mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

訣れの清々しさ

2023-06-13 09:32:22 | 日記
 基盤まで取っ替えた私のPCが何とか治ってきた。まだ旧に復したというほどにはなっていないが、私の筆墨として遣い、ブログにアップするくらいのことはできるようになった。それでやっと、先月28日のseminarで「店じまい」が決定したことと、後を誰がどう引き継いで行くことになったかをseminar事務局から「お知らせ」として関係者にメール送付し、併せて「ブログ・玉野36会」の閉鎖も伝えた。
 文面を書きながら、ああこれは私の「おらおらでひとりいぐも」だなと思った。齢をかさね八十路に入った身が、集中力を欠き、人の話も散漫に胸中に散らばって雲散霧消してゆく。とてもじゃないがseminarって感じで「当事者研究」していくってことにはならない。そう見切った。ちょっとわが身を別所に置いていえば、傘寿を見限った。
 えっ、おまえさんも八十路じゃないのかえ? と聞かれれば、その通りだ。だが、seminar事務局の店じまいには、もう一つ話していない「感触」があった。
 学歴も職歴も功成り名遂げた風情のTくん。統治的視線でエライんだなと、その辛口批評の立ち位置を取り上げて(私が)評してきた。
「いやオレはそんな(統治的に)ことは考えていないよ。その時思いついたことを言っただけだよ」
 と率直な物言いで応答したのに私は、
「そうだね、そうだよ。だから身の習い、無意識なんだよ」
 と、応じて話を続けた。そのときTくんは沈黙していた。だが、その後で私が(日本人の不思議の)「福井県池田町の都会風を吹かすな」と報道された話を続けていたら、
「もういいよ、そういう(メンドクサイ)話は・・・」
 と、Tくんが横から口を挟んだ。
 それを応援するように女性のFさんが、自分の住まう団地の自治会の話をして、新来者が協力的でないというのは、特異なケースの話、それを日本社会の不思議のように言うのは(メディアが)おかしいと、援護に入った。
 これで、seminarは店じまいだなと見切った、と(私は)3月に記したことがある。それを私は八十路という年齢の所為だと受け止めていた。だがちょっと違うんじゃないか。
 もっと下世話に、何だコイツ、ムイシキだなんてテツガクを梃子にエラそうな物言いをしやがってと、Tくんの胸中の「功成り名遂げた」誇りが蠢いて「もういいよ」といったのではないか。そう思った。
 援護に入ったFさんも、「日本人の不思議」という他人事のような話が、地方に移住する新来のひとたちに「都会風を吹かすな」と地元民から声が上がっていると聞いた途端に、わが身が非難されていると受け止めて、
「レアなケースを針小棒大に取り上げるのはおかしい」
 と反撃したつもりだったんじゃないか。Tくんが
「メディアってそういうもんだよ」
 とFさんに加勢したから、すっかり「本題」から逸れてしまって、嗚呼、これでおしまいだなとワタシの観念させたって言う運びだ。  
 身の裡に堆積していて、その淵源由来もすっかり忘れている「無意識のワタシ」といえば、それだけで私にとっては「不思議」そのものである。だが、その無意識の胸中に浮遊してブラウン運動をしている粒子には、「何だコイツ、(オレより)エラそうにして」というルサンチマンの色合いを帯びたものがあるんじゃないか。
 あるいは、Fさんのように外から非難攻撃を受けるなんて思いもよらない日常を送ってきたか、逆にいつも身構えて攻撃に備えているから研ぎ澄まされていて、先を読んで「先制的な反撃」に討って出たか。
 ワタシはもっぱら、論理的な筋道だけを追うように「日本人の不思議」を、わが身を当事者にして転がしていただけ。だが当日の講師が言葉では「研究」とは言っても、自己を対象化するというのは、論議視線の俎上に載せること。自身が攻撃されているという「当事者性の(ひとつの)粒子」の次元で反応するのは、避けられないのかもしれない。
 すっかり店じまいして、場から解放されたが故なのか、無意識の細部粒子まで目に止まるようになった。でもこれって、訣れの清々しさなのかい?