mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

どこに実感の起点と焦点を合わせるか

2017-08-26 08:08:05 | 日記
 
 朝鮮半島情勢が緊張を増している。元自衛隊将校OBは、今年末までにアメリカが北朝鮮への軍事行動に出ないならアメリカの威信は地に落ち、日本は(安全保障のために)防衛予算を倍増して装備を十分に整え、中国との連携を模索することが必要になると具体的な提言もするほどだ。
 
 また今日(8/25)の東洋経済onlineでは、津上俊哉という中国研究者が、朝鮮半島から米軍が撤退する可能性と半島が中立化したのちの東アジアと日本の安全を保持するために、日本が採ることのできるシナリオを検討している。最悪の場合に日本は、核武装をするという意思の表明をして米中と渡り合う必要があるかもしれないと提言している。つまり、北朝鮮崩壊後の朝鮮半島をめぐる国際的な力関係の変化と日本の立ち位置を論題にしているわけだ。
 
 元自衛隊将校OBは、中国における軍関係者との懇談会での情報も勘案して(アメリカの威信の低下を考えて)いるが、北朝鮮からのミサイルによる攻撃などに備えて地上型イージスを8基配備するなどが必要とするほか、地上工作者の侵入や攪乱工作活動に対処する方途、非常事対処のための国内道路管理権限の防衛相への一時的移行などの法整備にも言及して、緊迫の度合いを伝えている。GDP2%の防衛予算という提言も、そのひとつである。
 
 他方、津上俊哉は北朝鮮の「緊迫事態」が収まった後にやってくる見通に目を移す。アメリカが中国との提携均衡を図り、米軍が朝鮮半島から撤退する可能性が大であると考え、そののちの(日本の)東アジアにおける防衛戦略を構想して、中国と拮抗しながらも手を結んで、東アジアの平和維持に発言権を持つべき道筋を見極めようとしている。日本の核武装という意思表明も、米中が日本の頭越しに取引することに対して(日本が)一枚噛むための手だてと考えている。
 
 でもこういうレベルのやりとりになると、まるでSFの物語のように見てしまうのは、やはり戦後72年の平和ボケの所産なのであろうか。「緊迫した事態」に感情をともなった焦点が合わないのである。今の私たちは自衛隊の防衛出動に対しても、傭兵の活動のようにしか見ていない。つまり自らの身を切るような、差し迫った決断を迫られているとは感じられない。同じような反応が(緊急事態の退避訓練をしている)ソウルにもあると先日の新聞報道があったが、高度消費社会に馴染んだ身からすると、「戦時」という異常事態が実感できないのだ。
 
 (戦争とか防衛とかを)わが身に実感できるようになるためには、「徴兵制」を布くのが一番よいと、私は口走ったことがある。そのとき(先の戦争の深い反省を込めて)ひとつだけ条件を付けたのは、ドイツが実施しているような「抗命の義務規定」を全軍人に課することであった。そう話した時、ドイツがそういう規定を盛り込んでいることを知らなかったと私の知人が伝えてきた。はてどこで私はそれを知ったろう、と考えてはみたがそのまんまにしておいた。ところが先日(8/21)の朝日新聞の「政治断簡」で編集委員の松下秀雄がそのことに触れていた。この記事の論旨はそれが焦点ではないのだが、上司の命令に「従う人」がナチスドイツのホロコーストを生んだというハンナ・アーレントの「悪の陳腐さ」の指摘から、次のように導き出している。
 
《戦後のドイツは、自分で判断する「個人」を育てようとした。軍人も、人の尊厳を傷つける命令には従わなくてよい、違法な命令に従ってはならないという「抗命権」「抗命義務」を法に記した。》
 
 そうだ、これだ。でもねえ、日本では「基本的人権」を「公共の福祉」の下位におこうとしているくらいだから、とうていドイツのように「個人の抗命権を育成する」という発想が出てこないに違いない。そもそも今、このタイプを「こうめい」とうっていても、「抗命」という文字が出てこない。「こう」と「めい」を打ち込んで初めて変換できるという仕儀となっている。かほどに、そのような発想が根づいていないのだ。ましてや「抗命義務」などは、机上の空論にさえなりそうにない。その文化的な(ドイツとの)落差を考えると、「徴兵制」という提言だけが独り歩きして、「抗命」のほうは雲散霧消しそうだ。
 
 でもこれを論題にしている私は、朝鮮半島情勢を他人事のように考えている。この(実感の)ズレはただの平和ボケというだけでなしに、なにかもっと大きな「現実の喪失」なのではないか。そしてこの「現実」が恢復するのは非常事態が起こってからなのだ、と思う。やっぱり「状況適応的」な体質は変わっていないのかなあ。はたして、「リア充」などと「現実」をとらえている若い人たちは「現実を喪失」していないのだろうか。

孫との五日間(下)よく歩く、よく回復する

2017-08-25 08:27:28 | 日記
 
 さて五日間預かった孫を連れて、どこを歩くかは私の領分。奥日光をフィールドに選んだ。この孫たち、毎年正月には奥日光で何日かを過ごすのだが、雪のないときに来たことがない。となると、どこでも歩ける。天気を観ながらコースを決めればいいだろうと考えていた。
 
 ところが、連日の雨。家を出る20日も雨の中であった。8時40分。だが子どもたちは車が走り出すやすぐに眠りについた。日曜日とは言え、天気がよくないせいか高速路の車は少なくズムーズに走る。いろは坂を登りきってトンネルを抜けると雨はやみ、路面も濡れていない。やはり奥日光は梅雨知らずといわれるだけあって、太平洋岸の平地が雨でも、天空の中禅寺湖や戦場ヶ原は晴れている。
 
 昔のプリンスホテルスキー場の駐車場に車をおいて歩きはじめる。11時。今日は、古い道を通って高山の裾を越え、中禅寺湖畔の栃窪へ下るルート。今はもう使われていない廃道。斜面のトラバースが多く、落ち葉に覆われてルートが見つからないことが多いので、「探検の道」と呼ばれている。スキー場は黄色い花をつけたオオハンゴンソウと灰色がかった白い花をつけたヨツバヒヨドリに覆われるお花畑。何羽ものアサギマダラが飛び交う。カラマツの植林もしてあって、シカの食害を防ぐために一つひとつの苗木に網を巻き付けてある。花を縫ってゲレンデの上へと登る。峠へ出る。湖側が大きく切れ落ちた谷になっている。山体の斜面をトラバースして大きく迂回しながら下る。落ち葉が降り積もった谷間には、このところ降った雨が溜まり、ずぶずぶと靴が入り込む。たぶんそれを避けるためにであろう、その向こうの山の斜面を巻く踏み跡が細くつづいて見える。谷に降りる方が安全ではあるが、細い道のトラバースも、緊張感を誘って子どもたちには面白いかもしれないと思う。
 
 兄孫は用心しながらも先導して、慎重に進んでいる。妹孫はビビッて腰を落とし、それでも手を借りたいとは言わず、歩一歩とついてくる。恐さを感ずる感覚とバランス感覚は悪くない。だが一カ所、上部が崩れてルートを巻き込んで崩落しているところがあった。そこだけは私が先導して下り、兄が下って先行し、妹を私がエスコートした。カミサンは、少し上の斜面をへつって先へ下った。こうして谷に下り立ったところで、湖が見えた。トチノキの巨木が、栃窪というこの地の名を示すように屹立している。一部の枝が折れたまんまひっかかり、何百年と経てきた生長の軌跡を曝している。
 
 栃窪でお昼をとる。いつのまにか兄は靴を脱いで水に浸かっている。妹もそれを真似て水に浸かる。半ズボンをしゃくりあげているが、深いところに行くものだからズボンのすそが濡れてしまう。でもかまわず砂を掬い石を持ちあげたりして遊ぶ。妹はトンボをとったりしている。砂浜の百メートルほど向こうでは、カヌーでやって来たのであろう、10人ほどのグループが声をあげてはしゃいでいる。千手が浜から歩いてきたのであろう人たちもいる。陽ざしが強い。1時間近くここで過ごし、菖蒲が浜への道をたどる。湖面より標高で50mほど高いところを、高山の裾に沿って歩く。樹林の中だから陽ざしは気にならない。1時間かからずに車のところに着いた。子どもたちの歩行能力はしっかりしている。
 
 二日目は、湯元から刈込湖・切込湖を経て光徳に下る、5時間ほどのコース。歩きはじめてすぐに、小学生の一団がやってくる。五年生だという。妹孫が三年生だと聞いて、最後尾の教師が「三年生に負けるわよ」と発破をかけている。彼らを先に行かせ、私たちはゆっくりと歩く。ヒカリゴケの話をしたら兄孫が探しながら歩き、ついに見つける。たいしたものだ。と、あとから別の小学生の一団が追いついてくる。先へ行ってもらおうかと思ったが、早いのは先頭の大人だけで、「あっ、あとが来てない」と足を止めてしまった。教師かどうかは知らないが、これでは先導役は務まらない。先へ行った一団には、小峠で休んでいるところで追いついた。彼らが出るところだったので、やはり先行してもらう。妹孫は、小学生の最後尾についてトコトコと行ってしまう。ま、いいか。一本道だし、刈込湖で休むだろう。兄孫は妹と私との中間点に立って、双方を気遣っているようだ。
 
 今年の刈込湖は水が多い。狭い砂浜で小学生は記念写真を撮っている。私たちは細い丸太の橋を渡って広い方の砂浜へ行き、蜜柑を食べる。兄孫は早く行こうよと小学生の先へ出たがっている。でもやはり、小学生を先に行かせる。妹は相変わらず小学生の最後尾について歩く。涸沼に来たとき、こちらの休憩を少し短くして小学生よりも早く出発する。山王峠への最後の上り30分弱を頑張り、小学生をあとに残した。そのとき「どうして小学生の先に行かなかったの」と兄が問い、私が、小学生の最後尾の歩きが遅いことを話していたら、妹孫が「あの子たちはね、遅いんじゃないの。みんなと一緒に歩くのがいやだから、わざと遅くして間をあけていたんだよ……。そう話していたよ、あの子たち」と、耳にしたことを口にする。そうか、みんなと一緒がいいんじゃなくて、耳敏くそういう話を聞いていたのかと感心した。子どもの動きを侮ってはならないと思った。
 
 山王峠からあとはコースタイムよりも早く降った。段差が大きいところを妹はぴょんぴょんと飛び降りる。「脚を傷めるから」と注意はするが、身体が軽く、身のこなしが軽快。出発してから4時間半で光徳牧場に着き、ソフトクリームを食べて、大満足であった。なにしろ湯元に帰ると、ボートに乗りたいと兄孫が言い、私と妹とが付き合った。ボートを漕いでいる途中で、私も漕ぎたいと言い出して、妹も短い手足を伸ばしてオールを回す。風に吹かれて少しも進まない。兄と妹が交代しながらボートを漕いで、宿に帰還したのは3時半ころ。40分も遊んだ。ところが、夕食のころになって、妹が「足が痛い」と泣き言を言いはじめた。おや早い、と私は思った。筋肉痛は疲れが恢復するときに出てくるものだ。私などは、ついに出ることがなくなった。それがわずか2時間ほどで痛むというのは、やはり若いということか。笑ってほめてやると、「いたい、いたい」と泣きながら夕食を済ませた。
 
 三日目、もちろん先夕の脚の痛みは取れている。ゆっくり宿を出て赤沼に向かう。赤沼から低公害バスに乗り、西の湖入口で降りる。今年は水が多く、西の湖のヤチダモが水に浸かっていると聞いたので、それをみせようと思ったのだ。なるほど水が多い。でもヤチダモは浸かるかどうかという端境のところにあった。子どもたちは湖に石を投げこんだり木を投げたりして遊ぶ。そのあと千手が浜まで歩くが、くたびれてきたらしく、湖まで行きつかないうちに、バスで帰りたいという。全部で2時間ほど歩いたか。まあ、三日間の歩きとしてはまずまずであろう。こうして、奥日光の三日間は終わった。

孫との五日間(上) 子どもの好み、子どもの思案

2017-08-24 08:52:21 | 日記
 
 いやはや、全力投入であった。息子夫婦が仕事で三日間出張になるので、前後をあわせて五日間、小学生の孫二人を預かった。19日、新幹線でやってくる東京駅へ迎えに出たのはカミサン。兄妹二人が真っ先に飛び出してきたそうだ。たぶん、「次は東京、終点です」とアナウンスがあってすぐに、荷物をもって出口に並んだのであろう。妹がキャリーバッグを曳いていたという。この孫兄妹は食事が面倒だ。食べなかったり、好みが会うたびに変わっていたりする。ご飯にふりかけばかりを食べたり、唐揚げばかりに執着したり、兄妹の好みが違ったりするから、カミサンはピリピリしている。夕食にと、とりあえず蕎麦を打つ。これは二人とも好んで食べる。大人以上に食べたこともあるので、大人二人前分を余計に打つ。カミサンは天麩羅を揚げる。ところが、思ったほど食べない。大人半人前が余る。珍しいことだ。
 
 二日目から三日間は奥日光へ連れ出す。でも、出かける朝はつくらなければならない。前の週に霧ヶ峰で遊んだ折に、なめこの味噌汁が好きと聞いた。ご飯をお替りしてもいる。むろん余計に炊いた。ところが食べない。カミサンはうちの米がまずいのだろうかと、ふだん考えたこともない愚痴をこぼす。それでも兄孫はなめこ汁の椀を空にしたが、妹孫は手も付けない。ま、朝の食事だから、食べようと食べまいといいじゃないかと私は大様に構えてみせるが、料理長としてはそうもいかないのであろう。
 
 奥日光では宿の料理だから、全部お任せ。お子様ディナーは、牛ステーキやハンバーグは喰いつくように食べたが、妹孫はシチューにも野菜サラダにも手も付けず、兄がそれをもらって食べていた。妹は兄のコーンスープをもらって食べるというふうに、まあ、兄妹でバランスが取れているというのだろうか。仲がいいのが何よりだと思った。ところがこの兄妹、この宿の朝の食事が大好きという。バイキング。要するに好きなものだけ食べられるのが、いいのだろう。みていると、兄孫はご飯に唐揚げ二つ、あとは牛乳を三杯お代わり。妹孫はおかゆに梅干しを四つ。なんとも質素というか、食べないというか。放っておけばいいものを、わが家の料理長は気をもむのだ。
 
 奥日光では三日間とも、処を選んで歩きに歩いた。そのときのお昼はコンビニで買っていったりした。むろんカミサンが連れて買い求める。パン二つとヨーグルト、あとは菓子ひと種類。欲もない。そのパンも、ひとつは食べ残す。ただ、(コンビニでの?)買い物が珍しいのか、ぶらりぶらりと店内を見て回って、品物を手に取ってみている。好みの判断ははっきりしている。選ぶのは得意ってところか。
 
 最終日、東京駅で電車に乗せる前にスカイツリーに連れて行った。350mとか450m上空から東京の町を見下ろすというのは、しかし、子どもにはあまり受けない。地誌的な感懐がないから、ごみごみした人工都市を上からみているというだけのようだ。大人は、あれが国技館と江戸東京博物館、向こうが東京ドーム、こちらが上野の山と、来し方を重ねて振り返るような気分でみているが、東京に暮らしたことのない子どもにそれを求めるわけにはいかない。むしろタワーの低いところにあるキャラクターグッズやお土産などに気持ちが向かう。こちらに来る前に親からお小遣いをもらっている。だれと誰に買うというのを算段して、小出しにあれやこれと物色する。見かねて付き添う婆が、お小遣いを全部使って足りないところは出してあげる、と渋い提案をして子どもらを気遣う(甘い婆ちゃんと思われてはかなわないと思っていたのであろう)。だからスカイツリーを出るときに子どもたちの財布はすっからかんになっている(と婆は思っていた)。
 
 東京駅で父ちゃんと母ちゃんへの手土産を婆が買ってもたせて、新幹線が出るまで見送った。「無事定刻に発ちました」と名古屋で出迎える母親にメールを送る。2時間足らずののちに、「無事着きました。土産話をするのに夢中で、両方が話しかけて大騒ぎです」と返信が来た。カミサンは本当にほっとしている。全力で孫たちをお接待したのだなあと、私は感心している。と、夜になって息子からメールが送られてきたとカミサンが見せる。感謝の言葉のあとに「新幹線のなかでも、アイスを買い食いして楽しんだようです」とあった。(えっ、あの子たちまだ、お金を持っていたんだ)と婆ちゃんは絶句している。スカイツリーの商品売り場で妹孫が財布を開けて持ち金を計算し、少し思案した後で、買うのをやめたことを、私は知っている。じつはそのとき財布をのぞきこんだら、600円あまり残っていた。きっと妹孫が、「お兄ちゃんにもおごってあげる」などと言ってアイスを買ったのではないか。なかなかしたたかな、味なことをやると、これまた感心している。

消えた中動態の痕跡

2017-08-19 14:07:51 | 日記
 
 国分功一郎『中動態の世界――意志と責任の考古学』(医学書院、2017年)を読む。図書館で借りて、他の本を読んでいるうちに返却日が近づいてから、手に取った。面白い。私の胸中にぼんやりと棚上げされていたコトゴトの、向こうの方に薄明かりがともるような、そんな気がして読みすすめた。
 
 中動態というのは、能動態、受動態という言語学の「する」「される」関係の中に、そのどこにも位置しない、ときにはどちらにも位置する動詞の名称である。インド=ヨーロッパ語族に属するギリシャ語の文法解読を通じて、その中動態の意味するところをとらえ、副題の「意志と責任」の現在的ありように迫る力作と直感する。
 
 今日は前半の、ギリシャ語における中動態の意味づけを、文法的解析を軸に推し進めたフランスの言語学者・エミール・バンヴェニストの所論を参照した後、バンヴェニストに批判的に参入したフランスの哲学者・デリダに言及したところに触れる。
 
 国分は、能動態と中動態の関係が原初のものであったのに、能動態ー受動態という(世界を見る)関係が主たるものになったために、中動態の意味合いが変化し、そのうち消失してしまったとみている。その過程において中動態を読み取る緒論を、ギリシャ時代のトラアクスの『テクネー』からアリストテレス、スピノザ、ウィトゲンシュタイン、カント、アランまで、浩瀚な所論に目を通して、「誤読」なのか「例外」なのかを、一つ一つ丁寧に踏み台にしていく。そのとき彼は、なぜ「誤読」とみたのか、なぜ「例外」としたのかを、その文脈に置き直し、そこに影を落とす能動態ー受動態という関係のドグマを抜け出ているかどうかにも目を配っている。たとえば、
 
《すでに述べたとおり、中動態を定義するためには、われわれがそのなかに浸かってしまっている能動対受動というパースペクティヴを一度括弧に入れたうえで、かつて中動態が置かれていたパースペクティヴを復元しなければならないのだった。より具体的に言えば、その作業は、中動態をそれ単独としてではなくて、能動態との対立において定義することを意味する。》
 
 と、中動態を定義するためには超越論的である必要があることを、自らの視界に収めようとしている。そうしてバンヴェニストの定義、
 
《能動では、動詞は主語から出発して、主語の外で完遂する過程を指し示している。これに対立する態である中動では、動詞は主語がその座となるような過程を表している。つまり主語は過程の内部にある》
 
 を梃子にして、「一言でいうとこういうことだ」と見極める。
 
《能動と受動の対立においては、するかされるかが問題になるのだった。それに対し、能動と中動の対立においては、主語が過程の外にあるか内にあるかが問題となる》
 
 これを読みながら私は、「主体subject」が「be subject to ~」という受動態で表現されることの、精妙さというか、不可思議さを想いうかべていた。そうして、中動態という言語的な発生の歴史を持っていたのだと思うと、言語の変遷の中に、意志や責任や主体という関係の哲学的な洞察も埋め込まれているのだと受け止めることができる。これはむろん、国分が言語の文法的な解析だけではなく、そもそもそこへ至るモチーフに哲学的な関心(すべての行為を能動と受動のどちらかに振り分けることができるのか)を起点にしていることがもたらした、当然の功績である。
 
 こうして国分は、能動態と中動態の対立(ある過程の外にあるか内にあるか)から発生して、後に中動態から受動態が派生する過程をおいて、こう続ける。
 
《われわれはいま、中動態の歴史と意味に迫りつつある。それゆえに、最初の問題へと戻ることができる。能動態と受動態の対立は「する」と「される」の対立であり、意志の概念を強く想起させるものであった。われわれは中動態に注目することで、この対立の相対化を試みている。かつて存在した能動態と中動態の対立は、「する」と「される」の対立とは異なった位相にあるからだ。/そこでは主語が過程の外にあるか内にあるかが問われるのであって、意志は問題とならない。すなわち、能動態と中動態を対立させる言語では、意志が前景化しない。》
 
 おやおや、丸山真男が『日本の思想』で論じていた「であること」と「すること」を、まるまるかかえこんで、「主体性の問題」から外してしまうような展開になるかもしれません。国分のモチーフを全面展開すると、現行の近代法の基本にかかわる大幅な改正にまで及ぶ影響を招くことになります。ますます引きこまれて読みすすめるのですが、残念ながら時間切れで、しばらく棚上げしなくてはなりません。じつは、孫二人がやってくるのです。明日から23日まで、仕事で出かける親に代わって、爺婆がお世話をすることになりました。そういうわけで、この続きもまた、棚上げです。ではでは、ごめん。

やっとアメリカもアプレ・エイジング

2017-08-18 09:42:15 | 日記
 
 今日(8/18)の朝日新聞に《米女性誌「アンチエイジング もう使いません」》と、記事が出ている。おお、やっとここに到達したか。五年遅いぞ、と私は思った。2013年2月29日の「36会 aAg-Seminar 開設のご案内」で「主宰 浜田守」さんは、次のように釈明しています。
 
《「aAgってなんだ?」とお思いの方に、まず弁明。
 正面から「アンチ・エイジング」と呼称するのは面はゆく、でも世間体もありまして、このような名称を付けました(世間体は、「会場」をご覧いただければお分かりになります)。漢語を交えて表記するなら「臨床抗齢学会」、和語にすると「寄る年波調べ所」とでも訳しましょうか。聞かれたら、そうお答えしようと、まあ、この程度に考えています。》
 
 微妙なニュアンスが込められています。「アンチ・エイジングと呼称するのが面はゆい」のは、なぜでしょう。”いつまでも若くありたい”というセンスに、そうかなあという内心の思いがあるからです。”歳をとるのも悪くない”と言えないのは、どちらかというと、身体的な劣化が高齢化に連れて目に見えてくるからです。20歳のころを100とすると、60歳の筋肉量は6割程度と言われています。バランスは2割5分、四分の一です。ところが、70歳のそれは、八分の一になります。つまり、60歳から70歳のあいだに、半減するのです。病を別として、脚が上がりにくくなります。当然、躓きやすくなる。ふらつく、転ぶ、階段がつらい、歩くのがのろい。そうこうするうちに、膝が痛む、くるぶしが不安定になる、腰(の痛み)に来る。日々それを自覚させられるのが、60歳からの身体状況です。にもかかわらず、「アンチ・エイジング」というのは自然の摂理に反すると、私たちは内心のどこかで思っています。だから「面はゆい」のです。
 
 では「世間体」とは何でしょう。「(世間体は、「会場」をご覧いただければお分かりになります)」と、ヘンな書きぶりです。じつは会場は、昭和大学。医学薬学で名を売っている大学。しかも会場の世話をしてくださる方が、そこの高齢ベテランの研究者。「アンチ・エイジング」をお題にする講演にも招かれ、あちらこちらで「頑張りましょう」と喋ってきている。まあ、その体面を保つことには配慮しましょうというのが、「世間体」です。
 
 そのあとの記述が、さらにヘンとは思いませんか。《漢語を交えて表記するなら「臨床抗齢学会」、和語にすると「寄る年波調べ所」》と相矛盾する言い方を、恬淡と記しています。じつはこの表記には「解説」がありました。アンチ・エイジングは「抗齢」ですが、アプレ・エイジングは「後齢」。「aAg-Seminar」というのは、掛けことばだと付言しています。「寄る年波調べ所」という意味合いは、身体的な面だけでなく、内面の成熟も視野に入れて、わが身の拠って来る所以に思いを致す、そんな思いが込められていました。五年前です。
 
 さてそれで、今朝の新聞記事。米女性誌「アルーア(allure)」は「美容特集などで知られる月刊誌」だそうです。「年齢を重ねることを否定的にとらえる米国の風潮や美容業界のありかたに、一石を投じた」と記事は解説しています。「米国の風潮」というと、日本の風潮ではないかもと思うかもしれませんね。記者は《「アンチ・エイジング」という言葉は、日本でも美容業界などで広く使われており、(米女性誌編集長)リー氏の宣言は日本にも影響を与えそうだ》と他人事のように付け加えています。私などは、日米の(自然観の)違いということに重きを置いて考えてしまいますから、「アンチ・エイジング」ということばが日米で同じように使われていないというと、どこかでホッとするところがあるのですが、でも市場の論理、商業ベースからすると、日米に差がないという方が、適切だと思いますね。アベノミクスもそうですが、いまだにかつてのバブルの再来を願っているようなのですから。
 
 五年経って、アメリカが私たちに追いついた、そんな感じがしています。こちらに先見の明があったからではありません。こちらは伝統的な自然観と人生観でもって、わが身のことを考えていたからです。ということは五年どころか、「両文化の比較優位」が論題に上がりはじめてからとなると、約百五十年ほどを経て、やっと日本の自然観をアメリカの文化に組み込んで考えていこうという風潮が、海の向こうから自然発生的に起こりはじめている、と読むことができます。
 
 この記事の袖見出しは《「美しさ 若者だけのものではない」――美容業界に再考促す》と、あくまでも表面的なところにとどまって、「この宣言」を評価しています。だが私たちはもう一段深いところで、「寄る年波調べ所」を運営しています。あと半年で五年目を完了する「36会 aAg-Seminar」にご注目ください。