mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

呼びかけ方の社会学

2023-06-26 06:46:14 | 日記
 昨日(6/25)の朝日新聞に《「おばさん」にざわつく心》という企画記事があった。街中で年上の女の人が連れの孫に「あのおばさんに」といわれて傷ついたとかつかないとかと切り出し、一体何歳になったら「お姉さん」が「おばさん」になっても構わないかなどと声を拾っている。なんとも、ひねもすのたりって間延びのした企画。何でこんなことが問題になるのだろう。
 亭主や父親のことを「お父さん」「おじいちゃん」と呼び、妻や母親のことを「お母さん」「おばあちゃん」と呼ぶのは、子や孫などに呼称の主体基準を合わせる日本的な家族の用語法の一般的な形だ(とどこかで読んだことはある)。小さい子に主体基準を合わせることによって呼称で家族全体の中の位置づけが明快になる。
 その時々の発言主体に合わせていたら、誰が今発言しているのと問いたださなければならない。日本語が、主語を曖昧にするといわれてきたが、必ずしもそうではない。関係コミュニティの中の上限関係を組み込んだ秩序をつねに明快にして、身の置き所の安定点を確保するという社会習慣が無意識に働いてきたと私は考えている。
 逆に言うと、その呼称が通用する間柄が「身内」であり、通用しない場は「余所(よそ)の人」であった。つまり、鬼ばかりという「渡る世間」であった。上掲の企画記事の場面は、「身内」と「余所の人」が共に身を置く場、「街」である。端から「世間」。もしそこで、見知らぬ人から
「おばさん、おばさん」
 と声をかけられたら、
「なによ、あなた。わたしゃあんたのおばさんじゃないからね」
 と反撃を食らわせてもいい。あるいは、お婆さんに向かって、
「お嬢ちゃんと呼んでもらいたいくらい。あなたとわたしの歳の差は、さ」
 と笑いをとってもいい。心がざわつく謂れはない。
 にもかかわらず、ばあちゃんが街中で孫に話しかける第三人称に「心がざわつく」というのは、どうしてなのか。何だか、余計なコトを考えているからじゃないか。あるいは、余計なことを考える時代になったってことか。あっ、考えてはいないか。これまでになかった余計な要素がヒトの無意識に闖入するようになったってコトか。
(1)家族が希薄になり、家族が表象する序列感覚が希薄になった? 小さい子を主体基準にして呼称を用いることが少なくなったのか? そうは思えない。むしろ、子を持ち家族を構成する人が(相対的に)少なくなったから、第三人称としての「おばさん」が(小さい子という媒介項を欠いて)いきなり、社会(世間)の位置関係を表現するように転じた。わたしゃそんなに年寄りかいな(バカにしなさんな)と解されるようになったってことか。自分を中心軸にする聞き取り方が強くなった。語り出す方ももっと気遣えよってコトか。
(2)都会の暮らしで個々人の市民的な独立感覚がすっかり定着し、人と人との関係がフラットになってきた。共同感覚にあって底流していた「年の功」という年齢による序列意識の「功」の要素がなくなり、「見た目の年齢差」だけが序列として浮き彫りになってきた。皮肉にも個々人の間には、身内と余所の人という線引きが社会的にも(見た目の年齢差として)厳密に受けとられるようになった。つまり、個々人を包んでいた「家族」という保護膜も雲散霧消して、個々人の皮膚に近づいてきたってことだね。
(3)デジタル社会になってきて、人を呼ぶ呼称にも何か実体的な基準を置いてほしいという気分が若い人たちの無意識(ベース)に広がっているってことか。
 こんな企画が新聞記事になるということ自体、他人からどう呼ばれるかを(読者大衆は)気にしているからだ。街中で見知らぬ他人がジブンをどう見ているかに、ピリピリと反応しているように感じる。祖母が孫へ語りかけるのに、街中の第三者・中年女性を「おばさんに・・・」と言ったからといって、失礼のなんのとどうして話題になるのかが、私にはワカラナイ。小さい孫が、
「ねえ、おばちゃん・・・」
 と呼びかけてきたら、
「しつれいね。あんたのおばちゃんじゃないわよ.お姉さんて呼びなさい」
 って、怒鳴り返しでもするのだろうか。その方が異常だとワタシは思う。
 ま、新聞の文化部も暇なんだろうか。せめてこういうことを話題に載せるのなら、「呼びかけの社会学」って観点でも立てて、「おばさん」に目くじら立てる人を突き放して記事を書いたらと思う。それは同時に、書き手の「古さ」も浮き彫りにする。それでおあいこってわけさ。