mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

わたしの自然信仰――「わたし」というすべて

2018-02-26 17:02:32 | 日記
 
 むかし、トルーマン・カポーティ『クリスマスの思い出』という短編を読んで記し置いたことがあった。
 トルーマン・カポーティというと、昔『冷血』という一家殺人事件を扱った作者だとおもうから、ノンフィクション・ライターだとばかり思っていたのだ。それが、メルヘンというのとは趣が違うが、七歳の子どもと「いとこどうし」というばあさんと犬が、周りの顰蹙を買いながら言葉を交わし、日々を愉しみ、クリスマスの用意をするというお伽噺のような短編。次のような一文を見つけて、《まさに、その通り!》ともろ手を挙げた。
 
「私はこれまでいつもこう思っていたんだよ。神様のお姿を見るには私たちはまず病気になって死ななくちゃならないんだってね。そして神様がおみえになるときにはきっと、バプティスト教会の窓を見るようなものだろうって想像してたんだ。太陽が差し込んでいる色つきガラスみたいにきれいでさ、とても明るいから、日が沈んできてもまるっきり気がつかないんだ。そう思うと、安心できたんだよ。その光を見ていれば怖い思いなんてせずにすむってさ。でもそれは正真正銘のおおまちがいだったんだよ。これは誓ってもいいけれどね、最後の最後に私たちははっと悟るんだよ、神様は前々から私たちのまえにそのお姿を現していらっしゃったんだということを、ものごとのあるがままの姿」……「私たちがいつも目にしていたもの、それがまさに神様のお姿だったんだよ。」
 
 ここでいう「ものごとのあるがままの姿」とは、わが身のおかれている「自然」そのもののこと。「私たちがいつも目にしていたもの」とは、「わたし」そのもの。「わたし」とは、わが身にかかわって集積されてきたありとあらゆる「自然」であり、「わが身」という存在そのもののことである。生まれ落ち、育まれ、いろいろな感性や感覚を身につけ、ことばを使って生きる術を備えてきた「わたし」こそ、じつは「自然」そのものであり、「ものごとのあるがままの姿」の集約された形であった。ただひとつ、「わたし」は「じぶん」の姿をじかに見ることはできない。鏡に映すように、他のことごとや人々との「かんけい」を通して映し出される姿を「イメージする」ことしかできない。触ろうとして触れず、触れようとしてつかみどころのない「空」を感じとる。しかし「かんけい」は間違いなく存在し、「わたし」が消えてなくなろうとも、他の人々との「かんけい」の中に生き続ける。それこそがわたしの「かみ」である。
 
 トルーマンカポーティが、わたしと同じように考えたかどうかは、わからない。身を置いている「自然」が違うからだ。ことに欧米の神がもつ強烈な呪縛力が作用しているから、かれは「正真正銘のおおまちがいだった」と否定形で語るしかなかったのかもしれないと、思う。
 
 ではなぜわたしは呪縛されていないのか。ひとえにこの地に根付いてきた原始的な自然信仰のゆえではないかとわたしは感じている。純朴であり、素朴を重んじ、素直を大切にし、善し悪しを切り分けず人の性を受け容れてきた。長い道のりには、切り分ける苛烈な風圧のもとに清濁併せ呑むような混沌を潜り抜ける適応を必要とされたにしても、それも自然のしからしむるところと受けとめる諦念をつくりあげてきた。
 
 そうでなく過ごしてきた「わたし」の幸運に感謝をささげるというとき、「自然信仰のわたし」は昇る朝陽に向かって手を合わせる所作に「かたち」を見出したりしたのだ。今の健康状況、今の子や孫のありよう、かかわりのある人々との落ち着いた状況は、誰に感謝していいかわからないが、まちがいなく、そのように振る舞うことの出来た「わたし」を包むすべてにわたしが手を合わせる姿に見える。
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分ける―まとめる、germのつぶやき

2018-02-25 08:55:55 | 日記
 
 孫が誕生し爺婆になっての二十年史をつくろうと考えていると、まずぶつかるのが、全体の構成をどうするのかということ。主たる仕事を定年退職して十五年。最初の五年は「日録」を簡略に記している。その後の十年、つまり前期高齢者になってからは「日誌」をつけている。前者は手書き、後者はパソコンでタイプしている。較べてみると、「日録」よりも「日誌」の方が饒舌になっている。「日誌」も、初めのころに比べて今の方が、おしゃべりだ。
 
 その時系列を、これまで振り返って眺め渡したことはなかった。最初の孫が四歳のときからの記事を拾ってみると、「日録」のほうからも、生長の具合が見てとれる。だが「日誌」の方には、孫と私のおかれた位置関係が、そのときの状況まで細かく書き込まれているから、捨てがたい思いが色濃く残る。そればかりか、カミサンの振る舞いに対する私の感懐も読み取れる。つまり、枝葉がたくさんついている分、分かちがたく感じる記述になる。
 
 まずそれを、分ける。細かい枝葉を落とす。幹になるところを見渡すと、2/17に記したようなイメージが浮かび上がる。爺婆と孫との二十年は基本的にハレの日であった、と。しかも、最初の孫を「モデル」にしてつづく孫たちとのかかわりを設営し、変奏し、それらが積み重なって「まご」というぼんやりとした感触が身の裡にかたちづくられている。
 
 枝が何であったかを見極めるのも、伐り落し作業だ。だが枝を伐り落していると、葉が目に付く。その葉の方に捨てがたい感触がこもっている。葉を落としてしまうと、なんでこんな記録が意味を持つんだとさえ思うようになる。そこで読み手が立ち現れる。そうだ、誰に読んでもらおうと思って二十年史をまとめようと思ったのか。ま、孫の成人という記念ではある。孫への手紙としてまとめるのであれば、読めるように変換しなければならない。だが「日誌」のことばは、つれづれなるままに書き落とした私の独り言。自分に通じる言葉を突き出しているだけだから、孫に読めるかどうか配慮していない。枝葉が大事で、誰もが読めるようにと考えてまとめるのであれば、小説にするしかない。小説という「まとまり」にはならない「かけら」ばかりが捨て置かれてきたのが、「日誌」である。それは私の「航跡」であり「輪郭」であり、ことばを変えて言えば、「わたしのせかい」である。
 
 そう考えると、気が楽になる。孫に読めなくても構わない。そうか、じいちゃんはこんなわけのわかんないことを書いて、考え、生きてきたんだとぼんやりと印象を刻んでくれれば、いいじゃないか。所詮「かけら」なのだ。「せかい」にとって「わたし」はかけら。宇宙から見たら「かけら」どころか微塵にもあたらないgermだ。germというのは通常「ばい菌」と日本語訳されるが、その言葉の原義を辿ると、「(考え感情などの)萌芽」とか「(植物の)幼胚、芽」という意味もある。
 
 話はそれるが、こういう言葉を見つけると、私はうれしくなる。出発点において「ことば」というのは、善し悪しの価値をふくまない寛容さをもっていた。それが「わける/分節する」時代に入って、ものごとにには「善し悪し/価値」がついてまわると考えられるようになって、「芽」は「ばい菌」にもなり、いつしか、「ばい菌」だけになった。始原にさかのぼれば、良いとか悪いとかは、どうでもいいこと。私の書き留めることばも、どうでもいいこと。でも、微塵にも相当しない「germ」が「ばい菌」としてであれ「萌芽」としてであれ存在したことを記しておきたいと、ちょこっと思った。その程度の「二十年史」となるか。そんなことを考えながら、「かたち」にすることだけをすすめている。
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強くなれないなら上手くなれ

2018-02-23 05:40:22 | 日記
 
 一昨日(2/20)から一泊で奥日光へ入った。山の会の、毎年恒例のスノーシュー山行。
 朝6時半、Kさん宅で彼を拾って奥日光へ向かう。久々に一緒の山行。9時40分頃、清滝で借用するスノーシューを積み込んで、赤沼へすすむ。道路の積雪はすっかり除雪されていて危なげなく走る。9時少し過ぎに赤沼に着いた。やってきたバスのなかから手を振る赤毛のアン・swdさんが見える。この人とも一年ぶりだ。
 
 宿で使う荷物を車に残し、トイレを済ませ、スノーシューを装着して歩きはじめる。10時10分。入口のところに「青木橋架け替え工事のため通行できません」と掲示してある。シーズンを迎える前の閑散期に老朽化した修復を済ませようという観光地の仕事なのであろうが、たっぷりと積もった雪は障害にならないのであろうかと、気になる。道路をのぞいて全面が雪の世界。男体山が見事に巨体をみせて見下ろしている。そう言えば、この地の今日の天気予報は「曇り、降水確率40%」であったが、青空が広がっている。
 
 小田代ヶ原に向かうルートはスノーシューなどいらないくらい踏み固められている。先頭のkwrさんは少しそこからはずれた雪の上を歩く。いつものように、mrさんがそれにつづく。Kさんは列を外して、踏み跡のついていない雪を踏む。
 
 湯川を渡るところで、スコープを据えた女性と挨拶を交わす。ベニヒワを探している、と。独りでやってきて雪の中に身を置いているんだ。湯川にマガモが浮かんでいる。カラマツの林に入る。雪が締まっているから軽々と歩く。Kさんは後ろの方で赤毛のアンとおしゃべりしながらついてくる。かれらも一年ぶりの邂逅というわけだ。いつもならカラマツの実を啄ばむ小鳥の群れがいるところも、すっかりかっらぽの木立の青空。先行してスノーシューで入ったグループが大木の前で立ち止まっている。ガイドをしているのは、地元のネイチャーガイドのAさん。挨拶を交わす。戦場ヶ原の南西部の展望台へ下る辺りから、一段と雪が深くなる。先頭のkwrさんの歩く先を見て、ショートカットの道をとる。雪を踏み砕いて斜面を降るのが面白い。ところどころ、壺足で歩いて踏み抜いたのであろう、深く落ち込んでいる跡が残っているから、スノーシューは、それなりに役立っているんだね、とmrさんのkwmさんと交わす声が聞こえる。
 
 小田代ヶ原のシカ柵の回転扉は取り外されている。そこをくぐるとすぐに分岐がある。原の西面への道を分けて東面へ向かう。踏み跡がしっかりとついている。ということは、ここしばらく雪らしい雪は降っていないのであろうか。強い風もさほど吹いていないとみえて、トレイルが道案内をしてくれる。そこを外れて歩いているのはokさん。雪道はどこでも歩ける。勝手気ままが気持ちがいい。小田代ヶ原の北東端の分岐に着く。11時20分。一息入れる。原の東側、カラマツのカーテンを裏から見るようになる。ところどころにシラカバが立ち並ぶ。空の青と雪の白と木立の黒っぽい縦じまが陽ざしに輝いて清冽な感触を湛えている。女性の二人連れが私たちの行く方向からやってくる。戦場ヶ原を通って赤沼へ戻ろうと考えていたが、青木橋が通れないので、戻るところだという。天気がいいからこうやって散策する人たちがいるんだ。
 
 泉門池へ向かう。このルートは、いつもはあまり人が歩かないのに青木橋が渡れないから、踏み跡が多くなっているのか。でも、森の奥深く静かな感触はただよう。木立の間から、男体山、大真名子山、小真名子山、太郎山、山王帽子山、三つ岳と、奥日光の山々が一望できる。「冬の間しか見えないからね」とKさんが声を上げる。「大真名子、小真名子って女の子だね」と誰かが言う。「そうそう、太郎が長男、女峰がカミサンよ」と応じる。男体山一家だ。30分かからずに泉門池に着く。年中棲み込みのマガモも、きらきら陽ざしに輝く水面に浮かんでいる。ここのベンチでお昼にする。
 
 食べ終わって後ろを振り向くと、いつもは「もっとゆっくり食べさせてよ」とこぼすmrさんがもう背中にリュックを背負っている。他の方々は、男体山を眺めながら日差しを浴びて冬の奥日光を味わっている。男体山の右肩にぽかりと、小さい雲があるだけ。空の青さがひときわ際立つ。陽ざしが暖かい。
 
 ここから先頭をoktさんが歩き、森を抜けて湯滝下を目指す。雪のないときはササが生い茂って歩けないが、積雪期だけは直登できるショートカットの道だ。谷筋から山際へ向かうのだが、ピンク乗り版がつけられていてガイドしてくれる。人の踏んでいない雪の上を歩くのは、気分がいい。年末に歩いたときは50センチばかり雪が積もった直後で、スノーシューを履いていても、下肢の半ば近くまで沈んだ。それがここ一カ月半の間に、陽ざしを受けて溶け氷点下の気温に固まり、雪が締まっているから、ほんの10センチくらいしか沈まない。先頭を交代してmrさんが歩く。ずいぶん力強くなった。湯滝下に入る急斜面も、どこを降りようかと興味津々な様子。雪を愉しんでいると感じる。
 
 35分ほどで湯滝下に着いた。湯滝についていた氷や雪はすっかり融け落ち、さらさらと薄いベールのように水が流れ落ちている。滝の脇を上がるルートは、湯滝上にあと20メートルというところで、国道の除雪をした雪が投げ込まれ積もって、道を塞いで通れない。湯滝入口バス停のところで、今日の歩きは終わりと考えていた。「ええっ、もう終わっちゃうんですかぁ」とmrさんがいつものジョークを言う。Kさんが「いや、だったら国道を少し歩いて湯ノ湖の西側を回るコースを歩きましょう」と提案する。私は赤沼に車をとりに戻る。ちょうどいいかもしれない。皆さんもあと二時間くらいなら歩けると意欲的だ。バス停へ向かう。若い人が何人か、降ってくる。湯滝を見に来たに違いない。車の通れるアプローチは、歩きやすい。
 
 バス停のところへ来たとき、湯元からのバスがやってくる。「早く行きなさいよ」と言われて、スノーシューを履いたままバスへ駆け寄る。乗ろうとする客が何人かいて、待たせることなく乗ることができた。光徳へ立ち寄って赤沼に降ろしてもらう。途中でサルが道を横切る。乗客が、サルだサルだ、と声を上げる。サルはちらりとバスを見やって平然と渡り、雪に乗ってからこちらを見ている。赤沼から湯元へ車を走らせていると、湯の湖の東側の山すそを歩く一団がいる。みると、湯の湖の西側を歩くと言っていたわがグループの人たちだ。こちらのコースをたどっているのを確認したよというつもりで、車の警笛を鳴らす。
 
 湯元の宿に車を置き、受付だけ済ませて皆さんと合流すべく、迎えに出る。湯の湖の東岸の道も道路を除雪した雪が積み上げられて、通れなくなっている。入口には「通行禁止」の表示が掛けられていた。同じような表示板が湯滝上の西岸への入り口にもかけられていたそうだ。ま、禁止領域に踏み込むほど若くはない。2時前に着いた宿のロビーに座り込んで、今年四月から九月までの「山行計画」をチェックする。mrさんもプリントをしてきて三案を提案し、どれがいいかと話す。来客は多く、中国語のやりとりも聞こえる。観光客だ。
 
 2時40分頃、部屋に入る。風呂から出てkwrさんが勝ってきてくれたビールを空けて、皆さんが来るのを待つ。顔がそろい、oktさんとKさんの二人の喜寿のお祝いをする。oktさんはあと二日で77歳、Kさんはあと三か月ほどで追いつく。とても喜寿とは思えないほど、二人とも元気がいい。持ち込みのシャンパンを明け、ワインを飲みながらおしゃべりがつづく。mrさんも「わたしも年女よ。還暦になる」と、一回りさばを読んで元気ぶりをアピールしている。kwrさんの友人にすい臓がんの名医がいると聞いて、swdさんが紹介してもらっている。彼女は、自分はすい臓がんで寿命は70歳と(勝手に)きめている。あと3年のいのちだというので、百名山をつぎつぎと登り、海外のトレッキングにも意欲的に出かけている。とても死にそうにはない。名医がいて早く発見できれば寿命も延びると知って、藁にもすがるつもりのようだが、鉄のような藁に思える。
 
 去年は、ここで呑み過ぎて、夕食が何であったかほとんど記憶に残っていなかった私も、今年は自重している。夕食も記憶の中で済ませ、8時前から朝6時ころまでぐっすりと寝入った。体はけっこう昼間の歩きで疲れていたようだった。
 
 21日朝食はバイキング。皆さん食欲は旺盛だ。ゆっくりコーヒーも、甘みも、ベトナムの香草の入ったホウも頂戴して、出かける準備をする。8時45分玄関前に集合。そこからスノーシューを履いて登山口へ向かう。9時15分、金精道路脇の林道を歩きはじめる。oktさんが先頭。上から降りてきたような踏み跡がひとつある。昨日のものか、一昨日の足跡か。柔らかいところは、ずぶずぶと足が沈む。10分ごとくらいに先頭を交代してあるく。三つ岳の裾を回って小峠へ抜けるわけだが、ここはロイヤルロードとKさんが話している。今の皇太子が切込湖刈込湖を歩いたときにつくられた林道だという。そうなのか。「平が岳へは(皆さんを)案内しないの」とKさんが私に尋ねる。「往復11時間だよ」というと、「ロイヤルロードを辿れば5時間くらいじゃないか」と、昔私と一緒に行ったことを思い出させる。いつのことだったか忘れたが、いまもあの林道が使われているだろうか。そう声に出すとswdさんが「近くの宿に泊まったら、そこの人が送ってくれたよ。降りてくるまでそこで待っててくれて」と百名山踏破のときの最近の話を聞かせてくれる。
 
 ずいぶんペースが速い。年末に歩いたときには、雪が降り積もったばかりということもあって、ごく柔らかい雪にスノーシューを履いた足が沈み、小峠まで3時間もかかった。距離的には2時間くらいと見込んでいたのに、ずいぶん遠い。ところが今日は、倍速程に早い。三つ岳の方を超えて光徳へ抜ける旧道との分岐も(年末には1時間かかったのに)35分ほどで通過している。踏み跡は残っていたり消えていたりする。列を離れて脇の小高いところへ踏み入ると、ずぼりと膝の辺りまで沈み込んだりする。森の中の深々と積もった雪に身を置いて歩くのは、神々の世界に踏み込んだような気配がして、自ずから厳かな気分になる。そう言えば、神は冬、山に還り、春になると里に下りてくると、柳田國男が書いていたか。里人の農作業にともなう祭りごとは、山の神々への祈りを捧げることであった。不信心者の私でさえ、山に入るとそれを感じる。わが身に受け継いでいる自然信仰の現れか。
 
 小峠に着いたのは10時45分。ほんとうに1時間半で来ている。まだお昼にゃ早いよというので、蓼の湖まで行こうとなる。45分くらいかかるから、ちょうどいいだろう。小峠からは、いきなり急な下りがある。kwrさんやkwmさんは軽快に下っていく。oktさんが急な斜面で滑ったが、うまい具合にシリセードで斜面を降りる。慎重な年女が「なんでこんなところがあんのぉ?」と山の神に文句を言っていいながら下っている。と、下から登ってくる8人ほどの一団とすれ違う。蓼の湖から登ってきて、私たちと反対に、林道を通って湯元へ降りるという。私たちよりは若い。
 
 ブルーリボンがつけられていて、道を踏み外す心配はない。あまり快調に飛ばすものだから、わずか25分で蓼の湖に着いた。湖面は8割方が凍り、北側の流れ込みがあるところだけ薄黒い水の色を湛えている。どこか腰掛けてお昼にしようと思ったが、湖面に近寄ると強い風が吹き抜ける。「湯元まであとどれくらいかかる?」とkwrさんが尋ねる。30分くらいかなと応えると、「じゃあ12時にはつけるから、どこか暖かいところへ行ってお昼にしようよ」と話しがすすみ、一も二もなく歩きはじめる。Kさんが湖面の方へ行く。昨日、京都暖かかったから、私は氷の上は歩かないほうがいいのではないかと思ったが、「大丈夫だよ」とKさん。彼は足尾で育っているから、氷の上を歩けるかどうかは、的確に判断できる。なら彼に任せようとあとへつづく。ところが、中ほどへ行くと、ずぶずぶと氷の上の雪に足がうずまりはじめる。
 
 湖を渡り、小さな尾根を回り込み、私が先頭になって金精道路の方へ向かう。標高差30メートルほどの急な斜面の直登に差し掛かる。どうかと思ったが皆さん、着実な足取りで食いついてくる。ときどき振り返ってカメラのシャッターを押すが、すぐに追いつかれてしまう。kwmさんとmrさんが湧きを抜けて登り切り、「なんだ、もう着いちゃった」と声を上げる。しんがりを歩いたKさんが「みなさん、上手くなった」と褒める。下りも急斜面の登りも歩き方が上手になったというのだ。私は強くなったと思っていたが、この年で強くなるはずがないと思っている、アスリートのKさんからみると、上手くなったというのが年齢相応の誉め言葉というわけだ。そういわれてみると、そうだ。林道を歩き時の倍速と言い、急斜面の上りと言い、的確に一歩一歩の脚の運びに上手く重心を移動させ、ほとんど無駄なく歩いている。oktさんもほとんど疲れをみせず、歩き切った。
 
 湯元に降り立ったのは、12時前。スノーシューを車に積み込み、休暇村湯元の喫茶室に入ってコーヒーを注文し、お昼の食事を出してしばらくまた、おしゃべりに興じた。そのとき、3月の第二日曜日に光徳のアストリアホテルを出発点にして、スノーシューの大会が開かれ、Kさんがスウィーパーとして手伝いに入る予定になっていると話す。「みなさん出ませんか。今日くらいの歩き方をすれば、十分レースに参加できますよ」と声をかける。「面白そう」とswdさんがやる意志を示す。「今から間に合うのなら、出ようか」とkwrさんがkwmさんと相談して、5キロのコースに出ることにした。昨日、今日のスノーシューの一大成果である。
 
 休暇村の日帰りの風呂が(宿泊者は)半額とあって入っていこうという人、バスで帰る人と別れ、私とKさんはスノーシューを返却に麓の日光市へ向かった。スノーシュー大会の雪渓と実施の責任者である自然計画のMさんは「みなさんをお誘いいただいてありがとうございます」と大喜び。kwrさんたちの使うレース用の軽いスノーシューを、当日用意してくれることになった。無理をせず、怪我をしない程度に愉しんでくださいな。
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完成度が高い劇団ぴゅあ公演

2018-02-19 08:13:46 | 日記
 
 劇団ぴゅあの第30回記念公演『其は誰が為に贈られる』を観てきた。150席ほどの彩の国さいたま芸術劇場の映像ホールが満席になるほど。土日の三回公演の真ん中。役者も一回演ってひと眠りし、勢いに乗る午前11時の公演。脂がのると思った。
 
 面白かった。「ハートフル・ホーム・コメディ」と案内葉書に記していたから、ひょっとしてドタバタかと思っていたが、案に相違して、テーマが一本筋を通している。
 
 「2016/11/7」のこのブログで「人類の才能の延長」として取り上げたテーマと同じ。ブログで話題にしたのは、2006年のフィールズ賞を受賞することになった二人の数学者。一人は、百年の難題と謂われた「ポアンカレ予想」を解いた(のに受賞を断った)ロシア人数学者、グリゴーリー・ベレルマン(40歳)。もう一人は、ベレルマンと同時に受賞したUCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)のテレンス・タオ教授(31歳)を育てた、小児科医の父親の人間観とその教育方針に賛辞を送ったものであった。
 
 その二つの話題をミックスさせて、平凡な日常に投げ込み、「ハートフル・ホーム・コメディ」に仕立て上げている。脚本の萩原康節は上手くなった。流れるようなストーリーは、まさに短編小説を読むような軽妙さを湛えている。それを演ずる役者たちの立ち居振る舞いも、なめらかである。いつも公演を見た後で書いて出す「感想」に、「上手くなった」と書こうとして、おっとこれは失礼と思って「上手い」と記した。あるいはまた、「商業演劇としても遜色ない」と書き落とし、出口を出るところにいた顔見知りの受付嬢に「完成度が高い、と訂正しておいて」とお願いした。つい、ご祝儀袋にいつもの倍の金額を入れてしまったくらいだ。
 
 「市民劇団」と自称する劇団ぴゅあの活動については、やはりこのブログ、2016/2/2「劇団ぴゅあの開放性に敬服」と2014/12/10「萩原康節主宰の劇団ぴゅあ、頑張れ」で、文化運動としての質の高さを称賛したが、今回の公演で萩原康節の世界を見る視線が、ひとつ厚い層に踏み込んだように感じた。これまでの「物語り」は同世代の齟齬や軋轢を素材としていた。だが今回は、次の世代の行方を俎上に上げている。
 
 「今回のお芝居は娘ができたから、演じたくなった作品であった」と萩原は記している。もともと持っていた彼の人に向ける視線の柔らかさが、世代の超えた[普遍性]を得たように思わせる。その転換点にある観念を[孤独]におく。私に言わせると[孤独の感知]。あるいは「[人間存在の底に足をつける]とでも謂えようか。萩原は、「市民劇団」を主宰し公演を積み重ねつづけるうちに、活動の一つひとつが浮かび上がっては消えていく陽炎のように儚いものと思えてきた、という趣旨のことを記している。あたかも「公演」を消費しているのではないか、と。
 
 じつはこの感覚には、人が活動的に生きようとする上で必ずぶつかるように思う。先日の「ささらほうさら」の講師を務めたosmさんも、理念的な体系を探究する彼自身の視線の基点に、「その人がいなくなってしまうと消えてしまうようなことに意味があるか」と社会的な論を構築する意義を問うている。osmさんの視線の行く先には(たぶん)[普遍的な体系]が想定されている。だが、そこには、ない。このブログの2018-2-1《「転向」なのか「自然(じねん)への先祖返り」なのか》にも述べたように、[普遍的な体系]は遠近法的消失点に「あると想定」されているものであって、現実には「かんけい」のなかに刹那に現れ、場が変わるとたちまち消えてなくなるコトなのだ。[普遍性]というのは、人間が文字通り観念的に仮構しているだけのものなのだ。
 
 ことに演劇の公演という感性に深くかかわる活動をしている人たちにとっては、公演の成功は、「時よ止まれ」と叫びたくなるほどの興奮を呼び起こし、「[普遍性]を刻みたくなる。だが、陽炎のように消える。そのことに「いらだちや焦り」を感じるのは、その人の活動的欲望がその先へ膨らもうとしている、証のようなこと。それが集団的な活動において起こると、あたかもそれが一般性を獲得し、永続性を持つように錯覚してしまう。「商業演劇」の場合には、そのひと公演が当たれば、即収入に結びつくから、若干の手入れくらいでやった成果は目に見える。マンネリになる。マンネリがひとの暮らしのベースであることは、誰もが知るところだが、創造的な活動においては停滞となる。創造的な、二歩目の一歩をどう踏み出すか、いつもそれを考えて呻吟しているのが、欲望の神髄がある。萩原はそこに突き当たっているのだと思う。
 
 「市民活動としての劇団ぴゅあ」は、一つひとつの要素を取り上げてみると、「総合芸術」と謂われるだけの広がりと深さをもっている。音声、照明、衣装、色合いのコーディネート、映像、大道具、小道具、場の構成、それの転換、発声、所作、関係的振舞い、人の立ち位置、そして動線、その上の、台詞と演技である。そのひとつひとつに「流れるような/違和感を感じない」、見ている人との間の無言のやりとり(コミュニケーション)が行われている。まさに総合的な文化運動である。その一局面に焦点を当てて踏み込んでみると、そこにまた、意識されない厚い時代的堆積とみてとれぬ深い闇があることに気づく。それは同時に、いまほとんど身体感覚の趣くまま、つまり無意識に振る舞っている日常を意識化する、自己を対象化する、自己批評的な地平が広がってみえることでもある。劇団ぴゅあの活動は、そういう意味で、市民生活の文化性への(自己)批評的活動でもある。別のことばを使えば、自己の輪郭を描く自画像の活動なのだ。もう一つ別様のことばを重ねれば、それは(活動にかかわる人それぞれの)「せかい」を描き出す活動でもある。
 劇団ぴゅあの公演がそのような広がりに対して開放的であるとは、たくさんの枝葉に「じぶん/せかい
」を吟味しつつ描き出す芽を育てていることだ。その芽がどう育つかは、まさに社会のオーラがどう紡がれ築かれていくかにも(いつしか)影響を与え、与えられていく。それが世代を超えて受け継がれていくことによって、いまの「わたし」が立ち現れていることでもある。十分ではないか、それで。
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記憶と印象と歳を経ること

2018-02-17 20:56:20 | 日記
 
 人の記憶というのは勝手なものだ。20年前に生まれた孫のことよりも、それより10年程も後に生まれた孫のことを、よく憶えている。こうも言えようか。中学に入って以来、滅多に近づかなくなった孫のことよりも、まだときどきは顔を出す小学生の孫の方が印象の残る、と。それと同時に、五人いる孫それぞれの違いをはっきりと感じているのだが、間違いなく大きい孫に「規準」を置いて、見定めている。「規準」にするというのは、いつのまにか「孫」という一般名詞のように、どの孫をみるときにも、最初の孫との出来事や付き合い方を「モデル」にして、それとの差異で下の孫の特徴を見定めている。経験則と謂えばわかりやすいが、これは私の偏差だろうか。それとも、いくらかは一般性のある話なのだろうか。
 
 ひとつ、こういうことは言える。私は息子や娘夫婦とは、ずいぶん離れたところに暮らしている。こちらはさいたま市だが、名古屋や芦屋の方に居を構え、むろん仕事もそちらの方にもって、もう何十年もたつ。だから私たち爺と婆にとって「孫」と会うときは、いつもハレの日である。核家族ではあるが娘の方は、婿さんの実家の割と近くだから、婿さんの方の爺婆にとっては、内孫であり、ケの日の付き合い方をしている(と思う)。娘は姑や舅の愚痴を(私には)こぼしたことがないからわからないが、それでも日常的なかかわりを持っていれば、(お互いに)腹の立つこともあろうし、細かく世話をされれば、それもまたうっとうしいと感じることもあろう。つまり、婿さん家の文化とわが方が育てたところで身につけた文化とが(関東―関西という文化の違いも含めて)、肌触りの違いのように異質に感じられて、いやな気持になることも(お互いに)あると思う。だから、ケの日の付き合い方をする爺婆とは、「孫」に対する印象もまた違うも違いない。それはしかし、親密さの遠近法による違いなのだろうか、それとも、後期高齢者時代に突入している私の、歳をとることによって生じる自然な記憶の衰退による印象なのだろうか。
 
 だから最初の孫を遇したやり方で、二番目の孫にも向き合ってきた。いちばん上を富士山に登頂させたとなると、二番目も連れて行った。北海道へ連れて行ったとなると、同じコースではないが、似たような「旅」を企画して連れて行った。むろん兄弟一緒のときはそれはそれで面白いし、弟しかいなくても「お兄ちゃんのときは八合目から引き返した」と話して、それで奮起して旭岳の山頂まで歩かせた、「お兄ちゃんに勝ったあ」と弟を喜ばせたこともあった。兄孫のときは、夏というのに途中から雪になり、視界がすっかり閉ざされ、寒気に震えるようであったので、下山したのであった。
 
 いまは「孫」という一般名詞ほどに、五人の孫が溶け合って感じられる。もちろん顔を違い、性格も違い、才能も違うのだが、どの子も「孫」として小学校を卒業するくらいまでは、こちらを爺婆としての親しみを持って関わってくれているように思う。
 
 そうして二十年もたつと、小さな子どものことばや振る舞いや何気ない所作が、その子の内面をどう表しているか、探るように見ている自分に気づくことがある。町を歩いていても、登下校中の小学生がワイワイとにぎやかにしゃべり合い、逃げたりおっ駆けたりし、ときにはいじめじゃないかと思うほど、小さい子を大勢が揶揄い、小さい子も負けずに言い返していたりするのを、すっかり他人事のようににこにことみている自分に気づいたりする。孫目線というと少し違うが、爺目線になっている。
 
 私自身が変わってきているのだ。歳をとったから、こういう、親密な第三者とでもいうような、他人事の視線をもつようになったのだろうか。たしかにそういって、言えなくはないような気が、どこかにしてはいる。涙もろくなったり、寛容になったり、まあいいやと、腹が立ったり文句を言いたいときにも一歩引いてしまうのも、歳のせいかと思っている。それならそれでいいのだが、まだ変われる年代なのだと喜んでいいのか、この年になってまだそんな世迷言を言っていると呆れた方がいいのか、わからないが、そんなに悪いことのような気がしない。
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