mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

小雨そぼ降る旅立ち

2024-07-15 04:08:01 | 日記
 今朝、カミサンは私よりもっと早く出かける。3時に起きてコーヒーを飲み、いま出発した。玄関を出たところで、朝刊の配達が来て、新聞を手渡し。それを受けとる。ビニール袋に包んであり、その外側に水滴が付いている。小雨が降っているのだな。
 私が出かけるまでには、まだ2時間半ほどある。今日の行程を考えて、一つよくわからないことをネットで調べる。「松本バスターミナル」。松本駅前のは「松本駅バスターミナル(北口)」とあり、それとは別に「松本バスターミナル」「Bus-terminal」と、三つも表示が出るのをチェックする。一度降りたことはある。駅前ではなかったはず。ネットは、実に丁寧に、写真付きでそれを解説してくれる。そうだ、かすかな記憶と「松本バスターミナル」とが一致した。駅から徒歩4分とも。乗り換えには12分あるから、ここでお昼を買っていくこともできるか。
 昨夜、パッキングをした。いつも日帰りにつかうザックにぴったしというほどで、出来上がった。それを見てカミサンが、「ザックが小さいんじゃない?」と口にする。たしかに、雨の用意をして、降り出したらすぐにでも取り出せるようにするとか、雨があがったときに濡れたものを背負って動くには、レインカバーも含めてもう一つ大きい方が、ざっくりと詰め込めるのでいいかもしれない。飯豊連峰や薬師岳を縦走したときの3泊4日に用いたザックに詰め替えた。これであとは、お茶と水を積めば準備は出来上がる。ザックを大きめにしてゆったり担げるというのが、何となく今回の黒部五郎岳に挑戦する私の「お試し登山」の気分に見合っているように思った。
 息子からは「高山の天気は崩れるようです。気をつけて」とメールが入った。カミサンは「撤退する勇気ですよ」と言って、出かけていった。文字通り「身の程を弁えた」歳相応の歩き方が求められている。計画通りに歩いてなにがオモシロいと、昔なら思ったであろう歩き方に、雨模様がちょっと違った気分をつけ加えてくれる。わが身を眺めながら、見たら、「何だからっぽじゃないか」とおもうほど、何もないワタシに、また出逢えるか。
 では、行ってきます。(今度お会いできるのは、20日になるかな)。

もう山を歩いている感じ

2024-07-14 09:26:04 | 日記
 土曜日は牛乳が安くなる。いつもなら一緒のカミサンは高尾へ植物観察に出かけた。昨日(7/13)、図書館へ行って本を返し、さらにその向こうの生協へ買い物に行く。ちょっとした動機があれば、散歩に出るって感じ。身体を動かす機会になるのが、何となくうれしい。
 曇り空の切れ目から、強い陽射しが入る。汗を搔きながら歩くとき、ほとんど気分は山に入っている心持ち。一歩一歩を踏みしめる。呼吸が調っているかを気に留める。そう考えて踏み出すと、暑さがどこかへ行ってしまう。
 図書館で本を読む人の数も、土曜日なので少し多いかな。でもいつもの静けさはある。暑くなった身体が少し冷えるまで、書架を観て歩く。予約した本が2冊来ている。だが、今日は借り出さない。取り置き期限は21日。山から帰ってきてからも2日ある。
 裏通りを通って生協へ向かう。気づくと、街路樹や建物の陰を辿るように歩いている。持主に何か異変があったのだろう、畑地が売り出され、住宅が何軒か新築されていた。そこに新しい居住者が入ったようだ。テラスから庭に出て来て、隣の敷地へと歩く家人がいる。表側にはがっしりしたボディのJeepも止まっている。そうだ、今日は土曜日だったと改めて思い起こす。
 生協は、人が多い。牛乳の他に山での行動食になるものを探す。ビスケットも悪くないが、豆の方がいいかなと、つい目移りがして、カシューナッツやアーモンドなど、いろんな豆のはいった袋詰めを買う。買った後で、これもっていくかなあと心裡で反省をしている。入れ歯の間に小さな粒が広がって、口中がもさもさするんじゃないか。だいたいいつも、歩きながら食べることをしない。お昼代わりにするにしても、山の途中で歯を磨けるわけでもない。口をすすぐのもムツカシイ。バカだなあ、買わなきゃいいのに。でもまあ、カミサンは豆好きだから、食べてもらうのには困らない。ま、いっか。
 こうして1時間半ほど、炎暑を歩いて帰ってきた。気持ちがいい。もうすっかり山を歩いているような気分がして、明日月曜日からのお出かけを悦んでいる。歩きながら、山での口のケア、雨に濡れたときのビニール袋など、入り用だがまだ用意していないものを思い浮かべ、家へ帰ってから、忘れないうちに準備シートの上にポンポンと置いてゆく。衣類も仕分けして袋に入れる。タオル、服薬類もティッシュペーパーや歯ブラシなども、並ぶ。
 おっ、いつもの調子が戻ってきたような気持ちだ。そうだ、「登山届」をプリントしてもっていかなくちゃあならない。書式は無視して、登山月日、登山者名、生年と年齢。電話番号、緊急時連絡先の氏名、続柄と電話番号、「行程」を書き込み、宿泊山荘の電話番号も入れる。
 さて、あとはリュックに詰め込むまでにして、並べている。明日パッキングして、過不足をチェックすればいいだろう。こんな気持ちは何年ぶりだろう。子どもに返ったみたいな気分だ。

テーマは「逸脱」

2024-07-13 06:53:12 | 日記
 呉勝浩『Q』(小学館、2023年)を読んだ。なぜこの本を図書館に予約したのか、わからない。何かに書評があったからか、それとも誰かの座談でこの本のことが話題に上っていたからなのか。660ページを超える大部冊。400字詰め原稿用紙にすると1400枚はあろうか。「書き下ろし」とある。
 読み始めて、う~ん、やめようかなと何度か思った。大藪春彦風の暴力、犯罪、壊れた日常を背負って呻吟する姿が、描かれる。でもそういう旋律は、場の特性をとらえているに過ぎないと言えるから、我慢して読み進める。
 なぜ我慢するの?
 その旋律を運ぶリズムのような、底を流れる響きが、何かを伝えてきている。
 あまりの大きな本を抱えて読んでいるから、カミサンが「何、それ」と訊く。
「う~ん、大藪春彦みたいな・・・」と、言い淀む。
「ストーリーを読んでるの? 表現を味わってるの?」と訊かれる。
 そうだね、読み進めるのは表現を楽しんでいるのかもしれない。リズムをことさら受け止めるようになる。
 人の身の内側に潜む、当人にもとらえようがなく、押さえようがない振る舞いの大元、「衝動」。イイとかワルイとか腑分けせずに眺めてみると、百八の煩悩じゃないが、生きている人の動態的関係に噴出して、そこに身を置く人たちを振り回している。
 それを、犯罪とか暴力とか名付けて(日常から)斥けようとするのは、社会的システムのもたらす統治的枠ぐみの、文言化された、法とか規範だけではない。人の日々繰り返す営みの、何千年、何万年の堆積がある。でも(現代では)それは人の身の無意識に沈潜している。一つひとつ意識してつまみ出さなければ、なにがワタシの日常を支えているのかわからなくなる。ことに現代という資本家社会は、まさしく米大統領候補トランプのように、いつも騒がしく声をたて、オレをみろよと叫んでいなければ落ち着かない。その姿こそが、ふつうに成功者であるとみせる。
 「Q」は、それを浮き彫りにする根源。根源というのは、カントの謂う定言命法に見合うこと。《汝の意志の格率が、常に同時に普遍的立法の原理として打倒しているように行為せよ》という「定言命法」は、出来上がった社会の側から(統治的に)みている表現。そうではなく、その衝動の裡側、つまり人の裡側からこれを定義するようにする。
「Q」に触れているだけで、人は身の裡から何物にも代えがたい何かを手に入れることができるように感じる。すべてを「Q」に投じ、そこに身を置くことが生きていること。かかわる人たちが皆、そう感じる世界を現代社会に於いて取り出し、描いてみせる。
 そう思って読むと、底流するリズムが日常へ響いてくる。そうして、八十爺のワタシは、間違いなく日常に身を置いて、さしたる内発的な衝動を感じることもなく、文字通り平々凡々と時を過ごしているとおもう。いまとなっては、これがありがたい。でも現代社会を、まさしく現役で生きている中壮年層の人たち、あるいはこれから生きていく若青年層の人たちは、わが身の裡の「Q」をどう扱っていくのだろうか。
 そうおもったとき、現代の社会が指し示している「成功」はことごとく「仮言命法」でしかないとおもえる。もしカントの定言命法のように生きようとするならば、現代社会の「成功」をことごとく注ぎ込んで「Q」へ突き進むしかない。基本は「逸脱」。
 でも、何からの逸脱?
 まず、現代社会のお祭り的かつ統治的成功枠組みからの逸脱。つまりトランプたちが2020年1月に超えようとした、自分の拠って立つ足場をも壊してしまう振る舞いに及ぶことか。
 でもそのとき私たちは、日常からの逸脱もしてしまうかもしれないという、危うい場面に立たされる。それは、でも、やってみなければわからない。
 そうおもっていたら、この先四年間のアメリカは、ひょっとすると認知症の大統領に運行を任せるようになるかもしれないという。果たしてその八十爺の呼び込む「混沌」か、トランプの「混沌」か。どちらも正気の沙汰とは思えないが、日本の政権の次がどうなるかよりは、はるかに私たちの関心を引いている。この「日常」。
 人は心裡深く抱える「Q」を押さえて、人として社会を営んでいるのかもしれない。現代の私たちは「逸脱」しないではいられない。でもそうすると、社会を壊してしまう。
 ここ二万年の人の暮らしを支えていた「平凡な日常的営み」を、現代社会がいかほどに逸脱しているか。そう自問せよと、この小説は問いかけているのかもしれない。

思わぬ崩落

2024-07-12 08:44:48 | 日記
 来週から黒部五郎岳へ入ることもあって、鉄道切符を買ったり装備を調えたり、何となく山気分を身の裡に盛り上げながら、日々を過ごしている。そこへ山岳雑誌のメールマガジンが送られて来る。北アルプスの情報が目に止まる。
 驚いたのは、あちらこちらで通行止めがあることだ。黒部源流へ向かう下の廊下の山小屋がどこも「今年休業」とある。宇奈月温泉から奥に入るトロッコ列車が走っていないのだそうだ。どこかが崩落して修復の見込みがたっていないから。知らなかったなあ。何でも能登地震のせいで崩落が起きたらしいと推察されたが、詳しくはわからない。
 かと思うと、中央アルプス・千畳敷へのロープウェイも運行されていないらしい。これも、千畳敷への道路が崩落してバスの運行が止まっているという。
 おや、裏銀座とある。8月のルート。目をやると、こちらも七倉から高瀬ダムへの道路が崩落して通行止めになっていたようだ。7/12から通行止め解除見込みとあった。今日からだね。
 おやおや、南アルプスも椹島へのアクセスが止まっている。
 たまたま私は、新穂高温泉から黒部五郎岳という結構マイナーなルートを選んでいたせいか、そうした崩落情報に出会わなかった。だが、全体的にはずいぶん打撃を受けていたとみえる。登山道への道は、不要不急。襲ってきた災厄で壊れた各所の修復に於いて、後回しになるのは致し方ない。もちろんそこで暮らしている人たちもいるから、いつまでも後回しというわけにはいかないだろうが、優先順位が最後尾になるのは、やむを得ない。
 それに、もし山へ入りたいのであれば、道がどうなっていようと、道なき道を探って入ればいいというのが、山歩きの基本精神。つまり道を直してなければ入れないという登山は、そもそもの登山精神には相応しくない。すべて人力で歩く「グレートトラバース・日本三百名山全山縦走」の田中陽希を思い浮かべながら、そう思っている。
 でもね、歳をとるとね、遮二無二力で切り抜けて歩くってことは、ほぼ不可能。ま、長年のお近づきの誼で、この程度の贅沢は許してねとおもっている。まして八十爺が単独行でいく山としては、黒部五郎岳は精一杯かもしれない。
 そんなことを思っていたら、富士山に静岡県側から上った2人が死亡したと今朝のニュースが報じている。年齢はわからない。黒部五郎岳だってと、カミサンも心配そうに口にする。
 うんうん、でもね、3700mを超える富士山と2800m程度の黒部五郎の違い、ただただ一気上りの日帰り富士山と、4泊5日の黒部五郎の歩き方の違い。ゆっくりのんびり、槍や穂高を眺めながらの山歩き。イメージしてよ、富士山との違い。そんなことを考えた。
 メールマガジンを見ると、「北アルプスのパノラマ・コース」という記事があった。槍ヶ岳・穂高岳の北側、燕岳から常念岳・蝶ヶ岳へ歩くルートをそう名付けているらしい。
 ははは。とすると差し詰め、来週からの私のコースは、「裏パノラマコース」だね。お陰様で、さしたる災厄にも遭わず、このルート・小池新道は無事のようだ。泊まる山荘4つも、いずれも小池さんの後継者が引き継いでいるという。ま、全面的に、小池さんのお世話になって、長年親しんできた北アルプスを楽しませてもらおう。

不安定な天気、落ち着かない気分

2024-07-11 07:36:44 | 日記
 35℃を超える暑い日が続く。曇り空かと思うと、暑い日差しが差しかかる。と思っていたら、ポツポツと雨粒が落ちてくる。ザア~と降るのは夜だったから、それほど気にしないで済むが、かつて「夕立」って呼んだのとも違うように感じる。
 図書館へ本を返し、その先の生協まで脚を運んで買い物をしてくる。必ずしも必要な買い物ではないが、歩く動機にはなる。7km、9500歩ほど。まあ、トレーニングというよりも日々の散歩ってところですかね。
 個人紙「ささらほうさら・無冠」今月号のコピーをする。スーパーのコピー機をつかう。硬貨しか受け付けないから、千円札を五百円に交換してもらう。ところが、五百円玉がコピー機に受け止めてもらえない。ああ、これ、新しい硬貨だ。2021年11月に、五百円玉が新しくなった。この機械は、古いヤツにしか対応していない。
 そう言って、スタッフに代えてもらおうとした。ところがこの二十代の若いスタッフは、「そんなはずはない」と憤然とした面持ちでカウンターを回ってきて、五百円玉を自分で投入する。チャランと音がして、やはり受け付けてもらえない。なんで、と怒りをぶつけるような足取りでカウンターに戻り、五百円玉を代えてくれた。
 どうしてこのスタッフは、「そんなはずはない」と否定したのだろうか。五百円硬貨が何円か前に更新されたのを知らなかったということは、ありうる。だが「そんなはずはない」と確信的にいうのは、ワタシが八十過ぎの爺に見えたからではないか。その前段に、年寄りによって何かいちゃもんをつけられ、苛々していたかもしれない。あるいは家庭で、とろい祖父母の世話を焼いて、鬱積していたのかもしれない。あるいは何もなくても、日頃から年寄りはのろくさいし、デジタル対応がスムーズにできないし、何度教えても覚えないと思っていたのかもしれない。それが八十爺にぶつけられたようであった。
 コピーをとりながら、暫くの間、カウンターの中でテキパキと仕事をしているこのスタッフを目の当たりにすることになった。若いのに、他のスタッフと軽やかに話し、笑い、適切な指示をしているように感じる。ほほう、いい子じゃんとおもう。
 でもそうだなあ、人って、どこで、何を体験し、誰とどう言葉を交わして、体験を腑に落とすというか、ときには癒やしているか、わからない。また、心裡を癒やそうが、苛立ちをそのままにしていようが、いつ誰と向き合い、何を語り合っているか、わからない。だから人が、何かに憤然とし、苛立ちをぶつけようとも、それに触発されて「なんだよ、おまえ。何で俺に当たるのよ」とこちらが息巻いては、事態はますます入りくんで、始末に困るようになる。
 こちらの八十爺は暇に任せて街中をうろうろしているだけだし、人をクールに観察するのを一寸楽しみにしているから、ほほう、この人はどうして? と興味津々でみている。腹は立たない。だが、苛立つ人同士が向き合っていたら、ほんの一寸したことがケンカの原因になる。すぐにトラブルになる。そうだ、かつて通勤電車の中でだまって肩がぶつかるような振る舞いをした若い男に「気をつけろよ」と注意した中年男性が、激しくかみつかれていたことがあった。そのとき座っていた私は若い人に、そりゃああなたが悪いよ、一言声をかけなさいよと、横から口を出そうかと思ったほどだった。都会って、コロナだけじゃなく、「三密」がいけないんだね。
 人の気分は、天気の異常とおなじだ。まだら模様に移り変わり。降るとなると、どさっと降りかかる。晴れるとなると40℃近くに気温を上げ、クーラーを掛けるからますますそれが昂進される。人の振る舞いにも、SDGsを考えなさいよと、COVID-19は伝えていたのかも知れない。