mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

なぜ「愛」を語るのか

2017-09-30 11:06:48 | 日記
 
 コルム・トビーン『ブラックウォーター灯台船』(伊藤範子訳、松籟社、2017年)を読む。幼いころに亡くなった父、その父を看病するために力を注いだ母、その間、預けられた祖父母の家で過ごした弟との記憶。そして一つひとつの「記憶」がわだかまりを持ち、自分の生き方に見極めをつけさせる小迫力を持ち、母と同じ生き方はすまいと、首都の暮らしを築いてきた主人公が、弟の病気をきっかけに祖母の家へ行くことになり、母とも再会し、「わだかまり」をぶつけ合う。弟の友人二人を間に挟んで、寂びれた祖母の家で明らかになっていくコトゴトは、人生を振り返る「思い」のすれ違いと哀切さに満ちている。ここには「家族」しか描きこまれていないけれども、私たち人間が、こうした「かんけい」に生きていることを、あらためて想い起させる。
 
 アイルランド文学の研究者である訳者の伊藤範子は、「あとがき」でトビーンの作品を読みこんで《……すべての人間関係について(の)探索は、”自我のためらいがちな内面化”によってしかできないことなのであろう……》と、彼の手法を特徴づける。そうして、この作品について、《この作品は人の心のよりどころ、愛を描いているのだということを私たちに教えてくれる》と概括する。
 
 う~ん、どうしてここで、「愛」とか「人の心のよりどころ」を言葉にしなければならないのだろうか。この作品の底に流れるトーンを表していると(私が)思われる一節があった。長いが、とても感動的な印象を残した。
 
《想像、反響、苦痛、あこがれと偏見、こんなものは、絶対硬質の海に対してはまるで意味がなかった。それらは、風雪に食われて海水に洗われてしまう赤土、泥、乾いた崖土ほどにも意味はなかった。れらは消えてしまうというだけではない。それらはほとんど存在しなかったに等しいのだ。この冷たい曙に何の衝撃もなく海が曙の光に輝いて、ヘレンに衝撃を与えたこのうち捨てられた辺鄙な地の海の光景は、はじめからほとんど存在したことなどなかったのだ。彼女は、人間などいなかったほうがいいのではないか、この動く世界、輝く海、朝のそよ風、こういうものが目撃者なしなら、それを感じ、記憶し、死に、愛を求めてみる人間がいないなら、いないほうがいいのではないかと感じた。ヘレンは、黒い背後から太陽が顔を出すまで、崖っぷちに立ち尽くしていた。》
 
 アイルランドがどういう風土の土地なのか、何にも知らない私なのだが、このトビーンの表現は、人を自然存在としてとらえ返し、(私たちも)宇宙のかけらとして存在している地平に立っていると思われる。それこそ、「愛」という物語に託して支えられてきたヨーロッパキリスト教的な世界観をきっぱりと抜け出してわが身を見つめる”自我のためらいがちな内面化”の第一歩を記している。
 
 仏教的世界観がhuman natureをみつめる視線をやっと共有する哲学的地平に、手がかかったと思ったのだが、まだまだそこまで私たちがたどり着いたとみるのは、早いのかもしれない。
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政局という余所事

2017-09-28 19:30:47 | 日記
 
 国会が解散したそうな。「国民の生活と子どもの未来を守るために・・・」と安倍首相が演説している。だったら解散なんかしないで執務に邁進しなよと、正直思う。「安倍政権の安定と未来を守るために・・・」と言い換えた方がよいかもしれないと思うが、それにしても、いま解散はヘンだ。
 
 ところが「希望の党」というのが割り込んできた。と思ったら、民進党が解党的合流をすると、「満場一致で決めた」と報道している。まったく、何をしているんだろう。「小池新党」というのが有権者の期待を引き寄せるというのは、どういうことだろうか。たしかに、安倍政権の「不誠実さ」には飽き飽きしている。安倍首相が口にする言葉が(それが何であれ)全部空しく響くというのは、ある種の文化的規範意識が働いている、と思う。だから「解散となれば…」それ以外の「投票箇所」を探るのは、有権者の当然の振る舞い。それを引き受ける「イメージ」を持った政党が、ない。それが何だか未だわからないが、「また、これか」と分かっているものよりは、「未だ、わからないもの」に期待を寄せるというのは、庶民の性癖ではなかったか。案外日本も、イギリス同様に、経験則的にいろいろなことを試してやってみて、ダメなら後でまた(折をみて)修正すればよいという行動パターンを持っているのだろうか。ホンネとタテマエという対比で現実に起こるコトゴトを処理するというのやり方は、ある意味では、(気分の変わる)自分の移ろいを吸収するクッションとなっているのかもしれない。ただ、こういうクッションを置いていると、「変わったこと」への批判的検討が行えない。判断の基準が、情況に応じて移ろっていることを俎上に上げられないからだ。
 
 それにしても、民進党前原代表の「解党的合流」というのが、すごい。清水の舞台から飛び降りると、どなたか民進党の一人が言っていたが、「政権交代を図ることができるなら、何でもする」という狙いがはっきりしているだけに、(財布を持っていながら)そういう行動をとるのは、ひょっとすると、水底の方での「勝算」を持っているからなのか。小池側が独自の判断をすると構えているのも、財源を持たないゆえの空威張りと見せているのかもしれない。そういうふうにみると、魑魅魍魎の「政局劇」だから、わしらは高みの見物するしかない。
 
 それにしても、この政局が余所事にしか感じられないのは、私の政治に向ける感覚が狂い始めているからなのだろうか。それとも、普通の庶民の、(所詮いつでも余所事じゃないの、俺たちは)という現実的立ち位置を確認しているにすぎないのだろうか。
 
 北朝鮮が攻撃を仕掛けるというのが「現実感を持たない」のと同じように、今の日本の政局も、「現実感」を持たない。なんだろう。どこか、スクリーンの向こうで、演者がそれなりの役割を演じて劇的に盛り上げようとしている物語りに思えて仕方がない。私たちが一票でもって「かかわる」というストーリーの変更でも見えてきたら、わがことと思えるようになるのだろうか。
 
 でもなあ。政権交代しても、たいして何も変わらないんじゃないか。
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今日は働き過ぎ

2017-09-27 16:29:01 | 日記
 
 昨日から越後駒ケ岳に登っていた山の会のメンバーから「無事下山、越後湯沢駅で祝杯をあげています」とメールが入った。よかった。はじめての避難小屋どまりということで、寝袋とガスやコンロを持ち込み、水を汲みに行って食事も全部自分たちで賄うという、(参加者にとっては)なにもかも初体験の山であった。直前に私が「化石人間」になっていけなくなってしまったが、すでに準備をしていた他の人たちが、自分たちで行ってくる、となった。kwmさんという60代半ばの女性をリーダーにして、参加者たちで(相談して)準備を整え、レンタカーも予約して実施した。
 
 「いってきます」と出発したメールを頂戴したばかりか、「山頂に着いた」とのメールも来た。通信ができるのだ。朝は「これから出発」と下山開始のメールも来て、最初の到着メールになったわけだ。めでたい。すっかり自立した。私からみると、心強い山仲間ができたようで、この先独りで行かないでも良くなるのかもしれない。
 
 一昨日、昨日と、今週末のseminarの準備にかかりきりであった。「Seminar通信」も出してSeminarに参加できなくなった人たちの「近況」も伝える。A4版2枚。11月の「お伊勢参り 現地Seminar」の実施日程を作成する。こちらもA4版2枚。今回のseminarの講師は私が務めるから、その「レジュメ」と「資料」を用意する。レジュメはA4版3枚だが、「資料」は、「お題」に関連して私が書き綴ってきた文章を編集して冊子にした。A4判で32ページ。400字詰め原稿用紙にしたら120枚はあろうか。全部でA4判39枚にもなった。何だかもう、Seminarが終わったような気分だ。
 
 ただ一つ、気にかかることがある。動物のもっている「感情」とヒトがもっている「感情」とは、どこがどう違うのだろう。犬や猫が何がしかの「感情」を持っているように見えるのは、単に、人間が自己意識を投射しているからではないだろう。動物が(例えば食欲などの)生理的欲求を充たすときに、「うまい/まずい」と思っているとは思えないが、といって腹がくちくなるならなんでもいいという食べ方をしているとも思えない。好き嫌いは「感情」だろうか。
 
 ヒトの「感情」には思念が張り付いている。つまり生理的に「感じて」いることが「ことば」になって「感じられる」という段階を踏まえる。羞恥心というのも、外部から自己を見る視線を持つから生まれる「感情」である。わが身を鏡に映すようにみることによって発生する「感情」は、「自己―他者」との関係を表現する。つまり「こころ」が「かんけい」を感知する感性作用だとすると、「かんけい」的に物事をとらえる「感覚」とその実存的表現である「感情」とは人間に特有のものと言っていいか。そんなことをSeminarで話して受け入れられるか。そんなことを考えながら、レジュメを読み返す。
 
 肩の「痛み」は、なくなったわけではないが、ずいぶん軽くなった。どんよりと肩のあたりに「痛み」の素が滞留している。ある部分を押さえると「痛い」。だが放っておくと、いつでも発動しますよという感触だけを静かに発信している気配を感じる。夜は何度か目を覚ますが、おおむね穏やかに熟睡している。「しっかりよくなっていますよ」と外から見るカミサンの声に励まされるわけではないが、片手でタイピングしていたことを思うと、たしかに、格段に良くなった。今日は働き過ぎだ。
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「迷子散歩」

2017-09-25 09:02:37 | 日記
 
 昨日(9/24)は久々の晴天。しかし気温も26度ほど、湿度も低く、日陰に入れば涼しいくらい。やはり2時間くらい散歩に出た。首から下げた双眼鏡は使うことはなかったが、わが家から北へ向かって高木の林になっているところをたどり歩いた。ときどき広い道路に出て、自分がどっちへ行っているのか、どちらへ行こうかと迷うことがある。去年までなら日差しのつくる影と時計をみて方角を察知し、この近辺の大きな図柄を思い描いて、進む方向を決めた。今年はスマホを出してGPSでチェックする。去年までの方が「散歩」というイメージに近くスリリングだなあと思う。そうか、ふらりふらりと「森」をたどって1時間余歩き、(はて、いま、どこにいるのかな)というときにスマホを出して居場所を調べ、帰りの道を探るとすればいいのか。「迷子散歩」だね。まだ認知症にはなっていないが、それの予行演習みたい。そう考えると、それはそれで面白そうだ。次回からそれでやってみようと、つまらないことを考えていた。
 
 帰宅してPCを開いたら、ひょんな行きがかりで「2016年のお彼岸に記述」というのがモニターに現れた。なんと、「化石人間」になってもいないのに、今年の私と同じようなことを考えている。脱水症状を経験して「反省」しているのだ。ちょっと長いが、ほぼ同じことだ。
 
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 ところが涼しくなると、この、身体が要求する強さが弱まるから、水分摂取を忘れてしまう。つまり、自分の身体が年とともに、自然(じねん)では調節できないようになっているのだ。これ自体がもうすでに、古稀の年代に入っていることを証しているように思える。もう、自然の摂理から外れて、長生きしすぎているんだよ。だから、頭で考えて、手入れをしてやらなければなりませんよ、と。
 
 こういう発見は、じつは、いろいろな場面で何度もしているのだが、気候が良くて調子づくとつい、忘れてしまう。自然の「気候が良い」ということも、もう私たち年寄りには、「よい」だけではすまなくなっているともいえる。「己の欲するところに従ひて矩を超えず」というが、「欲するところ」自体が衰えて、身体の必要とするところを感知することすらできなくなっているのだね。よほど身体の自動調節作用を鍛えておいた人でないと、あちらこちらにどんどん不調和が発生する。いくぶんかでも恢復力があれば、ちょっと躓いた程度で、持ち直すのであろうが、身体の自動調節作用などというものは生活習慣だから、この歳になると「ほぼ体質」と同じになる。それを「鍛える」には何十年とかかる。もう間に合わない。
 
 では、どうしたらいいか。「ほぼ体質」が外科療法的に手当てできることなら、わりと簡単だ。躓いたら、薬を使うこともできよう。「ほぼ体質」を理解してもらって、カミサンに面倒を見てもらうこともできなくはない。「お茶は飲んだ?」「薬を忘れてない?」「はい、果物も食べなさいよ」と。でも……、ウルサイ。となると、目につくところに書き付けておいたり、薬ケースに日ごとに分けておいて食後に手が行くように「習慣づける」。服薬はこうやって、なんとか「生活習慣」にした。だが、お茶と果物は、まだそうなっていない。
 
 いまさら(鍛えるか)、とは思うが、外部的に「用心装置」を整えていると、身の回りが雑然としてくる。「身辺整理が行き届かなくなると、認知症の心配がある」とこれまた世間の放送局がやかましい。これも外部装置といえばいえるが、それに耳を傾けることは「ほぼ体質」にない。余計なことは、やめてくれえ。
 
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 いや、全然「反省」なぞしていない。「いまさら(鍛えるか)」と心情は「(気分の)じねん」のままに放置しておこうという気配だ。そうか、これが一年経って「カルシュウムが溜まる」かたちに結晶したのだ。となると、「もう間に合わない」などと言っていないで、普段使わないところを動かして、錆びつきを解消することは、生活習慣に仕上げなくてはならない。それをつづけることで、何とか今年の「化石人間」から離脱しなくちゃならないと、今年の「反省」をした。
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いかにもいかにもの秋分の日

2017-09-23 21:47:35 | 日記
 
  たしかにまだ肩にはむゅぎゅむぎゅとした「痛み」のようなこだわりがあり、腕も大きくは動かせないのだが、昨日までと違って能くなっている感触が広がる。気温もぐんと下がり過ごしやすい。
 
 散歩に出る。半月ぶりだろうか。西の空には黒い雲が厚い。だが東の方は、少しばかりだが、青空がのぞいている。井沼方公園も、朝方の雨で濡れているから母子連れの姿がない。見沼田んぼの中にある大間木のグランドではゲートボールの大会をやっている。その脇の野球場は一人バットをもってバックネットに向けてトスボールを打っている若者がいるだけ。いつもの日曜日や祭日に、サッカーや野球に興じ響く子どもたちの声もなく閑散としている。川縁に釣り糸を垂れる人が点在する芝川を渡り、調整池へ踏み込む。
 
 草が背を高く伸ばし、視界を遮る。大きな池の水は一杯溜まっているのだが、東南の方はなぜか白っぽい底地が剥き出しになっている。こちらの方が浅くなっているとは知らなかった。ダイサギやカルガモが葦原に身を寄せているが、オオバンの姿はない。カワウも目につくほどいない。どこかへ行ってしまったのだろうか。草原は生い茂り雨に濡れて重く背をかがめているが、小鳥の声も姿も見えない。ところどころに、椅子に座って大砲のような超望遠カメラを据えた人たちが、ポツリポツリと見える。たいていその連れであろうか、一人くらい脇にいておしゃべりしているが、この人たちもカメラを通して何かを追いかけている様子がない。ハクセキレイが低く飛ぶ。カラスの番が東から西へ急ぎ足だ。ダイサギが上空を飛び回ってが西縁の方へ飛び去った。
 
 芝川の水量は多く、流れも速い。いつもならオオバンやカルガモが浮かんでいるのだが、ただただ濁った水が通り過ぎる。民家園を経て再び芝川を渡り、見沼田んぼの中を突っ切って西縁沿いに駅の方へと向かう。道には雨が溜まり、それを避けてわずかに残る土を踏んで靴を濡らさないようにする。大牧小学校の校庭ではブラスバンドとマーチの練習が行われている。トランペットを吹き太鼓をたたきながら横歩きをして隊列を組みかえ、バトントワラーは腕を振りながら前へ後ろへと入れ替えをしている。運動会でも近いのか。あるいは、何かの大会があるのだろうか。
 
 前から来た四人連れの先頭の若い女性が「こんにちは」と挨拶をする。「おっ、こんにちは」と返事を返す。すると後ろから来た若い女と男が「こんにちは」と笑顔を返す。少しずつずれた声の出し方が、すれ違いながらずれて、輪唱のように響く。山でもこういう場面ってあるよなと思う。
 
 後ろから車が来る。わきへよける。水たまりがあるのに、それをものともせずに速度を落とさず、水を跳ね飛ばして行きすぎる。中年のおばさん運転手。私なぞ目に入らないみたいだ。駅に近くなると人通りが多くなる。お昼頃ということもあって、レストランや食堂への出入りが頻繁になる。お腹が空いたなあと思っていたが、この人の賑わいをみるとどこかで食べて帰る気分が失せてしまう。
 
 こうして、2時間ほどの散歩をした。ちょっとくたびれを感じた。半月のあいだに身体はずいぶんヘタッてきたようだ。腕だけじゃないね。リハビリが必要なのは。
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