mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

時を旅する

2016-08-31 11:39:58 | 日記
 
 わずか3泊4日、田舎を訪ねただけなのに、すっかりくたびれてしまった。昨日は夕方4時には帰宅していたのに、何もする気にならず、夜8時には寝てしまった。そうして10時間以上過ぎて今日、平生が戻って来た感じがしている。
 
 食べ、呑み、疲れた。法事だから仕方がないというよりも、4年ぶりに顔を合わせたカミサンの兄弟姉妹とその連れ合い、子どもたち孫たちと、食卓を囲み、無沙汰を詫びて近況を交わし、杯を酌み交わす。高知県という土地柄もあろうが、男も女も、これまた気持ちよく、お酒を呑む。法事の日にはお昼頃から、途中3時間ほどの休憩を挟んで、9時ころまで話しに花が咲く。土佐の皿鉢料理というのが、女も一緒に腰を据えて呑み明かすための料理だと知った。なるほど女性陣もお酒は強い。七回忌を迎えた義母も、じつはお酒が強かったと、話しを聞いて知った。孫が呑むのに付き合って、ビールや焼酎を呑んでいたそうだ。今回も、沖縄産の泡盛の8年物、5年物の古酒を用意してくれていて、オンザロックにしたりお湯割りにしたりして、愉しんだ。着いた日、法事の日とつづけると、さすがに身に応える。だが、夜寝ているうちに腹に納めたものが右へ左へ輾転反側して昇華され、身が浄化されていくように感じる。翌朝にはまた元気が恢復して、標高800mの冷気を含んだ朝の空気を吸いながら、南向の山から沸き立ち流れる雲を眺めて、「日の出に向かいて雲行けば日和の兆し」と、力がみなぎってくるような思いがする。日ごとに死と再生が繰り返されていることを、身をもって感じる。
 
 家の眼下に広がる千枚田に稔る稲穂が頭を垂れている。早稲の田んぼでは稲刈りがはじまっている。晴れの日を見計らって順次刈り入れる。高齢者が多いから、稲刈り機をつかって請け負う人がいる。雨が多いと稲刈り機の車輪が泥に埋まって具合が悪い。一気にやることも含めて、ぼちぼち業者に頼むこともしているという。だが85歳の義兄が「誰っちゃやってくれる人はおらんから、田んぼは儂がやりよる」と気炎を吐く。いまでもスギの枝打ちをするために、梯子をかけて樹に登る。それも命綱は付けない。「どうして?」「そんなことしよったら、仕事にならん」。「命綱は付けてくださいよ」と姪の婿さん。本家の義兄は、あと3年だけ田んぼをやるという。80歳。そのあとどうするの? と訊くと、スギでも植えて森にすりゃ、ほかに迷惑はかけんし手間がかからん、と将来設計を立てている。ヒノキは植えないのかと尋ねると、「あれはシカが好みじゃけん、食われてしまう」とシカの被害が広がっていることを明かす。シカばかりではない。イノシシの被害も増え、田んぼの周りに鉄製の囲い柵を設えている。柵の資材に国の補助金が支出され、自分の手で設置していったそうだ。サルの被害もあるにはあるが、そこまで手が回らない。
 
 早朝にカミサンが、子どものころに通い遊んだ、うちの近所の散歩を案内してくれた。まったく人気はない。なにしろむかし、一山越え1時間かけて小学校に通った道。ここには同級生がいたという家は、入口の坂道から草がぼうぼうに生え、屋根が崩れ、家が傾いていた。この上にはヤエちゃん家があったというところは、きれいに整地され、草原になり、まばらにスギが生えている。そのさきにはよく手入れされ柵囲いされたオクラの畑がある。下のうちのチエさんがやってるのだが、連作被害は出ないんだろうかとカミサンは心配する。雨上がりの静かな谷間にコジュケイの声がこだまする。こちらではカケスの声が響く。「何処いっちょるかと思うた。御飯ですよ」と姪の娘の中学生が、父親と一緒に別の道路に行きかけて立ち止まる。「ありがとう、おはようございます」と挨拶を交わすが、この子たちも、名古屋からおおばあちゃんの七回忌に来ているのであった。
 
 国立競技場の設計を引き受けることになった「隈研吾が設計した建物が、檮原に4件もあるの、知らなかったの」と従姉妹にいわれ、カミサンが見てみようという。以前にも目にしていたが、急に「名人の作品」と紹介されたような感じで、あらためて見入った。なんというか、自分の眼で見ているというよりも、なるほどこういうのを「銘品」というのかと自分に言い聞かせるように見ている。確かに面白い。このセンスが古いのか新しいのかわからないが、身に馴染む感じは「面白い」。檮原町役場の駐車場は、お祭りなのか、その準備なのか、幟が立ちならぶ。役場の中央も大きく開いていて、中の展示物がぎょぎょぎょと思わせる大仰なすがたをみせている。「電話樹」と題された若手のゲイジュツカの作品ということだが、ちょっとギャグが古いセンスだと思う。午後4時ころということもあってか、人気はひっそり閑としている。翌々日、帰途にまた町中心部に立ち寄って、隈研吾の別の建築物をみる。「町の駅」という物産館。外形が茅葺のような庇を道へ突き出す異様さが、ちょっと滑稽な感じ。これも古いのか新しいのかわからないが、変わっていて面白い感触は備えている。ちょうど8時半に開店ということもあって、なかに立ち入る。壁面が鏡になって広く見えるが、コンパクトにまとまっている。売り子の20歳代のお姉さんに話を聞くと、ちょうど私たちが役場をみた日に、この町で隈研吾の講演会が行われ、全国から建築関係の人が集まってにぎやかだったそうだ。この「道の駅」にもやってきて、「立つ場所に困るほどでしたよ」とうれしそう。去年はこの町への移住者が60人ほどいて、自然減と社会増で、人口減少がストップした状態にあるという。また別の人に聴いたが、県立檮原高校の野球部が、この土地出身のノンプロ野球の高名な人を監督にして全国区で部員募集をしたところそこそこの応募があり、若い人の増減にも歯止めがかかったという。全寮生活をしながらトレーニングに励んでいるのであろう、彼ら野球部のユニフォーム姿を、帰途の車の中から見かけた。
 
 こうして月曜日、高知駅へ出て、瀬戸大橋を渡る。カミサンはそのまま東京へ帰り、私は、岡山の(元)実家に行く。児島の駅に兄が迎えに来てくれている。本家を継いだ弟夫婦が大阪からきていて、遺品の整理をしようというのである。だいぶ整理はしてくれている。残り僅かの手紙や写真などをどうするか見てくれと言われている。手紙はまとめて縛ってある。その紐を解かないままに、「焼き捨てる」方に分ける。若いころの自分と出逢うのが、いやだ。葉書類は差出人別にファイルに分けてある。亡くなった母が仕分けしていたまんま。葉書はほとんどが絵葉書。私がエジプトやインドを旅したときのair-mail、私の息子がシシャパンマやネパールへ行った折のもの、私の娘が修学旅行先や独り暮らしをしていた大学のころものなど、母が80歳から90歳にかけてのものであった。息子や孫からのそれらを、母はどのような思いで読んでいたのであろうか。
 
 アルバム写真も同様に、私とカミサンと子どもたちの出したもの映ったものを分け取る。初孫(私の息子)がゼロ歳のころのもの、歩き始めたばかりの写真も母は取り置いてあった。亡くなった末弟(叔父)に連れられて、私の息子と娘が里帰りしたこともあったことも、写真を見て思い出した。従兄弟たちと一緒に遊んでいる。そう言えば(一昨年亡くなった)私の末弟は若いころ、私の子どもたちとよく遊んでくれた。独り身であったころには、日曜日ごとにやってきて夕飯を共にして帰っていくことが多かったと思い出す。私が沖縄へ母親を連れて行ったときの、紅型の伝統衣装に身を包んだ若い女性と守礼の門のところで撮った「記念写真」があった。私の髪もふさふさ黒々としている。2004年の3月であったか。母84歳の春。3時間くらいだが、時を超えて旅をした気分であった。
 
 こうして遺品をとりわけ、あとは兄に任せることにした。弟嫁と兄嫁の御馳走に舌鼓を打ちながら、兄の用意した極上の大吟醸を空け、弟の用意した焼酎を水で割って頂戴し、これまた夜の12時過ぎまで6時間に及ぶ酒宴を張った。夜中にやはり、輾転反側するようであったが、みごとに昇華し、朝気分良く目覚める。朝食をいただいて、バスに乗り、新幹線に乗り継いで家へ戻った。電車の中では半分は、本も読めず、ぼんやりと半醒半睡の状態で過ごしたから、身体は休まっていたと思う。でも、冒頭に記したとおり、やっと今日になって、意識が定まった。もうそろそろ深酒はやめなさいとお達しがあったように思う。身のほどと相談して、これからを過ごしませうか。

AIの時代のもたらすもの

2016-08-26 16:32:35 | 日記
 
 カート・ヴォネガット『プレイヤー・ピアノ』(早川書房、2005年)を読み終わる。面白い。これが1952年に書かれたものとは思えないほどの、現在的リアリティがあるを感じながら、読みすすめた。
 
 コンピュータをはじめ、ありとあらゆることが機械仕掛けになり、人間の判別も生活階層も仕事の選別もオートマティックに行われ、全自動化された社会。むろん描かれたコンピュータが真空管で動くというSFも交じってはいるが、ここまで機会化が拡張すると、便利ということの反面に、人間の社会階層の選別と暮らし様の格差が「生きる」ことの差異として生じる。しかもそれが、多様性というよりは、階層的な一様性をもたらして「世界観」や「人生観」を頑固のかたちづくってしまう。作者はそこに目をつけて、SFを書いたつもりなのかもしれないが、AIが本格的に動き始めている現代社会からみると、みごとな近未来小説になっている。アメリカって、いまから63年も前に、もうこういう社会が想定されるような時代を迎えていたのだ。そのことに感心する。
 
 さて、明日から5日間ほど田舎に帰ってくる。義母の法事がメインだが、同時に私のふるさとにも寄って、母の遺品の整理をしなくてはならない。実家を継いだ弟任せにしていては、申し訳ないからなのだが、同時に、私関連の遺品があれこれととっておかれているというのだ。たぶん、私の小中高校時代の成績表とか文集とか表彰状とか卒業証書などと言ったものであろう。見るまでもなく全部処分してもらっていいのだが、そう言ってしまっては、本家を継いだ弟と生活実務を取り仕切っている弟嫁に申し訳ない。
 
 ところがそこへ、台風十号がUターンして 、私が帰ってくる来週に関東を直撃するという。新幹線は大丈夫かいなと思いつつ、帰宅の日取りが決められない。これまた、山を歩くのと同じケセラセラの感覚だなと思う。まあ、仕方がない。この歳になっていまさら、身の応え方を変えるなんて荒業をやるわけにはいかないのだから。
 
 そういうわけで、このブログは、また、しばらくお休みします。

「思い残すことがない」ほど満喫した鳥海山

2016-08-25 16:38:14 | 日記
 
 台風の進路と発生にやきもきした鳥海山への山行は、台風一過、好天に恵まれて、快適な山行になった。
 
【第1日目】
 
 23日(火)早朝、前日の台風9号が足早に東北へ向かったのを見ながら、大宮から新潟行き新幹線の人に。わずか1時間40分ほどで新潟に到着。その直前の車内放送で、「運行を見合わせておりました羽越線特急いなほは、定刻通りに出発します」と聴き、止まっていたことを知った。そうだよな、大雨洪水警報が発令されていたんだから、土砂崩れがあっても不思議ではない。何と運がいいことよと思いながら、いそいそと乗り換える。
 
 特急「いなほ」は、新発田とか村上という聞き覚えのある地名の駅を通って越後平野を抜ける。と、急に海に迫る山並みの腹をくぐることが多くなる。トンネルを抜けながら海辺を走るようになると山形県。木々も家並みも路面も、先ほどまでの雨が思いを残すように湿り気を帯びて、台風一過の気配を湛える。海の方に目をやると、ぽかりぽかりと湧き起った雲が浮いて青空と見事なコントラストをつくり、夏の日の子どものころを思わせる。さらに北上して秋田県との境にまで足を伸ばし、庄内平野の酒田駅で降りる。レンタカーを借り、鳥海山の吹浦登山口まで楽ちんアプローチ。そこでお昼を摂って12時15分、登りはじめる。標高は1080m。今日は1700mの御浜小屋まで。標高差600m余、コースタイム2時間半の行程。
 
 いきなり標高差300mほどの急登になる。登山路は砂利を混ぜた簡易舗装をしてあり、昨夜来の雨が流れをつくって下ってくる。そこからあふれた水が脇の溝をほとばしる。まるで浅い沢のようだ。古い簡易舗装が崩れたところは、剥き出しの土が水流に削られて深く抉られ、歩きにくくなっている。ゆっくりのペースで進むが、着いてくる最高齢のOtさんは黙々と頑張っている。30分ほどで見晴らしの良い展望台に着く。出発点に近い大平山荘の白い建物が、緑の樹林に囲まれてひときわ目につく。遠くへ目をやると日本海の海岸線がくっきりと一望できる。海の見える山に立つと、その間にある庄内平野の田んぼをふくめて、神の眼で見ているように世界をとらえている感じがする。ふと「国見」という言葉が各地にあるなあ、と思いが浮かぶ。むかしの領主は、こうした高台に立って我が領国の民草の暮らしに思いを致していたのであろうか。
 
 展望台から先は、道の両側に密生する背の高さほどのクマザサとナナカマドなどの灌木の回廊を抜けるようだ。鳥海山の手前の丸くなだらかな山嶺のかたちが、みてとれる。あれを登り切った辺りが今日の目的地だと話す。Otさんは息が切れるようだ。歩き始めて1時間、一休みする。Khさんが気遣い、Otさんの荷を少し軽くする。同道の女性陣は、元気そのもの。道々の草花の名を問い、木々に色づく実に目を止め、ときには赤いイチゴをむしり取って口に入れ、ひとしきり談義を交わして歩を進めるという調子。高齢者の山歩きというのは、こういうところがいいのかもしれない。
 
 ここからKzさんに先頭を任せ、私は最後尾を歩く。分岐に来る。国土地理院地図からするとここで左側のルートをとるとなる。左へ向かう。ところが、地図では下るはずがないのに、河原歩きのようになって、どんどん下る。山腹の上の方に下ってくる道が見える。そこへどこか合流する地点があるだろうと思うが、クマザサに人が歩けるような道はない。標高差100mは下ったろうか。標識が立っていて、「御浜→」とある。なんだここか。それにしても、地理院地図とは違うなと思う。地理院地図は、分岐からストレートに坦々とした登り道が描かれているのに、こちらは、V字型に屈曲して、降ってから登っている。上から下ってくる人が見えるから、道を間違えてはいないのだろうと思って上り、御浜小屋に着く。2時45分。先頭は2時間半のコースタイムで上っている。Otさんと私は10分遅れ。なんだ、けっこういいペースで歩いているじゃないか。
 
 御浜小屋は、鳥海山大物忌神社の中の宮に併設する山小屋です。昔は修験者の宿坊だったのでしょうね。宮司さんのような方が一人居て、私たち宿泊者の世話をしてくれました。20畳敷きくらいの畳部屋と、16畳敷きくらいの畳にビニールのブルーシートを敷いた食事室。部屋の仕切りは柱だけだから、全体では学校の教室くらいの大きさを二つに分けて使っているという山小屋。さらにその棟続きに台所をふくめて事務所や宮司さんの住いがあるという格好。トイレは別の場所にはなれてある。北側の入口の前は人2人がすれ違えるほどの幅の通路、その北側は高さと幅50センチほどのコンクリート製の土手があり、その下の崖に落ちないようにしてあるという具合。泊り客は私たちだけだったので、気分的にはのんびりゆったり。着替えたり荷物を整理した後は、部屋の中央に集まってビールを飲んだり持ち込みの焼酎をお湯割りにして飲んだりと、さっそくおしゃべり会。
 
 5時半に夕食。アルマイトの長方形のお盆に一人分の御飯とお味噌汁、コロッケと少しばかりの生野菜、お漬物、筋子、などが盛り合わせてある。それが人数分ブルーシートに置かれ、昔の、銘々の箱膳を思い出す。陽が沈むのはそのあと。小屋の裏側に上がっていると、鳥海山がデンと見える。新山と名づけられた峨峨たる中央部山頂とそこを取り囲むように聳える外輪山の威容が、間近に迫る。夕日の沈むころに、ほんの一瞬間、鳥海山の山容が赤く染まってみえる。小屋の主人が教えてくれた通り、みごとに色づく。「赤鳥海」とどなたかが言う。西に目をやると、陽は海の上を覆う雲間に落ちかかる。小屋が逆光に輝き、夕日を眺める人たちのシルエットが際だって浮かび上がる。ほんとうに神々の座から下界を見下ろしているような気分だ。
 
【第2日目】
 
 夜中に一度ふるえて目が覚めた。後はぐっすりと寝込む。朝方、外の明るさに時計を見ると4時39分。日の出は4時50分と言っていたっけ。起きだして外へ出てみる。まだ陽は上っていないが、雲の一部が明るく照らし出されて、世界の夜が明ける風情に満ちている。小屋の主人がやってきて東を指さす。雲がかかる水平線の上に、不等辺三角形に傾いた頂が岩手山。北の方に、ポツンと離れて浮かぶ小さな三角形のいただきが岩木山。さらにその手前海に浮かぶ島は飛島ですかと、誰かが尋ねた。いやあれは男鹿半島、飛島はこちらだと90度違う西寄りの方に向かう。と、雲の下の海の中に平たく延べた餅のように小さな島が浮かぶ。
 
 陽のあかりに照らし出された雲海が、薄墨を流したような黒っぽい色から徐々に明るく色づき、ふわふわと中空に漂う透明な羽衣のように、横にたなびき層をなし、えもいわれぬ幻想的な風情を醸し出す。どなたかが「こんな光景を見たのは初めて。もう思い残すことはないわ」と至福の思いを口にする。冥途の土産というよりは、極楽浄土をみたような面持ちだったのだろう。
 
 太陽そのものは、鳥海山へつづく稜線の陰になっているから、直には見えない。ただ、今日は雲が出ているから、陽が登ると鳥海山の陰がちょうどこの方向にみえるかもしれないと、小屋の主人。その言の通り、くっきりと鳥海山の稜線の陰が裾野の方へ尾を引くように色を濃くしている。山頂の方は、雲がなく陽ざしが青空に溶け込んで明るく輝いている。ここに宿をとったのが私たちの山行力量のせいとはいえ、こんな光景を見ることができるとは思いもよらなかった。
 
 朝食をとって、小屋に置く荷物をパッキングしてまとめ、山頂へ向けて出発したのは6時5分。Kzさんを先頭にゆっくりと歩を進める。彼は半そで。若いねえと、高齢者が褒める。風もない。私も長袖一枚で寒くはない。小屋の裏の、かつての噴火口に出来た鳥海湖が黒々とした水を湛えて下方に静まっている。その向こう岸を回る下山路の踏み跡がみてとれる。御田ヶ原からひとたび標高差50mほどをなだらかに下る。「ここを帰りには上るのか」とどなたかがつぶやく。帰るときのくたびれ具合を想定しているのであろう。55分ほどで七五三掛(しめかけ)に着く。北の方には相変わらず岩木山と岩手山が雲の上に浮かんで見える。七五三掛の分岐から左の方、千蛇谷のルートへ分け入る。市販登山地図に「ガケ崩れあり危険」とあったので、右の方、外輪山へ登りそこを往復する予定であった。だが小屋の主人がこのルートをすすめる。ムツカシイのは最後の大岩を登るところくらいかな。帰りに外輪山を通るのが良りなさい、と。
 
 がけ崩れのところは梯子をかけて手入れがなされていた。外輪山の谷合いをトラバースする。お花畑があるが、目をやる余裕がないとMrさんがぼやきながら登っている。後ろから若い人がやってきて、追い越してゆく。5時に吹浦の駐車場を出発したという。いいペースだ。雪渓が残っている。そこに降り立ち対岸へ渡る。緩やかに高度を上げて、眼前にずうっと見えつづけている岩の新山山頂部を目指す。外輪山の北側斜面にも大きな雪田が残っている。Sさんが「あっ、ひとがいる」と声をあげる。外輪山の山頂部を登る人の姿が見える。やがて斜面の傾斜が強くなる。ぱっと眼前が広く開けて小屋が目に入る。
 
 山頂の方を見ると、大きな岩に白いペンキの矢印と○がつけられている。小屋に近づかずに、そちらへ足を向ける。Kzさんを先頭に、OdさんSさんが先行する。私が中に入り、Mrさん、Kkさん、Otさんとつづき、Khさんが最後尾を引き受ける。おっかなびっくりのKrさんが岩にとりつくと俄然気持ちを集中させて、摑むところをつかみ、踏むところを踏んで、身体を持ち上げる。「脚が短いから」とときどき愚痴をこぼしながら、緊張を切らさない。標高差100mほどを登ると、岩の連なる高台になり、その先に、立ち入りを阻む巨大な二つの岩の塔が立つ。そのあいだに下るルートが白い印に導かれ、狭い間隙を底部にまで下る。向こうを見やると、頂から手を振る人が見える。KzさんとSさんだ。Mrさんは肩が凝ると言いながら、私の後に続いてくる。
 
 下りきり、そこからまた登る。Kzさんが来て山頂部が狭いことを告げる。先に安定したところへ移動していていいと応じる。でも下山路は別の方、矢印に沿って行くと小屋を通り過ぎたところへ出る、と。ひと登りして山頂に着くと、まだSさんとOtさんはいた。上尾三人組の写真を撮ってあげようというと、カメラを出す。四人が立つと一杯になるほどの山頂だ。次の人が来ている。場所を空けようと下山にかかる。「ええっ、もう行くんですか」とMrさん。次が待っているから仕方なく、降りはじめる。「胎内くぐり」という狭い岩の間をくぐり抜ける通路がある。小さな石の社が祭ってある。くぐり抜けた先に、OdさんとSさんが待っている。Mrさんが笑顔になるには、まだ岩場の通なりがありすぎる。山腹の大岩をトラバースして、やっと東側の平地が見えホッとする。降り立ったところで、よく頑張りました、これで難しいところは終わり、とMrさんと握手をする。OtさんとKhさんが続いてくる。
 
 こうして山頂下の大物忌神社に着き、その広場の隅にある板敷に座って行動食を口にする。9時半。Otさんが足が攣るという。Khさんが冷気スプレーをかけて幹部を冷やす。太ももの裏側をほぐす。軽くなったと言って、食べ物を口に運ぶ。お昼を済ませたほかの方々は、ぼんやりと岩に腰かけて外輪山を眺めている。ただそこに身を置くのを味わっているという風情。30分も時間をとった。
 
 12時、出発。一度外輪山に登り、そこからほぼゆっくりした下りの稜線ルート。ハイマツが道を狭めるなどもするが、よく踏まれていて歩きやすい。下りの斜度もきつくはない。登ってくる人たちとすれ違う。けっこう若い人たちが多い。上で泊まるという人もいる。「日帰りで~す」と明るい山ガールの2人連れもいる。「行けるところまで行って、帰ればいいから」と陽気に笑っている。「若いっていいなあ」と誰かが口にする。
 
 40分ほどのところで、Kzさんに「先行してください。先に風呂に入って、16時前の電車に乗れる人は乗って帰ってもらえば……」と提案する。「次の電車にしてもいいから」と皆さんは、帰る時刻をそれほど気にしていない。私は1時間くらいの差が出るかなと思っていたが、御浜小屋では追いついた。小屋から先の道は、来たときの賽の河原を通る道ではなく、ササハラの中の地図通りのルートをたどった。帰りに注意してみたが、どこで間違ったのかわからなかった。そのあとも、先行者の声が聞こえたり姿が見えるところを歩いたように見える。結局5分ほどの差で帰着することになった。電車を遅らせることにしたから、気分的にはのんびりと歩いたといえる。だが、Otさんは三度ほど脚の手入れをしながら、自分を励まして懸命に歩を運んでいた。後期高齢者になってこれだけの頑張りを、山で見せるのは、容易ではない。今日の行動時間は8時間5分。下りの標高差は約1200m(累計標高差はもっと多くなる)。たいしたものと言わねばならない。
 
 でも、「着いたあ~」と道路に脚をついて声を上げたOtさんは、誇らしげである。大平山荘の日帰り風呂をつかった後、さっそくOtさんは「ご褒美、ご褒美」とアイスクリームを買っていた。順調に酒田駅に戻り、車を返し、電車までの1時間半ほどを、見つけてもらった居酒屋で下山祝い。帰途の特急はほとんど熟睡してご帰還。Kzさんは「こんなに簡単に秋田の県境までアプローチできるなんて、何だか自分の車でくることはないなあ」と感慨深げであった。

踊る少年少女の公共圏

2016-08-22 19:16:30 | 日記
 
 日曜日に大宮駅の近くへ買い物に行ったとき、目に留まったこと。西口には駅2階のコンコースからそのまま駅そばのデパートやビル商店街に行けるような広い連絡通路がある。そこの通路の1階や階段を降りるところに、何組もの、たくさんの少年少女がたむろしている。それぞれの衣装がお揃いであるところを見ると、何かのイベントに出場するチームとその支援者のようだ。お母さんたちが差し入れをもってきているようでもある。
 
 大規模店舗入口脇のスペースに、幅8mくらい奥行き4mほどの舞台がしつらえられている。歩道を塞ぐように少年少女たちや支援者たちは屯して、イベントの開始を待っているようであった。私が買い物を終えて通りかかると、イベントははじまっていた。ダンスである。ビートの利いた速いテンポの音響がスピーカーから流れ出る。サスペンダーをつけたズボン姿の二人の少女が藁帽子をかぶり、舞台狭しと踊っている。藁帽子をとって、バック転を入れた大技を繰り出す。激しい動きがバランスをとって、見ごたえがある。なんとなく物語性が含まれているように感じた。面白い。
 
 立ち止まって見ているうちにチームが入れ替わる。今度は7人。全員少女だろうか。それとも後ろの2人は少年だろうか。でも、前後と左右ばかりでなく、ときには組体操のように3人が組んだ腕の上で起ちあがり、次の瞬間には飛び降りて飛び跳ねる。立体的に空間をつかって縦横に動き回る。曲調が入れ替わる瞬間に並び方や順番が変わり、その都度センターの人が変わる。目まぐるしい動き
背を伸ばし背をかがめ、腕を突き出し、屈曲させ、脚を前後に揺さぶって体をくるりと斜めに回すように前から後ろへ振り、場所を入れ替わる。いやはや、これが小学校高学年だろうか。
 
 わずか5分くらいのパフォーマンスではあるが、これだけの振り付けを考え出し、その動きを曲に合わせてふるまうばかりか、互いにぶつからないように位置を押さえなければならない。一月はかかるんじゃないか。むろん衣装もあれこれ考えているにちがいない。なんとも、いまの子どもたちのエネルギッシュな姿。思わず階段の半ばで立ち止まって、目を奪われてしまった。
 
  家にいてぼそぼそと「よしなしごとを書き綴っている」だけでは、若い人たちのこの姿は見えてこない。街にでなけりゃ、世の中のことはわからないんだと思ったね。でも、こういう活動をしている少年少女たちを、学校ではどう見ているんだろうか。遊んでいるのは確かだが、これが自分たちでネットワークをつくり、チームに仕上げて、ダンスコンクールに出場するというのであれば、それだけで十分教育的な役割の半ばは果たされている。あるいは親か大人がその組み立てに一役買っているのであろうか。それこそ学校が、教育するのは(世に出てから役に立つかどうかわからない、と言われる)知識的な授受だけなのか。だとすると、学校教育の先は長くないな。
 
 街がこのように、教育的な機能を持つ文化的な動きをつくっていて、それがインターネットや地域のネットワーキングとして進展しているとすると、学校は、もっと教育の目的を絞って、それこそ橋爪大三郎が提案していたように「学校は午前中だけ」にした方がいいかもしれない。どれくらいの数の少年少女が、このような文化的活動の波に乗っているのだろう。スポーツのクラブチームはあちらこちらにあって、それなりに根付いているようだ。でも文化的な活動がこのように隆盛をきわめているとは、思いもよらなかった。都会地じゃないと実感できないことかもしれない。
 
 そんなことを考えさせられた。

「わからない」ことがわからないと分かる

2016-08-21 20:42:39 | 日記
 
 
 昨日から「ささらほうさら」の合宿に行ってきました。大真面目に2時間半の勉強会を2セット。そのうちのひとセットを私が担当するというので準備をしていたら、カミサンが「もう勉強会なんてしないで、遊んできたら」と、構成メンバーの半数が古稀を超えるのを気遣っています。
 
 しかし勉強会をしながら、「わからない」ことを分かるためにしているのではなく、「わからない」ことがあるということを確認するために勉強しているという気がしてきました。世の中にはこんなにもムツカシイことを考えている人がいるという感触。ひょっとするとわざわざムツカシクしているんじゃないかと思うから、聴いている自分の視座から解きほぐそうと突っ込みを入れる。すると、思わぬ「現実的立場」の説明が飛び出す。私たちの暮らしている市民社会が、イスラムから攻撃を受けているヨーロッパの市民社会と同じだと(この問題を提起する論者が)前提していることが分かる。
 
「どうして?」
「だってそうでしょ。ヨーロッパ近代と同じモデルを模倣するようにして私たちの社会も築かれてきているのだから。学校の教科書なども、そういう編集でしょ!」
「う~ん、そうかなあ。欧米を模倣したことは間違いないが、私たちの受け容れている文化は、日本社会の身に着いた特性を引き摺っているよ」
「でも、絶対的な他者が市民社会の公共圏に攻撃を仕掛けて来たら、ヨーロッパと同じように対応しなくちゃならないんじゃないですか」
「う~ん、そうかなあ」
 
 なんとも歯切れが悪い。「イスラム原理主義のテロ」について考えているのだ。だのに、話しはすぐに、たとえば学校の「非和解的な対立者」が攻撃を仕掛けてきたらどうするというふうに、転がっている。問題提起者がよく勉強していることはわかるが、ずいぶん乱暴な咀嚼にみえる。それよりもシャルリー・エブドへのテロを、遠く離れたアジアの隅っこで「私はシャルリー」と同調するのは、私にはのみ込めない。それよりむしろ、シャルリーが風刺したとするムハンマドの漫画が、「風刺」ではなく「いじめ」にみえる。「風刺」するのであれば、むしろ、デモの先頭に並んだオランドやメルケルを風刺するべきじゃないのか。強くを漫画にするのが風刺であって、弱気や少数派を漫画にするのは「いじめ」だよと、問題提起の高尚な物言いにそぐわない異議申し立てをして、話しの舞台を壊しにかかる。
 
 噛みあわない。私は、問題提起をしている、勉強家でまだ現役のKさんの立ち位置を見定めようとしているのだが、彼は普遍的な知識人としての立ち位置を崩さない。その所以にも、言及しないから、よく「わからない」ことがわかる次第になる。
 
 「近代国家がつくりあげた公共圏が宗教によって攻撃されている」と問題設定をすること自体に、フランスやドイツなどが直面しているイスラム教徒女性の被り物(ブルカとかヒジャーブ)の取り扱いがキリスト教の規範で禁止されている側面が際立つ。私たち日本人がそれに対して同じように(テロの脅威を謳って)対処することは、おかしくないか。私などが切迫した事態と考えていないことが浮かび上がる。つまり宗教的な攻撃に対してほとんど有効な思索のステージを設定できないのだ。
 
 まあ、いい。「わからない」ことが眼前に投げ出され、ヨーロッパの人士がこのようなやりとりをしていることは(それなりに)わからないわけではない。マージャン卓を囲むよりは、そういう世界に触れることの方が、まだ面白いと感じられる。そんな年寄りの合宿であった。