mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

地球という水溜まりのケチな生命体

2024-05-01 06:46:15 | 日記
 昨日の話に続ける。反出生主義をどういうふうにデイヴィッド・ベネターが提起したか知らないが、人生において「生まれてきて良かったか」と自問することは、十分ありうる。生きるってことには、今ここにいることを肯定したい/してもらいたいワタシが付き纏う。だから根源的に問うと、自己肯定できない境遇が浮かび上がる。いわゆる「親ガチャ」もその一つだ。でもそれは、経験主義的な所業であって、根源的な問いではないとベネターは言うだろうか(言うように思う)。
 では親として反出産主義のように提起するのはどうか。芥川龍之介の「河童」を思い起こさせる。生まれてきたいかどうかを出生間際に当人に尋ね、イヤだと言えば堕ろすという記述を思い出す。人の「意志」が勝ちすぎた理知主義の極み、と昨日記した。ヒトを理知的な檻に閉じ込めているように感じる。まるで鉱物のよう。雨に穿たれ風に吹かれて磨り減っていく「一切皆苦」ってわけか。
 ヒトが生き物であるっていうと、「動態的平衡」が思い浮かぶ。食べ物を摂取し、消化してエネルギーに変える自己運動を生物学者の福岡伸一はそう呼んで、生物の決め手のようにあつかっている。それは単なる新陳代謝というのではなく、短時日に細胞が死に代わり生き代わることを通じて(環境に適応して)「生きている」。鉱物が摩耗していくのとは違う動態的メカニズムを、その身に備えている。
 それは、善し悪しではない。実存の本質とでもいうべき理知的認知である。しかもそれは、ヒトという単体の生き物だけではなく、バクテリアも、はたして生物かどうかも疑わしいウイルスさえも交えた生命体の壮大な「動態的関係」である。
 その動態的平衡関係が、この壮大な宇宙という荒野のほんの片隅にできた地球という「水溜まり」に、たまたま棲息することになった生命体が創り出している。そう受け止めるだけでワタシは、どんなにその人生が「一切皆苦」であっても、生きてるって凄いと自己肯定してしまいそうだ。だからウパニシャッドもブッダも、大自然のそのほんの上澄みの部分で生きることの、(輪廻も含めて)「一切皆苦」を離脱する手立てを説いたと私は受け止めている。
 反出生主義を提起したベネターがどのような自然観をもっているかに、森岡正博は触れていない。この論議自体を「分析哲学的な装いをもって議論されている」と評している。門前の小僧である私はそれがどういうものか知らないので何とも言いようがないが、彼自身は、この論題を契機にして生命学を取り込んで考えていると述べているから、たぶん視界に収めているのだろうと思う。
 理知的なもの言いの大きな欠陥は、たぶん、壮大な宇宙の荒野の、ほんとうにほんの片隅の「地球という小さな水溜まり」に、偶然棲息することになった生命体の、ヒトというケチな存在という認識がないのではないかと、論理の檻の頑なさを眺めながら思っている。八十爺の経験的な直感である。
 もっと論理的に詰めなさいよと、どこかから声がかかることは承知の上。居直るわけではない。ま、ぼちぼちと暇に任せて我が直感の重箱の隅を、つつく気になればつついてみようかと、考えるともなく思っているわけです。もっとも、「しこう(嗜好・思考・志向)」が何もかも丸くなって、つつくほどの隅が見当たらなくなっているのですが・・・。