mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

装い――元宰相は二度殺される

2022-07-31 17:20:58 | 日記
 旧統一教会と政治家との関係が次々とあからさまになっている。メディアも、ご本家韓国の統一教会本部の幹部やアメリカの元幹部にインタビューして、どういう活動をしているか情報を拾っている。日本と違いアメリカでは、あからさまなロビー活動が社会的に不通であるから、元幹部もおおっぴらに「宗教活動というより政治活動ですよ」とわだかまりなく喋る。
 日本も、自民党の政治家の発言を聞いていると同じじゃないかと思わないでもない。だがなぜかお役所に求めた文書の肝心なところは黒塗りになっている。肝心なところというのは、旧統一教会が名称変更をして宗教団体として届け出たのを文科省が受け付け承認した理由の欄だ。ときの文科大臣が現在の阿部派の重鎮というから、その人物に聞けばいいようなものだ。が、その方は文科省の担当課長だか部長だかが決済したものを承認しただけと知らぬ顔の半兵衛を決めこんでいるというから、まるで責任感覚がない。
 いやそれ以上に、議員たちも、旧統一教会に応援してもらって何が悪いのか分からないと、蛙の顔に**の態。あるいは現防衛大臣となると、反社会的団体と知ってはいたが、選挙応援をしてくれるのは(断るかどうかも)そのときどきに考えたいと保留すると言明している。元首相が銃撃されたのは全く不運な流れ弾、容疑者の銃撃理由は関係ない、そのワケを知ろうともしていないと読める。
 これはなんだ?
 まるで安倍銃撃の謀略真犯人がケネディ銃撃のとき同様、真犯人を隠そうとしているかのように振る舞っている。私は陰謀論を担ぐ者ではないから、まさかねと思っているが、自民党のこの人たちが「国葬」というのは、安倍銃撃を全部隠蔽しようとする総仕上げのようにもみえなくはない。「元宰相は二度殺される」というドラマのようだね。
 メディアによるのかもしれないが、旧統一教会と安倍元首相との関係も、だんだん明らかになっている。銃撃容疑者が「誤解」するのも致し方ないような宣伝塔になっていたではないか。しかもこの人の祖父の関わりから辿ってみると、アメリカでの活動や(統一教会の教祖が脱税容疑で逮捕されたときの)保釈などにも(レーガン大統領へ手紙を書くなど)随分と肩入れしてきたことが報道されている(TBS・TV)。流れ弾センスを笑うように銃撃容疑者は、さほど的はずれではなかったようにさえみえてくる。
 公明党にも維新の会にも立憲民主党にも旧統一教会と関わりのあった議員がいたと報道が続くと、各党各様の応対をするから、それぞれがその「関わり」をどうとらえているか浮き彫りになる。いくぶんかでも銃撃事件と元宰相と旧統一教会がかかわりがある感じている党は神妙だが、一つの宗教集団が選挙応援をしたり政治資金を提供してくれたりするのを断る理由がないと受け止めている気配が濃い。根っこはすべて、名称変更によって再スタートしたことで精算され、かつての反社会的活動は霧消したと考えているのだろう。
 これまで日本の場合、宗教団体と政治集団の関係が棲み分けるように位置することと思われてきた。戦前の国家神道が軍国主義の神髄になったという見立てから、占領軍によって戦後、政治と宗教が分離された結果であった。だが実際展開に於いて分離なんて出来るはずがないと考えていた政治家たちは、その繋がりを地下に潜らせた。そうして、秘め事にしてしまったのである。それもしかし、徐々に装いだけとなった。創価学会と公明党という不可分の関係でさえ、あたかも別集団であるかのように装いさえすれば、問題にするにたらないとなってきた。装いはシースルーになっているが、微妙な関わりはあたかも秘事のようにみなされて、外からは触れないように扱われる。
 政治家は「ただの宗教団体が党全体を左右できるはずがない」と言い切る。そりゃそうだろう。どんな利益団体もそれが党全体を左右するようになれば、単なる利益団体ではなく母体となる。ホンネとタテマエとアカデミズム用語では分けているが、そこはそれ渾然一体となって水心あれば魚心と双方が阿吽の呼吸でやりとりする。それがほらっ、「和の精神」ってものよ。宗教団体の方も、いろんな思惑を持って政治権力に取り入り、便宜を図ることを策する。ところがアメリカのインタビューに答えていた統一教会元幹部は、「政権を動かそうとしていた」と率直に話している。ホンネもタテマエもない。mind of people ってワケだ。
 日本の場合、装いがシースルーになってちょっと恥ずかしいかなという風情があったのに、多くの政治家にはトランプ後のいまや、それすらない。何が悪いか分からないと仰る政治家もいて、宗教団体が集金活動をするのは当然、自分の暮らしが立ちゆかないほど寄付をするという方がオカシイといわんばかりである。
 この問題がスッキリしないのは、アメリカとの違いを考えてみると分かってくる。日本では(選挙権が18歳からになったにもかかわらず)高校生の政治活動を禁じている。文科省が、小中高生が現実政治に触れるのは早すぎると父権主義的に考えているのは、彼らの考える民主政治というものが、そこに暮らす住民の(何をベターと考えるかという)セッションを通じて形成的に行われることだと考えていないからだ。住民に為政者が与えることを民主主義と考えている限り、人々はいつまで建っても主権者にはならないし、なれない。良いか悪いかは別として、アメリカのティー・パーティから始まる予備選の運びや高校生が現実選挙のボランティアとして参加するという「参加の志」は、それこそ統治形態としてはいろんなモンダイを含んでいるけれども、自分たちが主権者であるという幻想の基点をなすものである。
 その運び自体が民意の形成であり、その施策が右往左往することがあっても、よりベターな「公」の有り様を求めて、試行錯誤を繰り返す。民主主義の完成形態なんてものは、ない。つねにつねにどこまでもどこまでも言葉を交わし、具体施策に結実させ、そしてまた修正を施してゆく。その運び(ムーブメント)が、民主主義だと考えるようになれば、小中高生であろうが、選挙権を持とうが持つまいが、この地に暮らす者としての振る舞い方があろうというものである。
 今の大人の考えている父権主義的国家権力や政治権力を大きく変えていくようなところから、手を付けなければならない。大風呂敷を広げた国の政治も、足下の具体的なモンダイへの取り組みも、一つひとつが丁寧に取り組まれていかなければ、民主主義という政治制度は、ちっとも現実過程の問題にならないのである。


身体を毀傷せざるは

2022-07-30 04:55:42 | 日記
 指の包帯がとれたばかりか、出来るだけ(かつての)日常動作をすることがリハビリだと思って、痛みが走らない程度にそろそろと習慣を取り戻そうとしている。
 昨日は、心臓エコーの検査をする予約日だったから、バスでなく自転車に乗った。ところが、左手でハンドルを摑むことが出来ない。辛うじて(痺れていない)親指と中指でハンドルを摘まむだけ。むろん力は入らない。畳の上で片足立ちをして、指を軽く椅子に置くだけでバランスがとれるが、そのときの指の働き程度しか出来ないことが分かった。
 ところが、自転車というのは、両手のしっかり摑む力があってはじめて乗るところから降りるところまで出来るんだね。乗り降りを片手でやるのはまことに難しい。広い道路を渡ろうとしたとき、ずうっと向こうから車がやってくるのが見えた。やり過ごそうと止まったら、そのまま左へ倒れかかってしまった。片足は付いていたから自転車だけが倒れ、体は傾いただけで済んだ。彼の車は横断歩道の手前で止まって私が通り過ぎるのを待っている。いやはや、年寄りが自転車にも乗るのも危なっかしいねと思っているだろうな。そう思いつつ頭を下げ、押してわたった。病院までは約5キロ。ほとんど静かな住宅街を抜ける道だから、車に出遭う気遣いはそれほどない。部活の中学生がぞろぞろと固まって歩くのが、ちょっと面倒だったな。
 心臓エコーの検査のとき半袖シャツを着脱するのに、ボタンを外す付けるのに、時間がかかる。検査技師にそう告げると、「いいですよ急がなくて」と年寄りのあしらいを心得ている。いつもの診察なら(予約時間に行っても)1時間は待たされる大病院なのに、検査だけのせいか、予約時間前に行ったら直ぐに呼び出され検査が始まり、30分ほどで終わった。検査結果はまた10日ほど後に予約がある。
 暑い日差しの中を帰ってきたが、夕方になって珍しく腰が怪しくなった。いつもなら山に行くときとか車を長時間運転するときだけ着ける腰痛ベルトを山用具から取り出して、付けている。今朝起きてからも怪しさは変わらない。これも自転車に乗ったせいだろうか。
 身体毀傷せざるは幸のはじめなりと思ってきたのに、ひともすなる手術なるものをわれもしてみんとてしたのが、祟っているのか。習慣性の日常から離脱するのが価値ある振る舞いと昨日言ったばかりなのに、もうそんな弱音を吐いて、波風立たない日常習慣を懐かしがっているなんて、なんとだらしないという声も聞こえる一方で、歳を考えろよ歳をと身が呟いている。


身に刻む習慣性の習い

2022-07-29 11:59:16 | 日記
 昨日(9/28)、手術してから2週間の診察をしてもらった。術後、一度包帯を取り換えるとき、傷を目にしたことはあったが、手の平に大きな傷口が何本かあったという印象であった。包帯でぐるぐる巻きにしているから、左手の動きは良くない。人差し指、薬指と小指が痺れている。いや、これを痺れというのだろうと思っている。なにか透明なセルロースを指に被せているような感触。ヒリヒリしている。そうだ去年、山の事故で両の手を打撲したとき、何ヶ月かの間ヒリヒリが続いた。整形外科医はそれを頸椎変形による頸髄損傷で神経が傷んでいると言っていたが、あれと同じだ水が当たっても痛みが走る。
 今日は左手の平の糸を抜いた。すっかり手の平の包帯を取ってしまったから、傷口がはっきりみえる。手の平の根元、手首に近い当たりから手の平の中程にかけて真っ直ぐに傷は入り、そこから小指の第1関節に向けて稲妻状に6本の切り後が続いている。その各所に傷口を縫ったあとが何本も入っている。医師は私を寝かせて抜糸したから抜くところを目にすることが出来なかったが、何度もピンセットのようなもので摘まんで抜き取る作業が、ゆっくりと繰り返される。その都度痛かったりツーッと軽い感触が走りすぎるように思った。取った糸を傍らのガーゼに擦り付けていたのをみせながら医師は、30針は縫ってますねとにこやかにいう。手の平は、包帯を巻いていたときと同様、傷をかばうように少し内向きになっている。まるで手に平に軽く何かを持っているかのような感触がする。医師は小指をぐっと伸ばす。痛い。「痛い」というと、ふむと頷く。人指し指を摑んで伸ばす。指は内側へ向いたままだから本当に痛い。「うっ、いてて」と我慢したあげくに声を上げる。今度は第1関節、第二関節と曲げて手の平に付けようとする。これは痛い。本当に痛い。
「引き攣る繊維を取りましたからね。でも繊維に合わせて皮膚も関節も曲がったままにしておくと、曲がったままになりますから痛いでしょうが、伸ばしてください」
 と、曲げる&伸ばすを、5秒ずつ,5分ほど、1日3回。出来ますかね? と最後は私に問う。
「できます、いや、やります」
 と部活の高校生のように応える。
 水で洗っても良いといいながら、片隅の洗面台に案内し、石鹸を付けてくれる。これは驚きであった。抜糸した後の引き攣る手の平が縮こまるような気配だったが、泡立つ石鹸が水に流され、擦る右手の柔らかい感触が、解放感を伴ってくる。やっと、包帯を取ったという気分が身に広がる。
 夜寝るときだけ小指に付けるギブスを作り、包帯を巻いて家へ帰った。巻き方などを、カミサンに伝えるためと、ギブスが包帯を解くまでの間に固まってギブスに成形されるという芸当。なるほどと感心している私は、昭和世代であったってコトか。
 こうして帰宅した。だが、リハビリの指の屈伸は、痛みが走ってなかなか上手くいかない。だがこれも、習慣性の身の習い。ゆっくり、少しずつ、繰り返し身に刻むしかないと思って、1日3回の食事の後にTVを見ながらやってはいる。だが、こういうのが私は、一番苦手だったんだとわが身の若い頃からの習癖を知ることになっている。でもそれに遵っていたら、左手は,曲がったまんまになる。身に心地よいことが身に良いことではないのだと、あらためて思っている。


社会の体幹が旧弊旧習

2022-07-28 16:54:55 | 日記
 今日(7/28)の朝日新聞に林香里(東大教授)というメディア論の専門家が《(メディアが読者大衆の)思考枠組みの議題提起役割》を持っていると話を始め、末尾の方で《日本の新聞社は横並びで(阿部銃撃事件に際しても)同じ見出しを付け、「宗教法人」についても匿名扱いも同じだった》という趣旨の記述をしている。
 市井の老人の私は各紙に目を通すわけではないから気が付かなかったが、とっくに新聞というのは、「人それぞれ」「多様性の世の中」「同調圧力は良くない」と同一性に対して批判的なのだとばかり思っていた。違うんだ。そうか、そう言われてみれば、大手メディアの「記者クラブ」の専横とかいうことが、十数年前の民主党政権の発足時に取り沙汰されていたな。変わらないんだ、この人たちは。というか、資本家社会の情報化時代の社会構造が変わっていないから、こういう大きな社会的なメカニズムは変わらないのかもしれない。相変わらずバブル時代の経済センスで為政者は動いているようだし、林香里が評論した「旧統一教会」と自民党とのお付き合いも、旧態依然、昔の名前は捨てましたといえば、それで通ってるんだ、この宗教集団は。
 うん? オウム真理教の装いを変えた教団は未だ公安の監視下にあるんじゃなかったか。
 えっ? そちらはカルト。こちらは集金集団だから資本家社会的にはクラウドで集金しているのと同じ穴の狢、ってか?
 報道機関といえば大手メディアを(読者として)しか知らないで、いきなりミニコミに筆を移して喋喋してきた輩としては、ガタイを比べるということをしないで、直ぐそのメディアに記された中味(記事)を問題にして、対等と考えてきた。このメディアの見立て方は、躰をみていないってことかもしれない。図体が大きいってことは、そこにかかわるメカニズムも多々あるわけで、理解するってのは難しい。同じジャーナリズムってとらえたり、同じコミュニケーションって見て取るのは、アタマしか見ていない。人の行動はアタマが決めるものであって、カラダはアタマが使って動かしているという身体観に拠っている。魂と体を分けてとらえ、魂が体を動かしているという自然観は、ギリシャ由来の西欧的なもの。
 因みに、欧米的なアカデミズムにちょっと身を浸しただけの私も、すっかりその自然観を受け容れて育ってきていた。そこからの離脱に1970年からの20年間ほどの、ある意味で幸運なカンケイを必要としたのであった。ま、それはまた別の機会にでも話すことにしよう。
 いつ頃からだったろうか、朝日新聞の記事も、記者名が表記されるようになって、デスクのお役目が一歩引き下がったようにさえ思ったものだ。オーナーが報道現場に口を差し挟まないというのは、綺麗ごと。コマーシャルにだって気を遣うんだもの、オーナーに気を遣わないわけがない。ましてオーナーのお友達などへの気遣いなしにこの世の具体的関係が築かれていると思うのは、ナイーブもいいところ。世間知らずの高校生のセンスですね。まして資本家社会の,ここ日本。裏まで探れば、おおよそ目も当てられない人の性がそちこちに転がっていよう。その性は、旧弊旧習というよりも、社会が身に刻んできた慣習を良いとか悪いとか区別せず、何でもかでも違和感のないままに繰り出す気遣いや心配りやおもてなしが、実はそのまんま旧弊や旧習になっているってことである。
 それを突破しないと、口先で言うことと身の振る舞いがしていることのギャップさえ気づかない。その壁が,横並びの大手メディアの習癖になっているというのが、冒頭朝日の林香里の記事お読むことが出来る。つまり、それを超えるには、わが身の無意識を炙り出すように身の裡側へ向かう視線を送ること、返す視線で世の常識的な気風を断ち切って、裂け目を作り出すことが世の人々の視線を変える論議を提供することになる。
 さあ、となると私たち年寄りが、身に備わった世の気風に心地よく触っているだけではおおよそ心許ない。槍を突き立て、異議申し立てをして、それをどうまとめるかは有識者に任せて大いに遣り取りを沸騰させようではないかと、気分が盛り上がる。
 社会の体幹を変えるのは、年寄りが身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれと許りに、前のめりになること。隗よりはじめよというではないか。


コロナの行方、へへへ

2022-07-27 06:10:43 | 日記
 窮してきたときに書く文書には、末尾に「ふふふ」と入れて、緊張を和らげ、やりとりを互いに「研究する」ようにした方がいいと昔、小平の道路建設反対運動をしていた人たちが言っていたというのを思い出した。こちらは緊張というよりも、窮してほぼ諦めたかのように公助のことを考えているから、せめて投げ出してしまわないように、ハ行の三連句を入れて自分に言い聞かせている。ははは。
 行政機関が本当にアテにならなくなった。コロナウィルスの感染拡大がとどまるところを知らず、勢いを増している。すっかり「BA.5」に変わって、ワクチンも効くとは限らないと報じられると、自助をモットーとしてきたわが身も、打つ手がない。と、ほほほ。
 それでも、重症化しにくいとか、ウィルスの変容も限度があって、そろそろ最終段階ではないかというTVの専門家コメントに、そうか、いよいよ終わりになるかと期待を繋いでいた。それなのに、どうもウィルスは「BA2.75」に変わりつつある、これはさらに強烈と新情報が入って、えっ、まだ延長戦なんじゃんと希望は萎んでしまう。へへへ。
 なにしろこちらは、高齢者。存在自体が基礎雄疾患のようなものだから、ワクチン4回打ってても、軽症で済むワケじゃない。
 行政も対応に窮しているというか、諦めてしまったようで、注意警戒の呼びかけだけになってしまった。そこへもってきて、このコロナウィルスの扱い分類レベルをインフルエンザ並みにしようとか、特別枠を設けて行動制約レベルを経済社会レベルに合わせようと専門家までが言い始めた。自宅療養が何万人にもなっている。保健所の仕事も一杯一杯で、レベルを下げない限りお役目が務まらない。加えて医療体制が整わないという事情があるというが、もうコトが起こってから3年半にもなるというのに、今ごろ何を言ってんだよと、公助ののろさに憤懣をぶちまけたくなる。
 情報を公開しないお役所の権威主義と思ってきたが、どうもそうではなく、お役所自身が情報収集が出来ていないのじゃないか。自助だ共助だ公助だと口先だけで喋っているのは政治家。その駆動力たるお役所は公助エンジンのスターターを動かすのに精一杯で、駆動力にまで伝わっていない。政治家がリップサービスにかまけている間に、行政機関の駆動力はすっかり劣化してしまって、私ら年寄りと一緒に、手入れが行き届かない昔の儘の使いっぱなしだったから、錆び付いたり、腐り果てたり、ボロボロになっているのかな。ひひひ。
 自助で頑張ってと,一代前の宰相が声をかけていたが、そういう行政機関の高齢化を知っていたから、公助に期待を持たないでねと宰相自ら警告してくれていたのか。気が付かなかったなあ。ふふふ。
 2020年から2022年までの(6月末の感染状況をみると)1年間で感染桁数が一桁ずつ増えていった。ところが今年は、6月末から7月末の一月足らずでまた一桁増えている。TVメディアは「重症化しない」とウィルスに成り代わるように申し開きをしているが、高齢者や基礎疾患を持った人は別と「警戒」を呼びかける。
 年寄りはじっとしているに限ると思ってはいるが、来月半ば過ぎに,新橋でseminarを予定している。集まるのは皆、数えで傘寿の年寄りばかり。どう呼びかけたらいいだろうと、思案投げ首。
 ふふふっていうより、ほんとうにとほほ、だね。