mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

何だかよくわからない地震であった。

2015-05-31 17:01:01 | 日記

 ほろ酔い機嫌で座席に座っていたから、いつから止まっているかわからなかったが、車内アナウンスが「先ほどの地震の安全点検のため、しばらく停車します」と放送している。夜の8時40分近く。池袋駅。湘南新宿ラインの車両。「先ほどの地震?」と思ったが、新宿と池袋の間で電車が一時停止したのかどうかも分からない。混雑した車内は、しかし、帰宅する人であふれかえっている。でも我慢強く、皆さんは発車を待っている。

 

 2011年の3・11のときはカミサンが同じ池袋にいて、駅舎から締め出され、「どうしよう」と電話があったから、「歩いて帰っておいで、20kmくらいだから、4時間もあれば帰れるよ」と、笑いながらアドバイスしたことを思い出した。

 

 9時20分頃になって動き出した。私が乗り換えたのは恵比寿駅。8時20分発の湘南新宿ライン。23分に埼京線の快速も来ると表示があったが、浦和まで行ってひと駅戻る方が早いかなと思って、こちらに乗った。だから、電車は赤羽のつぎに浦和に止まる。ゆるゆると動き出すが、一向にスピードをあげない。地震の影響が線路にあるかどうか確かめながら進行しているのであろう。またも私はうとうとしてしまったから、「次は赤羽」というアナウンスが聞こえるまでは、すぐだったように思う。「京浜東北線も埼京線も、まだ動いていません。ご迷惑をおかけします」とつづける車内放送。

 

 この電車に乗っていてラッキーだったと、そのとき思った。たとえ浦和で降理て、その先の電車がなくても、歩いて帰ればいい。ふだん家から駅までの4kmを45分ほどを、往復歩いているから、なんでもない。11時には帰るつけるかと思っていた。

 

 浦和駅に着いてみると、「京浜東北線は、いま、大宮と東十条の折り返し運転をしています」という。やたらと高くなった乗り換えホームと地面とのアップダウンを雑踏と一緒に移動して京浜東北線のホームに出ると、ちょうどそこに大宮からの電車が滑り込んでくる。ありがたい、と飛び乗る。南浦和について降りると、乗り換えの連絡通路の上に出るエスカレータの前。

 

 さかさかと乗り歩いて、通路に出ると、武蔵野線の電車は「1時間遅れ」との標示。ということは、いつ来てもおかしくない。そう思って足を速める。階段のところを、どっと人が降りてくる。今着いたところだ。ホイこれはおあつらえと、人をかき分けてホームに上がると、「ドアが閉まります。ご注意ください」と繰り返すアナウンス。飛び込む。あとに何人かが続く。ドアがプシューと締まる。すぐに電車は発車する。

 

 私の下車駅は、ひと駅だ。駅から歩いて帰っていると、つぎの電車がやって来ているのが見える。「遅れ」ているから、陸続とつづく。結構なことだ。

 

 家に着いてから、「震度4」とか震源が小笠原だと聞いた。「震度4」なら、先日の埼玉北部を震源とするのと同じだ。ふ~んと聞いて、すぐに風呂に入り、今朝まで気持ちよく寝入った。何人かの友人から安否を尋ねるメールが来ていた。昨日一緒だったから、心配したのであろう。

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ボディ・エコノミク

2015-05-29 17:13:24 | 日記

 デイヴィッド・スタックラー&サンジェイ・バス『経済政策で人は死ぬか?――公衆衛生学からみた不況対策』(草思社、2014年)を読む。原題は『BODY ECONOMIC――WHY AUSTERITY KILLS』。

 

 「経済政策で人は死ぬか?」というタイトルも妙であるが、原題の「BODY ECONOMIC」というのも、省エネルギーの身体論なのかと思うほど、ヘンな感じがした。ところが読んでみると、大真面目な経済論である。「BODY ECONOMIC」は、この著者たちの造語。デイヴィッドは公衆衛生学者、サンジェイは医者だ。原題につけられた副題「WHY AUSTERITY KILLS」は、直訳すれば、「なぜ緊縮(財政)が人を死なすのか」となる。恐慌や不況という経済事象に際して採用される各国の「緊縮経済政策」を、人々の健康や保健衛生の面から考察するとどのように現象しているか。それを子細に探求している。

 

 ロシアの社会主義が崩壊して資本主義に移行していく過程で、当初(それ以前には)増加すると予測されていたロシアの人口が500万人も減少したこと、それも働き盛りの男たちが「消えた」のはなぜか、と追及する。自殺、急性心臓疾患、アルコール中毒など、健康を害する人が急増している。それをみていくと、社会主義体制下で単一製品に特化した街づくりをして(したがって、街々の物流ネットワークに依存して)きたために、そのひとつが(急激な民営化措置によって)崩壊すると、ドミノ倒しのように次々と街の暮らしが崩れ、失業とホームレスが増加した結果だ、という。もちろんロシア特有の(質の悪い)アルコール依存も作用している。経済体制の移行が緩やかであれば、こういうことも軽減されたであろうと、述べる。ロシアは「社会主義の終わった後が一番ひどかった」と紹介するのが、皮肉っぽい。

 

 1997年のアジア金融危機によって発生した経済の立て直しを、IMFが緊縮財政を条件にしたことの作用も「比較社会実験」のようにとりあげる。それに従順にしたがったタイ社会の「健康状態」はひどく害され景気回復も遅れ、他方でそれに従わなかったマレーシヤはむしろ、社会状態は穏やかにGDPの回復をしたことが対比される。

 

 あるいはまた、2008年のリーマン・ショックによって瓦解した経済を立て直そうと取り組んだアイスランドの事例を考察し(人口がわずか30万人とは言え)、IMFの「条件」に反して、さらにイギリスなどのアイスランドの銀行への投資金の返還補償を拒否して、国民投票を実施し社会保護策を削ることなく取り組んだことが評価される。「健康面から」みると穏やかな衝撃に終わったことを考察して、景気回復にも効果的であったことを説明する。

 

 他方で、ギリシャの事例を取り上げ、そのアイスランドとの違いを「自然実験」とみて、財政の緊縮策が不況を長引かせ、金持ちを保護した結果、貧困率が高まり、格差が拡大していると指摘する。

 

 ひとつ面白い指摘があった。「政府支出乗数」という数値がある。「政府支出を一ドル増やした時に国民所得が何ドル増えるかを表す数値」だそうだ。つまり「支出対効果」を示す。IMFもこの数値を用いて、医療費用の削減や、社会保護費用の削減を政策としてとるように求める。アイスランドの場合、「支出対効果」が「0.5」とか「0.3」とIMFは提示し、銀行の救済に税金をあてよと提案する。じっさいには、IMFからの貸出資金を銀行救済に回せというのである。それに対してアイスランドの国民投票はそれを拒み、社会保護策を削ることなく、またイギリスの(海外)投資家保護要請を否決して、取り組んだ結果、「奇跡」と呼ばれる回復している。それを検証して、この著者たちは「支出対効果」を計算し直した結果、つぎのように指摘する。

 

 《このとき、もっとも乗数が多いのは保険医療と教育(乗数は「3.0」)で、防衛と銀行救済措置が最も少ない(「0.3」)。だがIMFは、銀行救済を優先し、財政支出抑制を趣旨として社会保護策の削減を求める、とIMFを批判する口調になる。しかもアイスランドで学んだはずであるのに、ギリシャで同じ失敗を重ねていると手厳しい。

 

 IMFや世界銀行がアメリカの利益に引きずり回されているという批判は、何も近年の中国ばかりでなく、途上国から何度も指摘されてきた。日本も、アメリカの要請に沿うということをひと言も言わずに、1990年代の初めころから、アメリカの要請に応えることばかりをしてきたと言われてきた。現在のアベノミクスにしても、アメリカの経済と一心同体という姿勢を基本にしている。首相の経済顧問を務める浜田某も、アメリカの大学で研究活動をしてきて、自由競争の徹底が予定調和的に社会全体を底上げすると単純化する。つまり頭がすっかりアメリカナイズされている。株価が上がれば、それが景気回復だという発想も、財政均衡を計る手立てを結局のところ、セイフティネットの削減と、医療費、介護経費の削減に絞る発想など、根っからグローバル経済の自由競争にゆだねる方向へと向かっているのだ。経済学者の視界には国民の暮らしは需要としてしか存在していない。

 

 「社会保護と健康」から考えるというのが、そもそも、何のための経済政策かを語っている。経済学者は「景気回復」や「財政緊縮」を直にそれ自体として「解決策」として提言する。だが、国民の生活を安定的にすることが第一義とするならば、それ自体が常に意図されなければならないし、そこに現れる結果に対して、真摯にこれまでの政策の瑕疵を検証しなければならない。そういう自己批評性をもって取り組むことの大切さを、統計的に、簡明に示したという意味でも、公衆衛生学者の立脚点は素晴らしい、と思った。マクロとミクロが円環を描いてみごとに接着したという観をみる。

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算勘的実務と政治的振舞い

2015-05-28 08:14:15 | 日記

 昨日の「石田三成の条々」に関して、書き落としたことがあった。ずいぶん以前から私が抱いていた石田三成像とじつは一致しているのだが、岩井三四二の「条々報道」読むと、計数に明るい、算勘的実務家というイメージが出来上がってくる。算勘というのは、算盤勘定を指している。岩井はそれに加えて、人の心情の細々としたうつろいに無関心な三成像を提示する。

 

 前者は、太閤検地のやり方に力を発揮し、短期間に秀吉の影響の及ぶ地域の検地実施を推進する。それは、その地を支配する大名にとっても、自らの支配地域を生産高の側面から計数的にとらえる座標軸を提供してもいる。米を計量する升の統一をふくめて、太閤検地の計数的表現を用いれば、全国どこの地も「生産高」で比べる限り同じという「近代的舞台」を大名たちに提供することになる。三成は自らの所領の、農民たちの暮らしに気を配りながら、支配するものとしての矜持を保っている。

 

 その三成の近代的関係感覚は、伝統的に尊大な大名感覚と恣意的な気分と思いつきで政治を左右する、家康や前田や毛利ら五大老たちの「統治」センスといちいちぶつかる。五大老たちからみると、わずか20万石の奉行(小大名)が太閤の寵愛を利用して尊大・恣意的に振る舞っているとみる。彼らの多くは、戦で勝ち抜いてきた権謀術数の猛者たちであるから、三成の計数的な実務能力が力を発揮する状況が理解できない。とどのつまり、自分と同じ甲羅に合わせた「穴」のなかで三成をとらえようとするから、「三成の恣意」に思いを致す。それが疑心暗鬼を生む。家康は権謀術数を隠さないから、「同じ穴の狢」。三成の「近代的計数実務」は理解できない。大老の恣意を許さないという意味では、奉行という立場をわきまえない専横にみえる。関ヶ原の「模様見」はその現れであり、「裏切り」はその結果である。大老たち大大名と逆に(権謀術数に翻弄される)小大名は、「近代的関係感覚」で取り仕切る奉行・三成を「公正な方」と受け止める。

 

 岩井の描く「三成の不思議」は、大老たちの思い抱く「心情」と交錯することのなかった三成の心裡を取り出してみようとしているようである。三成の計数的実務性は、秀吉という後ろ盾にロジスティックを預けることによって成り立っていたという設定は、思えば現代、経済的関係が成立しているベースに社会文化と政治的関係が脈打っていることにつながる。そういう問題意識は、私たち自身の日ごろの価値判断が、三成的か家康的かと問う辺縁へと導く。その明快な答えの無さが不安であり、小大名の受け止め方が近代への希望をもたらしているという意味で、安心できるのかもしれない。

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1630年のジャーナリスト

2015-05-27 20:48:11 | 日記

 岩井三四二『三成の不思議なる条々』(光文社、2015年)を読む。妙な読後感を残す。

 

 江戸の筆紙商いをしている町人がある依頼主の頼みを受けて、関ヶ原の合戦における「石田三成の条々」を、現場に居合わせた方々に訪ねて聞き歩いたまとめがきという体裁。合戦から30年も経ってという設定。なぜそうするのかは、物語りの動機づけであって、主題ではない。

 

 見る位置によって見えてくるものが違う。そこに登場する人間も、また違って見える。石田三成というわずか20万石の小大名がなぜ250万石の家康に対抗して、西軍の指揮をとり動かすことができたのか。「道理」はどちらにあったか。「裏切り」の真相、「大義名分」の実相、その人となりと、聞き語りの中で浮かび上がってくる。それは語り手の人生観を浮き彫りにしていく。「藪の中」のようにみえながら、じつは、関係的に関ヶ原をとらえようとしているのかと思わせる。

 

 30年も経ってみて、公に口にするのははばかられるが、みえてくることもある。作者自身が筆紙商いをする町人に成りすまして「取材」したことを「語り口調」に乗せて、「これはフィクションですので」と断りながら自在に展開している風情である。そうしてその口調の端々に、人生の、瞬間瞬間に人が選び取ったアクションが、一人ひとりの生き死にと利害が依拠する「かんけい」て展開していることを証だてる。そして、それを遠景に視座をひいてみつめてみると、価値的にはどうでもいいことになっていく音色を湛えている。

 

 同時に、恩義に報いる「作法」が基本だぞと一本の筋を貫くことによって、読者にある種の安心感を与えている、と思えた。どうしてこれが、妙な読後感をもたらしたのだろうか。最後の場面を読み終わるまでは、落ち着き先がみえないからだったのだろうか。とすると私は、読み終わって「ある種の安心感」を得ることによって、自らの小市民性にアイデンティティを感じているのだろうか。それとも、「落ち着かない気分」のなかに、「かんけい」的にモノゴトをとらえる天の啓示のようなものを感じていたのだろうか。

 

 江戸の時代にジャーナリストがいたら、きっとこのような企画ものをものしたであろうなあと、すっかり変わった世界に身を置いて面白がっている読者でした。

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市井の「知=血意識人」――「教養」について考えた

2015-05-25 21:16:01 | 日記

 23日からの泊りの勉強会では、「教養」について考えた。入口に使ったのは仲正昌樹『教養主義復権論』(明日堂書店、2010年)。仲正は「教養主義の理念」を《知的主体性=人格を形成すること》と抑え、《何らかの困難な問題に遭遇したとき、それを的確に把握し、論理的に整理し、解決のための選択肢を提示することのできる能力、あるいは、その問題の解決をめぐって、他の知的主体たちと討論することのできる能力》と、実効的な形に開いて見せている。

 

 1960年代の前半に学生生活を送った私などにとって「教養」とは、人類史的なエクリチュールを知の全体図の中に位置づけて理解すること、であった。「人類史的な知の全体図」を描くことと、「人類史的なエクリチュール」を読み取ることとが、アクチュアルには、私の内部において同時並行的に進行していた。

 

 簡略に言うと人類の先達たちが思索した形跡を身に備えることが「人格の形成」だと信じていたのね。『三太郎の日記』なども必読書。ですから、学校で教わる「古典」ばかりでなく、「水滸伝」や「聊斎志異」なども「教養」に含まれていた。おおよそ高校のころまでは、ありとあらゆることへの関心と知識欲のような興味が、ふつふつと湧き起っていたように思う。大学へ行くときにさほど余裕があったわけでもない父親が「勉強もいいけど、いろんな人間がいることをみてお出で」といったのを、ヘンなことを言うと思っていた。後になって、意味深であったなあと思ったけども。私の父親は八百屋稼業であったが、筆墨の達者な人で、そういう意味では漢籍にも通暁していたところがあり、文章もなかなかの人物であった。間s根木もまた私の内部では、「教養」の一角をなしていた。いま思うと、当時の私にとっての「教養」とは、ことごとく私の外部にあるモノであった。

 

 ところが大学で学び始めるにつれ、「なぜ学ぶのか」という(主体としての)問いに常に応えなければならない側面が出来した。大学の学業単位をとることだけを考えれば、そういう問いは必ずしも必要ではなかったろう。だが私の専攻した「宇野経済学」は、科学的な経済理論を構築するという点において当時卓抜した位置を占めていたから、方法論的にも自らの立ち位置の傾きを対象化していることを要求されていた。

 

 高校の時に宇野経済学の存在を知り、それを学ぼうと大学へすすんだことを考えると、当時、私自身すでに「知の全体図」として、マルクス主義のとらえるそれを選び取っていたと言える。当時の大学は60年安保の余韻もあってマルクス主義のイデオロギー的な勢いは強く、宇野経済学はむしろそれに対して科学的、客観的な方法の確立に力を注いでいた。つまり自身の「偏見=先見性」を相対化してみることを「学ぶ」ことが、私の宇野経済学の第一歩であった。「資本主義の分析をおこなうに、資本主義のイデオロギーをもってすることはできない。社会主義のイデオロギーは、その視点を構築するための方法的な傾きである」という指摘がそれであった。つまり、イデオロギーを「方法的」なものとして位置づけることによって、自らが渦中にある事態を対象としてとらえる「超越的な視点」を手に入れよ、という立論であった。

 

 「教養」という視点からみると、その時点で、私の教養主義は消滅したのではないかと、いま思う。つまり、「教養」を求める志向には、(神の如き)超越的な視点を手に入れることを嘱望することがある。「教養」自体が人格形成をするという思い込み自体を壊して初めてデカルトも人間としての座標軸をスタートさせることができている。つまり「思いこみ」は神の領域のことなのであった。

 

 つまり、それまでにいつしか手に入れた「教養」に立脚してモノゴトを考え、判断してきたことの一つひとつについて、自分はなぜそれをそのように感じとり、その如くに判断しているのかと「根拠」を探り当てようとするところから、はじめて「主体性」が起ちあがる。そこからは「自分」の問題なのだ。大学に来て、「宇野経済学」に出逢って初めて、自らの「主体性」が問われていることに気づいたのであった。

 

 何がしかのことについて、これこれこうだと概念的に分節してとらえたものを、つぎの場面では解体して組み立て直すということも、何度も体験していた。あとから考えると、恥ずかしいほど思い込みが強くて、何も考えていなかったと思うこともしばしばあった。

 

 「あいみての のちのこころにくらぶれば むかしはものを おもわざりけり」

 

 仲正昌樹の『教養主義復権論』の第三部は、戦後日本のアカデミズムを風靡した「マルクス主義」を「教養主義」に位置づけることから始めている。マルクス主義が「知の全体図」を提示したからという。その通りだと思う。と同時に、その「教養主義的マルクス主義」は、自らの内面に(根拠を)問うことを忘れるさせるくらい、信仰的であった。ことごとくが、外在的問題であり、外部の要因によって動き、主体というのはその「変革」や「革命」をはじめる無垢の介入者であった。そう意識する以前に自らは、社会の中に存在すらしていない。えっ? そう、神のように事態をとらえている。

 

 だがアクチュアルには、そうではない。気がついたら言葉を話していたというように、私たちはいつしかさまざまな人類史的遺産を、(日々の生活を通して)系統発生的に受け継いできている。一般にいう「教養」とは、そのもっとも洗練された(社会的に承認された)「人智」と言いかえることができる。だから「人格の形成」につながっていると認識されてきたのだ。

 

 だがそれも、自覚することなく身に備えたものは「体の記憶」であって、理知的認知とは異なる。「理知的」とは、自らの感性や理念の傾きの「根拠」を意識していることである。だから、エクリチュールという文書化されたものでなくとも、「人智」を持っている人はいる。だが、エクリチュールに関して言えば、その分野の専門の「学者」たちが先んじていると、ひとまず認めてもいい。問題は、その専門分野という限定性を、どれほど意識して己の言説・振舞いを限定しているか、である。知的に優れていると思われる人が、ひとたび何かについてコメントをすると、たちまち、自らの立ち位置がもっている限定性を忘れて、「教養」を「人類史的人智」として発揮してしまうのである。

 

 仲正昌樹は近代ドイツ史に登場する「教養市民層」が日本では形成されなかった、と指摘する。仲正は彼らが身体に刻んで継承してきたエートスを(たぶん)算入していない。だが私は、体に刻まれた記憶について「人智」を見て取らなければなるまいと考えている。そう思うと、もはや今の日本で「教養人」と呼ばれることよりも、市井の「知=血意識人」として棲まわせてくださることを願うばかりである。

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