mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

ワタシの脳作業

2024-08-31 06:00:10 | 日記
 水晶岳から帰ってきた夜に見た夢のことを、逸脱ながら(2024-08-24)「無事帰還」に記しました。なぜこれを山行記に措いたのか。
 いつぞや触れた脳科学者・小池祐二の言葉を思い出したからです。
 ひょっとすると寝ているときにしている脳の営みが人の人生の本体なんじゃないか。そういう趣旨のオモシロイことを言っていました。
 柳田國男じゃありませんが、私たちは毎日一回死ぬ、寝るということは死ぬのと同じだと考えてきました。それを、この脳科学者は転倒させ、寝ている間に営まれている脳作業の方こそ、目が覚めている間に受け止めたさまざまな刺激を、心身一如の場に置いて調整し、程よくバランスをとって安定させる作用をしているのではないか。そう言っていました。つまり動物としてヒトが生きていくのに必要な心身一如の統一性を、(寝ている間に)脳作業が懸命に保つ尽力をしているというのです。
 これは、ワタシの経験則的な身体の実感を見事に表現していると受け止めました。
 もちろん起きている間の振る舞いや言説が、社会的には生きているヒトの活動ですから、それを否定しているわけではないでしょう。ただ、寝ている間は、無為に過ごしているとか、死んでいる(のと同じ)というのではなく、明らかにそこでの心身一如の調整を経て、辛うじてワタシというヒトの個体性が保たれ、一体としての一貫性を感じつつ維持されている。「寝ること」は、山の暮らしにおいてワタシの重大な存在の部分。そう、実感を持って位置づけることができるように感じて、帰ってきました。
 ことにこの夢見をした前日の日中、ワタシはヘトヘトになってやっとの思いで、14時40分頃、野口五郎小屋に到達しました。いつもなら8時間20分のコースタイムで歩けるであろうところに9時間10分もかかった。そのことに「リミットを感じた」と言葉にしました。またその夜「9時間も続けて寝た」とも記していますが、じつは、それは夜の就寝のこと。到着して濡れた衣類を着替えたり、夕食を摂ったりはしましたが、それ以外は床に身を横たえ、ボーッとしているか寝ていたのです。そしてそれが翌日、何とかコースタイム男の復活につながったと思っています。
 そのときワタシは、ほぼ完璧に動物になり、「歩く寝る食う飲む排泄する」をすべてとして存在していました。だからこそ、その就寝中の9時間に見た夢(の覚えている部分)が何を意味していたか、山行記録としては逸脱ながら、記し措きたいと思ったのでした。
 さて、覚えていたのは以下の二つ。
     *
(1)ものすごい紙メモの山。そこにはあちらこちらの在所の暮らし模様が記されていて、どこからどう手をつけていいかわからない。そのメモの山の中から、一つの在所の人の長寿と健康の様子と食べ物の関係に目をつけて調べたものが目に止まって、そこから調べがはじまっていく夢。メモの山にのみこまれそうになりながら 、メモを踏み越えてあちらこちらと彷徨っている気配。
(2)選挙だろうか。一適他否、一合一排など、耳慣れない漢語の並んだ文書を読んでいる。選挙管理委員会のお役人が書いたものだろうか。そのなかに、選ばれた首長が行政の主導権を取るとしても、役人には役人の従うべきベースがあり、それは人びとの暮らしに基礎を置くものであって、首長の指図に基礎を置くものではないという記述があった。読んでいるのに、次々と書かれたものが更新されて、記述が詳しくなっていく。論点も移ろっていくように感じたが、じつは詳しく思い出せない。
     *
 この脳作業は、ワタシの一如心身の、身の裡の「しこう(嗜好・思考・志向)」に関することです。つまり、無意識が意識との調整に当たったことによって、その亀裂の狭間からぷかりと浮かび上がった、何かワタシが(無意識のうちに)こだわっていることだと思います。
 そう考えると(1)は、ワタシが子どもの頃から現在に至るまで、受け継いできた諸々の「情報の山」が紙メモの形をとって山になっている。それをワタシは、何某かの物語を付与して一貫性を持たせて引きずりだそうと逍遙しているっていう図か。
「一つの在所の人の長寿と健康の様子と食べ物の関係に目をつけて調べたもの」という限定がありますから、ただ単なる「情報の山」ではない。その基本的なことに目をつけて、丁寧にピックアップして関連付けよという示唆かもしれない。いや、本気でそれを真に受けて、これからこの八十爺がどうにかしようと思っているわけではありません。そういう面がオマエさんは弱点でしたねと自戒しているのかもしれません。
 そういう壮大な構想力と執念深い探究心に不足がありましたよと、動物になったと感じているワタシに、身ばかりでなく心にも呼びかけているような気もします。
 そうか。とすると、夢というのは、ただ単にバランスをとるというよりも、動物になった自分に得心して自足するのは考えものだと警鐘を鳴らしているのかもしれません。自足した途端に、ヒトはダメになるぞ。そう簡単に、心身一如を腑に落として自足するんじゃない。生きるってのは(死ぬまでつづく)永続運動だ。それも一筋縄でいかない、アンビバレンスな要素をきっちり意識してつかむ。そうして、そのアンビバレンスを泳いでいくことが「生きる」ってことさ、と。アンビバレンス、絶対矛盾的自己同一ってことを言っていた方もいたなあ。
 ふむ、そうかい。そう思うと、この先余命も少ないワタシ一代でどうにかなることじゃないよね。いや、ま、一代で何かをどうにかしようってふうに考えたこともない。といって誰かに受け渡し、受け継いでというふうにも、思ったこともない。ワタシの一代で、つまりワタシ自身に言い聞かせる。「言い当てたいことがある」と(山行記を書く動機を)言葉にしたことが、すでに、(1)を体現している、と読みましょうか。
 とすると(2)は、「言い当てたいこと」の、社会的関係を意識せよと言っているのだろうか。「役人には役人の従うべきベース」があるというのは、オマエさんの「ベース」って何だと問うているのかもしれない。「首長の指図に基礎を置く」というのは、オマエさんが無意識に踏み台にしていること、「権威」ってヤツに意識的になれということか。
 役人の従うべきベースというのは、市井の八十爺にとっては、ヒトが暮らしてきたごくごく基本的なこと。(1)にいう「一つの在所の人の長寿と健康の様子と食べ物の関係」といった基礎的な暮らしの所作が、それに当たるか。
 今のご時世、街に暮らすヒトは誰も彼もが、日々お祭りのような暮らしをしている。おいしいものを食べ、目新しいものを手に入れ、驚くような競技やイベントやデキゴトに囲まれて、愉しい。でもこれって、商品交換の世界にどっぷりと浸って、その交換の仕組みに則って運ばれているだけで、もしヒトが独りで投げ出されたら果たして、何をどこまでやっていけるかと問うと、いやはや、ほとんど何にもできません。祖先が営々と築いてきた「暮らしの基本」を皆、他人(ひと)に預けて暮らしている。それに慣れ親しみ、それの欠如に対する意識を失っているんじゃないか。
 動物を実感して得心する前に、まず、己自身の「ベース」が消えてなくなっていることを、思い出してご覧。そう、ワタシの脳作業が告げているように思いました。
     *
 こういうことをお話ししながら、じつはこれから鉄道に乗って遠方へ三日間ほど遊びに行きます。
 えっ? 今、書いてたことはどこへいったのかって?
 ははは。これぞアンビバレンスの極み。だめだね、これじゃあ。
 でもそれがワタシなんです。では、行ってきます。

あなた任せ風任せのアンビバレンス

2024-08-30 07:13:12 | 日記
 台風に振り回されている。台風が自前の進路開拓をしているのではなく、周りの高気圧の進退や季節風、偏西風に左右されて、のろのろしたり、快速になったり、まさに風の吹くまま、あなたまかせに動いているのだと報されて、何だかわが身と同じじゃないかと、感慨深く様子をみています。
 警戒を注意する予報の言葉が厳しく、早い段階でささらほうさらの合宿は中止になりました。何だ、こんなに九州地方に停滞するんじゃあ、やっても良かったじゃないかとぼやいています。また、31日から三日間ほど出かける予定が入っているのですが、これが台風の襲来予報と重なっていたりして、果たしてどうしたものか、やきもきしています。もっとも、「どうしたものか」というほど我が意が左右することではありません。雨風がやってくるのか、鉄道が不通にならないか。なにもかも、あなた任せ。運と天に任せる「自然(じねん)」そのものであります。
 ま、どうしても行かねばならない予定でもないし、鉄道がそもそも計画運休などをするようになった。雨風で、行く先の予定行事が中止とか延期とかいうこともあろう。ま、それも台風と同じ、あなた任せ、風任せ。八十爺の日々為すことって、ま、そんなもんでしょう。
 水晶岳訪問記を片付け、文章に写真を添付して、「水晶岳を訪ねた」という山行記録を、縦書き、三段組み、15ページにまとめました。これを送れば、同行してくれたKにもいい感謝のプレゼントになるわいと、喜んだのです。
 ところが、それをpdfにしてみたら、どういうわけか写真が表示されません。
 あれ? これまでこういうことはなかったのに、どうして?
 よくみると、winzip-pro-pdfと末尾に記しています。いやだねえ、私の文書作成ソフトのpdf変換でいいのに、どうしてまた、winzipが絡んだのよと、困っている。もちろん私がどこかの操作で何かをクリックしてしまったのでしょう。それの「子細」に踏み込むと、「buy…」という表示が出る。巧く起動させたいなら、もひとつアプリとを購入しなさいというお誘い。なんでこうも、手練手管を労して、売りつけてくるかね。八十爺はまた、デジタル難民になっちゃって、困惑の体です。
 じゃあアナログでプリントアウトしたらどうか。安物プリンタですから色が鮮明に出ません。むろん街のカメラショップがやっているプリントアウトに依頼すれば、きっと、鮮やかなものが出来することでしょう。う~ん、それほどにすることでもないよねえ、でも、大した金額ではないし、どうしようか。
 とりあえず、安物プリントアウトをして、今回山行にサポーターをつけてくれたカミサンに贈呈。Kのファンでもあるカミサンはすぐに目を通した。感想は言わない。かつて訪れたことのある水晶岳をどう胸中に呼び起こしたか。サポーターをつけたことを当を得たと思ったか。わからぬことは人の世の常。
 pdfに変換できないことをメールで知らせたら、Kから「画像が大きすぎるんじゃないか。縮小するには、これこれこうしたら・・・」と解決法が記されていた。早速それを試す。なるほど、見事にpdfに画像も表示される。
 デジタル難民はそうやって一つひとつ難局を乗り越えていく、と思うかもしれないが、そうではない。またこれも、忘れてしまって、再度、三度、こういう事態に直面して、ようやく記憶に焼つく。そうやって乗り越えるという面倒くささが、八十爺にはつきまとう。
 この非力さ。そこが、台風10号と違う。
 あなた任せ風任せとは言え、この台風は自ら、「特別警戒警報」を出さしめるほどの威力をもっている。強い風、大量の雨、巨大な腕の渦巻きをともなって、一千キロ以上離れた地に土砂崩れを引き起こす。二千キロ離れた地方に大雨を降らせて憚らない。意志を持っているわけではないだろうが、高い海水温度や秋雨前線の張り出す位置と相関して、驚くような被害をもたらすから、列島は戦々恐々。初めは歩き遍路のような鈍足、いまでも自転車程度の緩速、しかもどちらへ行くか気象の専門家も読み切れない風来坊。
 人智が狼狽えている。それがどうしてワタシに小気味よく響くのだろうか。
 この辺りにワタシの傾きというか、クセが如実に現れている。一頭のヒトとしてのワタシの、然るべくして現在(いま)斯様であるという非力の極みのもたらした「自然(じねん)」が、台風という自然(しぜん)の威力を借りて、憂さを晴らしているって図かな。
 こうやって考えてみると、八十爺はアンビバレンスに(気づいたとき)わが身の安心立妙を感じている。そうだね、ヒトって、いつもこういうアンビバレンスに翻弄されている。それが生きてるって証しだと意識したとき、「我思う故に我あり」というコギトを実感できるってコトか。


水晶岳訪問(6)若い人に会わないから老ける

2024-08-29 05:42:06 | 日記
 第六日目。あとは下山だけ。4時半点灯、5時朝食。5時半には出発になった。
 新穂高ロープウェイまでは3時間半ほどの行程。小屋上の池にある展望台からも、高い山は雲の中で見えない。行こうとすると、小屋の方から6人ほどの若いパーティがやって来て、彼らが先行する。涼しい。最近4回もこのルートを往き来しているというのは、歩調にも影響する。勝手知ったる道って感じ。順調に岩を踏み、進む。行程50分のところ、30分もかからずにシシウドヶ原に着く。
 見上げると穂高の峰々の雲が高くなり、傍の針葉樹と一つになって黒々と、睥睨しているような高さを屹立させていた。晴れてくるのだろうか。
 登ってくる人たちと相次いですれ違う。新穂高を3時半に歩きはじめたという人もいる。これから北アルプスの核心部へ向かうという毅然とした心持ちが、感じられる。
 先行した若いパーティが一休みしていたのか、発とうとしている。
「大学生?」
「そうです」
「山岳部?」
「いえ、ワンゲルです」
「気をつけて」
 と言葉を交わす。
 彼らとは、このあと2回出逢う。次に会ったのはやはり行程50分の秩父沢出合。岩に木製の橋があり、その手前で休んでいる彼らがいた。
「どうぞ」
 と私たちに先行するように道を空ける。
「ははは。君たちのあとに歩きますよ。どこから入ったの?」
「折立から」
「じゃあ、黒部五郎を回ってきたんだ。5泊くらいした?」
「いえ、3泊です」
「そりゃあ、すごい。速いねえ」
「あなた方は?」
「ああ、私たちは野口五郎から、水晶回って今日下山ですよ」
「私たちが去年歩いたコースだ」
「槍へ行ったの?」
「いえ、ここを下りました」
「……」
「じゃあ、先に行きます。またお会いしましょう」
「ははは、もう会うこともないいですよ。元気でね」
 と言葉を交わして別れた。
 登山口までは行程40分ほど、私たちが彼らに追いつくとはおもえなかった。実際に彼らの姿を見たのは、登山口から林道を20分ほど歩いたところにあるワサビ平小屋の外に設けられたベンチ。たくさんの登山客に混じって、ジュースを飲んでいた。そのうちの一人が私に気づいて手を振り、私も手を挙げて挨拶をして通り過ぎた。
 この山行の全体を振り返ってみると、若い登山者が圧倒的に多かった。夏休みということもあろう。パーティを組んでいる彼らはテント泊。山小屋には泊まらない。でも休憩し、水を補給し、あるいは山小屋前のベンチで交わす声がよく通り、響く。若い。溌剌としている。
 そういえば、私のような高齢者は、若い人と接することが各段に少なくなった。それだけで老け込むってコトがあるかもしれない。高齢者の世界から若い人がいなくなっている。リタイアした高齢者が大学などへ通って講座に加わるようになれば、高齢者の老け込みもまた、変わるかもしれないと、埒もないことを思った。
 下るほど登山者と挨拶を交わすことは少なくなった。
 新穂高ロープウェイに着いたのは8時40分。小屋を出てから3時間10分。コースタイムは3時間20分だから、ま、誤差の範囲ペースで歩いている。
 Kが車を止めた無料駐車場はそこからさらに20分ほど歩いたところにあった。9時着。
 そうだ、「(3)言い当てたいこと」で記したあとの歩行データを記しておこう。
 8/21は24500歩、18.1km、8/22は18700歩、13.8km、8/23は23000歩、17.1km。歩いた時間と歩数は比例しないし、距離もまたずいぶん違いがあった。
 無事下山。
 平湯バスターミナルの少し南にある日帰り温泉で、6日ぶりの汗を流した。のんびり露天の湯に浸かって、しばらくボーッとする。疲れというか、山を歩いて降り積もる緊張というか、こわばった身体がほぐれて湯に溶け出すように感じられる。
 いい山行であった。何がいいかをどこかに措いた感触が身の裡に満ちてくるのを受け止めていた。
 ぽつぽつと言葉を交わす。
「いや、ほんとうにありがとう」
 そう、言葉にして感謝した。
「年齢にすると、そこそこ元気なんじゃない」
 とKは、言わずもがなという風情で見立てを口にした。
 ふむ。何となく、山の権威からお墨付きをもらったような気分。わるくない。
 こうして5泊6日の、私の裏銀座山行は終わった。


水晶岳訪問(5)草花を愛でる気分が戻ってきた

2024-08-28 06:37:12 | 日記
 第五日目。今日は行程が4時間40分。まったく急がない。6時出発にしようと話していたが、部屋の点灯が4時というので4時起床。朝食が5時。食事が終わると、出発ということで、5時半に出ることになった。
 外は雲に蔽われている。ハイマツの合間に置かれた何張りもあるテント泊の人たちも、出立、あるいは、その準備をしている。ハイマツを抜けながら雷鳥日和だねと言葉を交わす。少し登って上から下を眺めると緑の中に三俣山荘が佇み、色とりどりのテントが点在している。景観の外縁は霧に取り囲まれており、いい風景だなあとおもう。
 40分くらいで三俣蓮華岳への分岐に来る。雲に囲まれたこの調子では山頂もオモシロクなかろう。それに先月私は、黒部五郎からの帰途に立ち寄った。そのときは快晴の絶景。そのなかを双六岳へ向かって稜線を歩いた。また稜線の途中から下る「中道」と名付けられたお花畑のルートも往きに歩いていた。今日は双六小屋への三本のルートの未知の一本、「巻道」ルートを辿ろうと、そちらへ踏み込んだ。
 あとで考えたのだが、ひょっとしたらここまで4日間のわが身の疲れが、霧を口実に巻道を選択したのかもしれないと、身の無意識を振り返る。巻道を歩いているときに、槍ヶ岳のある南側の空は、次々と湧き起こる雲に蔽われているのに対して、双六岳への稜線に塞がれた西側の上空には、青空が広がりはじめてきたからだ。ああ、これなら、西の方は見晴らしが良かったかもしれない。ことにKにとっては、稜線沿いの方が、いずれのピークも踏んだという意味では、良かったかなと思った。
 巻道のウリであるお花畑は、もう旬を過ぎていた。コバイケイソウはすっかり葉を枯らし、チングルマは長いヒゲのような穂を伸ばして風に揺れている。アキノキリンソウやウサギギクの仲間、トリカブト、ハクサンチドリ、トウヤクリンドウ、コゴメグサの仲間とか、名は知らないアザミなどは元気が良い。というよりも、花を見てカメラに収めようという気力が、いくぶん今日は戻ってきている。ハイマツの上を飛び交うホシガラスが幾度も目に止まる。
 景色を味わおうという気分も、甦った。水晶岳との間の谷を埋める雲海は、まるで谷間に蓋をしたようにふ~わりと被さってオモシロい。高い雲と谷間の雲ノ間に槍ヶ岳に連なる北鎌尾根がくっきりと峻険さを際立たせた稜線をみせて毅然としている。Kはここを冬に踏破したと話していた。これも、今日の行動時間が短いという余裕が醸し出したわが身の気分だ。
 コースタイム2時間50分の双六小屋にも2時間半で到着した。まだ8時。小屋前のテーブル、ベンチに腰を下ろし、20分ほどものんびり過ごした。青空が見えるようになった。wifiが使える。早速、送受信できなかった2日分のメールを送信し受信する。昨夜同宿であったアラサーの男性が、槍ヶ岳へ行くのは難しそうだから、どこへ泊まるのかとKに訊ねている。答えを聞くと、同じ経営系列ということで、双六小屋で宿泊申し込みをしていた。彼は何かを送受信しなくてはならないコトがあったようだが、auでなかった所為で、弓折岳への稜線に出て、ときどき立ち止まってスマホの遣り取りをしていた。
 先月まだ雪田の上を歩いたところは、すっかり雪も解け、砂地に踏み跡がたくさんついていた。
 1時間ほどで弓折峠に来た。南側の谷は雲が満ちあふれ下から湧き上がってきている。9時半にならない。下から上がってきて、双六小屋や鷲羽岳の方へ向かう人、そちらからやってきた人たちが一息つくのに、ここのベンチに腰掛けて休んだりお喋りしている。次々と発ち、次々とやってくる。小屋に早く着きすぎるのも考えものだと思って、ここで25分も時間調整をして鏡平へ向かった。10時半になる前に小屋に着いてしまった。
 小屋前のベンチでは、ここに泊まる人、これから双六方面へ登る人、ここから新穂高へ下る人とさまざま。そういう時刻と場所なのだ。鏡平小屋はスウィーツやラーメンの提供をしている。600円のコーヒー、1200円のラーメン。ちょっと海外の2000円とか3000円もするラーメンを思い出させるが、山小屋ならしょうがないかと思って、ふと一つ気づいた。
 この小屋には、ヘリが着陸できるような開けた場所がない。ロープで吊り下げて荷を飛ぶヘリの姿は先月も見かけたが、はて? ここはそれをする余地があるのだろうか。
 歩荷? まさか。歩荷なら、去年から4回もこのルートを通っているのだから、出逢わないわけがない。どうしているのだろうと思ったが、それっきりになった。
 宿泊の手続きをして部屋に荷を置く。先月、黒部五郎岳に登るときは2階の蚕棚。今回は「別館」という新築の棟。枕を並べるのはどこの小屋でも変わらないが、胸から上の部分は紗で仕切るように設えている。また、足元には布のカーテンがあって、閉じれば「個室風」になる。こうしたちょっとした細工が居心地の良さに大いにかかわっている。鏡平山荘が、その立地だけでなく評判を呼んでいるわけが分かるように思った。
 どうして「評判を呼んでいる」と思ったか。この「別館」の脇にさらに「新別館」を立てる土台がすでに設えられ「工事中」であった。そうか、この建築材料はヘリで運ぶしかない。やはりどこかにヘリポートか荷を吊り降ろす余地はあって、双六グループのヘリを飛ばしているんだと腑に落とした。
 乾燥室は熱いくらいの風が炊き込まれている。まだ干している人は僅かだが、着替えて全部衣紋掛けに掛ける。食堂の先にカウンターやテーブルがあるので、ビールを頼み、持ち込みのビスケットなどでお昼にする。Kは本を読んでいる。私はボーッと窓の外、雲に隠れた槍ヶ岳や奥穂高の稜線を「透視」するようにして、頭を空っぽにする。いいなあ、こうして言葉を交わさないで、でもなんだか気心知れているって感じられるのは、と考えるともなくおもう。
 90度向きの違うカウンターに陣取った男性二人の交わす言葉がときどき耳に飛び込んでくる。一人は、どこかの山小屋の経営者のようだ。蒲団を干すこととか、部屋をどうするとか、ポツリポツリと意味が伝わってくる。でも、どうでもいいから、するりと抜けていく。彼らもどうでもいいことを話しているのか、こちらにどうでも良く聞こえているのか、とりとめない。人って、こうやって、何をしてるんだろう。
 ビールが空いてしまった。私はお湯をテルモスにもらいに行き、ついでに180mlの赤ワインをひとつ買って、Kに渡す。彼は本を読みながらそれを飲み、私は持ってきたスティック・コーヒーを湯で溶いてすする。
 読み終わった本をKは「読む?」と手渡す。チャールズ・ダーウィン『ミミズと土』。
「あっ、これ読んだ」と返しながら、はて、いつ読んだんだっけと思うが、思い出せない。帰ってから調べてみると、去年の7月。
《そういえば《法はささいなことにこだわらず》という格言があると、19世紀後半イギリスのダーウィンが記していたっけ(チャールズ・ダーウィン『ミミズと土』平凡社文庫、1994年)》
 と、この本の内容とは関係のないことで引用しているだけ。そうだ、思い出した。ナチスの農業政策を研究した本の絡みで、この本のことを知り、繙いたのであったか。ナチスのそれを研究した人の名とか、書名とかはすっかり忘れているのに、「その絡み」だけが記憶に残っているなんて、まるで「ささいなことにこだわらず」そのものだなあと、笑う。これは歳の所為なのか、私の特性なのか、わからない。固有名を基本、記憶に残さず、関係や印象を「意味」として摑まえて仕舞っているのは、ひょっとするとワタシの若い頃の「論理的傾き」と関係があるかもしれない。そう、ちょっと思うことにも気づいた。
 この山荘には、ここ2年で三度泊まった。それもあって、強い親しみを感じる。トイレも、洗面所も、清潔感が何より気に入っている。食事などはさして特別ではないし、サービスも素っ気なく、ふつうの山小屋とかわらない。にもかかわらず、然るべき所はきちっとポイントを抑えていて、放っておかれるのが心地よいって、ことかな。
 さあ、明日は下るだけ。4時間足らず。風呂に入れるぞと、気持ちははや、いそいそしている。


水晶岳訪問(4)山の生活やめちゃっては、いかが?

2024-08-27 06:18:40 | 日記
 第四日目。空は薄い雲のある快晴。東眼下にある雲海の雲平線(?)がやってくる朝陽で赤く縁取りしたように色づいている。東に富士山がぽっかりと頭をのぞかせている。野口五郎岳の上には15日の残月が白く輝くように見える。
 朝食はおにぎり二つ。昨夜渡されている。つまり、いつでも出発できる、と思っていた。ところが、「ご希望の方には5時から味噌汁とお茶を出します」という。そりゃあ頂いてから出ましょうということにした。おにぎりも一緒に食べた。5時半スタート。体力は恢復しているように感じた。9時間ほども寝たのが奏功しているのか。
 5分ほどで野口五郎岳の山頂に着く。新旧三本の木柱標識が立っている。木柱の向こう左には、槍ヶ岳が姿を見せている。右には、その形の独特な笠ヶ岳が見事に屹立する。
 うん? 女の人の話し声が聞こえる。後に人の姿はない。
 下に見える野口五郎小屋の前に出発するグループの人たちが集まっている。その話し声が風に乗ってここまで聞こえてくるのだ。あの方たちは、昨日私を追い越していった12人のグループ。烏帽子岳に上ってブナ立尾根を下山するといっていたか。風はつよい。お陰で涼しい。
 昨日へばって上っていたルートに合流し、標高2800mほどの稜線を西へと辿る。ところどころ岩の積み重なる小ピークを越える。遠方高いところに水晶小屋がみえる。そのピークへの稜線南東側は大きく崩れ、山肌を剥き出しにしている。北側はハイマツが蔽って、緑色を湛えて黒部湖の方へと長く深い谷をなしている。
 ヘリコプターが湯俣沢を遡上するようにけたたましい音を立てて渓間から上ってくる。ワリモ岳と水晶小屋の間の低い稜線を超えて姿を消し、水晶小屋の建つピークの向こうを回り込むのか。しばらくしてバリバリと大きな音を立ててヘリコプターが水晶小屋の北側から現れ、真砂岳との間の低いところを超えて谷間に落ちるように姿を消した。そうか、今日は久々の晴れ間。ヘリは大忙しなのだ。
 東沢乗越を過ぎてゴツゴツした岩山を超えて行くとき、南東に槍ヶ岳が形のいい姿を見せ、南西に目を転ずると、笠ヶ岳や黒部五郎岳の立派なカールがどっしりと構えているのが美しい。ああ、北アルプスの一番奥まったところに来ているのだ。
 水晶小屋前に荷を置いて、ウィンドブレーカと水だけを持って水晶岳へ向かう。ちょうどヘリが荷を運んでくるというので、登山路は通行禁止。ヘリ待ちの小屋のスタッフがルートを塞いでいる。ヘリがすぐ左横からやってきて、稜線の中央に降りる。次々と小屋のスタッフがリレーして荷を降ろし、終わるやヘリは後方へ向きを変え飛び去るように音を立てて消えていった。
 こんなに多くのスタッフがいるんだ。そう思って訊くと、縦走中の大学生がボランティアで助けに入っているそうだ。そうか、そうか。そりゃあイイことだと口にして褒めそやす。
 水晶岳には40分ほどで着いた。荷物がないから楽なモノだ。山頂近くの道は岩場になっている。踏み跡もしっかり着いていて、少しも難儀しない。荷物を背負った二人連れがいたので、赤牛岳を越えて読売新道を黒部湖へ下るのかと聞いたら、戻ってくるという。いや、えらい! 荷物を降ろさず背負って歩くというのは、基本だね。若いひとはそうじゃなくてはと、自分のことは棚に上げて、これも褒める。
 水晶岳南峰に着いた。人が4,5人も上れば一杯になる。水晶岳は双耳峰だ。北峰も、すぐその先にある。でも、そちらはこちらより低い。それに山頂標識もない。行かなくてもいいかなと思った。と、先を歩いていた荷物持ちのお二人さんが北峰へ行き、記念写真を撮っている。手には何やら「水晶岳北峰」と書いた標識らしきものを持っている。じゃあ行こう。いって、あの標識で写真を撮ってこよう。
 北峰は、もっと狭い。手持ちの標識を持つと、西側には、いくつものカールを抱え込んだ薬師岳の大きな山体が、どっしりと控え、その手前下方の森の中に高天原の小屋の赤い屋根が見える。薬師岳の北には立山が大きな長い山頂部を北へ伸ばし、その手前に五色ヶ原が広い台地状の森を泰然とみせている。十年くらい前に所謂ダイヤモンドコースを歩いたことを思い出す。
 水晶小屋に戻り、ちょっとスナックをかじって腹ごなしをして出発した。10時半。今日は急がない。コースタイム男は復活している。それにこの天気。槍ヶ岳に雲が取りついてきた。西の方には雲ノ平が睥睨される隠里のように鎮座している。先を歩いていた青年は、そちらの方へ向かった。
 私たちは、ここワリモ分岐で雲ノ平への道と三俣山荘への巻道を分け、ワリモ岳へ向かう。上り。岩を踏む。途中で、へこたれて歩きがのたのたしているテントを担いだカップルを追い越す。女性がすっかり草臥れている。ああ、昨日のワタシだ(2キロくらい荷を分け持ってやればいいのに)と思い(いや、これも父権主義的かと自問し)つつ、先へ進んだ。コースタイムで鷲羽岳に到着。10名くらいの人たちが山頂のあちらこちらにいて、景色を眺め、記念写真を撮り、お喋りをしている。
 ひと組の、これから水晶小屋へ向かうパーティの女性が、小粒のトマトをおひとつどうぞと差し出してくれた。
 甘い! というと、
 そうでしょ、庭でつくったのと、うれしそうに笑った。
 鷲羽岳から三俣山荘は一望できる。傾斜はそれなりに急だが、左岸の砕けた道はジグザグに切ってある。滑らないように用心しながら、どんどん下る。何組かの下山者が道を譲ってくれる。
 途中に「伊藤新道に入山する登山者の皆様へ」と表題した新しい掲示板が設置してあった。そこへ追加で貼り付けるようにして「第三吊り橋、第五吊り橋 通行禁止」とプラスティック製の注意書きがあった。湯俣山荘で注意していたのと同じだ。
 そこから5分もしないで三俣山荘に着いた。ちょうどそのとき、ヘリコプターがハイマツに腹を擦るようにして着陸する。山荘のスタッフが駆け寄って荷を次々と降ろす。登山客や宿泊客が前庭からそれを眺めている。ここは、伊藤新道が再建されたということでTV放映された所為もあってか、たくさんのお客がやってくる。それに応じて、料理もイベントもいろいろと工夫を凝らして、従来の山小屋風情とは違うサービスの提供を心がけているようであった。
 夕食までの間、食堂でビールを飲みながらビスケットをつまむ。サイフォンのコーヒーを淹れたり、彩りのあるクリームを提供したり、カウンターもある。ちょっとした山のカフェって感じ。夕食のときも、料理を並べた皿を前に、シェフだかスタッフ代表だかが、鹿肉ジビエの説明をする。朝食では、大きなソーセージはイノシシ肉ですと説明していた。まるで三つ★レストランのような料理の説明があるのは、山小屋では初めてのことだ。
 ま、湯俣山荘もそうだった。サービスというのが、泊めてやる風の避難場所提供から、リピート顧客を迎えるリゾート山小屋に変わりつつある。ま、COVID-19のお陰で、詰め込み風の小屋でなくなったのは、ありがたい。予約しなければ泊まれなくなる。宿泊者数は制限される。むろん料金は高くなる。でも、清潔になり、物資を運ぶのもヘリをつかうなどのコストを掛けている。致し方ないように思う。
 そうそう、図書館へ本を返して雑誌を見ていたら、次のような詩の一節が目に止まった。蜂飼耳という詩人の「ほらあな」の引用。三俣山荘の夕食、鹿肉やイノシシ肉ジビエの、けものが歌っているように想えた。


  討とうとしているわたしを
  わたしはなにもしていない
  やまはだ やまひだ やまびらき
  やまいも やまどり やまのさち
  奥の奥へと籠もろうか
  山の生活
  やめちゃって
  やきとりやさんを やりたいな


 八十路爺も「山の生活やめちゃっては、いかが?」と囁かれているような気がした。寝る前に両肩の湿布薬を貼り替えてもらった。