mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

日本人の不思議の根っこ

2023-02-28 06:40:06 | 日記
   BBC東京特派員ヘイズさんは、《…それでも日本は変わりそうにない。原因の一部は、権力のレバーを誰が握るのか決める、硬直化した仕組みにある》と指摘し、《明治維新…(と)1945年の(敗戦という)2度目の大転換が訪れても、日本の「名家」はそのまま残った》と日本社会の「硬直化」の因を探り当てようとしている。
 ヘイズさんは「権力のレバー誰が握るのか決める」私たち庶民の心性を探り当てようとしている、と読んだ。そしてそれを私は「日本人の不思議」と名付けた。私にとってもそれは「ワタシの不思議」だからである。ひょんなことで、二つ、心当たりのある根っこの「不思議」に出逢った。
 ひとつは、ジョナサン・ローチ『表現の自由を脅かすもの』を孫引きした小谷野敦に触れた8年半ほど前の私の既述。もう一つは、今朝(2023-02-28)の朝日新聞「折々のことば」に記された青木さやか(とそれを引用した鷲田清一)の言葉の持つインスピレーション。まず、その二つを紹介する。


*1 ◇ 愚民社会か選良の条件か(再掲)


 …(前略)…小谷野がそのように攻撃的である理由が、同書の中にあった。小谷野は、《「どんな差別表現も反人権的記述も一切自由」だが、「批判を受ける義務がある」》というジョナサン・ローチ『表現の自由を脅かすもの』(角川選書)をまとめた呉智英の言葉を孫引きして、つづけて次のように言っている。
 《ローチは、批判し合うことは自ずと傷つけあうことになるが、傷つけあうことのない社会は、知識のない社会だといって、こともあろうに日本の例を挙げている。日本には、公の場で堂々と議論するという伝統がなく、日本では「批判」は「敵意」とみなされるから、人々は相互に批判することを避け、その代償として日本は教育のレベルが高いのに、諸大学は国際的基準からすれば進歩が遅れている、と述べているのだ。》
 私は、彼のローチを引用しての記述に賛成である。「人々は相互に批判することを避け」るばかりか、疑義を呈することすら「攻撃」と見て避けようとする。大学という場でのことであるが、学生たちの多くは、教室で発表したことに対して反論や疑問が提出されることを嫌がった。「人間関係を壊す」というのである。小谷野からみると「バカが大学生になった」からというであろう。だが私は、学生のそうした反応自体が、「今どきの若者の関係」を象徴することと思えた。なぜそう受け止めるのか、どうしてそう教室で発言して、怯みがないのか。私などの若いころとまるで違うという感触が、私の疑問の出発点にある。「バカが」と言ってしまうと、そこで思考は停止する。もちろん小谷野には、「バカにかかづらう暇はない」かもしれない。だが、この学生の感性の根っこには、匿名を好み、実名で発言しようとしない(私を含む)日本人の心性があるのではないかと思う。どこかで、宮台のいう〈任せて文句を垂れる社会〉〈空気に縛られる社会〉を担う「日本の人々の気質」につながっているように感じる。
 もちろん断るまでもなく私は、大衆(庶民)の一人だ。雑誌やTVや新聞と言ったメディアに登場する「プチ=インテリ」の発言を、ある時は面白いと思い、ある時はまゆつばだと思い、たいていは、へえそうなのかと、ちょっと疑問符をつけつつ受け容れ、機会あればそれを「確認する」ようにしている(でもたいていは、忘れてしまって、そのまんまにすることが多い。それは年のせいだが)。疑問や同意や保留というのは、私自身が内面に抱いている感性や感覚、思考や価値に照らして、ヘンだなという感触をもつかどうかに、かかる。ときには、私は同じように感じているが、そういえば、なぜそう思うか根拠を確かめたことがないと、自分の内面に踏み込むこともある。
 どうしてそうするのか。世の中のいろんな人の立ち居振る舞いや言説は、とどのつまり、自分の輪郭を描きとるために行っていると思うからだ。それが、私の「世界」をつかみ取ることであり、私が生れて以来これまでの間に、通り過ぎてきた「人間の文化という環境」から身に着けた感性や感覚や価値や思考を、あらためて対象として摑みだし、一つ一つその根拠を(あるいはそういうふうに身体性をもち来った由来を)自ら確認するためである。それが大衆の自己意識形成のかたちであると、私自身が思っている。…(後略)…(2014-09-06)


*2 ◇ 「折々のことば」2023/02/28


《自分の親を嫌いでなくなることがこんなにも楽なことなのか なぜか 自分の中の元の部分を嫌いではなくなったからでしょうか 青木さやか》
***
 *1の方は、「愚民社会」というタイトルで出版された二冊の本、宮台真司×大塚英志の共著と小谷野敦の本を読んで、その両著のスタンスの違いを取り上げて、わが身の中の「エリート性」を見分けようとした文章。俗に「知的」と呼ばれているものが、権威を纏って「名家」を為す姿(=小谷野敦)とでも言おうか。対照させてワタシは小谷野の批判する庶民(大衆)の一人であるが、でも色濃く「名家」の雰囲気を身に刻んでいるなあと感じている。
 *2の方が、その「感じ」を気づかせてくれる。青木さやかのことばは、ほとんど無意識に刷り込まれて受け継いでいる文化が、意識の表面に表出した瞬間を捉えている。善し悪しは別として私たちは99・9%の無意識の伝承とわずか0・1%にも満たない意識的な伝承を「知的」なこと意識しているが、それすらも無意識に刷り込まれた「権威」として受け継いでいるってことだ。それに添うことを「楽なこと」と感じる感性が、「日本人の不思議」となっているのではないか。
 そして、グローバリゼーションが広まる世界に身をおいて私たちは、わが身の身体性と意識される自己との齟齬に揺れ動いている。それが、ガイジンの受け入れを逡巡し、都会者の浸入に警告を発し、ヘイズさんの言う「権力のレバー」の握り手を支えているのではないか。とすると、果たして「(わが身に)楽」な道をたどることがいいのかどうか。楽な道をたどれば「変わらないまま」になる。小谷野敦の背負っている「知的世界」の道をたどれば、これまた「名家」の伝統的権威にこだわってしまう結果になる。
 とどのつまり、ジブンの身に染み付いて無意識世界に沈んでいる感性や感覚、選好や思索の根拠を恒につねに繰り返し自問し、その時々の回答を繰り出して歩一歩と進むしかない。
 勿論それが何になると問われれば、イヤ何にもならないかもしれない、だがそうやって何万年かやってきて、今ここに立ってるんだよ、と応えるのが精一杯ってことかな。


個人主義と自由と支え合い(2)

2023-02-27 09:13:55 | 日記
 昨日紹介したオオガくんの【返信6】の末尾に「税と社会保険合算の国民負担率が46・8%と発表された」とあり、それが将来的に7割の水準に増えることを想定しているようだったので、表題のようなテーマを考える必要を感じた。
 コロナ禍に際して先の首相が「自助」「共助」「公助」と分節化したので明らかになったのが、「共助」の少なさである。私たち日本人はと、いまとりあえず一括してしまうが、ご近所のネットワークで助け合うってことをすっかり忘れてしまったかのように、家族単位で身を固めて守りに入っているとみえる。家族と言っても大家族ではない。お役所のシステムでは未だに大家族単位で人々の暮らしが成り立っている社会想定をしている。たとえば、生活保護を受けようと申請してきた人の、親兄弟ばかりか叔父叔母従兄弟に援助は受けられないかと調査が行われるという。
 どなたか社会学者の研究に「日本は昔から核家族であった」というのがあった。親兄弟だって成人すれば、それぞれの家庭を持って独立したら生計を営む。そうなると、昔の映画『東京物語』やそれをリメイクした『東京家族』じゃないが、互いに近況を交わし合うこともなくなるばかりか、たまさかに訪ねてきた田舎の親も、日常への闖入者となり、世話をするのは何かと大変と応じる。世話になる、迷惑を掛ける、気遣いをするという伝統的文化自体が、面倒を引き起こす。
 それぞれの事情をわかり合って扶け合うということなど、想定できない「関係」になっている。暮らし方の大変化が起こっていたのだ。日頃疎遠であった家族たちが、ひと度何かあったら扶け合う関係を復活させるというのは、突然の事故で両親が亡くなった甥や姪を引き取って育てるとか、あるいはせいぜい、身元保証人になって就職などの手助けをすることくらいしか考えられない。それさえも物語の中の、昔風の繋がりをもった世界のデキゴトだ。
 つまり社会生活の日常に於ける「家族」は、よくて二親等の結びつきである。伯父伯母・姪甥が親身になって世話をするというのは、思いもよらない。これは所有権とか相続権という社会制度も関係しているかもしれないが、いま、そこまで話を広げない。
 遠くの親戚より近くの他人という俚諺の通り、暮らしの日常を知り合っている他人の方が頼りになるし、気持ちを交わしあって「共助」をすることもできる。だが、都会化がすっかりその「共助」さえも「公助」に一括するようにしてお役所にまとめられ、たとえば「共助」の単位であったはずの町内会が地方行政の下請け機関となっている。
 これはインフラ整備と同じに考えているのかもしれない。都会に暮らす人たちのご近所空間を整えるのは地方行政の役割であり、不都合はなんでもかでも地方行政に訴えて手を打って貰うという感覚が、私たちの日常に染み付いてしまっている。つまり私たちの暮らしの独立単位は、よくて夫婦、あるいは独り暮らしの単身単位に限られた個人主義のセンスが行き渡っている。それを自由と考え、気持ちよく過ごす空間として人々は身に刻んできた。それが都会生活の心地よさであったと、今私は思っている。
 その心地よさと引き換えに私たちは、「共助」を手放し、不備不都合を「公助」に要求し文句を言うようになった。お上の方も、何でもかでも指針を出して整えようとする。コロナ感染を防ぐ為にマスクをするかどうかまでお役所が提示する。「個々人の判断に委ねる」って指針が出る。笑わせんじゃない。インフルエンザと同列にするってのなら、そんなこと自分で考えろよといえば済む。そこまで政府が口出しするってのは、「共助」というセンスが蒸発してしまったからだろう。個々人がささら上にお役所に直結しているって格好か。
 そういう個人主義が北欧でどうなのかは知らないが、日本の場合、家族感覚や所有感覚は(社会制度として)昔のままに残り、しかし社会生活に欠かせない「自助」「共助」「公助」の考え方も(実態はないまま)中途半端に残っている。お役所のというか、政府のセンスも古いままでやってるから、結局現実過程の不具合は個々人に全部押しつけるようになって、厳しい事態のおかれてしまう人たちが出来している。
 日本のコミュニティ性のこういう現状から考えると、案外北欧の国民負担率7割というのは、私たちに合ってるかもしれないと私は思う。北欧の人たちが負担率の多さとと引き換えに、預貯金など己の懐具合を心配することなく暮らしていると耳にする。オオガくんの【返信6】は「セイフティーネット」と呼んだ。個々人の暮らしが万一に遭遇した時の「支え合い」の仕組みを、現状強を算入して考えると、国民負担率を上げて預貯金無しでも暮らしていける安心感を世の中にもたらすのが一番いいのではないか。
 そんな感じがする。


個人主義と自由と支え合い(1)

2023-02-26 09:02:34 | 日記
 BBC東京特派員ヘイズさんの「日本人の不思議」を媒介にしてseminarのお題を探る遣り取りが佳境を迎えている。テーマは1990年代初め・バブルが絶頂期にあった頃と2023年の現在との日本の様変わりは、なぜだったかと自問すること。「様変わり」と呼んで「失われた*十年」とか「経済的な凋落」と呼ばないのは、果たしてこの変容が良いことか悪いことか一概には決められないかもしれないと、価値判断を中動態化しているからである。
 このとき、経済的な様変わりをみていくことが、まず一つ必要になる。この様変わりは、他の国との比較によってみるしかない。なぜそうなったかを探っていこうとすると、グローバリズムという経済的な大変動でさえ、主導関係国の政策変更という変数があって、一筋縄では解き明かせない。最も明快に語るのは陰謀論。だがこれは、幾つもある変数の動態的平衡を考慮しないから、操作するものと操作されるものという「能動-受動」関係に貶めてしまって、フェイクとリアルの対決構図しか浮かび上がらない。
 次いで30年の様変わりを探ろうとするとき、すぐに国民国家の盛衰という次元でみてしまうことが一般的なのだが、もう一つ次元を掘り下げて、人々の暮らしがどれほど楽になったか苦しくなったか、豊かになったか貧しくなったか、貧しくはなったが楽になったということもある。トップばかりを走りつづけようとするしんどさから解放されて、収入は少なくともたっぷりの時間をゆったりと暮らす、大きな文化的な転換が進んだというのも、ありだ。その視点から見ていこうとすると、子育てや教育がどれほど安心してできるほど、充実してきたか/こなかったか。病気や不慮の事故によって不遇に陥っても、不安に駆られることなく治療療養に身を任せ、周辺の人たちは状況の急変に右往左往することなく、事態に対処できるようになったか/ならなかったか。私たちの暮らしのベースであるコミュニティが(地域行政も含めて)どう様変わりしてきたか、いろいろな局面で探ってみる必要がある。当然国家の採用する社会政策がどう様変わりしてきたかも、大事な変数の一つになる。
 そうやって考えてみると、強権国家中国の野望とかロシアのウクライナ侵攻など、国際関係の変容は面白くはあっても、じつは差し迫って切実とは言いがたい。上記の人々の暮らしは、そうした国家間の争いをどう捉えていくかと考えるときの土台を為している。その点で「日本人」はどう自己評価をし、将来への展望を見通そうとしているのだろうというのが、「不思議」の主題だと言える。
 そんなことを考えていた今朝、愛知県のオオガくんから「駄文を送ります」とメールが届いた。思わず、我が意を得たりと御礼の返信を打った。それを全文、【返信6】と銘打って紹介しよう(一部簡略化している)。


◇ 【返信6】オオガ(2)


Fさん
 大企業中心ですが、賃上げも安倍時代の官製春闘から少しトーンが変わりつつあるような気がします。このモメンタムが地に着いた動きとなって、日本の活性化に化学反応を起こしてくれることを期待したいですね。日銀総裁が替るタイミングでもあり、この国のことを考えることは我々にとって天唾といわれても、「終活」と共に大事なことではないでしょうか。前回の駄文を深掘りする力はありませんが、BBC特派員氏が指摘し、更にはマスコミで散々言い古され、手垢に汚れたことをなにも今更と思いますが書き連ねてみます。
 LGBTやジェンダーギャップの話はあなたの言われる通りで、日本人のバックボーンでもある宗教観や保守の強固な岩盤に矛先が向かうのでしょう。絶対神であるキリスト教やイスラム教に比べ、八百万の神信者である日本の大衆社会の庶民感覚は自ずと根底から違うと思う。強固な保守岩盤と言っても、米の福音派の存在とは、自ずと異なる。
 其れよりも「下部構造が上部構造を規定する」のは歴史の必然で、30年の経済停滞をこの機に改めることは遅きに失したとは言え、手をつけねば後を託す世代に申し訳が立たない。下部構造=経済(経世済民)があってこそ、一国の政治、文化、社会通念が後発して出来する。今回の世界的なインフレの要因は述べるまでもなく様々あるが、GAFAMが採ったダイナミックな雇用者解雇は、日本の労働法ではあり得ない話。かの国ではGAFAMがIT不況、リーマンショックを奇貨として、従業員の大量解雇、その人達の受け皿としてのスタートアップ企業の存在と旺盛なイノベーションが加わり、ビッグテックとして大きく飛躍し世界を席巻した。一方、日本は戦後のシステムはGHQからの押しつけの借り物との考えが色濃く蔓延っていた。それに加え、高度成長の僥倖に舞い上がり、皇居の地価がカリフォルニア州の其れを越えたと大騒ぎした。勤勉な労働者とメンバーシップ型の終身雇用は大量生産には有効であったが、問題の先送りや、経営者の責任回避に体よく使い回された。経営は「人」をコストとして捉えてきたから、企業間競争上から賃金は増えず、非正規社員は4割までに膨れ上がった。一時1ドル70円台の円高に、悲鳴を上げて海外に生産拠点を移し国内は空洞化する。ウクライナ問題や、米中のデカップリングで、非資源国である日本は、シベリアからの原油、LNG輸入問題や50年のカーボンニュートラルの世界公約もあって、世界の中で化石燃料の確保という点ではどうしても旨く立ち回れない。労働生産性、就中、非製造業の其れは低く東京のマックの値段はNYの半額である。これは地価、人件費とDXの取り組みの差で説明がつく。
 黒田日銀を全て否定はしないが、政府と結んだアコードの肝である、3本目の矢は日本経済の構造改革であったはずである。総裁として「孤独に堪えて政治と対峙」したのだろうか。大胆な金融緩和と積極的財政出動は、換骨奪胎の一面があったものの、「日銀は政府の下請け」化して、日銀としての独立性に違背した側面があったことは否定できない。日銀からボールは政府に投げられたものの、握りつぶされたまま返球されていない。それどころか、自民党内には現代貨幣理論(MMT)を楯に、日銀のバランスシートを極端に肥大させ、いまや日銀は国債の半分を保有し、多くの日本企業の筆頭株主である。ギリシャやイタリア等と異なり、日本の国債発行は円建てでデフォルトリスクは低いものの、昨年12月に長短金利操作(YCC)を変更した際の10年物国債の金利急上昇に見られるように、海外勢を中心とした投資家との攻防は予断を許さず、国債の支払利息は今までの低金利時代とは様変わりする。喫緊の国策課題を考えても、想定外の少子化対策や国防費の財源はどのように捻出するのだろうか。国会でもこの問題について、与野党の突っ込んだ議論や国民への丁寧な説明はなされてはいない。
経済改革の機運のない迷走は止めて、資本、労働力、生産性の3要素を基本に返り、見直すことが出来る可能性が高まってきたこの時期に改革の狼煙を上げねばならないと思う。先進国の中で、極端に低い廃業率にメスを入れ、同時にそこから派生する労働市場の流動化を指向した法整備を急ぎ、受け皿体制を整備することは必須である。企業内部の技術の蓄積が生産性を向上させるという80年代の日本のキャッチアップ型の経済合理性は終焉した。技術革新と労働力不足と優秀な人材確保と更にはジョブ型雇用に対応するには、年功序列型賃金制度や今までの終身雇用体制は表舞台からは降りざるを得ない。OJT、オフJTによるスキルアップの仕組みや敗者復活戦に臨む人々への財政、金融支援は今まではあまりにも貧弱であった。この点を含め、トータルなセイフティーネットを張り巡らせ、厳しくも明日を語れる社会基盤を構築せねばならない。
まだいろいろ言いたいことはあるが、暗夜行路を急ぎたい。
 うちらあとわいらあは残り少ない今、振り返ってみて、戦中に生を受け個人的には恵まれた世代と言えるのでは。戦火に逃げ惑ったこともなく、戦後の混乱を己の記憶として、トラウマ化した仲間は殆ど居ないはず。然し、中途半端な三つ子の魂に気触れて、夢物語を実話化して意気込み、己のアイデンティティーとして法螺吹いた世代ではなかったのか。
税と社会保険合算の国民負担率が46,8%と発表された。これ自体の受け止めは様々だろうが、これからの日本の置かれた状況から考えて、この負担率は其れこそ、50年のカーボンニュートラル時には諸要因が加わり驚くべき水準となってゆくことは必定。社会保障、セイフティーネットを語るときに参照される北欧の国民負担率は既に7割の水準である。
後生大事な既得権に手を突っ込まれるのは忍びなく辛い。政治家でもない老人が吠えても嗄れた声の届く範囲はしれたもの。されど、変わることに無頓着だった時代を生きてきた世代として、「自分は何処で生まれ、いま何処に居て、此れから何処へゆく」(立花隆)ことに思いを馳せるべきある。その上で、周りの人たちに其れをナッジするくらいの勇気は持ちたいものである。(2023-02-26)オオガ記


不可知の当事者性

2023-02-25 09:46:15 | 日記
 昨日取り上げたように、世間話も鬱憤晴らしも当事者と言えば当事者なのに、それが醸し出すオーラが違ってくるのはなぜだろうという疑問に、既に1年前に出逢っていたことを知った。2022-02-24のこのブログ記事《なぜ「奇蹟」が平凡に響くのか?》で、ベートーベンの第九が第一次大戦時のドイツ人捕虜と徳島県の人たちとの交流を通して人類史的な文化の受け渡しが紡がれ、それを調べていた作家の手を通して百年後のワタシに伝えられ、つくづく自身の存在を「奇蹟」と実感していることを記していた。
 秋月達郎『奇蹟の村の奇蹟の響き』(PHP、2006年)の読後感だが、「文化の伝承が世代を超えて受け継がれていくのは、奇蹟のようなことだ」と意識することが、いま・ここに・こうして存在しているワタシも「奇蹟」と自覚することだ。
 わが身の存在を「奇蹟」と再認識するというのは、人の智慧や才覚、努力や技術によって現在が築き上げられたという次元ではなく、宇宙の誕生から続いてきた「奇蹟」の積み重ねの中に発生した生命体の歴史という長いスパンでワタシを位置づけるとき、ヒトの智慧や才覚や努力や技術よりも、偶然の積み重ねのような幸運に恵まれてワタシが実存していることへの感謝が生まれる。それが「当事者」性のオーラを育み、その世代を超えた伝承が社会の気風を醸し出してくる。
 自然の流れにヒトを置いて眺めると、プーチンの焦りもヘイズさんへの罵声も、何でこんなに小っちゃなことに齷齪しているのかと慨嘆したくなってしまう。しかしこれもヒトのつくりだした文化のもたらしたものと考えると、大自然的視線でみて、ただ小っちゃいと言って無視するわけにはいかない。しかしプーチンの焦りを捨て置くこともできないから、NATOも周辺国も目先の戦闘に対処し、ともかくプーチンが壊そうとしている文化を護ることに智慧を絞っている。それと同様に私たちもヘイズさんへの罵声が排除してしまう文化を、どうやったら良き気風として育てていけるかを「研究」しようと思っている。ベースは人類史的「奇蹟」である。


《もう一歩踏み込んでいえば、日常を身に刻むのに、触覚としての「心」を通さないコトは痕跡を遺さない。つまり、文化的な伝承としては意味を成さない。それどころか、「心」を通さなくても身過ぎ世過ぎができるという文化を、身に刻む結果になる。それって、ゲームの世界じゃない?》


 触覚としての「心」を通すとは、「奇蹟」として関係を動態的に捉えること。言葉を換えて言うと、大自然の流れにワタシを置くこと。ワタシの実存は「奇蹟」であるというのは、ワタシはゴミのようなもの、黴菌・germと、まず自己規定すること。にも拘わらずgermが宇宙を眺め、世界をどうしたらいいかと考えている。こんなことはアリエナイ「奇蹟」。
 こう言い換えたらわかりやすいかもしれない。ゴミとかgermとワタシを見立てるのは、ワタシは何もワカラナイと自己規定すること。それが宇宙を眺め、世界を語るってのは途方もないことをしていると自覚すること。自ずから謙虚にならざるを得ない。これがゴミの意識、黴菌・germの精神。germの原義は萌芽である。大自然に対して謙虚であることによってヒトはとんでもないコトをしていると、恒に常に自省する契機を手放さないでいる。大自然に向かっておっかなびっくり、こわごわと手を出し、あるいは引っ込めてやり直すという一進一退を繰り返してきた。起点はワカラナイと知ること。ワカラナイヒトがいま斯様に存在しているという偶然を「奇蹟」と呼ぶ。人為がもたらした世界のもう一つ次元の深いところでヒトの営みをとらえ返してみると、「合理的」と呼ぶものが如何に不条理に満ちているか、ワカッタつもりになっていることに、どれほどヒトは右往左往しているか、そうしたコトゴトがみえてきて、バッカだなあオレたちはと、素直に思うことができる。
 ゲームの世界は、上記のヒトのありようと全く別だ。何をどう操作すれば何がどうなると知っている。それを阻むいろいろな要因を敵対するものとして排除することが、事態を克服する道となる。敵の出方によって味方がどう苦戦しあるいはどう優位になるかも想定できる。苦境を突破するのは己の実力とそれを十全に発揮する技術だ。むろん敵の戦意を挫くことも視野に入っている。戦いは人智の総力を動員するけれども、敵を壊滅させれば勝利、壊滅させられれば敗北。ルールがはっきりしている。プーチンの勝利の方程式には核の使用をちらつかせることが、敵の攻撃を抑止する圧倒的な手段になっている。だが核の使用は、プーチンに勝利をもたらすものとはならない。ヒトの世界のゲーム・オーバーになる。ゲームの世界はワカッタつもりになって展開されている。ヒトが大自然の流れに身を置く小っちゃな「奇蹟」的存在であることを忘れ、国民国家的な枠組みのルールに則ってチキンゲームをオモシロがっている。ワカラナイという自己既定はどこかに置いてきてしまっている。せいぜいワカラナイのは敵の出方と自分自身の存立の正統性だ。その不安を自ら抜け出すのは、敵を貶め、敵の力の根っこを挫き、そうやって自らがつくりだした敵のイメージを叩き、虚仮にすることによって自らの正統性を創り出すってこと。ヘイトスピーチとフェイクニュースに塗れて、そのうち自身も何が何だかわからなくなってしまう。それがいまのプーチンの現在地ではないか。
 ワタシは今、生命体史の「奇蹟」に包まれて、その幸運に感謝しながら生きている。よくぞ世代を超えて「奇蹟」に恵まれたと実感している。その原点に思いを致し立つことこそ、当事者性が成立する起点。ワカラナイという不可知の当事者性こそが、大自然の中のヒトとして受け継いでいくべきコトではないかと思う。


世間話と鬱憤晴らし

2023-02-24 08:58:35 | 日記
 3月seminarの「お題」をどう整えようかと、相変わらず思案している。
 これまでの面々からの「返信」5通をみていて、「オモシロイ」と「論議にならない」とを分けているのは何だろうと考えていて、例えば、2023-02-11の記事「これぞ成熟老人の箴言」の【返信4】のオオガくんの所感は、井戸端会議seminarの素材になると感じている。だが、2023-02-22の記事「高齢者の不思議?」のマンちゃんや【返信2】のトキくんの応答は、BBC東京特派員ヘイズさんの「日本人の不思議」に対面してはいるが、鬱憤晴らしの「お説賜りました」の態で、遣り取りにならないと感じる。この違いは何だろう。
 男たちのそれらに対し、女性陣の【返信1】keiさんはヘイズさんのコメントをわかりやすくオモシロイと表明している。【返信3】ミドリさんはクイーズ・イングリッシュこそ正統と押し出してくるイギリス人に閉口した話で(ヘイズさんに)反発している。つまり性別による展開の話ではない。
 むしろ前回seminarの遣り取りを聞いていると、ご自分の亭主を介護する話や仕事を辞めると引き籠もりの様になるご亭主の尻を叩く女性陣の話は、まさしく当事者としての切迫感が籠もる。それらにコメントする他の女性たちも、自身がそういう立場に置かれた経験を加えて、介護的立場とご亭主との距離の取り方を言葉にしている。世間話の様に交わされるが、当事者としての向き合い方を直に取り出している。
 一つ印象深い言葉があった。ご亭主が歳をとって動きが鈍くなり、同時に自分も歳をとるから面倒見切れないと思うことが出来して腹立たしく感じていると話す方に、認知症の初期段階にあるご亭主の世話をする方が、「ハグしてやるとね、(振る舞いが柔らかくなって、わたしが誰か)わかるんよ」と話していた。ああ、これが「当事者研究」なんだと思った。人との関係を紡いでいる。そう意識することが、人と接する基本姿勢の要諦だ。この方の振るまいが、対する人の在り様を引き出す。こうした動態的平衡を取ろうとする感覚が、人それぞれの内心をかたちづくり、見合う反応/レスポンスを引き出す。動態的平衡という関係の展開に身を置いて、言葉を紡ぎ出す。それが当事者の振る舞い。それについて語り合う、それが研究なのだ。
 ヘイズさんのコメントに対してトキくんの「何もわかっちゃいねえ」という毒づきは、関係を断ち切る言葉だ。マンちゃんの「イギリス人よ! よく覚えておけ!!」というのも、鬱憤晴らしの啖呵ではあっても、ヘイズさんが提起しているモンダイを当事者として研究していこうというスタンスではない。売り言葉に買い言葉じゃないが、こうやって罵声を浴びせ、敵意を剥き出しにすると、交わされる言葉も自ずから刺々しくなるに違いありません。研究どころか、モンダイはどこへやら、心裡に降り積もる鬱憤晴らしのショータイムになってしまう。これはseminarの「お題」にはならない。
 ところが【返信4】オオガくんがヘイズさんのコメントを「家内にも読んでもらい珍しく夫婦で話し合いをしました」というのは、彼のモンダイ提起を正面から受け止めています。加えて、娘さんがフランス人と結婚し、海外に暮らしていることを披露して、「30年近くも海外生活を続けるとまったく異邦人です」と娘さんのことを語る口調には、異質さを素直に受け容れている穏やかな感触が漂い出てきます。
 1年前(2022-02-23)のブログ記事「井戸端こそが当事者研究の場」は、二人の若い哲学者の対談から受けた刺激を記している。


《「論議」というよりも「いま」「ここ」で向き合っている者たちが「いま・ここ・をめぐって言葉を交わす」ように切り替えていけば、「当事者研究」が緒に着く》
《「井戸端メディア」が消費的になるのは、そこで問題にしている「事象」の「当事者」として自らを組み込んで喋らないからだ》
《世間話が苦手な私は、そういう意味では、自問自答が似合っていて、井戸端会議は苦手なのかもしれない。でも、国分功一郎と熊谷晋一郎という二人の達者がちょっと扉を見せてくれただけで、自問自答がそれなりに進んでいる。ありがたいことだ》


 鬱憤晴らしも実は一つの「当事者」性を持っている。マンちゃんのトキくんも、ガイジンが日本の将来のことを提言していると聞いただけで、肚が治まらない様子だ。余程それなりのきつい体験が身の裡に降り積もっているからであろう。外からエラそうにあれこれ指図がましいことを言うな、「我が国のことは我々が解決する」と啖呵を切るのも、当事者だからこそ腹立たしいのであろう。むしろ私のように、価値中立的にヘイズさんの言葉を聞いてそうだねえと反応するのは、わが身をどこか第三者的な非当事者の立場に置いて眺めていると批判を受けるかもしれない。ただ、ヘイズさんのモンダイ提起に、そうそうそういうことってあるよねと共感する身の響きを感じるから、他人事とは思わず反応している。これは当事者性じゃないかと自身のことを評価はしている。
 これらの子細な違いをさらに探求して、何とかseminarの「お題」に仕立て上げたい。