mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

彼岸と此岸のグレーゾーン

2018-11-13 09:04:36 | 日記
 
 「逝くような体験」をしたのは救急救命室と集中治療室でしたが、病室が空いて6人部屋に移されました。「集中治療室」は4人部屋、病室は6人部屋。どんな方が入っているのか、カーテンで仕切られているので顔はわかりませんが、声だけは聞こえます。

 嗚呼、病室というのは、人生の集積場だと感じました。
 集中治療室に入ったのは午後2時過ぎ。南向きの部屋の窓からは、明るい陽ざしが差し込んでいます。カーテンも空けられ、さわやかな外気が入って来ます。
 
 私の脚の方の一人が先ほどから掠れるような声をあげています。入れ歯をとっているようで、声がくぐもる。
「ふあ~う~、うふぁ~おう、ぐふぁ~ん」
「どうしました? 血圧を測りますねえ」
 と、やってきた看護師が声を掛けながら、耳を寄せて聴き取ろうとしているのでしょう。
「そりゃあ、いけません。ダメですよ。夜、寝られなくなっちゃいますよ」
 睡眠剤をくれと言っているようだ。夜寝られないから、昼日中に眠くなる。
 同じやりとりの繰り返しが、延々とつづく。
 
 私の右手、入口の脇は女のお年寄りだ。ずうっと絶えることなく、「くるしいよう。くるしいよう」と助けを呼んでいる。
 
 病室の人たちは、言葉がはっきりしている。看護師とのやりとりも、力はないが意思は伝わる。どなたも患者はおとなしい。
 
 入り口わきの方には、娘さんが見舞いに来て、面会が終了する2時間ほどを、おしゃべりの声が聞こえる。その声のトーンがわが娘の「訛り」と似ていたから、埼玉育ちの子なんだろうと思った。患者である父親は、私と同じか少し若いのかもしれない。
 ところが深夜、この方が
「夕飯食べたかっ。食べたかっ」
 と大きな声で寝言を言う。子どもに言っているのだろうか。孫に話しかけているのだろうか。
「そりゃあダメだ。そんなことしちゃダメだ」
 と誰かを諫めるような、切迫感のある寝言も聞こえる。面倒見のいい父親のようだ。父権主義というのはこの人のような保護的な感性を指すのかと思った。言われている方にとっては、息苦しいかもしれない。でも娘さんの向き合い方からは、ほんとうにいいお父さんという感じが伝わってきた。
 
 足元の中央の方は、まるでどんな風貌の方かはわからないが、看護師がやってくるごとに、
「○○さあ~ん、起きてえ。起きてくださあ~いい。お薬ですよお。」
「あらっ、食べてないじゃないですか。夕食が来てますよお。起きてくださあ~い。」
 と、繰り返す。夕食も朝食も同じ調子で、食べずに寝てばかりいるようだ。応答する声も、聴きとれないほど茫洋としている。
 
 私の右側の中央の方は、身体が自在に動かせないらしい。看護師が来ては体の向きを変えたり、おむつを換えたりしている。その都度、そうされていることが分かるのか、
「いやだなあ。いやだなあ。いやだなあ」
 と繰り返す。自分でできないことを(恥ずかしいと思うのか)愚痴にしているようだ。看護師はいろいろと声を掛けながら、てきぱきと処理しているのであろう。
 
 食事が終わると、さかさかとやってきて、私の足元の方にある手洗い場で歯を磨く方は、入口の方の向かいの方であろう。ことばを発しないし、歩き方もしゃっきりしている。私の足元の方の方も、明後日の退院を告げられていて、その時刻や奥さんのお迎えのことを気遣って、看護師とやり取りしている。
 
 ところが夜中になると、私のいる病室以外の声が大きく響いてくる。
「お~い。お~い。お~い。お~い」
 と、二つ三つ向こうの部屋の方から、男の静かに叫ぶ声聞こえる。これが1時間以上も、絶え間なくつづく。悲鳴というのではない。遠くにいる誰かに呼び掛けているような、低音の響きを湛えている。
 
 朝方に近い深夜には、階下の方の病室ではないかと思うのだが、窓の外から響く。
「え~~っ、え~~っ、え~~っ」
 と、裡側からとどめようもなく流れ出しているような声。まるで、山中でテントを張っているときに、キ~ン、キ~ンと鳴くトラツグミのような風情を感じさせる。声自体が自然に溶け込んで、風のそよぎ、木々の触れ合う音、雨が草に落ちて立てているような気配に同化する。human nature の落ち着きどころなのかもしれない。
 
 ここは彼岸と此岸が遭遇する場なのか。見ようによっては、せめぎ合っているとみるかもしれない。だが別様にみれば、その両岸が溶けあって、どちらが(支配的と)どちらとも言えないグレーゾーンだ。そんなことを考えるともなく思いながら、1泊2日の入院生活をしてきたのでした。
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こんなふうに逝くのか、という体験

2018-11-11 15:21:30 | 日記
 
 「ぼちぼちリミットか」と11/8に書いた。山歩きの疲労が喘息のようになって出ることを、山歩きの終わりの始まりととらえている所感だ。ところがどうも喘息ではないかもしれない、風邪かなと思う節があって、かかりつけ医に診てもらいに昨日、足を運んだ。待合室で本を読みながら待っている間、心臓の辺りに間歇的に軽い痛みが来る。2分に一回くらいか。痛くはない。強く上から押さえるような感触だが、圧迫感でもない。痙攣かなとも思う。
 
 じつは五年前であったか、健康診断で右か左の心房肥大と不整脈が指摘され、このかかりつけ医が循環器の専門医と知った。精密検査を大きな病院で受けることになった。その検査結果は何ということはなかったが、「もし今度心臓に痛みが走るようになったら、来てください」といわれていた。その「痛み」が来たのか。そうと思ったので風邪の診察の折に、かかりつけ医に話をした。
 
「じゃあ、心電図をとってみましょう。短いのと3分ほどのながいのと、ね」
 
 と、のんびりといわれ心電図をとってもらった。その結果をみながらの再診察。医師が慌てた表情で「すぐに手配しますから、市立病院へ行って入院してください」という。なんでも、心電図で見る限り、急性の狭心症の症状がでているのだそうだ。循環器系の医者が勤務する市立病院へ連絡を取ったかかりつけ医は、紹介状を書き、
 
「救急車を呼んでもいい事態なんですが、タクシーを呼びますからすぐに行ってください」
 
 と、家へ帰って入院用の物も用意しなくちゃなるまいと考えていた私の返事を聞くよりも早く、タクシーの手配までしてしまった。
 
 土曜日のお昼近くとあって、市立病院は救急受付が応対。連絡が入っていたらしく、間もなく救急病室に呼び込まれ、寝台に上がる。いろいろな検査機器が取り付けられる。それと並行して、医師の問診や看護師のアレルギーや病歴、喫煙歴を問う質問が交わされる。あらためて検査結果をみながら4人の医師が何やら相談している。彼ら4人が私に紹介される。主任医師が「同意書」に署名をしてくれという。みると「急性心筋梗塞」をボールペンで〇で囲ってある。カテーテル検査と治療が必要なときには「バルーンとステント」を入れるという「手術」にも同意署名をする。そのほか、検査キットの感染症をチェックするため、HIVの検査もするのに同意を、とある。また、この検査・治療を研究論文として発表することへの同意などまで含まれている。署名している間に看護師が、「奥さんに連絡取れましたか」と聞く。カミサンは東松山の方へ自然観察に出かけている。メールは送ったが、見ていないらしい。電話も掛けたが、留守録になった。「では番号を教えてください。こちらからかけます」と慌ただしい。
 
 荷物を大きなビニール袋に入れる。着衣も全部とるよう指示を受け、ビニールに入れる。えっ、パンツも? そうです、ときっぱり。一瞬、ミステリードラマの死体解剖の場面を思い出した。これは大手術なのだと、思いを新たにする。こうして、まな板の上の鯉ならぬ手術台の上の緊急入院患者となり、手首に麻酔をかける。そこからカテーテルを挿入して心臓近くまで入れ、造影剤を注入して心臓の外側を通る3本の冠動脈の形をくっきりと映し出す。私には、右手に置いてあるモニターに映る人型の胸腹部を示す青い部分と、その上にかぶさるように動く銀色の小さい三角錐の色型がみえるだけ。手首が固定されいじられている感触はあったが、それ以外は、はて、なにをしているのか見当もつかない。
 
「どこか痛みはないですか?」
「苦しくないですか?」
 
 と、ときどき声がかかる。まったく、そういう感じがない。平生と同じ。
 
「ハイ、半分が終わりました。」
 
 そのあとは、ほとんどなるようになる、なるようにしかならないと思ってほぼ無心の境地。ときどき、最初に診たかかりつけ医が「いや、良かった。強い痛みが来ない段階でこんなことが分かって……」「山でこんなことになると、大事(おおごと)ですよ」と、感嘆したように発していた声が甦る。1時間は立っていたと思う。
 
「終わりました。冠動脈の細くなっている部分はありませんでした。大丈夫です」
「……でも、どうして心筋梗塞と……」
「説明はまた後にしますから。とりあえず、何もなくて、これで検査は終了です」
 
 となった。あとからの説明でも、「血圧が高かったりすると、こうしたことが起こることがあります」「生活習慣病に注意してくださいね」と付け加わったくらいだ。つまり、何かが引き金になって、急性心筋梗塞が起こることがある、ということだろう。本人がケロリとしていても、医者は危急の時だとみるのが当たり前なのかもしれない。
 
 思えば、4年前の旅の途中の宿で、元気に歩いていた長兄が就寝中に「気分が悪くなり」、私が救急車を迎えに出ていた5分ほどの間に倒れていたことがあった。あのときも「急性心臓死です。恢復のために薬剤を注入したりしましたから、心筋梗塞がかどうかは断定できなくなり、心臓死という表現をするようになっているんです」と岩手大の専門医が説明してくれたことを思い出す。
 
 兄の場合との分かれ目がどこにあったのかはわからない。だがほんのちょっとした「何か」によって、心臓の冠動脈の痙攣が起こったりやんだりすることがある、と。とすると、なるようになる、なるようにしかならないと思っていたあの瞬間に、プッツンして、なるようになってしまうこともあるのかもしれない。今回は、幸運であった、ということのようだ。
 
 ぼちぼちリミットというのが、山歩きの話ではなく、わが人生のことであったと思わせられた2日間であった。もちろん、今朝まで入院。迎えに来たカミサンと家に帰ってきて、パソコンにむかっているが、何だか病人以上の何かを身につけてきてしまったような気がしている。
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前線の通過する雲の中の丹沢を歩く

2018-11-09 14:30:26 | 日記
 
 一昨日(11/6)丹沢を歩いた。バスを降りると、すでに雨が降りはじめていた。大きなトイレの外側の庇の下で雨着をつけて出発。ヤビツ峠から菩提峠を経て二ノ塔へ上って三ノ塔へ向かう、静かなルート。じっさい、出会った人は、三ノ塔の避難小屋で昼食をとっていた2パーティ4人と下山中に上って来た単独行の外国人だけ。バスは座席がおおむね埋まっていたから、他の方々は、寺山を通過する主稜線コースをとったか、大山へ向かったか。
 
 登山口からいきなり上る。雨粒が落ちるほどではないが、すっかり湿っぽい雲の中をすすむ。足場は悪くない。やがて両側から丈の高い笹がかぶさる。15分ほどで東屋に着く。7メートルほど離れたところから、こちらをじっとシカがみている。好奇心が強いのだろう。3頭いたが、1頭は早々と笹の中に隠れ、他の2頭もしばらくしてそっぽを向き、白い尻を笹の合間からみせている。イロハモミジの紅葉がはじまったばかりという風情。リンドウやフジアザミがたくさん花をつけている。40分ほどで岳の台通過。春に来たときにはこの上から富士山が見えたが雲の中では仕方がない。止まりもせず、先を急ぐ。下りになる。菩提風神祠はひっそりとした盆地のようなところにある。ルートから10メートルほど離れているだけなのに、「oktさんがいないから、ま、いいですね」と、信心深い歳より会員の名をあげただけで、先頭は脚も止めず菩提峠への上りにかかる。雲にまかれて気もそぞろなのだろう。
 
 草もいくらか紅葉し、緑と相まってなかなかの風情を醸している。シカ柵を右にみながらぐるりと回り込んで、パラグライダーの滑走台地点を過ぎる。そこから少し下って菩提峠だ。広い駐車場があり、何台か、止まっている。回り込む林道が通じている。ここに車を置いて塔の岳を往復する方もいるそうだ。萱が大きくなって、ここから二ノ塔への登り道が分かりにくい。この先の二ノ塔に登るルートは、昭文社地図には記載がない。春に来たとき入口に「日本武尊の足跡」という表示看板とその脇に「インチキ」と記た落書きがあった。それを「ルートがインチキ」と読み誤って、入口をうろうろと探したことが甦った。その落書きも見当たらない。萱の向こうには、しかし、しっかりとした踏み跡が上へ向かっている。檜の木立の向こうに街が見える。渋沢の街だろうか、秦野の街だろうか。倒木が多く道を塞いでいる。根こそぎどお~と倒れ、根に土をつけて、その根の浅さを見せつけている。あの風台風24号のせいのようだ。
 
 いくぶん空が明るくなった。南の風が吹き込んでいるのだろう。雨が温かい。「日本武尊の足跡→」という表示がある地点に来る。皆さんは見て来ようと、足を運ぶ。私は、分岐で一休みする。戻ってきた皆さんは、何か珍しいものを観たという顔をしていない。大きな岩に注連縄を張ってあっただけと。そこから上り10分ほどで二ノ塔の稜線に出る。さらに10分で二ノ塔に着き、ヤビツ峠から寺山を経る主稜線と合流する。雨は強くはないが、降り止まない。「三ノ塔まで15分です。向こうでお昼にしましょう」とチーフリーダーのstさんが気合を入れて、三ノ塔へ向かう。折も折、雲の一部が薄れて三ノ塔の山頂がぼんやりと雲間に浮かぶように現れる。階段を降り、また階段を上がる。見晴らしが利かないから、くたびれもしない。だが三ノ塔の山頂から振り返ると、二ノ塔がずいぶん向こうの方にみえる。人の脚力って、すごいなあとあらためて思う。
 
 12時5分。三ノ塔の避難小屋に入る。12畳ほどの広さの土間、小屋の隅にベンチを設え、テーブルが二脚ある。すでにそれらに先客がいて、食事を広げている。私たちはそれぞれにベンチに腰を掛け、お弁当を広げる。ちょうどこのころ、気圧の谷が通過していったようだ。暖かかった雨が冷たい風に変わった。体が冷え込む。羽毛のベストを着こんで防寒にする。一組3人の先客の女性陣が大きなザックを背負って出かける。アラサーとでも言おうか、若いってのは元気でいいねえ。塔の岳の小屋に泊まるというから、午後の行程はすぐに終わる。そのあとどこへ向かうか聞かなかったが、まさかそのまま大倉に下ることはあるまい。丹沢山を往復するとか、その向こうに足を延ばすとか、丹沢を堪能するにちがいない。お天気が気の毒だ。
 
 40分も休憩をとった。出発しようと外へ出ると、雨は上がり、西と南の方面がよく見えている。春にはここから富士山も頭を見せていた。山体の東側が緑の木々の間に紅葉の彩を添えて、姿を変えようとしている。陽ざしがあるといいだろうなあ。そう呟きながら、三ノ塔稜線を大倉へ降るべく、分岐を分ける。約5.3km、標高差1000m。
 
 下り初めが急峻だと思っていたが、そうでもない。道はしっかり踏まれていて、段差もそれほど大きくない。上りの時、あまり聞こえなかったmrさんが、CLのstさんと話す声が聞こえてくる。お昼でエネルギー補給したのが、聞いたのかもしれない。彼女はリハビリ中。どこまで自分の力が腰痛に打ち克って恢復するかを、毎回の山行で試している。リハビリ中ではないがokdさんも、今回の山行でどこまで歩けるかによって、下旬の鬼怒沼湿原への山行に参加するかを決めようと、試験登山というわけだ。皆それぞれに、自分と向き合って山を歩ている。下山しながらそういう話になる。kwrさんが「この日和見山歩に行くと三日間、山歩講に行くと一週間、回復するのに時間がかかる」としゃべっている。彼は後期高齢者。目下で一番強い。以前のような、下山の時の疲労にも負けない歩き方をしている。
 
 渋沢の街が一視に収まる地点もあった。下界は晴れているようだ。その街並みの東端の里山から、雲が湧いて街の縁取りをしている。いいねえ。何だかエネルギーが湧いてくるような光景だ。檜の樹幹越しに見える広葉樹の紅葉が、赤と黄色を交えて美しい。標高が低くなると、だんだん緑が色濃くなるのも、グラデーションを楽しめる。
 
 1時間ほど下ると霧が出てきた。降った雨が下界の高い気温に反応して、霧が発生してるようだ。汗ばむ。牛首を過ぎているのではないかと、CLのstさんが振り返る。私もそう思うと最後尾から目で頷く。途中で一休みして、中に着込んだ羽毛のベストを脱ぐ。そのあたりから登山ルートが林道で何度も切られている。よく手入れされた立派なスギの林が伐採作業中なのだ。こうして林道をつくり、大型重機を入れ、手際よく皆伐していくと、話す声が聞こえる。そのあとにまた植林するのであろうが、こんなに何本もの林道をつくらなくてはできない作業なのだと、新しい発見をしたような気になる。
 
 下りの下半分の3.5kmが長かった。緩やかな傾斜を下山地・大倉へ向かって延々と歩いた。1時間15分。こうして大倉バス停に着いた。出発時間までの15分ほどの間に、靴の泥落としを済ませ、雨着を脱ぐ。ところが、kwmさんにヒルがついている。えっえっと、皆さんわが身をみている。msさんは脚の肌にもヒルがついていたが、それを取り払って「でも、痛くもかゆくもないわよ」と笑っている。シカをしかと観た人たちはヒルにも見舞われたというところか。今年の十月の温かさと湿り気がヒルを生き永らえさせているのかもしれない。
 
 バスは順調に渋沢駅に向かい、例によって駅近の海鮮料理屋で一杯294円の生ビールを二杯も飲んで、電車の人となった。電車は帰宅中の高校生などでいっぱい。新宿駅のホームはぞろぞろとついて歩くばかりになり、ついにはぐれ、あるいは電車の中でおや、ここにいましたか、と挨拶を交わしながら帰宅したのでした。
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ぼちぼちリミットか

2018-11-08 10:17:48 | 日記
 
 昨日朝、咳き込んで目が覚めた。気管支炎というか、喘息のような咳き込み方だった。
 
 じつは前日(11/6)、雨の中を丹沢に登った。あさ4時半に起き5時半過ぎに家を出て新宿からの電車に乗らないと、秦野発のヤビツ峠行バスに間に合わない。9時20分にヤビツ峠を歩き始め、午後3時22分のバスに乗ったから、行動時間はおおよそ6時間。午前中の雨は南からの風に乗って温かかったが、お昼頃に雨が上がるとともに、冷たい風が吹くようになり、前線というか、気圧の谷が通過して行ったんだと分かった。上りは標高差500mばかり、下りは標高差1000mほどと山歩きというよりは山下りの趣。快適な山であった。
 
 ところが帰宅して、早く床に就き、朝まで目覚めることなくぐっすり眠ったのに、咳が出る。ははあ、疲れが咳に化けたなと思った。体質的に私は、気管支が弱い。60歳前後にインド・ヒマラヤへ遠征したときにも、その後にネパールヒマラヤに出かけた時にも、何十日かの登山の下山後に、咳き込みがはじまり、ネパールや乗り継ぎのタイの病院にお世話になった。昔のように疲れが筋肉痛や腰や肩の張りや痛みという身体症状に現れてこない。疲れは身の裡深くに内潜し、食欲不振や咳などになって出てくる。
 それでも昨日の午後には咳き込みを忘れていたが、けさまた、咳込みで目が覚めた。カミサンは夜中にも咳をしていたというから、まだまだ「疲れ」は獅子身中の虫のように暴れている。恢復力がなくなっているのだ。
 
 そろそろ毎週一回の山歩きも、リミットが近づいている気がする。「来年は裏銀座へ行きましょう」と山の会の人たちは、期待を込めて話している。歳をとったから日程をゆったりとって、のんびり歩こうというプランだが、全行程が6日間ほどになるか。はたして、毎日の7時間ほどがどう身体に響くか。
 
 どんなかたちで「終わり」が来るかわからないが、たかが丹沢の日帰り程度で「予告編」が見られるとは思ってもみなかった。覚悟召されよ! ってことか。
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女性の社会的経験の生み出す裏技操作気質

2018-11-07 09:01:41 | 日記
 
 このところちょっと慌ただしい。団地の修繕積立金の値上げに関する「説明会資料」を文章化していることもあるが、それだけではない。山のことやseminarのこと、他の調べたいことがあって、ブログを書く気分になれない。でも、日々を過ごしていると気になることが出来する。それについて、いつか書こうと思っていると、ついつい忘れてしまう。まず、そのひとつ。女性の社会的経験の生み出す裏技操作気質。
 
 団地住民の高齢化が進み、13ある階段から毎年一人の理事(役員)を出している。これまでは階段(おおむね10戸、何カ所か9戸)住民が一年交代制で順番を決めて理事(役員)を務めてきた。ところが高齢化が進み、10年か9年に一回のはずが8年に一回、7年に一回になったところもある。最高齢90歳となると、順番からはずすほかない。また当人からすると、80歳を超えて務まるか不安にもなる。そこで「交代制」を考え直そうというモンダイに、いま取り組んでいる。
 
 今最高齢の、77歳の理事が「二年任期、毎年半数ずつが交代する案」を提出した。そして「まず隗より始めよって言いますから」と、今年の理事の半数が残って、欠けた階段から来年の理事を出してもらって「移行する」のはどうかと提案した。今年一年で辞めるのは、正副理事長とか正副総務理事とか、正副広報理事とかいった正副を決めている理事の「正」の方。つまり「副」理事が来年もう一年務めて、正理事になれば、理事会の引継ぎもスムーズにいくと考えたわけだ。
 
 ところが、「それは無理、ムリですよ」と「副」の方から声が上がった。女の方だ。副自治会長も「副が正になるってことでなくてもいいのではないか」と部分的に異議を唱えた。正副で務めるわけにいかない「会計」やその他の理事は、翌年の適材をあらかじめ枠にはめてしまわないほうがいいのではないかと疑問を呈している。後者の疑問はすぐに理解できる。だが、「ムリ、ムリですよ」というのは、役職のもっている仕事の内容や責任の重さということもあろうが、じつは、当の女性自身が矢面に立って役割を背負いこむ気構えを持っていないことによると思われた。
 
 誰もがそうだというわけではない。これを提案した最高齢の理事は女性の監査理事。自治会とダブって仕事をこなす仕組みにしているから、自治会長である。むろん今年一年、仕切っている。歳をとればそういう覚悟ができるのかどうかわからないが、ご当人の気質に拠るような気がする。その気質を決定づけるのが、ここに至るまでの暮らしにおけるご亭主への依存具合だ。提案者の女性もそうだが、早くにご亭主を亡くした女性は、他の畑でも見かけるのだが、間違いなく自律している。判断もテキパキしている。起案もできる。説明を引き受けて、やり取りをする。
 
 それに反して矢面に立てない女性は、ご亭主の陰にいてご亭主を支え、ご亭主を操作して何かをすることは得意であり、献身的であるが、ご自分が前面に出て取り仕切ることをしたことがないかのように、身を隠す。私が見ていると、間違いなく力はある。企業の人事課員としてさまざまなプランを立案し実行してきた実績もある。にもかかわらず、不安なのだろうか。「副」としてはいろいろなことを提案し、「正」がそれでいいと承知すると、あとは自力で全部やりこなすほどの力量を発揮する。にもかかわらず、「正はムリ」とのたまう。男女を問わず、誰しもが何か新しいことをやろうとするときには、不安をもつ。でも仕方がない、できるところまでやろうと、私などは肚を決めて乗り出す。OJTというわけだ。これは男の気質なのだろうか。この辺りについての、男女の社会的経験の差異がもたらす気質の違いは、なかなか埋めることができない。
 
 場を変えても、こんなことによくぶつかる。山歩きでも、そう。案内してくれる分にはよく歩くのに、先達として案内することになると、とてもできないと身を引く。鳳凰三山に行きたいというから、ご自分で立案して募集してください、私も同行しますからと応じるが、「いやそれはできません」という。あくまでも山歩きの消費者としてご自分を位置づけているのだろうか。なかには、歩行力量も、経験も、コースの立案も十分達者な方だと思うのに、チーフ・リーダーを交代で務めるのは負担だと言って山の会を辞める方もいる。私には、何ができないのかわからない。せいぜい完璧主義者なのかなと思うばかり。もし自分がチーフ・リーダーのときに道を間違えたら、事故でもあったらと考えているのかもしれないが、そうだとしたら、誰かにくっ付いて歩いていてもそういうことは起こりうる。そのとき、ご自分は「し~らない」とおもうのだろうか。
 
 その女性たちにおおむね共通するのは、とても面倒見のいい、気遣いの利く方だということ。ご亭主に依存するというより、ご亭主を掌に載せて依存させ、のんびりと育てているような気配さえある。つまり傍目には、しっかり者の女房なのだ。これが日本の長い家族制度がつくりだした女性像であり、それに乗っかっているから、男女平等参画社会などといくら口を酸っぱくしていっても、一向に平等参画なんて実現しないのだと、思わぬ方向へ話が飛びそうになる。いつかきちんと考えてみたいモンダイだ。
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