mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

「バカ、左を歩け、左を!」

2017-03-31 15:16:58 | 日記
 
 昨日、そういわれた。駅へ向かう道、暖かい陽ざしを受けてのんびりと歩いていたら、向こうから来た男がすれ違いざま、「バカ、左を歩け、左を!」と声をあげた。えっ? と思ったので「人は右、でしょ」と振り向きながら言い返すと、「車と同じだよ、左! バカ」と二度もバカという。この男、私同様に高齢。背は低いががっちりした体格をもち歩き方もしっかりしている。ボケているわけではなさそうであった。へえ、そうなんだ。「人は左(を歩け)」と(他人を罵るほど強く)思い込んでる人もいるんだ、とはじめての「発見」にうれしくなった。
 
 当時まだ私が小学校一年生のころだったか、「右側通行の車が明日から左側通行になる」ということがあった。四国の高松にいたからそれなりに車の通行もあり、小学校でも「人は右」と教わった。アメリカ式に右側通行であった車両が(旧に復して)左側通行に変わったと印象深い記憶であった。占領が終わったから(アメリカ式の右側通行から日本式の左側通行へ戻った)と思い込んでいたのだが、いま調べると、1949年だったそうだ。独立したのは1952年だから、そうではなかったらしい。
 
 その後にTVか何かで、「道路交通法では人は右を歩いても左を歩いても制約はない」と耳にしたことがある。かつては道路がそれほどに(広く)整っていなかったろうし、都会では逆に歩道が整備されていたからどちらでも構わないと「法的には」規制することを決めなかったのであろうと(稲田防衛相ではないが)思っていた。それが「人は左だろ!」という。この信念はどこで生まれたんだろう。
 
 ひとつ私に思い当たることがあるのは、狭い道を歩くとき自然に左側を歩いていることが多かった。私はそれを、心臓が左につているから自然に守ろうとする身体反応だと考えていた。意識して道路を歩くときは、右側を歩く。前からくる車はよけられるが、後ろから(車両に)ぶつけられるのは敵わないと思うからだ。だから「対面交通」は基本的に主体性を保つ知恵と思って来た。
 
 「人は左、車も左」という信念はどこかで教わったのだろうか。そう思って調べてみて、驚いた。1949年以前の日本の交通規則では「人も車も左が原則」であったというのだ。《一説によれば、武士は左側に帯刀していたため、すれ違いざまに鞘(さや)が触れ合わないよう、左側を歩く習慣がついていたからといわれています。》と書き添えてあった。これは可笑しい。とすると、江戸のころからの習俗が、1949年まで持ち越されていたことになる。
 
 たしかに車が増え、道路の整備と追いかけっこになって、交通を規制しなくちゃならなくなるのは(地域的な遅速はあるが)、戦後になってからであったのだろう。交通事故が増えて、何か対応しなくちゃならなくなった。それが1949年ということか。とすると今日私に「バカ」といった御仁は、江戸時代の所作を守り通して今に至った方なのであろうか。それを未だに頑なに「信念」としているのは時代に染まらない白鳥のような存在。そう思えば、古武士のような風格であったなあ。
 
 でもひょっとすると、幼児のころの記憶は残っているが、成人してからの記憶は消え去りがちという、認知症の症例もある。がっちり体躯に惑わされているのかもしれない。
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「お伊勢さんの不思議」Seminar報告 (3)天皇制と私

2017-03-30 10:30:06 | 日記
 
 なんだか江藤淳の本のようなタイトルになったが、伊勢神宮が天皇家の祖神の宿る処であることと私が「お伊勢参り」をすることとの「かんけい」を考えておきたいと思う。
 
 私が高校生の頃、図書館で一人の同期生と天皇制について言葉を交わしたことがあった。その人から「天皇さんは家庭の父親みたいなものよ」といわれ、「どうして?」と私が問うたことからはじまった。彼女が言った趣旨は、簡単にまとめるとこういうものであった。私たちの祖先を辿るとイザナギ・イザナミノミコトにいきつく。その血脈を「万世一系」に受け継いできているのが天皇だから、いわば私たちの御先祖の純粋なかたち、尊敬せざるべからず、と。それは古事記、日本書紀にも記されている、とも。
 
 当時すでに私たち高校生は日本史で隼人や蝦夷のことを教わっていたし、古事記や日本書紀が「神話」であると位置づけていた。また、日本人の源流が大雑把に言っても、南から海流に乗ってきた隼人系の人たち、朝鮮半島から来た人たち、北からやってきたアイヌ・蝦夷系の人たちなど、三潮流があり、それも一度にではなく、ばらばらに何波にもわたってやってきている。後に天皇部族が平定統一したにすぎない、と教わっていた。それらをあげて尋ねると彼女は言葉に詰まり、「ともかく今は、天皇さんのくにです」といったことで、「天皇のためにとたくさんの人が死んでいった先の戦争をどう考えるのか」と論点が移り、「天皇の戦争責任」云々で話しが終わったことを覚えている。
 
 いま振り返ると、「神話」の中には経てきた歴史的な出来事がかたちを変えて組み込まれているから、高校時代に考えているほど単純に白黒つけて世界を見るわけにはいかないとわかるが、「神国日本」はほぼ完璧に否定されていたから、「天皇さんのくに神話」を固持する「生長の家」に属する彼女の分が悪かったのは当然と言えば当然であった。「敗戦」は、国家と社会を切断した。私たちの心裡でいえば、「くに」と「国家」とが切断された。「ふるさと」と「日本国」とも分けて考えるようになった。「愛郷心」と「愛国心」も別物と考えた。それらを一緒くたにして天皇制に収斂させて一億一心ということに辟易していたのである。歴史的な継続は、「断裂」していた。
 
 以前にも書いたが、1942年、戦中生まれの私たちは、戦禍をくぐって戦後に育った。日本国憲法の「基本的人権・平和主義・民主主義」の精神も、GHQに押し付けられた教育というよりも、戦争を遂行した世代の反省に立った教育と受け止めて、吸収した。そのようにして、先行世代と私たち後続世代の「かんけい」を紡いだともいえる。つまり占領軍による占領支配という(主体的な歴史性の)「断裂」を、(大人世代の反省に立って継続されている)「新生日本」と考えることによって「つないだ」のであった。この「つなぎ」の部分で、捨象されたもののひとつが「天皇制」であった。簡略に言えば、天皇が戦争責任を取らなかったことが、その後の私たち世代の「天皇制」に対する考究の「あいまいさ」を残してしまったと私は考える。だがそれも、昭和天皇がなくなってしまってからは、薄らいでいった。
 
 ただ「考究のあいまいさ」の時期にも、いくつかの心裡の進展はあった。そのひとつが、明治期に「天皇制神話」が改編・創設されたと知ったことであった。明治の国家体制づくりを急いだ維新政府は、西欧の近代化の推進力の根柢にキリスト教の強固な信仰が底流していることを見て取った。そして、キリスト教に代わって「神道」を日本の国家統合の基本に据えようと考えたのである。廃仏毀釈が起こる(1870年)。天皇は「現人神」とされた。それが私たちの識る「天皇制」である。これは、薩長主導の政府からすると、自らの権力の正当性の背景に天皇という権威を必要としたからであった。それを西欧の(精神的支柱の)キリスト教と重ね合わせた。それは、のちの明治憲法と照らすと明白になるが、二重構造になっていた。西欧の民主主義制度を導入する(権力機関という)視点からすると、立憲君主制である。のちに美濃部達吉が唱えたとされる「天皇機関説」は、これを意味している。だが他方で、キリスト教的な「信仰」――つまり国民の心情的共有性(権威の体制)――としては「現人神天皇」であった。天皇を主権者とする明治憲法が権力機関の暴走をチェックするシステムを有していなかったことは、後に軍部の独走を許容することになってあからさまになったが、そういう意味では立憲君主制も西欧の物真似であって自ら築き上げた「立憲制」ではなかったといえる。
 
 ともあれ、明治維新以前にも存していた「権威の象徴としての天皇制」は、明治政府によって見事に政治的に利用され敗戦にまでいたった。つまり明治維新の時点において「天皇制」としては「断裂」があったのである。これを第24回Seminarの講師・M.ハマダくんは、「天皇はんをお返しなはれ」と京都の人が謂う根拠としたのであった。
 
 「お伊勢さんの不思議」の講師・Oさんの語る「お伊勢さん」は、あきらかに明治以前の天皇の祖神である。私たちはいまそこに戻って、あらためて「神々」と言葉を交わす機会を得ている。二度の「断裂」の意味を探るためにも、私たちの身の奥に底流している(と言える)天皇部族の原像に触れてみたいと思う。
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美しくも危うい私たちの立ち位置

2017-03-29 12:44:42 | 日記
 
 パキスタン映画『娘よ』(アフィア・ナサニエル監督、2014年)を観た。監督は女性。部族の争いの犠牲に供されて嫁ぐことになった娘を護ろうとする母親の視線が、母親自らの人生をあらためて生き直そうとする女の意思と重ね合わされて描き出される。高い山の中腹を削るように走るカラコルムハイウェイを疾駆する大型のトラック、その危うさが部族の習俗に逆らって逃亡する母子と逃亡を助ける羽目になった男の危うさとダブってみえる。それは、美しくも危うい。
 
 十数年前にK2を観ようとこの地を訪ねたカミサンから、カラコルムハイウェイの道の危うさは何度も聞いたことがある。また私自身も、インドヒマラヤの無名峰に上ろうとヒマーチャルプラデシュ州へ入ったときの途次の山岳道路も似たような景観をみせていた。雪を湛えた山並みの遠景の美しさに反して、そこに身を置き疾駆することの危うさという対比は、人生を遠望するときとそこに身を置いて抗うときの対照に比肩する。人は因習の中で生まれ・育ち、そこから離脱するようにして「人間」になるという物語が、ここでも貫かれている。
 
 映画が終わって、出演者、制作者、協力者へのスペシャル・サンクスの文字面も終わって、灯りがつき起ちあがって会場を出ようとしたとき、会場の前の方で誰かが声をあげているのに気づいた。振り返ると映画館のスタッフらしき女性が何かを言っているが、聞こえない。やっと誰かがマイクを彼女に渡したので、話しが耳に入った。「佐藤忠男さんが来ていらっしゃって、一言お話しいただけるということです。お聞きください」という。見るとかたわらに、やせ細った老人が立っている。佐藤忠男は1960年代に登場した気鋭の映画評論家である。たしか私より一回りも年上であるから、86歳を超えていよう。「なんだそういうことなら、はじめから言えよ」と独り言を毒づいて、ふたたび席に着いた。ひょっとすると、佐藤忠男がきていることを知ったスタッフが、映画終了後に急きょ交渉して言葉を頂戴することにしたのかもしれない、と後で思った。
 
 「今の日本では当たり前のように恋愛結婚が当然視されているが、世界にはまだ親が決めた結婚を強いられる人たちの方が多い」と、佐藤忠男の話はつまらない。それが15分ほどもつづいた。ただひとつ、「パキスタン映画が日本で上映されるのは初めて」というのにちょっと驚いた。それほどにイスラム世界との交通は稀なのだ。パキスタン映画の音楽は、インド映画に響きも似てにぎやかで、インドのそれよりも少し哀愁を湛えている。ヒンドゥ世界の種々雑多の多様性と落差に比し、イスラム世界のコーラン的均質性の(のしかかる重みの)違いが表れているのであろうか。
 
 インドのような社会的な「軛」をもたない日本は今、部族も習俗も、家族すらも失いつつある。人はすっかり、たった一人で社会に放り出され、お前の責任で生きよと「共同性/協働性」から解き放たれて、社会がもつ「規範」すら、交換経済の原理にゆだねてしまっている。「娘よ」というこの映画監督の声も、裕福な社会の特権的な立場にあることを満足させるにすぎないのであろうか。それとも、この映画と同質の「危うさ」を感じとっているのであろうか。そのギャップを受け止める情緒の回路を持っているかどうか。じぶんに問いかけているところだ。
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「お伊勢さんの不思議」Seminar報告 (2)「日本人」と「美意識」

2017-03-28 15:19:51 | 日記
 
 さて、講師・Oさんのお話しは神社などに対する「称号」の説明から入りました。そういえば私たちは、神社、大社、神宮、宮、社といろいろな呼称を使っていますが、それのどれがどういう配置にあるかという序列を知りません。序列があるかどうかもわからないのです。Oさんの話しも序列にまでは及びませんでしたが、おおよその輪郭は浮かび上がりました。
 
 もともと「神宮」というのは伊勢神宮を指すこと、「大社」というのは出雲大社を指すこと。ということは、そのほかの神宮――熱田神宮、香取神宮、鹿島神宮、平安神宮、明治神宮など――は、後に伊勢神宮の威勢を借りて名付けられたと考えられます。また、大社も、住吉大社、春日大社、諏訪大社も出雲大社の係累に属してその威勢を借用しているといえるようです。
 
 「係累」といったので思い出したのは、「因幡の白兎」の民話です。江上波夫という考古学者が1960年代の後半に、日本の天皇部族は大陸からやって来た「騎馬民族である」という説を提起し、そこに「因幡の白兎」民話が乗っかったのです。つまり大陸から渡来した天皇部族・王仁(ワニ)氏に、原住民(白ウサギ)が苦しめられ、現住系の神・大国主命がその窮地を救ったとされた民話です。
 
 ところが平定された大国主命は、天皇部族の天照大神を「祭神」として出雲大社に祭り、大国主命がそれを祀る神官「大祝(おおほうり)」の役を引き受けたように見受けられます。つまり、征服者を「神」として祀りあげ、被征服者である現住系の人たちが「大祝」として祭祀を行うという、ちょっとねじれた「征服――被征服」のかたちを残したのが「大社」と考えられるわけです。面白いですね。この征服者ー祭神の話は諏訪大社のことを調べたとき(1970年代)に耳にしたものです。
 
 その後歴史学的にも、天皇部族が朝鮮半島から渡来したという説が一般化していますが、考えてみれば私たちの祖先が、南方から海を渡り、あるいは朝鮮半島から九州や山陰地方にわたり、あるいはそれ以前からか南や北の方からもっと前にやってきて、隼人やアイヌと呼ばれる現住系住民になっていたことは疑いようもありません。それを「(日本民族は)単一民族」と呼ぶのは、天皇部族が平定して全国を統一したからこその「あとづけ」であったわけです。
 
 ともあれ、こうした「来歴」が民話や神話の中に織り込まれていることは、日本に限らず世界共通の物語りの特徴です。そういう意味で、フォークロアの研究などが行われ、文化人類学として(今の時代からみる)物語りに再解釈されていると言えます。私たちが「神社」や「お伊勢さん」や「創世神話」を読み解くのは、私たち自身の来歴を探るというばかりでなく、じつは、それほど単純に「日本人」と呼んで、同一化することができないことを、まず、出発点で確認する作業になるでしょう。
 
 いま、ある若い数学者の書いていたことがきっかけで、岡潔『日本のこころ』(講談社、1968年)を読んでいます。岡潔は高名な数学者です。その彼が「学問にしろ教育にしろ「人」を抜きにして考えているような気がする。じっさいは人が学問をし、人が教育したりされたりするのだから、人を生理学的にみてはどうだろうか。これがいろいろの学問の中心になるべきではないだろうか」と言っているというので、繙いてみたわけです。数学と「生理学的に人を見る」ことの力説が面白いというか、じぶんの立ち位置をしっかりと見据えその位置を手放さずに、終始数学に熱情を傾ける彼の文体にも魅かれました。科学をする人たちに対する日頃の私の想いとも重なるように思ったからです。でも今そのことは別に置いておきます。
 
 その一編に「日本人としての自覚」という一節があります。そこで岡潔は、芭蕉や道元禅師の生きざまとそれへの共感・考察を通して「じぶんは純粋な日本人であるとの自覚をもて」と説いています。パリに留学していたころのことと重ね合わせて「純粋な日本人としての自覚」こそが、西欧文化を咀嚼するにせよ日本文化を創造するにせよ「絶対に必要なことだ」と強調し、「(自覚していないものは、外国からの文化攻勢に対して)よろめいた結果、自国をダメだとし、外国をえらいとしてしまう」と非難しています。この本が出版された時代状況を考え合わせると彼が非難している相手は、当時の「左翼」だと考えらましたから、彼は頑固な保守反動ととらえられていました。しかし、書いたものを子細に読んでみると、そうばかりではないと思えます。こんな一節がありました。
 
 「目に見えぬ神に向かいて恥じざるは人の心のまことなりけり」
 
 という明治天皇の御製に関して漱石に問うてみたら、
 
 「聖天子上にある野ののどかなる
  武蔵相模山なきくにの小春かな
  菫ほどの小さき人に生まれたし」
 
 と帰ってきた、と。そうして岡は言う。
 
 《何だか隣国の理想とする尭、舜の世を思わせる田園風景ではないだろうか。ただし明治の軍国主義を抜いたとして。》
 
 このほかにも、軍人(だけではないが)の卑俗な考えを「小我」と呼んで唾棄すべき衆生の精神とみなしている記述もあります。少し単純化して言うと、彼は芭蕉や道元の情緒の中に純粋に日本的なものを認め、それを身に備えていることで、十分世界に伍していくことができると信じていたようです。彼同様に私たちもがそれを信じるかどうかは別として、そこには、岡潔という数学者の面目躍如たるものを感じるではありませんか。彼は別のところで、こう言います。
 
 《ぼくは計算も論理もない数学をしてみたいと思っている》
 
 と。まさに「直感/インスピレーション」によって(探究する数学の世界を)つかみとる彼の美意識が「日本人論」としてあふれ出しているようにみえます。つまり、彼の論調に同意するかどうかではなく、そういう「美意識/直感」の視点から西欧の近代に対抗する彼の意思の足場になったのが、芭蕉や道元や漱石にみられる日本的な美意識だったと読み取れば、私たち戦中生まれ戦後育ちの世代も、おのが胸中に触れあうものを探り当てることができると思ったわけです。
 
 おやおや、ずいぶん、遠回りをしていたようです。私の「お伊勢参り」は、講師・Oさんに誘われて、このように動きはじめました。(つづく)
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第25回 36会 aAg Seminar ご報告(1)われらが身の拠って来る所以に思いをはせる

2017-03-27 16:38:30 | 日記
 
 先日(3/2)、第25回 36会 aAg Seminarが行われた。その「ご案内」は、以下のように呼び掛けている。
 
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★ seminar「ご案内」の呼びかけ
 
 さあ、いよいよわがSeminarも5年目に入ります。これがSeminar最終年になるかどうかは、皆さんの健康状態に拠ります。ぜひとも元気で、延長戦を迎えたいものと願っております。
 
 5年目、第25回Seminarのトップバッターは、「中部36会」のOさん。「36会」の命名者の一人でもあります。昨年の第18回Seminarで「趣味の香魚の話」と題してアユのお話をたっぷりと聴かせていただきました。その興に乗って、9月には長良川の鵜飼い見学をコーディネイトしていただき、篝火をたいた舟の鵜匠が鵜を操ってアユを獲る幻想的な風景に身を置くことができました。そのときの勢いで、ぜひまた中部36会を催してくれと声が上がり、再びOさんに登壇いただくことになったわけです。
 
 お題は「お伊勢さんの神秘入門」。「お伊勢参り」は、江戸のころからの庶民の特権的遊興でありました。いや信心ですよと、kmkさんあたりから言われそうですが、男も女も、丁稚も女房も、「お伊勢参り」と称するだけでお店も旦那もお休みをくれ、行く先々でもてなされたといいますから、旅行業も観光案内も、もちろん宿泊所もお食事処も万端、整っていたのでしょう。
 
 そう考えてみると、前回Seminarの続きになりますが、江戸のころのヒト、モノ、カネの流通もなかなかのものであったと思えます。今の旅行と異なり、なにしろ全行程を自らの脚で歩くわけですから、「お伊勢参り一筆書き」の気配。はたして安全に歩けたのかしらと、雲助とかゴマのハエとかにまで思いを致して、ドキドキしてしまいますね。
 
 それほどにして、一生に一度は行きたいという「お伊勢さん」とは、どんなものなのか。それを繙いてくれるのが、今回のOさんの「お伊勢さんの神秘」です。不思議大好きな人たちにとっては、見逃せない「お題」。ご参集ください。
 
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 そして行われたSeminarの翌日、次のような「お伊勢参りへのお誘い」が届けられた。
 
★ 「お伊勢参り」へのお誘い
 
 昨日(3/25)、第25回Seminarが無事終わりました。名古屋から足を運んでくれた講師・Oさんが「伊勢神宮について」A4版8ページにわたる詳細な「解説」をしたのちに、来る11月に、一泊の「お伊勢参り」を計画してくれました。その概要をお知らせします。
 
 第一日目のお昼頃に近鉄・松坂駅西口に集合して、このあとの全日程を15人乗りのマイクロバスで移動します。「高校生レストラン」で有名になった三重県立相可高校で昼食をとり、「瀧原宮(たきはらのみや)」「瀧原並宮(たきはらならびのみや)」を参拝します。この瀧原宮は本宮から遠く離れた宮殿として古来から崇敬を集め、「域内は神杉が茂る自然林の素晴らしい景観」。「伊勢参拝の方々でも滅多にこれを見ることがないのは、まことにもったいない」とOさんの力説・推奨する処です。
 
 このあと宇治山田に向かい「外宮」を参拝します。「なにごとのおはしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる」と西行が詠んだ神域をしずかに、そしてゆっくりと堪能、参拝。ガイドしてくれるのは、Oさんの知人で神宮ガイドの検定試験合格者であるIさん。男性はネクタイを締めることというドレスコードがあります。
 
 外宮参拝の後、「内宮」に近いところにある「神宮会館」に宿泊。荷を置いて、内宮の参道「おはらい町」やその一角にある「おかげ横丁」などの散策をして、伊勢の旅の魅力を味わってもらおうと考えているとか。「おかげ横丁」などは翌日の内宮参拝後に回してもよいようです。
 
 そして二日目。「内宮」の早朝参拝をガイドしてくださいます。まさに神宮ガイド検定合格者ならではの「特別の計らい」に浴することになります。他に、内宮別宮である「月読宮(つきよみのみや)」参拝を組み込んで午前中いっぱいを過ごします。
 
 Oさんは、お昼を「手こね寿司」と呼ばれる、伊勢ならではの漁師料理を味わってもらって、お昼過ぎに近鉄・松坂駅で解散という運びを考えていると話しています。まさに、「お伊勢参り」をピンからキリまで堪能する企画です。
 
 日程を早々に決めるのは、神宮会館に宿泊する「予約」ためです。企画の詳細は、後日、「ご案内」を差し上げますが、江戸のころから「一生に一度は……」といわれる「お伊勢参り」にふるってご参加くださいますよう、お誘い申し上げます。下記事務局に、ご一報ください。
 
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 このようにSeminarの「お伊勢さんの不思議」ははじまりました。Seminar終了間際にH.ハマダ君がいみじくも口にしたように、じつは私たちはこの世に74年以上も生きてきているのに、「お伊勢さん」のことを何も知らないことがわかりました。
 
 知らないというよりも、神道や神社にまつわりことに蓋をしてきたのです。「大東亜戦争」を遂行した「総括・反省」を日本政府も軍部もまったくしてきていません。しかしアメリカに占領され、憲法を押し付けられ、それが(それ以前の国家体制よりも良い時代を迎えるという)それなりに「国民」にとっては幸いな運びであったがために、私たち子どもは、その大きな体制変換を「大人たちの反省」として受け入れてきたのでありました。その「反省」の中に、GHQによる「軍国主義の排斥」の一環として神宮崇拝どころか、神道への探求心さえも排除してしまう気持ちが働いていたのだと、今になって思います。
 
 ではいま、H.ハマダ君が言うように「知らないで過ごした」ことを悔やむかというと、そうでもないのです。相変わらず明治天皇体制の信奉者たちは(たとえば、日本会議の人たちがそうですが)、「敗戦」を認めていません。ありとあらゆる「敗戦」によって生じた国家体制の変換や社会的事象を、アメリカによる押しつけと呼ばわって、無かったことと考えようとしているかのようです。つまりこれは、国家体制を支配する責任ある地位にいる(と考える)人たちが、先の戦争への「反省」をしていないことに由来するのです。これでは、まったく力のない私たち庶民は、国家とは別に私たち自身の「私的総括」をするしかありません。
 
 神道も、「お伊勢さん」も、はたまた日本国内に8万カ所以上もあると言われる神社も、考えてみると、先の戦争どころか、明治天皇制国家体制以前から、私たちの暮らしに根付いて育んできた「信仰」のひとつです。私たち庶民の「私的総括」には、それを繰り込まなければなりません。そういう意味では、Oさんの「お伊勢さんの不思議」は、その入口に立つことと言っていいかもしれません。
 
 「なにごとのおはしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる」という神域に身を浸して、しずかに、われらが身の拠って来る所以に思いをはせることを、11月までの半年をかけてやってみたいと思っています。(つづく)
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