mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

人体実験としての原爆投下を非難できない日本の事情

2016-09-30 20:48:57 | 日記
 
 竹田恒泰『アメリカの戦争責任――戦後最大のタブーに挑む』(PHP新書、2015年)を読む。先の太平洋戦争中の、東京ほかの都市への無差別爆撃や広島・長崎への原爆の投下が、非戦闘員の殺害を禁じたハーグ陸戦規定に反する「戦争犯罪」であることを検証している。アメリカでは今でも、原爆投下を「(日本の本土決戦によって失われる)百万の命を救うため」と説明して「正当化して」きている。それを「原爆神話」と断じて、戦争終結への運びとアメリカ大統領の決断の周辺を探っている。つまり、都市への絨毯爆撃や大量殺りく兵器である原子爆弾を、そのようなこととして認識していたか。にもかかわらずそれらを(戦術として)使用したのは、「戦争終結のための止むをえざる」条件があったか。アメリカの世論は「原爆神話」を信じているから、スミソニアン博物館で原爆投下50周年記念展を催した時、広島の被害があまりに凄惨であることに抗議の声が上がって、展示が中止になったこともあった。アメリカ国民にとって原爆は、真珠湾の仇をうった、太平洋戦争終結の「輝かしい」兵器としては記憶されてはいるが、それが「大量殺りく兵器」であったことには蓋をしておきたいトラウマのようになっていると言えそうだ。
 
 著者の竹田は、トルーマン大統領が(原爆投下を)逡巡した形跡がないことを突き止める。
 
 原爆開発に成功するまではアメリカ自身がソ連に参戦を促してきたが、実験に成功したとポツダムに向かう船中で知らされると、今度はソ連の対日参戦の前に、原爆の投下によって戦争終結に持ち込むことを企図していたと政治戦略的な側面を解析する。つまりすでに冷戦がはじまっていたというのである。だが実は、原爆の投下はポツダムへ出発する前に指示を下していたことも明らかにしている。つまり、政治戦略的な「狙い」は後からつけられたもので、トルーマン自身が「戦争復仇」(真珠湾の仇うち)という側面にとりつかれ、「獣に対するには相手を獣として扱う」という人種差別的な執念に囚われていたことが解き明かされる。
 
 「本土決戦になって百万の命が失われる」のを避けるためという軍事戦略的な攻撃理由にも探りを入れる。「九州上陸後に4万人ほどの戦死者」を軍部は想定して大統領に報告している。竹田は、沖縄戦で失われた1万5千人の死者ですでにアメリカは意気阻喪していたこともあって、もし「百万人の死傷者」という報告が入っていたら、本土決戦そのものをためらったであろうと、竹田は読み取る。
 
 いずれにせよ、じつはアメリカは暗号解読などの諜報活動を通じて日本が和平の道を探っており、もし天皇制の存続を保障すればすぐにでも和平が実現すると読んでいた形跡がある。日本と中立条約を結んでいたソ連に仲介を頼んでいたこともつかんでいて、なお、仇敵をうつということにこだわったと、竹田の解析を読んで、私はトルーマンの執念を感じた。
 
 読みすすめながら私は、広島や長崎は原爆の人体実験だったのではなかったかと、感じた。竹田もそう感じたようだ。だが彼は強く自制して、《人体実験が主たる目的ではなかったであろう……》と結論付けている。そこには、《この本は日米友好の書です。将来の日本人とアメリカ人が本物の関係を築くために必要なことを書きました》と、竹田自身に(アメリカに対する)敵意がないことを書き記している。
 
 竹田の叙述は、しかし、少し違った印象を私に残した。それはアメリカの意図というよりも、日本の政府と軍部首脳の眼中には、国民の命はほとんど顧慮されていないという事実であった。
 
 政府当局は戦争終結の期待をもちながら、しかし、広島の原爆投下でも長崎のそれがあっても、敗戦を認めようとしなかったと、竹田の解析はあきらかにする。とどのつまり、ソ連の参戦によって敗戦を決意した、と。つまり、日本政府は、「臣民」の犠牲にほとんど配慮していなかったと言えるのである。ソ連の参戦という、軍部の戦略的なというか、軍略的な配慮から敗戦へ踏み切った、と分かる。これは私にとっては、悲しい発見であった。むろん満州国にいた人たちからすると、民間人を捨ておいて軍人たちはさっさと引き上げてしまったと、何かの本でも読んだ。つまり軍人たちは、国民の暮らしを護るということなど眼中になかった、と分かる。天皇の軍隊であったのだ。
 
 そういう政府を持つ国民が、アメリカの「民間人を無為に殺傷しない」というハーグ協定など、眼中になかったことは容易に想定できる。私たちは、つまり、日本人の生活規範で暮らしているのであって、国際的なそれなど、全部政府にお任せであった。だから彼ら為政者が、黙して語らないところは、自分たちの生活センスで、良くも悪くも、判断せざるを得なかった。言葉を換えて言えば、昔ながらの侍たちの戦闘を見ているセンスであった。ところが日露戦役以降に、国民全員にに降りかかるシステムになった。むろんそれは、女子どもたちの暮らしにも降りかかってくる。だが、それに自分たちが何がしかの責任を背負っているとは、思ってもいない。それが庶民の暮らしのセンスではなかったか。だから、あとで、一億総懺悔などと言われると、えっ、どうして? と思わざるを得ない。
 
 そういうわけで、アメリカの戦争責任なんて考えても見なかったのが、一般的庶民のセンスである。そもそも戦争をはじめてみれば、それ以降にどのような悲惨に境遇を味わおうとも、それは運命と言うもの。だいたい日本の軍部は、兵士に対する兵站をはじめから考えていなかった。食糧は現地調達というのでは、全部の戦いに圧勝して、戦線を拡大していくしか、兵士に生きのびる当てはない。そんなこととも知らされず、ただただ上官の命に服して戦病死した私の義父の胸中が思いやられる。悔しいではないか。そういう庶民の戦死者に対して、竹田も、何も言っていない。むろん本書の主題ではないから、というのはよくわかるが。
 
 後で気づいたのだが、この著者竹田は明治天皇の玄孫だと、著者経歴にある。その傾きを汲み込んで読みすすめてみて、末尾に記される昭仁天皇を持ち上げる気分が了解できる。日米関係の将来にまで気をつかってご苦労さんなことだ。アメリカの戦争責任というよりも、それを責めることのできない日本の体質というか風土に、焦点を当ててみるのが、次のテーマになろうか。面白かった。

スーパー老人の編笠山

2016-09-29 11:00:19 | 日記
 
 「いや、皆さん強いね」と、先達を務めたkzさんが感想を漏らした。昨日、八ヶ岳の南端に位置する編笠山に登った。このところの天候は、日々移り変わる。当初の予報では「雨、降水確率は80%」だったが、3日前には「曇り、晴れ、降水確率は20%、降水量は0mm」となり、雨雲の次々とやってくる隙間を縫うように編笠山の天候はよくなって行った。そうして昨日、小淵沢駅に降り立った私たちを迎えたのは「曇り」。まあ、まずまずの天気と言わねばなるまいと、登山口へと出発した。
 
 観音平の登山口の駐車場には、すでに10台を越える車が駐車している。皆さん山へ入っているのであろう。用意を整えて歩きはじめたのは9時57分。標高1580m。編笠山は1524mだから、今日の標高差は950mほど。まあちょっときつい日帰りというところか。コースタイムは、5時間半ほど。ネットで見ると、7時間というのもあったし、kwrさんの話では4時間ともあったそうだから、みなさんそれぞれに自分の体力に応じて、この山を歩いているようだ。
 
 ササ原の敷き詰めた樹林のなだらかな道を登る。kzさんが、彼に続く後期高齢者・otさんの調子を見ながら、先導する。コースタイム1時間のところ50分足らずで「雲海」に着く。蒸し暑い。水を補給し、体温調節をして先へすすむ。少しばかり傾斜が急になる。途中で下ってくる50歳代の単独行者に出逢う。聞くと朝6時に駐車場を出発し、下山しているという。ということは、5時間余でここまで。下まで5時間半~6時間の行程になる。まあ、そんなものか。シラカバとカラマツの樹林が取り囲む。カラマツははや、葉が色を変えて緑の多い中で際立ちはじめる。ナナカマドの実が赤く染まり、まだ色の変わらない葉に先駆けて秋模様を醸し出す。トリカブトが花をつけ、ちょうど花ごろのようだ。
 
 やはりコースタイムより10分ほど早く「押出川」に着く。山頂へ向かうルートと青年小屋へ山腹をトラバースする道との分岐だ。標高2100m。1時間半で標高差500mを歩いた。いや、いいペースだ。11時35分。少し早いがお昼にする。
 
 お昼を食べていると、青年小屋の方から一組のペアが来る。彼らはトラバース道を通って青年小屋に泊まり、そちらから登り下って戻って来たそうだ。また一組の、アラフォーくらいの若いペアが下山してくる。ずいぶん早くから登ったのか? と聞くと、「山頂手前まで行ったが、雲の中。雨も落ちてきたので、しょうがないと思って下って来た」とにこやかだ。そうだよね、これくらいの軽い山歩きを、年寄りも見習わなければいけないなと思う。「泊まるんですか?」と聞くから、「いや、日帰り」というと、「すごい!」と女性の方は驚いた声を立てた。ほかにも何人か単独行者が降りてきた。泊まっていた人半分、日帰り半分というところ。
 
 少し早めにお昼を切り上げて、11時57分に出発。ここからの登りは、岩の重なりを右へ左へ躱しながら、身体を引き上げる急登。途中で雨が大粒になった。雨着をつけ、滑りやすくなった岩に気を付けて、標高を稼ぐ。お昼を食べて体が重くなったのか、ペースは遅くなる。ミズナラとコメツガとシャクナゲが生い茂るなかを、ルートは岩を積み重ねて、ぐいぐいと角度を急にする。なんとなく山頂近くなったと思った頃、ど~んごろごろと雷が鳴る。寒冷前線が頭の上を通過しているようだ。まいったなあ、これで山頂だと、雷を避ける場所がない。青年小屋の方へ下るルートは大岩の積み重なりを下るから、雷はこの上なく危ない。とすると、山頂からこのルートを引き換えることにするか、と算段をする。だが、私たちが山頂部に着いた頃には前線は通り過ぎ、雨も小やみになっていた。だが雲は取れず、山頂の標識もすっかり、雲にまかれている。13時36分。押出川から1時間20分のところを20分余計に掛けている。出発時点からいうと、差し引きコースタイム通りということになる。まあ、平均古稀年齢の登山グループとしては、まずまずではないか。
 
 雨は落ちていない。寒いというほどではないが、身体が冷えないうちに下山にかかる。青年小屋の方へ下る。しばらくはハイマツの樹林の切れ目に敷きつけたような小岩の段差を、バランスをとりながら、降りる。「まるで、妙高山の胸突き八丁のようだね」と、後ろからくるmrさんに声をかける。2年前彼女は、その下りで足を痛めたのであった。いまは順調に、otさんの後ろについて来る。強くなった。2年前のような危なっかしさがない。青年小屋までの標高差が80mほどになった辺りから、ハイマツはなくなり、大きな岩ばかりが重なっていて、その間を足場を見極めて伝って降る。otさんにはkhさんがついている。私は、mrさんとそのあとから下ってくるmsさんをみている。といっても、これといって何かするわけではない。通りやすいルートを私が通り、彼女たちはそれを辿るというわけだ。結構ペースも早い。
 
 14時20分、青年小屋に着く。先着組は小屋の中に入って、コーヒーを飲んで、身体を温めている。なるほど、賢い。後着組は小屋前のベンチに腰掛けて、kzさんやkhさんの入れくれたコーヒーを回し飲みしている。温かいものが気力を回復させる。14時37分、青年小屋を出発する。トラバース道ではあるが、なだらかというわけではない。岩と樹林と水の溜まった登山道を、バランスをとりながら、先へすすむ。このトラバース道の途中に、岩も木々も苔生した深山幽谷の気配を湛える場所があった。「屋久島のようだね」とkhさんが嘆息をする。そう、シャクナゲやコメツガの森に囲まれ、言葉を失うような幽玄な空気が漂う。速足で通り過ぎるのが惜しいように思った。皆さんはだいぶへこたれたようであった。押出川まで私は30分と読んでいたが、大間違い。1時間15分かかった。どうしてこんな間違いをしたのであろうか。
 
 押出川までの登路は1時間半。下りは1時間10分と、皆さんに声をかけ、最後の頑張りを期待した。kzさんに先導された人たちは、黙々と彼について行ったのであろう。5時には駐車場に着いたというから、1時間5分で、降っている。otさんは疲労が溜まって、それほど早くは降れない。雲海を過ぎたあたりで用意のストックを出して、身体を支えながら、慎重に、しかし先行者たちに追いつこうと、手早く足を運ぶ。傍らでみていると、しんどそうだ。「いや、年には勝てないね」と若い人たちの健脚ぶりを讃える。彼自身、後期高齢者になるとともに、自分の脚が衰えるのに気付いてきたようである。
 
 たしかに、今日の編笠山は、7時間を超える歩行になる。4~6時間を初級者、6~8時間を中級者、それ以上を上級者と見てきた私も、山によって、人によって、階梯は異なると見直さなければならない。otさんも、4~6時間程度は、いまでも大丈夫のようだ。これからは、長い距離・時間の歩行は、区切りを入れればよい。何よりも、いつまでも歩く気力と体力を保つように日々を送り続けること。そんなことを話しながら、着実に下って行った。駐車場に着いたのは、皆さんより15分ほどの遅れであったらしい。もう少し遅くなれば、ヘッドランプが必要であった。もっと早く、青年小屋辺りで、早着組と後着組を分ければよかったかなと、私は反省していたのである。
 
 小淵沢駅に着いたのは6時15分前。後続の車のnaviが壊れて、途中で道に迷ってしまったために、そちらは6時15分頃になってしまった。「朝4時ころに起きて、この時間まで行動するなんて、すごいですね。」とkzさんは褒める。彼は、ともに下った人たちのほとんどが自分より若いと思っていた。「いやいや、皆さんあなたより年配ですよ」というと、「そりゃあ、もっとすごい!」と絶賛の体であった。いやはや、お疲れ様。

てふてふは韃靼海峡を渡ったのか

2016-09-28 05:24:48 | 日記
 
 《かつての日本の植民地の中でおそらく最も美しい都会であったにちがいない大連……》と書きはじめられた清岡卓行『アカシアの大連』(講談社、1970年)を読んだ。一昨日(9/25)の「セピア色の土地の物語」の、鮎川哲也『ペトロフ事件』を先に読んでいてよかった。「ペトロフ事件」は、昭和17年の大連を舞台にしたミステリ。ただ、大連の市街地図と、大まかな遼東半島の地図と旧満州の哈爾浜(はるびん)から旅順までの満州鉄道の概念図を掲出していて、物語りの展開にともなって人がどこをどう移動しているか、一目で俯瞰できるように書かれていた。そのおかげで、清岡卓行の《(フランス語で)大連は女性名詞、旅順は男性名詞》という表現をふくめて、その二つの街が当時の鉄道で1時間半の距離にあり、遼東半島から今にも零れ落ちんとする葡萄のひと房のように特異な位置を占めている感触がみてとれる。
 
 「アカシアの大連」は、やはり大連生まれの主人公が東京の大学からひとたび帰郷・療養し、その間にソ連軍がやってきて戦争が終わり、日本人の多くは本国へ引き上げていく中で、人の生死や暮らし、人とのかかわりを我が身に照らして振り返る。哲学的な短編である。鮎川哲也と同じ風景を描いているが、清岡は大連の風景が自らの身と切り離せず、それがかたちづくっていまに至る心境とを重ねて描いているから、地図に血が巡って起ちあがってくる。
 
《列車は海水浴場に着く。彼は小学生で、家族と一緒だ。そこは、夏家河子(かかかし)という面白い名前の土地で、大連と旅順の中間にあり、金州湾に面しているが、その海は、時間によっては、恐ろしく遠浅だ。彼は沖の方へどこまでも歩いて行く。静かな海の水は、いつまでもお臍より高くならない。》
 
 この夏家河子が、「ペトロフ事件」の舞台となった土地でもあるが、鮎川の著述からはその気配は浮かばない。「その住宅街は……弥生ヶ池と鏡池にはさまれて帯状をなし」とか「……柳、ポプラ、アカシヤなどの並木が、ほぼ六メートルの感覚で植えられていた」という街路の様子も、その町並みが「ヨーロッパふうな感じ…大型な石造建築…煉瓦の積み方にはイギリス式とオランダ式」があったり、「中国人ふうのふつうの家のほかに、崖から崩れ落ちそうになっている掘立小屋のような家とか、風に吹き飛ばされそうな屋根に重たい石をいくつも載っけて、いまにもつぶれそうになっている家とか……」と、いろいろな文化と植民地支配の構造やソ連軍が入ってきてからの、しかし、穏やかなかかわりが、単なるノスタルジーではなく、主人公の心象形成と不可分であることが描き止めらる。
 
《小学生のときの彼にとっては、怪訝ながらも異様なだけの眺めであったが、二十二歳になっている彼にとっては、もはや肯定することができない事実であった。……人生の真実であったとしても、それが民族のちがいに対応しているということは、許すことができない野蛮なことのように感じられた。》
 
 これは、今これを読んでいるあなたはどうなのか? と問うていると感じられる。おそらくそれは、私が戦中生まれの戦後育ちとして体験した子どものころの「社会」のありようと深く結び付いている。内省を求める視線が行間に張り付いている。大連が昭和17年からの74年を経て、どう「戦後」を蓄積しているのか、見てみたくなった。
 
 そうそう、ひとつ、思わぬ発見があった。《てふてふが一匹韃靼海峡を渡っていった。》という短詩が、安西冬衛の「春」という作品の一節だと分かった。1960年代後半に寺山修二の文章の中に見て、私はてっきり彼の作品だと思い込んでいた。清岡の作品中では、この短詩をこうとりあげている。
 
《彼(安西)によれば、この詩の発想も、大連という都会を地盤とすることなしにはあり得ないはずであった。/そこでは、北方の韃靼海峡(間宮海峡)という地理的な国際性の荒々しい危難が舞台になっている。そしてその激浪あるいは凪の上を、若々しく可憐な生命を象徴する一匹の蝶が、大胆にも軽々と渡って行く。それは短編アヴァンギャルド映画にでもしたいような緊迫の動的なイメージであり、そこに春のふしぎな情感がかもしだされている。》
 
 20歳代の半ばであった私が、この短詩をどう受け止めて覚えていたのか、いましっかりとは思い出せないが、つかみどころのわからない「世界」を、どこへ向かうかわからない不安を抱いて、ひらりひらりと飛ぶしかない「てふてふ」に、我が身を同一化して共感していたのではなかったろうか。「アヴァンギャルド」とも「軽々と」も思っていなかったなあ。ひ弱な、あてどない自分の内心と「韃靼海峡」の荒波に(かかわることもできず、ただただ)渡るしかない身の、(何をしているんだろう、俺は)という茫漠とした問いを、日々の暮らしに紛れ込ませていたなあと、いまさらながら振り返る。
 
 そんなふうに「本」を読みつつ昔日の我が身に思いを致しながら、麻雀の半荘が終わるのを待っていたのが、昨日の午後であった。

この世をリタイアしたような……なんでもないことの良さ

2016-09-26 22:33:37 | 日記
 
 今日は面白い時間をもった。ご近所の友人に誘われて、足を運んだ。きょう発足の麻雀の同好会。私は、学生のころから卓を囲むことはしたが、いつも頭数の数合わせであった。そもそも勝負事自体が「すき」というほどではない。勝ち負けに入れ込む自分を見ている自分がどこかにあって、醒めてしまうとも言える。だから麻雀も、牌のそろえ方は知っているが、点数を数えたことがない。どれがどちらより高得点という比較的な順位はわかるから、「手を変えて」点数を引き上げるようなことはできる。もっとも、麻雀を止めてからもう30年ほど経つから、どちらへまわるんだっけと、戸惑うくらい初心者に戻っている。
 
 場所は、公民館。「会議室」と銘打った20畳ほどの広さ。長机が置いてある。その机を4脚それぞれ狭い方を90度に寄せて、真ん中に雀卓代わりのマットを置き、寄せた机の狭い隅々に4人の雀士が座って、牌をいじる。わかるかな? 十の字の形に並んだ交差点のところにマットを置いて、交差点に一番近いところに雀士は身を置いて、マットを囲むというわけ。
 
 部屋には空調がしつらえられており、設定温度は当初「22℃」であった。これは冷やし過ぎと、「24℃」に上げ、牌が転がりはじめる。ふだん付き合いのある5人が来ている。あらかじめそれがわかっていたから、私は本を持参。ほかの4人が卓を囲んでいる間、私はかたわらで本を読む。半荘(はんちゃん)済んだら、一人が交代するという。
 
 空調が入っているだけに、我が家より居心地がよい。かたわらの4人も、ずいぶん静かだ。ひょっとしたら私が、本に集中していてざわめきが耳に入らなかった、ということもあったかもしれない。だが、日ごろから私は、周りの喧騒がそれほど気にならない。加えて皆、静かである。もちろんおしゃべりはしているのだが、声高ではない。言葉を交わすのも、つぶやくように、口からこぼれ落ちるような調子だ。窓から陽ざしが入って明るい。
 
 古稀を過ぎた人たちばかりだから、仕事の気遣いはない。月曜日の午後に雀卓を囲む。もうそれだけで、自分を解放している快感に浸ることができている。その人たちのさんざめきを聴きながら、こちらはのんびりと本を広げる。ふと気づくと、眠っていたようだ。隣の部屋からは「南京玉すだれ」の歌声が聞こえる。あちらさんも、たぶん、お年寄りなのだろう。
 
 なんだか、こうしたなんでもないのが、いいなあと感じられた。

セピア色の土地の物語

2016-09-25 15:30:11 | 日記
 
 今日は久々の晴天。気温も高くならず、涼しい一日。窓を全部開けて部屋を通る風が心地よい。秋が来たと体が喜んでいる。昨日はSeminarがあり、その後の会食でおいしいお酒もいただいて、8時半ころに帰ってきた。カミサンは長野の方へ鷹の渡りを見に出かけていて留守。ところが、お酒のせいであろうか、輾転反側、なかなか寝付けない。そんなに呑んだわけではない。おそらくアルコールの分解が従前のように順調に運ばなくなっているのであろう。これからは、いいお酒をちょっぴりってことになりそうだ。
 
 昨日から電車の中で読んできたのが、鮎川哲也『ペトロフ事件』(青樹社、1987年)。来月、大連と旅順に行くことになって、その地に縁のある小説というので、これを手に取った。出版年は1987年だ生活階層も、が、新書版のこの本は、紙質も昔のカッパブックス風に厚手、本の脇も日焼けして茶色になっている。描かれる大連や旅順を舞台にした事件は、昭和17年のこと。なんと私が生まれた年だ。登場人物も、日本人ばかりか、中国人や白系ロシア人。言葉も多様、生活階層も職業階級も、きちんとかき分けられている。そもそも文体にしてからが、前時代的なのだ。ロシア語や中国語のフリガナがついていたりするから余計に、当時の雰囲気が醸し出されている。まるで、74年前のその地に迷い込んたような気分になった。
 
 読み終わって調べてみると、鮎川哲也という作家は、1919年、満州の生まれ。大連に青年期を過ごしたというから、まさにこの作家の身に沁み込んだアイデンティティが溢れだしている。それは必ずしも懐かしいだけのものではなく、当時の日本が明治以降、踏み歩いて来た形跡が嫌悪の上も塗りこめて書き落とされている。旅順の二〇三高地に関する記述を読むと、果たして訪れてみるのを止めようかと思うほど、強烈な印象を残す。この小説当時であれば、日露戦後37年経っているわけであるのに、いまにも戦死者の腐臭が臭い立つように思えた。
 
 この小説が最初に上梓されたのは1950年というから、鮎川からすれば、帰国してすぐに、忘れないうちに書き留めておこうとしたのかもしれない。日露戦後の進出と満州国の経営という欧米列強に肩を並べようという「欲望の肥大化」がもたらした社会の一瞬の光景が目に浮かぶ。登場人物の話しぶり、日本本土からそちらにわたるときの経路、人と人との関係が露わになるやりとり。それがセピア色に変色しているのが妥当なのか、忘れっぽい私たちの性癖なのか。どんな顔をして訪ねればいいか、ちょっと考えてしまうような気分になった。