23日からの泊りの勉強会では、「教養」について考えた。入口に使ったのは仲正昌樹『教養主義復権論』(明日堂書店、2010年)。仲正は「教養主義の理念」を《知的主体性=人格を形成すること》と抑え、《何らかの困難な問題に遭遇したとき、それを的確に把握し、論理的に整理し、解決のための選択肢を提示することのできる能力、あるいは、その問題の解決をめぐって、他の知的主体たちと討論することのできる能力》と、実効的な形に開いて見せている。
1960年代の前半に学生生活を送った私などにとって「教養」とは、人類史的なエクリチュールを知の全体図の中に位置づけて理解すること、であった。「人類史的な知の全体図」を描くことと、「人類史的なエクリチュール」を読み取ることとが、アクチュアルには、私の内部において同時並行的に進行していた。
簡略に言うと人類の先達たちが思索した形跡を身に備えることが「人格の形成」だと信じていたのね。『三太郎の日記』なども必読書。ですから、学校で教わる「古典」ばかりでなく、「水滸伝」や「聊斎志異」なども「教養」に含まれていた。おおよそ高校のころまでは、ありとあらゆることへの関心と知識欲のような興味が、ふつふつと湧き起っていたように思う。大学へ行くときにさほど余裕があったわけでもない父親が「勉強もいいけど、いろんな人間がいることをみてお出で」といったのを、ヘンなことを言うと思っていた。後になって、意味深であったなあと思ったけども。私の父親は八百屋稼業であったが、筆墨の達者な人で、そういう意味では漢籍にも通暁していたところがあり、文章もなかなかの人物であった。間s根木もまた私の内部では、「教養」の一角をなしていた。いま思うと、当時の私にとっての「教養」とは、ことごとく私の外部にあるモノであった。
ところが大学で学び始めるにつれ、「なぜ学ぶのか」という(主体としての)問いに常に応えなければならない側面が出来した。大学の学業単位をとることだけを考えれば、そういう問いは必ずしも必要ではなかったろう。だが私の専攻した「宇野経済学」は、科学的な経済理論を構築するという点において当時卓抜した位置を占めていたから、方法論的にも自らの立ち位置の傾きを対象化していることを要求されていた。
高校の時に宇野経済学の存在を知り、それを学ぼうと大学へすすんだことを考えると、当時、私自身すでに「知の全体図」として、マルクス主義のとらえるそれを選び取っていたと言える。当時の大学は60年安保の余韻もあってマルクス主義のイデオロギー的な勢いは強く、宇野経済学はむしろそれに対して科学的、客観的な方法の確立に力を注いでいた。つまり自身の「偏見=先見性」を相対化してみることを「学ぶ」ことが、私の宇野経済学の第一歩であった。「資本主義の分析をおこなうに、資本主義のイデオロギーをもってすることはできない。社会主義のイデオロギーは、その視点を構築するための方法的な傾きである」という指摘がそれであった。つまり、イデオロギーを「方法的」なものとして位置づけることによって、自らが渦中にある事態を対象としてとらえる「超越的な視点」を手に入れよ、という立論であった。
「教養」という視点からみると、その時点で、私の教養主義は消滅したのではないかと、いま思う。つまり、「教養」を求める志向には、(神の如き)超越的な視点を手に入れることを嘱望することがある。「教養」自体が人格形成をするという思い込み自体を壊して初めてデカルトも人間としての座標軸をスタートさせることができている。つまり「思いこみ」は神の領域のことなのであった。
つまり、それまでにいつしか手に入れた「教養」に立脚してモノゴトを考え、判断してきたことの一つひとつについて、自分はなぜそれをそのように感じとり、その如くに判断しているのかと「根拠」を探り当てようとするところから、はじめて「主体性」が起ちあがる。そこからは「自分」の問題なのだ。大学に来て、「宇野経済学」に出逢って初めて、自らの「主体性」が問われていることに気づいたのであった。
何がしかのことについて、これこれこうだと概念的に分節してとらえたものを、つぎの場面では解体して組み立て直すということも、何度も体験していた。あとから考えると、恥ずかしいほど思い込みが強くて、何も考えていなかったと思うこともしばしばあった。
「あいみての のちのこころにくらぶれば むかしはものを おもわざりけり」
仲正昌樹の『教養主義復権論』の第三部は、戦後日本のアカデミズムを風靡した「マルクス主義」を「教養主義」に位置づけることから始めている。マルクス主義が「知の全体図」を提示したからという。その通りだと思う。と同時に、その「教養主義的マルクス主義」は、自らの内面に(根拠を)問うことを忘れるさせるくらい、信仰的であった。ことごとくが、外在的問題であり、外部の要因によって動き、主体というのはその「変革」や「革命」をはじめる無垢の介入者であった。そう意識する以前に自らは、社会の中に存在すらしていない。えっ? そう、神のように事態をとらえている。
だがアクチュアルには、そうではない。気がついたら言葉を話していたというように、私たちはいつしかさまざまな人類史的遺産を、(日々の生活を通して)系統発生的に受け継いできている。一般にいう「教養」とは、そのもっとも洗練された(社会的に承認された)「人智」と言いかえることができる。だから「人格の形成」につながっていると認識されてきたのだ。
だがそれも、自覚することなく身に備えたものは「体の記憶」であって、理知的認知とは異なる。「理知的」とは、自らの感性や理念の傾きの「根拠」を意識していることである。だから、エクリチュールという文書化されたものでなくとも、「人智」を持っている人はいる。だが、エクリチュールに関して言えば、その分野の専門の「学者」たちが先んじていると、ひとまず認めてもいい。問題は、その専門分野という限定性を、どれほど意識して己の言説・振舞いを限定しているか、である。知的に優れていると思われる人が、ひとたび何かについてコメントをすると、たちまち、自らの立ち位置がもっている限定性を忘れて、「教養」を「人類史的人智」として発揮してしまうのである。
仲正昌樹は近代ドイツ史に登場する「教養市民層」が日本では形成されなかった、と指摘する。仲正は彼らが身体に刻んで継承してきたエートスを(たぶん)算入していない。だが私は、体に刻まれた記憶について「人智」を見て取らなければなるまいと考えている。そう思うと、もはや今の日本で「教養人」と呼ばれることよりも、市井の「知=血意識人」として棲まわせてくださることを願うばかりである。