでは、「歴史」に加えられないかもしれない。大衆的な食べ物としてはどうなのだろう。さまざまな料理法を書き記した書物もある。

 

 「江戸時代から組織的な捕鯨が行われるようになり、それら捕鯨地域周辺の漁村では、鯨肉は常食とされていた。」

 

 「大坂など近傍経済圏にもこの頃に生まれた伝統的な鯨肉料理が存在する。京都では「鯨の吸い物」が食べられているのを井原西鶴が著書の中で紹介している。十返舎一九も東海道中膝栗毛のなかで大坂の淀川で「鯨の煮付け」を紹介している。高知県では土佐藩の高知城下を中心に数々の鯨料理が伝承されており、特に「はりはり鍋」は代表的な物の一つである。江戸城下では鯨肉を素材に調理した「鯨鍋」や「みそ汁」や「澄まし汁」などが食され、「ホリホリ」「鯨のし」などと称した頭部の軟骨を加工した珍味も売られていた。全体的な傾向としてはシロデモノと総称された皮下脂肪や尾羽が好まれ……」

 

 と江戸期から大衆的な食べ物のひとつに加えられていることが分かる。最後の「シロデモノ」は、私などが子どものころに「オバケ」とか「オバイケ」と呼んで酢味噌で食べていたものを指しているように思う。そのほか、シーボルトがクジラを食したことを記録している、ともある。

 

 「江戸を含め日本各地で12月13日の煤払い(すすはらい)の後は「鯨汁」を食べる習慣が広まり、その様子は沢山の川柳の記述や物売りが鯨肉を扱っていた記録が残されている。」 

 

 Wikipediaの記述はまだまだつづくのだが、とりあえずこれだけみれば、「その歴史は浅く、一世紀にも満たない」というのは、いかにもグリーンピースのような「環境活動家」がタメニスル見解だということができる。これはキャリコットを非難するために言っているのではない。彼ほどの(学問的で、客観的であろうとしている)環境哲学者であっても、他の文化圏のことがらについては、こういう思い込みをしてしまうのである。キャリコットは上記の記述のずうっと後で、

 

 《日本の仏教の知の遺産には、人間以外の自然界の様々な存在と全体としての自然が持つ精神的、道徳的な価値について、ここまでの本書の世界遍歴で出会った伝統のいずれにも勝るような豊かで想像力にあふれた思索が含まれている。》

 

 と評価し、さらにこう続ける。

 

 《したがって、日本の知の遺産を有する現代の日本人が、クジラを殺すのではなく、みずからを開いて巨大なクジラの仏性と向き合い、クジラの歌の中に諸仏の説教を聞き、それらの菩薩から学びたいと思うようになるのではないか。》

 

 つまり、日本人は自然とともに生きてきた文化の中で、改めてクジラの「自然性」に日本人の文化性を重ねて受け取り、世界の環境倫理形成の主導的な役割を果たすことができるのではないかと、期待しているのである。そこには西洋の哲学と論理がすでに未来の環境保護に道を開くことはできず、東アジアの禅の哲学に希望を託したいという気持ちが現れている。

 

 クジラを大魚として魚市場であつかっていた江戸時代の「自然概念」を捨て、最大の哺乳類としてのクジラに敬意を表して、あらためてクジラと一体の未来世界を描こうと呼びかけているわけであろう。だが、そこにもまた、西洋的な(人間中心主義的な、哺乳類中心主義的な、知性中心主義的な)傾きを私は感じてしまう。


ポイしてもらいたい

2014-12-26 16:39:40 | 日記

 図書館から本を借りて、メモを取りながら読んでいたら、厚い本の何ページかの何カ所もに、軽く鉛筆で線が引いてありました。たぶんこの方は、ご自分の本を読むときに傍線を引く癖があるのだと思います。困ったものです。

 

 汚れているから困ったというよりも、著者でもない読者の、しかもどんな方かわからない他人の強い関心事が、ここここと、目を誘うからです。無視してしまえばいいようなものですが、そこがまた、私のメモを取りたくなるような箇所だったりして、癪に触るのです。

 

 結局私は、(何年振りかで)消しゴムを用いて、鉛筆の傍線を一つひとつ消していきました。消しゴムのくずは、机に張り付いてなかなか簡単に片付きません。掃除機を出すのも面倒。はがきのような厚い紙に掬い取ってゴミ箱へポイ。

 

 図書館の本に線を引くような癖もポイしてもらいたいものです。