mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

「生まれてこないほうが良かった」か?

2024-04-30 08:57:36 | 日記
 もう十数年前になる。人生の意味を究めたというようなことを書いて自裁した哲学者がいた(らしい)と知った。「らしい」というのは、新聞広告に、そのようなキャッチフレーズの本が掲載され、気を惹かれたことを覚えている。
 覚えているには、ワケがあった。気が惹かれたにもかかわらず私は、その本を手に取ろうとはしなかった。怖かったのである。「人生の意味を究めた」というのは、いかにも頭でっかちというかリクツの人。そう受け止めれば、気を惹かれることもなかったろう。だが、そういうリクツの檻に捕らわれてしまうと、抜け出せなくなる。それが怖かったのであろうか。そういうことの身に覚えがあったのか。判然としないまま忘れていた。
 それを思い出したのは、森岡正博『生きることの意味を問う哲学』(青土社、2023年)を手に取ったから。その一つの章、森岡正博×戸谷洋志の対談「生きることの意味を問う哲学」を読んだ。
 なんでも5年ほど前から「反出生主義」をテーマとして哲学者たちの間で論議が取り交わされているという。ケープタウン大学の哲学教授、デイヴィッド・ベネターが2006年に上梓した本(Better Never to Have Been: The Harm of Coming Into Existence.)が火付け役となり、それを日本では森岡正博が論じたことによって、哲学者たちの間で言葉が遣り取りされているという。

《実はベネターはショーペンハウアーの子どもであり、ショーペンハウアーは古代インド、ウパニシャッドとブッダの子どもであるわけです。その意味で、反出生主義の哲学思想を議論するということは、紀元前八〇〇年から三〇〇年頃に古代インドのなかで培われてきた生命に対する否定的かつ肯定的な絡まった考え方が、ヨーロッパに入っていき、さまざまなものと結合し、そして現代哲学まで侵入してきたものを我々がふたたび議論しているということになる》

 と森岡は言い、ベネットの「反出生主義」を「誕生否定、輪廻否定、出産否定をもとにした反生殖主義としての反出生主義」と分節し、「私は、反出生主義の思想は人類二千数百年の歴史の流れのなかで理解すべきであると考えている」と述べる。
 森岡が「私は、・・・」と記していることに私は感じ入っている。普遍的な世界をみて「テツガクする」方が「私は」と一人称を用いるのは、ベネターの提起して未だ分節化し得ていない「普遍」を「個別」「単独」から説き起こして、再構築しようとしている感触だと私は感じている。
 ベネットの「反出生主義」というのを「生まれてこなければ良かった」というとき、誰が誰の、どのような状況にいることを言っているのか、まずモンダイになる。「一切皆苦」とブッダがいった言葉を私が理解するのは、貧困を知っているからだけではなく、拒食症や過食症という人たちがいることを知ってしまったからでもあり、身に沁みた本能的な無意識の振る舞いを、一つひとつ意識してコントロールしなければ生きていけない状況に置かれることがあることを.つまり本能が壊れているヒトの生存だと思うからだ。それを、普遍化して「快」と「苦」を対比させてその総量をモンダイにするというセンスも頂けない。何だか二項対立的な理知的近代理性の極みと思ってしまう。「人生の意味を究めたというようなことを書いて自裁した哲学者」と冒頭に記した頭でっかちが、早とちりして決めてしまったんじゃないかと(ワタシの理解の浅薄さを棚に上げて)思ったりする。
 森岡が戸谷と対談しながら紹介するベネットの問題提起は微妙な奥行きの深さを持っているような感触を感じるから、私の受け止め方は文字通り門前の小僧の一知半解にすぎない。だが、理屈の枠組みを設えたなかに自らが閉じ込められてしまうとき、しばしば忘れるのは、自身の身に備えた累積する人類史的無意識である。ことに近代の理性が先走ると、措定した概念が軛となって檻と変わり、そこから出られなくなってしまうことである。
 ヒトの人生で味わう「快」と「苦」も、対立的な二項ではなく、「苦」があるから「快」に転じることにもなり、「快」こそが「苦」の原因となることは、周知のこと。中動態的に捉えてみれば、その良否を否定すること自体が馬鹿馬鹿しい所業に見える。まさにあざなえる縄の如き変転こそがヒトの生きることの本質であるとみてとれば、「一切皆苦」さえも、生きていればこそ感知できる「証し」とさえ言える。
 ただひとつ、「人が生きていることは良いことか」と問うことに意義があると私は思った。人動説時代の人の振る舞いは、明らかに天然自然に対して極めて重大な加害的圧力をかけている。それを自問し、(SDGsという形であれ)応えを導き出してそれに応えていくことは、ヒト以外のありとある生命体にとって、有意味に作用するに違いない。
 でも、そんなことを考えて、ヒトは自らの種を滅ぼそうと、目下ロシアやイスラエルの仕掛ける戦争を、あるいはいずれ台湾に向けて放たれるであろう中国の火花を、北朝鮮の核爆弾を歓迎するってのもねえ。ちょっと見当違いって思うのだが、どんなもんでしょうか。

うそぶく

2024-04-29 08:43:37 | 日記
《お上のことは知らんよワシら》と昨日(4/28)嘯(うそぶ)いた。お上のことというのは《文化人類学者・松村圭一郎の「最悪の選択」は、まだ統治機関止まりだから何とかなるか》と(何かを)期待している素振り。いったい何を期待していたんだろう。
 今朝の新聞を見ると、衆院補選三つで立憲候補が三勝したとある。3日間船旅へ出かけていたカミサンが見出しを見て「リッケンが勝ってる」と声を立てる。
 朝日新聞は立憲好み。宮沢喜一らを持ち上げて「立憲」の政治理念を再構築しようとイメージしている。その上、「エコ正義」も大好きとあって、共産党の支援も見落としてはいない。もちろん「野党第一党」という枠組みは(報道上の中立性には)欠かせないけど、食い込もうとする「維新」は万博や賭け事IRで稼ごうという魂胆を嫌って、お呼びでない。読売新聞も、さすがに自民党をおおっぴらに応援するほど肩入れはできない。せいぜい「維新」を担ぐくらいだが、これまた言説が軽い。
 結局今の時局を象徴するのは、不戦勝ならぬ負戦勝で、立憲民主党が勝ち名乗りを上げることになった。その程度の事象。だが、これで立憲が政権を担うことに肚を決め、十数年前の失敗を教訓に(党内を立て直し)再起できるなら、ま、期待もしてみようかと思うが・・・。でもねモンダイは、シンクタンクのエリート官僚機構。アベ=スガ時代に腐りきってもはや自壊している気配。それを立て直せるか。しかも国家百年の計を体現してとなると、明治維新の時の薩長政府のような気概がいる。
 世界はすでに、あの時の国際情勢のように先行き不透明な混沌に見える。しかも向き合う「テキ」は、明治維新の時のオウベイのように先進文明だけではない。グローバルサウスという名の後進諸国と混沌の中東、加えて欧米と覇権を争っている当事者の中と(ちょっと)露という面倒な隣人、もっと厄介な北朝鮮という核装備国もある。
 もっと面倒なのは、日本がすでに先進国の戦列のフロントに並んだ経歴を持ち、すでに落ち目の中進国となっているのに、まだ気づかないフリをして振る舞っていること。もっとメンドクサイのは、文化的にはすっかり先進文明の前の方にいるのに、統治体質は旧習のままというアンバランスもmてとれる。国際関係に、果たして対応していけるかしらと心配になる。
 いや、日本ばかりではない。台湾もウクライナもEUさえも、民主主義は風前の灯火って気配。経済関係で世界をみていた眺めは、すっかりポリティカルな要素が外側を蔽い、グローバル・エコノミーもまた、企業家たちの気分に色濃く残っているだけで、WTOなんかもはや、それって何をしてるんだっけと、謂われるくらい影が薄い。
 そうかワタシが「ワシャ知らんよ」と嘯いたのは、関心領域を限定したからであった。common landの文化にはcommon peopleとして変わらず関心を注ぐ。「市井の庶民の知見は勝手に興味関心を紡いで広がり深まっている」領域にあるとみて、統治機関の方は、「ワシら知らんもんね」と思っている。でもそんなことお構いなしに、世界の民主主義はどんどん自壊していっている。
 どうして? ITやAIの創っている世界はスーパーフラットだというのに、フラットを基本ベースとしている民主主義がどうして自壊して行ってるんだろう。
 えっ? 自壊ってどこで? 
 象徴的なのは、アメリカ。トランプとそれに振り回されるアメリカ社会とそれに引きずられている世界の動向は、まさしく民主主義の自壊。でも、人びとの関心や傾きが統治者の「懸念」の中にあるということもよくわかる。ヨーロッパの右翼政党の台頭もそれを象徴している。習近平やプーチンが強権的に情報統制して世論を制圧し、批判者を厳しく取り締まるってのも、世の人びとの支持を失ってはやっていけないことを知っているから。「懸念を払拭」するためにしている統治。それ、つまりポピュリズムも「民主主義」よとなると、ワタシの考えてきた「民主主義」が変わってしまって、時代遅れになってるってことじゃないか。
 いまさら民主主義ってこうだよと、17世紀から18世紀のホッブズやロック、ルソーを引き合いに出して説いても、たぶん、学校の授業ですら説得力を持たない。そうか、地動説時代の民主主義は終わり、人動説時代の新たな理念を構築しないとならない地点に来ているんだろうね。
 オモシロイと言えば、面白い。メンドクサイといえば、これまた面倒くさい。でもこれが人類の定めよっていえば、移ろうヒトのクセに結びついて腑に落ちる。
 やっぱりぼちぼちと、根源的に考えて、ヒトってどこから来て何処へ向かっているんだろうと考えるしか道はないかな。


お上のことは知らんよワシら

2024-04-28 10:00:50 | 日記
 今日(4/28)の新聞をみていて、四つの記事から一つのテーマが浮かび上がった。教育と統治ということ。読んだ順に上げると、こうなる。
 先ず一面の「折々のことば」。文化人類学者・松村圭一郎の言葉を引用する。
《コンセンサスによって意思決定をする社会では、採決は最悪の選択になる。》
 ふむ。その通りだ。どんな文脈で用いた言葉なのかな。
 引用した鷲田清一は、こうつけ加える。
《コミュニティにおける多数決での合意形成は、負けた側の「屈辱や憎しみ」を増幅し、当のコミュニティを破壊しかねない。……真っ先に求められるのは「多数決よりも高度な政治的技量」と「対立を煽らない思慮深さ」だと》。
 ふむふむ、これもその通りだ。松村がみている「合意形成」は、小さな規模の集団・コミュニティだろう。時間はたっぷりある「関係」のなかで、「合意をかたちづくる」というのは、どんなところでいつごろまで通用していたのだろうと、ふと、民俗学者・宮本常一「忘れられた日本人」の記述を思い起こす。
 民主主義社会というのは、モデルは「合意形成」をイメージしているのであろうが、リアルは「統治」である。「合意形成」を遠望しながら、「ハイ時間です」という現実の要請に応えて「意思決定」しなくてはならない。前者はという集団的意思集約という中味であり、後者はそのシステムを運用する手順形式である。「統治」ということばには、その両者を統合した意味合いが込められていたのであろうが、社会集団の規模が大きくなり、構成員の「利害」と「意思」が多様化すると、「ハイ時間です」という外部的な制限も加わって、後者の形式だけが優先することになる。
 デジタル化社会は、「ハイ時間です」を凄い速度でせっつくシステム要素だ。統治者はもちろん、もはや「合意形成」などと誰も思わず、声の大きい方が力になるという優勝劣敗の綱引きばかりが民主社会の舞台に残されているという状態なのかも知れない。文化人類学の知見は、現代社会では役に立たない考古人類学の書庫に収められてしまっていると言えるかも知れない。
    *
 もう一つの記事は8面、「社説欄」。「序破急」と題する準「社説」で、教育社説担当の増谷文生が、「学長にモノ言わせぬ国では」と書いている。
 国立大学が法人化されて20年になるというので全国の国立大の学長にアンケートを採ったところ、そこに記した「意見」について「匿名扱いにしてくれ」という学長が多く、中には、「コメントの活用を承諾してくれなかった」学長や、「別の有力大学の学長はコメントどころか、「学生教育」や「地域貢献・地域連携」の進み具合を尋ねる質問にどう答えたかも含め、37問の全回答について匿名を希望した」とあった。記事の趣旨は、国立大学の学長がアンケートに答えることにすら文科省の反発を気にして「モノ言わせぬ」様子をみてとっている。
 いやはや、「多様な時代の自由な意思表示」を一番に掲げなくてはならない大学の学長ですらが、すっかり「自由民主国家」の統治権力の影に脅えているの図である。文化人類学者が「合意形成」とことばにするのは、どこの国の話よって思ってしまう。日本の言論の自由って、同調圧力に抗して、個々人の自在な発想を重んじる時代に入っているのかと思っていたら、なんと、その最前線の国立大学においてすら、こんな状況なんだね。
 これって、いつぞやスガという名の宰相が、学術会議の委員の任用を拒否したとき、説明しないと居直った体質と同じだよね。政治家がそうだというだけじゃなく、政治家の陰に隠れたシンクタンク・官僚エリートの匿名性と同じで、依らしむべし知らしむべからずの、統治権力の質の問題ではある。
 けれども、ゲンロンの最高峰、最前線の大学ですらこうだということは、では日頃街で勝手にくっちゃべって言論表現の自由だって思ってるワタシらのゲンロンって、いったい何だ? 市井の民のお喋りは、ホントに屁のつっかえにもならない蝶の羽ばたきなのかね。
 つい、そう思ってしまう。
     *
 三つ目は23ページの教育面。《「不適切な授業」奈良教育大付属小の波紋》と見出しをつけて、国立大学附属の小学校で、文科省の指導を逸脱する教育を行っていることが報道されている。
 これは、私には驚きであった。国立大学の附属の学校は謂わば「実験授業」といって、どちらかというと「学習指導要領」を作成するベースになるデータを蓄積したり、検証したりする役目をもっていると思ってきた。つまり、「学習指導要領」を逸脱することを通して他の道を探る役割を持っていると考えていたから、それに対して文科省が「逸脱するな」と詰め寄っているとは思ってもいなかったのだ。
 小見出しを拾うと《「学習指導要領に沿わず」文科省、全国に点検通知/毛筆使わず・全校集会で道徳指導・・・》と逸脱指導のポイントをあげ、《文科省「特別な課程なら、透明性もって」研究者ら「教育の自由尊重を」「萎縮招く」》と、両論併記の報道をしている。国家百年の大計と謂われる「教育」の重箱の隅をつつくような、文科省の「指導」ではないか。これって、「おまえどちらが上位機関だと思ってるのか」と、力を振りかざして「お上の御威光」を見せつけてるって図柄じゃないか。
 つまんねえ役人たちだなと、先ず思う。ついで、こんなことに力を尽くしてなるんじゃあ、日本の教育も早晩腐っていくよなと、慨嘆する。これのどこに、「合意形成」とか「意思決定」というコミュニティの人びとの多様性を尊重し、それを集約していこうという基本動作が埋め込まれているのか。結局、手順手続き上の「選挙」という多数決しかないじゃないか。松村じゃないが、「最悪の選択」をしていて、恥じていない。
     *
 まあ、上記のように慨嘆して新聞を閉じようとしたら、一ページ全面をつかったコマーシャルが目に止まった。それが四つ目。科学雑誌Newtonと朝日新聞がコラボしたコマーシャルふうの記事、「地球大解剖」。「私たちの足元に広がる地球はこんなに謎だらけ」と小見出しをつけて読み手を誘う。面白そう。
 そうか、国家の統治とは別に、社会のというか、市井の庶民の知見は勝手に興味関心を紡いで広がり深まっているんだ。統治機関が旧習のままで腐っていっていても、市井の街の自在さが保たれていれば、それなりに文化は保持できるわな。ということは、文化人類学者・松村圭一郎の「最悪の選択」は、まだ統治機関止まりだから何とかなるか。
 お上のことは知らんよワシら。

世間話の読解力

2024-04-27 10:18:36 | 日記
 昨日(4/26)は男のストレッチ仲間の月例飲み会。いつもの老人会場サイゼリアではなく場所を代えて、ハナキンらしさにしましょうという世話役の呼びかけに応えて、やはりご近所の壱の陣。こちらは夕方早くからだったが、6時を過ぎると若い人たちもわんさと押しかけ、いかにもハナキンという風情になった。あれこれと世間話に興じる。
 そのとき、何かをきっかけにだったか、最高齢の85歳が、去年の交通事故のこととその後の始末の話を思い出した。そのことは10ヶ月前(2023-06-24)のこのブログ記事「正しさの証明」に記してあるから、ご参照いただきたい。長老は同じことを繰り返したのではなく、事故の後始末で起訴されたのかどうかという問いに応えて、こんな話をした。
 いや実はね、起訴するとも起訴しないとも何の音沙汰もないんだよ。
 そりゃあ検察も(警察も)構ってられないってんで、ほっぽり出して忘れてんだよ。
 うん、でもね、事故そのものは中学生でもわかる物理の原理でね、ちょっと保険会社の応対もおかしいんじゃないかと、警察でも訴えたんだけどね、取り合ってもらえなかった。
 ははは、中学生でもわかるってところに、警察官はカチンときたんじゃないのかね。もう知らんよ、そんなことってさ。
 いや、だけどね、取り調べのときは、私の出身大学や職歴から役職まで細かいことを聞き出すんだよ。そんなこと事故と関係ないじゃないかって思ったね。
 ははは、そりゃあ、そうさ。きちんと聞いてね、上級国民かどうかを見極めて、起訴するにしても判断するんじゃないの。ほらっ、例の池袋の暴走事故の上級国民扱いがあったじゃない。
 あはは、あはは。そうそう。
 でもね、ひょっとすると、また今度何かで警察官に車を止められて、あなたが彼に無礼なことを言ったりしたら、後に「起訴します」って召喚状が届けられたりするんじゃないの?
 そうそう、検察ってさ、刑事事件だって、不起訴にしても理由を説明しないじゃない。あれって、なんでなの?
 依らしむべし、知らしむべからず、だよ。
 いや、交通違反もね、オレ、車止められて警察官に「あなた地元の人?」って聞かれたことがありますね。あれって、地元民なら一時停止違反を見逃すってことなんですかね。オレ、何も考えずに「いえ、違います」って応えて罰金払う羽目になっちゃいましたよ。
 あ、わたし昔ね、アルゼンチンとかブラジルとかへ移民する人たちを送り出す仕事をしていたことがあるんだけどさ、向こうの国へ提出する書類には細かい履歴記入欄があってね、車の一時停止違反なんかでも違反があって罰金で始末していても、「犯罪歴」として記載されちゃうのよ。ところが向こうの国にするとね、「犯罪歴」のある人は受け容れたくないわけ。でもさあ、そんな交通違反くらいで受け容れ拒否ってなると、困るじゃん。だからね、お役所の知り合いを通じて、その記載を消してもらうってことをしたことあるよ。
 そう言えば、お隣の西川口、中国人が多くなったね。通りを歩いていても、ぺちゃくちゃしゃべってるのが、すれ違うときになって、あっ、中国語だってわかる。いやだんね。
 えっ、どうして?
 どうしてって、ほらっ、ゴミは散らかすだろ。大声で夜遅くまで騒ぐだろ。マナーは守らないだろ。
 そんなこと言ったら、このところ家屋の解体とか土地整理とかやってる、あれなんてったっけ、ユンボか。ああいうの使ってるのはクルド人だよ。ずいぶん多くなったね。
 そうだね、解体なんかしているクルド人は多いし、それを使ってる業者は中国人だったりして、法を守らないってTVや新聞でもよく報道してるじゃない。
 だから、何よ。人種的な偏見があるんじゃない、あなたは。
 そうじゃないよ、そういう事実があるって言ってんだよ。
 ああ、ええ、そういうクルド人とか中国人とかいうことを、余りこんなところで口にしない方がいいんじゃない?
 どうしてよ。それは、クルド人や中国人に対する差別的な思いをもってるからじゃないの?
 いや、そうじゃないけど・・・。
    *
 2時間半ほどをワイワイと話は移り変わり、今朝になって、面白い話をしてたなあと思い返している。世間話のリテラシーというか、読解力というか。読み解き方によっては、今の老人たちの規範意識が浮き彫りになる。
 あっ、そう言えば、だれかが、「老人」っていわれたよと怒ってたっけか。でも70歳近くになって老人と呼ばれて怒るってのも、なんだかなあと、八十爺は思うのでした。

爛漫の春から初夏の花

2024-04-26 08:57:04 | 日記
 急ぐことはあるまいと8時半頃に家を出た。赤城自然園へ行って師匠の植物観察に付き合う。3月には師匠の鳥仲間を一人同乗させて、同じ所へ行った。だいたい1時間半ほどで着く。ところが昨日は、10時になってまだ関越高速・所沢の手前をゆるゆると車は進む。トラックと車3台の事故とラジオの放送が道路情報を伝えている。路側帯をパトカーが呻りながら走ってゆく。消防車が何台もサイレンを鳴らして後を追う。さらにその後に救急車が走る。最後に車両運搬用のトラックが走っていった。下り三車線はびっしりと車で埋まる。
 上り車線はガラガラ。ずいぶん時間が経ってから上り車線を5台の消防車が戻ってきた辺りで、前方遠くにパトカーの赤色灯がみえる。もう家を出てから2時間は経っている。川越ICで降りて帰るかどこか別のところへ行こうかとも思うが、じゃあ何処へとなると思い浮かばない。
 やっと事故検証中の現場を過ぎて走り始めたのは11時近くになってから。そこからは順調であった。12時前に自然園に到着した。車を置いて入園しようとするところで、珍しい人に出会った。2018年か2019年か、コロナの前に会ったきりの山の友人。5,6年ぶりの邂逅。彼は、主宰する山の会の人たち44人と近くの山へ登ったついでにこの自然園に立ち寄ったという。いやあ、久しぶり元気そうやねと言葉を交わしていると、そろそろ時間です、入りますよと誘いを掛ける山の会の世話役らしき人がいて、ではではと別れたが、まさに奇遇であった。
 3月と違い、駐車場には「満車」の標識が立ち、園内は人で賑わっていた。それを喜ぶかのように、花は爛漫。さすがに3月の花は終わっていたが、オオヤマザクラやヤエザクラはたわわに花をつけ、散り敷いている。むせるようなヤマブキの黄色、ドウダンツツジの白い花、アカヤシオ、ミツバツツジが満開だったり、散り始め、散り敷いている。足元にはイカリソウが、ツバメオモトが、カタクリが、スミレが、乱れるように咲き、あるいは名残の花をつけている。
 少し歩くと汗ばんでくる。今日は夏日になるという予報もあったが、何しろ赤城山の標高700m辺りに位置する。用心して、長袖のアンダーウェアに山シャツを羽織っていたが、それも要らなくなる。ヤマシャクナゲの群落があった。陽ざしに向かって一斉に花を開き、初夏の気配を言祝いでいる。おおっ、その向こうにあるのはシラネアオイではないか。
 歩きながら師匠はオオバキスミレ、ラショウモンカズラ、クサボケ、ヤマブキソウと花の名を、あるいはウラシマソウの、ほらっ、釣り糸、と教えてくれる。指さす先のはカタクリの実だ。葉は確かにカタクリだが、実は緑のまめの中ほどが窪んでいるようで面白い。オオデマリと教えて貰ったのは、まだ密集する花の周縁が開いているだけで、ガクアジサイのように見える。色とりどりのシャクナゲがもう花をつけている。中には花期が終わりかけのような姿のものもある。ときどきしゃがんで草の葉を掻き分け、フタバアオイよと小さな花を見せる。
 賑やかなカエルの声が響く池の畔では、足を止めて、聞き入っている人が何人もいる。近づくと、ピタッと鳴き声が止む。静かに佇んでいるとまた、鳴き始める。オタマジャクシを覗き込んでいる人もいる。
 こうして、飽きることなく3時間半を歩き回って過ごし、帰ってきた。帰りにまた、事故だろうか渋滞に出喰わし、1時間ほど余計にかかった。だが初夏の気配、6時前というのに暗くはならず、運転も楽であった。
 さて、いつまでこういう調子で出かけることができるだろうか。自然園の年間パスポートを買って通う。3回行けば、規定料金。6回行けば、セゾンの割引券待遇だから帳尻は合う。師匠は毎月一回は行きたいねという。
 そうだね、今回のようなことなら、それもいいかなと事故渋滞のことを忘れて思っている。