mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

春を告げる雪

2015-01-30 14:20:34 | 日記

 良く降りましたね。朝7時ころにはまだ小さな粉雪が降りてきて、とても積もるようには見えなかったのに、9時過ぎにはずいぶん盛大に降っていました。すっかり庭も雪に覆われ、車の屋根にも積もっている。郵便物を投函しにでかけてみると、道路にも2,3センチの積雪、靴の踏み跡がくっきりと着くほど。気分もうきうきしてきます。

 

 その雪もお昼頃にはやんでしまいました。まだ1月とは言え、あと何日かで節分。春の気配が聞こえてくると雪が降るというのが関東地方の「ふゆ」。今年がとりわけ寒いというわけではないのですね。この後はだんだんと三寒四温に変わっていき、雪国の寒さと大雪をしり目に関東平野は日一日と春めいてきます。

 

 「寒いのは嫌いだ」「雪は敵だ」と雪国出身のどなたかがおっしゃっていましたが、私は雪景色も雪の山歩きも大好きです。夏の暑さよりも好ましく思えるほどです。やはり、瀬戸内地方の生まれ育ちのせいでしょうか。非日常的な風情に堪らないものを感じます。さらに、この寒さが日を追って緩んでだんだん春めいてくるときの浮き立つような心もちは、それまでの人生の垢をすっかり洗い流して、再出立するような気分になります。これもまた、日ごろ垢にまみれた暮らしをしていることの反転した「快感」なのでしょうか。などと……気取ってみても、この齢になっては、何の風情も感じませんね。

 

 ともあれ、家にこもって本を読んでいるのにも飽きてTVをつけたら、映画『華氏451』(フランソワ・トリュフォー監督、1966年)をやっているではありませんか。あれっ? こんな映画だったっけ? とおもうほど、違った映画にみえました。

 

 文字文化よりも口伝の文化の方が、語る人(著者)と聴く人(読者)の緊張感のある「作品/本」になっていることは間違いないようです。聴かれる(読まれる)ことによって語ること(著すこと/本)が自己実現するばかりでなく、読み手の世界との交信も「本」なのですね。(たぶん)トリュフォーの意図を超えて解釈できるような気がしました。ほぼ半世紀たった私の変化が生み出した、みてとり方なのだろうとは、思っています。

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畏れ入りました、母上

2015-01-29 10:38:24 | 日記

 大阪に行ってきた。弟の家に兄弟が寄り、昨夏亡くなった母の一周忌をどうするか、相談する。ちょうどお盆に亡くなったこともあって、順当にいけばまたお盆にということになるが、行き帰りの交通の混雑とかまだ現役で仕事をしている「孫」たちのことを慮って、お盆前に設定しよう、しかしお寺さんの都合も訊いてとまとめておいた。

 

 さっそく岡山へ帰った兄がお寺さんに問い合わせたところ、8月に入ってほとんどお盆の供養などもあって、予定が空いていない。結局、亡くなった8月16日ではどうかということになった。自分の亡くなることを気遣って、葬儀に参列した方々に「別れのご挨拶」も用意していた母らしく、一周忌も「自分の都合でやるものではありませんよ」と諭しているように感じる。ははあ、畏れ入りました、母上、というところである。

 

 長兄の49日のときにはげっそりと頬が削げ落ちていた次兄も、いくぶん顔色は良くなっている。ブエノスアイレスから帰ってきている娘と孫との暮らしに活力がよみがえって来たか。それとも近々、再びアルゼンチンに戻る彼女たちの準備に追われて動いていることが、活力源となっているか。ともどもに影響しているであろうが、主には後者のように思える。あまり背負い込んで無理をしていなければいいのだが。

 

 弟Kは、韓国の大学から正月休みをもらって帰国している。やはり間もなくそちらへ戻る。こちらに帰っている間にも、講演や会合で慌ただしく飛び回っていて、落ち着く暇がない。やっと調整して兄弟が話す時間をとることができた次第。私より10センチも背が高いのに体重が7,8キロ少ない。暮れの健康診断でも「やせ過ぎ」と注意を受けたらしい。だが私が見ている限り、韓国暮らしの2年間でずいぶん人が変わった。好き嫌いがなくなり、それなりに食べるようになった。私に似て人との付き合いが苦手のように思っていたが、案外気さくに出歩いて、話しも気軽にすすめる。もう高齢者の仲間入りをしているが、この年になっても変われるというのは、なかなかたいしたものだと感心する。そういう落ち着いた人生になっているのも嫁さんの包容力のおかげとも、思う。

 

 弟嫁さんのお接待を受けて鍋をつついて酒を酌み交わし、とりとめもない話の合間に一周忌のことを決め、何時に床に就いたのかもわからぬまま、気が付くと陽が上り、7時を過ぎていた。決めたこと自体はメールのやり取りでも決められることではあるが、交わす言葉の身体に響く感触が(たぶん)長年の「かんけい」の途切れているところの橋渡しをし、自分でも気づかぬところで「共振・同期」する感覚を醸成しているのであろう。

 

 帰りに弟Kも一緒に、大阪の千里に住む叔母の内を訪ねた。夫婦ともに米寿。子どもはいない。その分、甥姪の私たちと親しくしてきた。先日(私のいとこにあたる)姪や甥が米寿の祝いをしてくれたという。ずいぶん体は弱っているが、頭も気力も衰えを見せない。週1の書の教室もつづけている。宅配や介護サービスなどを受けて、静かな暮らしに不自由はしていない。甥姪のこと、去年亡くなった私の長兄のことなど、とりとめもないことを話してきた。「あんたがた兄弟仲がいいのが一番よ」と、叔母の目からみた「評価」は、叔母の長兄である私の父たち6人兄弟姉妹の「(かつての)期待と自己評価」にもつながっていると思った。3時間ほど過ごし、私は「徒然草」の一部、弟は「般若心経」の巻物を「遺品の先渡し」としてもらった。やはり書を得意とする岡山の兄には、何年かをかけて書いた「古今和歌集」の分厚い蔵本が手渡されることになっていた。その書体は、かなを軸にして目で見る空間芸術的に奔放な領域にまで来った叔母の魂の神髄を示しているように思えた。

 

 こういうふうに齢を取りたいもの。だが、いまさら芸術を志すわけにもいかない。我が身の処を心得た、静かな暮らしに落ち着きを得たいと思った。  

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「心の何か」という人間存在の根源にふれる

2015-01-26 15:45:38 | 日記

 「合宿」に行ってくる。もう45年もつづいている「勉強会」だ。といっても、むかしはこんなにまじめに勉強ばかりしていたわけではない。ソフトボールのゲームをしたり、子どもを連れて行ったり、麻雀をしたり、酒を飲んで歌を歌ったりと、ほんとうによく遊んでいた。それだけエネルギーがあったのだなあと、いまは思う。

 

 読み合わせたのは、次の3冊。もう1冊用意してあったのは、時間切れでとりあげることができなかった。

 

 ① 最相葉月『セラピスト』(新潮社、2014年) 
  ② 安田登『日本人の身体』(ちくま新書、2014年)
  ③ 中村明一『倍音――音・ことば・身体の文化史』(春秋社、2010年)

 

 ①は、沈黙して寄り添うことが「心の何か」の安定を(寄り添われている人に)もたらし、外部との交信作用を恢復する「不思議」を、セラピーの現場からとりあげてくる。人が人の「心の何か」に関わることの「畏れおおさ」。自身さえつかみきれない、その「心の何か」が「恢復」という自律にに向かって動き始めるときの「不安」、それが引き起こす自殺。「恢復」が果たしていいことなのかどうかという問いを宙づりにしたまま、しかし「沈黙」がもたらす安心と安定の「心の何か」の不思議をたどる。社会規範を押し付けることを使命とする学校教師が、「押し付ける」ことによって子ども生徒の内面に立ち入らないでいるという皮肉な事実を、どう受け止めるか。学校における「カウンセリング」も行動療法という機械的対応によって、かえって(内面に踏み込まない)救いになっているかもしれない(といってセラピーの効果もそれほどあらわれない)という皮肉な事実も浮き彫りになってくる。

 

 ②は、「あわれみを感じる」というギリシャ語「スプランクニゾマイ」の原義「はらわたが動く」を入口にして、本居宣長の「あはれ」「もののあはれ」の「嘆きの息」に転轍し、日本語の古語における「息の霊/いのち」を引き出して展開する。つまり、「心の何か」の根底にある「蠢くいのち」に焦点を合わせる。

 

 《日本人の身体感の基本は、自他の区別もなく、また環境と自己との差別もない曖昧な身体でした。ふだんはそれはあいまいな境界線の中に留まっていますが、何かがあるとすぐに溢れ出し、他人と一体化し、自然と一体化しようとします。「あはれ」とは、他人や環境と一体化せんと溢れ出した、蠢く自己の霊性そのものなのです。》

 

 「霊性」といってしまうと神秘主義的に傾いてしまうが、「呼吸」を軸とした身体の調整法(ロルフィング)をボディワークとして実践している能楽師が、承継文字の起源にまでさかのぼっての言説となると、ひとまず耳を傾けなくてはいられない。たぶんに、直感的な飛躍に彩られてはいるが、私たちの身体に受け継がれてきている人類史的な堆積を感じることができて、面白い。

 

 ③は、音の受容の仕方に関する西洋人と日本人の違いを解析した、脳科学者の業績を起点に展開がはじまる。さらにそれは、コミュニケーションにおいて2/3を占めるという、非言語性のコミュニケーションや無意識下のコミュニケーションを通じて「心の何か」が動いているという経験則です。

 

 《(それらのコミュニケーションを通じて醸し出されるのが)時空間・雰囲気の変化、感情の誘発、癒し、会館、親密性、友情、自己の境界の消失、言霊、音霊的感覚などです。》 

 

 尺八の達人であり、音の理化学的な探求をつづけてきた著者ならではの直感的な探索が、しかし、(たぶん)それゆえに醸し出される「傾き」をもちながら、「心の何か」に迫ろうとする意思を感じる。「傾き」というのは、イメージが「善きこと」に偏りがちで、悪しきことを等閑視しているように思われることにあるが、まあ、そういう「傾き」がみてとれるくらいは、面白さのたいした瑕疵にはならない。①の「恢復のかなしみ」が十分補ってあまりある。

 

 こうして、「合宿」を済ませて無事に帰還。この会も、あと1年と3か月で終わる。そこまで、いまの面々が元気で頑張れるか、そんなことを心配するような気配を湛えるようになってきた。思い残すことはないが、気がかりである。

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無意識を読み取られてこそ「本」

2015-01-23 20:35:02 | 日記

 今朝はうって変わって晴天。風が強い。サクラソウ公園へボランティアに行くカミサンを送って、ついでにトラフズクをみてこようという算段。サクラソウ公園の駐車場にはすでにカミサンの友人が来ていて、スコープを組み立てている。荒川に流れ込む鴨川にいる水鳥を見に行こうとしているという。一緒させてもらう。

 

 緑に光る頭をみてマガモだと、初め思った。だが双眼鏡で見ると尻尾の末端が下向きにカールして水についている。身体の向きが変わると、頭のてっぺんが茶紫色に輝いてナポレオンハットのようにみえる。ヨシガモの雄だ。雌は地味な褐色で他もかもの雌と区別がつかない。何羽もがゆらりゆらりと風に吹かれるように水面の揺れに同期して揺蕩っている。オオバンが2羽下流から風に吹かれてくるだけで、他の水鳥はいない。

 

 トラフズクのいる方へ向かう。鴨川の流れに沿って公園の南端にある水門に近づくと、対岸に竹の密生している林がある。その中にいるという。途中で、何かを探している様子の2人連れに出遭う。彼らもトラフズクを見に来たのだが、場所が分からないという。ではご一緒にどうぞと、カミサンが先に立つ。

 

 岸辺には人が踏み込んだために更地になっているところがある。対岸の竹林は風に大きく揺らいで、その中にいるトラフズクを見つけるのは容易ではない。、カミサンの友人が一番に見つける。「ほらっ、あの竹が斜めにかしいでいるのが1本あるでしょ。その先っちょの奥にいる」と細かく場所を指す。スコープを構えていたカミサンが「はい、入りました」と顔をあげる。覗くと、確かに、言われたところにトラフズクがいる。風に揺れる竹の間から、首を立て右に左に回している様子がよく見える。目がきちんととらえられる。だが暗くて、とても写真に収めることはできない。一緒に来た2人連れにもスコープを覗いてもらう。「ああ、あんなところ」と女性も確認したような声をあげる。

 

 と、「あっ、もう一羽いる」と友人が声をあげる。彼女の覗くスコープの向いている方向をみて、双眼鏡で探すが、わからない。「揺れてる竹の間。分かりにくいかなあ」と言っている間に彼女もまた「わからなくなった」と探すモード。カミサンのスコープを引き寄せて私がのぞく。竹が揺れている間をひとつひとつみていくと、縞模様の腹が見えた。みていると、たしかに一羽、やはりこちらを向いてじっと目をつぶっているのが分かる。スコープに収め「入ったよ」とカミサンに席を譲る。

 

 こうして1時間ほどを過ごして、私は帰宅した。そのあと図書館に足を運び、本を4冊返却し、1時間ほど赤瀬川源平の「東京町散歩」の本を読む。彼の淡々と目に見えることがらを記して飽きさせない記述の謎に、しばらく考え込む。本は、読まれたときに初めて、書かれたことが「本」になる、とどなたかがどこかで言っていたが、たしかに、このような読み方をする読者もいて、赤瀬川が書いた甲斐もあろうということはできる。著者が想定していないう読み方をされるというのも、「本」の宿命かもしれない。良い読み方、悪い読み方ということも、著者の側からいえばあるだろうが、読者の側からすれば、著者の意図しないのに記述されてしまっていることが読み取られるというのは、他者にしかできないことだ。無意識の露呈が、ひょっとすると著者が意図せず「本」を書こうとした深層の動機にあったかもしれない。それを読み取るとき、初めて「本」は読まれた、と思う。

 

 帰りは追い風。下校する小学生を追いながら、歩く。一年生ばかりなのか、ランドセルに黄色いカバーをかけた子たちが、列をつくって右側を歩いている。一番後ろから自転車に乗ったお年寄りが、「じゃあまた来週ね、バイバイ」と声をかけて別れていく。だんだん自宅へ向かう子どもたちが分かれて、列の子どもは3人になった。ふと思い出した。孫のSは一年生の時、泣きながら帰ってきた。留守を預かっていた祖母ちゃんが何かあったのかと聞くと、一緒に帰った子たちがみんないなくなってひとりになったのが寂しかったらしい。なんともかわいい話じゃないか、と思ったことを思い出した。まあ、一年生といっても、間もなく2年生になるのだから、そんなこともないか。

 

 こうして今日も、何をするでもなく過ぎてしまった。明日から合宿。その勉強材料はもう準備できた。ちょっと多すぎるかなと思うくらい、ある。まあこれも、あと1年と3か月で終わりにする。そのくらいは、頑張れそうではないか。

 

 そういうわけで、月曜日までこのブログもお休み。ごめんね。

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春が近いのか、雪の二子山

2015-01-22 10:26:21 | 日記

 昨日は山の会の月例登山。西武秩父線の芦ヶ久保駅から二子山を経て、武川岳を歩く。15日に秩父地方に雪が降ったというので、念のために「軽アイゼン持参」をお知らせした。「念のため」というのは、その後に平地では好天が続き、12度を超える暖かい日もあったからだ。

 

 正丸トンネルを抜けて、驚いた。まったくの雪景色。「トンネルを抜けると雪国であった、ってとこね」と、電車のどこかで声がする。芦ヶ久保駅前の広場は凍てついて盛り上がった薄氷が一面に覆っている。かろうじて車の通った後であろうか、氷の解けた筋道が残る。ずいぶん下車する人が多い。私のところに寄ってきて、「新ハイキングですか」と声を掛けられたので、そういうグループだと分かる。30人ほどはいようか。私たちは6人。

 

 トイレを済ませて出発する。まずは芦ヶ久保名物・「兵の沢の氷柱」をみていこうと、木くずを敷いてしつらえられた歩道をすすむ。ここも雪と氷に覆われ、人の歩くところだけ木くずが剥き出しになっていて、滑らない。秩父線をくぐって氷柱の正面に出る。スプリンクラーで散水しているから。樹木にかかった水が凍りついて氷柱になる。つららになる。それらが太くなって透き通り、なるほど見事な造形をなす。ふと見ると、登山道の方にはロープを張って「立ち入り禁止」と標識をぶら下げている。ここで、軽アイゼンを履く。ストック持参の人はそれも出して使えるようにする。

 

 9時、登山道に踏み込む。雪がたっぷりと着いた、いきなりの急斜面を右に左に折り返しながら登る。氷柱の上の方を巻いてぐいぐい高度を上げる。汗ばんでくる。羽毛服や雨具を脱いで、体温調節をはかる。外気温は零下何度だろうと思うほど冷えているから、出発のときに着込んでいたからだ。杉の樹林に入ると、雪が積もっていない。だがそれが切れているところでは、しっかりと雪が積もり、凍りついている。標高で200mほど登った時、上から若い人が降りてきた。聞くと正丸駅から武川岳を経てきたという。まだ9時半というのに、早い。尾根筋の積雪を訪ねると、「アイゼンはつけていた方がいいですね」と応える。彼はもうアイゼンをつけていない。雪がなくてもこの傾斜では、アイゼンがあった方が楽に登れる。1時間かけて浅間神社に着く。「ここがピーク?」と誰かが尋ねる。「いやいや、ここまでが今日一番の急傾斜。でも難所のひとつを越えた」と話して、稜線沿いに進む。振り返ると、「下界」が見える。「あんなところから(ここまで)来たの?」とMさん。そうなんだよね、人間の脚ってすごいんだなあとKさん。

 

 細かい雪が降っている。降り注ぐというほどではないが、樹林の薄いところでははっきりと顔にかかるのが分かる。予報では夕方から雨または降雪となっていたのに、半日以上早い展開だ。無理は禁物だ。

 

 木々の間から、渓谷一つ隔てたところに雪をかぶった武甲山の山肌が屹立する。下の方には皆野の街がうっすらと見える。遠望は望めない。稜線沿いはほぼ全面に雪をかぶり、深いところは50センチを超えている。何人かの踏み跡が残るところをみると、15日以降にここを歩いた人がいるのだ。二子山の急斜面は岩場であったのに、ほとんど雪がついて険しさを感じさせない。久しぶりに参加したAさんがそれなりについてくるので気づかなかったが、足を痛めていたOさんも呼吸は苦しくなさそうだ。すっかり回復したのだろうか。

 

 二子山の雌岳に着いた。芦ヶ久保を出てから2時間20分。ちょっと時間がかかりすぎている。もし下山するとしたら、この雌岳から谷沿いのルートを下るようにしたいと、分岐を確認する。でもとりあえず、二子山の雄岳に行って昼食にしようと、急斜面を下り、細い尾根を通過して再び上る。山頂に着いた後でMさんが「これを帰りに下るのかと思ったら、怖くなった」という。だが雪がついてて、アイゼンを使っているから(安全上は)わりと楽なのだが、そうは言わず、足元を確かめる。

 

 11時22分、雄岳山頂。50センチは雪が積もっていようか。西面の樹木が薄く途切れていて、武甲山が見えるはずなのだが、雪が多くなったのか雲が降りてきたのか、上部が見えない。秩父の街並みがうっすらと霞んでいる。倒木にシートを敷いて腰掛け、お昼にする。切り株に腰掛ける人もいる。「冷えてきたねえ」とKさん。たしかに底冷えがする。脱いでいた雨具を着て、手袋も、用意した厚手の毛糸のを出して取り替える。

 

 ここから武川岳までが2時間、そこから名郷に下ってはバス待ち時間が長いから正丸駅へ抜けると、さらに2時間、となると4時前に駅に着くことになる。それもすべて雪道となると、日暮れてしまいそうだ。雌岳まで引き返し、谷沿いの道を下山しましょうと提案する。無理をすることはない。展望を期待することはできないし、それにこれだけの雪道を楽しむことができた。先ほど見た下山路も、すっかり深い雪に覆われていた。そちらも時間がかかるだろう。

 

 25分ほどで皆さん腰を上げた。急斜面を下り、登って雌岳山頂に着いたのは11時58分。昼食の時に来たまんまの防寒で渓筋の道へ下りはじめる。ここが急傾斜。ロープが張ってある。深い雪と、ずいぶんしっかりと踏み固めた踏み跡がついている。上り口で、浅間神社のルートは「立入禁止」とあったから、皆さん、こちらの渓筋を登っているようだ。駅前で出会った新ハイキングの人たちは、こちらに来たのではなさそうだ。私たちは、一人の若い下山者以外、誰にも出会っていない。標高差100m余を下ると、なだらかな尾根に出た。それだけで気温がぐいと上がったように感じる。防寒の雨具をとる。耳にかけてかぶっていたネックウォーマーも、持ち上げて耳を出す。目をあげると、登りに歩いた稜線が黒いシルエットを見せている。

 

 尾根筋から渓筋への長いジグザグの下山路は、踏み跡も固められ、しかし雪がしっかりついているから歩きやすい。標高差の半分ほどを下って、谷あいで立ち止まって一息入れる。若いKmさんがしごき事件のころの大学山岳部だと誰かが紹介する。Kmさんがいやいや、そういう体育会系事件があったころの山岳部からはじき出された山登り愛好家が「山歩きの会」をつくっていたので、「しごき」体験はないですよ、と弁明する。でも、薬師岳に登るときに計量器で荷物をはかったら、38kgあったとか、山行中の坊主小屋あたりでは重くて朦朧として(死にそうだった)という話を聞いて、皆さん笑っている。そう、過ぎ去ったことや他人のことは、軽々と聞くことができる。それにもう、自分がそういう場面に直面することもなかろうと思うから、余計に面白く聞き流せる。でも、これから先、どれほどの山に登り、どういうところに足を運べるかと考えると、他人事ではなくなる。むろん、38kgはないであろうが、20kgなら担げるか。何日、何時間歩けるか。そんなことを考えながら、ひょいひょいと下ってゆく。

 

 駅までの標高差も30mほどになって、アイゼンを外した。ところが、秩父線が見えてきてから、登山道に雪がびっちりついているのが目に留まる。つるっと滑ってバランスが崩れる。何度か危ないバランスをとって、出発点にたどり着いたのは1時15分。「道の駅」で荷を解き、次の電車に乗って順調に帰還。電車の窓の外は雪が降り、乗り換える秋津駅から新秋津駅の間でも、雪の中を歩くことになった。春が近いのであろうか。

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