mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

あやしうこそものぐるおしきエクリチュール

2021-12-31 11:21:13 | 日記

 コロナウィルスのおかげで足止めを食らって蟄居しているから、日暮らしパソコンに向かってよしなしごとを綴り、このブログにアップしている。そのうちのいくつかをピックアップして古くからの友人に毎月、「ささらほうさら・無冠」を制作し、送りつけていた。友人がアナログ世代であることはもちろんだが、デジタルに馴染んでいる人たちも多くなってはいるが、やはり紙にプリントされたものの方が、手に取って読んでもらうには良いと思うから、そうしている。
 一人、毎月の私の「無冠」に関して返信をくれる、完璧アナログの友人がいる。一枚の葉書の裏表に1千字ほどをビッシリと書き込んで送ってくれる。ときにはハガキに収まらず、6000字となったり、8000字となって封書で戻ってくる。ははあ、元気になったと、調子が良い証のように受け止めている。この方、肺を患い心臓にも問題を持ち、ここ十年ほどは低空飛行。ご両親は長寿であったからその血統を受け継いでいることが唯一の便りという風情。このところのコロナウィルス蔓延のせいで、逢うことも適わなくなり、月々の返信が健康状態の唯一の便り。
 だが、長く逢わぬ間に四百字詰め原稿用紙で1600枚に及ぶ「小説」『〈戯作〉郁之亮御江戸遊学始末録』を仕上げて上梓、目下読み続けている。それくらい元気になったのだと安心していたら、今月のハガキには、「……体調思わしくなく気持ちも少々萎え気味」と前置きして、でも裏表ビッシリと書き綴っていた。
 その中に先月号の「無冠」が四百字詰め原稿用紙で150枚とあって、それで自分の調子を測る手もあると思った。ブログ記事は、ファイルにしてまとめているから、どれくらい書いたかチェックするのは、それほど難しくない。ファイル・テキストは1800字1頁のスペースになっているので、四百字詰め原稿用紙にしておおよその4枚。ファイルはテキスト頁を知らせてくれるから、はじめてそれを数字に起こして四百字詰め原稿用紙の枚数に換算してみたら、面白いことが見えてきた。年の瀬にふさわしい見返りとなるか。
                                      *
 このブログは、2007年の11月から始めている。65歳の高齢者になった翌月から現在まで14年ということになる。2008年から2011年までは年間500枚ほどから800枚ほどへと緩やかに増えている。
 2012年に1100枚を超えた。この年から山の会が始まった。山行記録を書いて月間の「山歩講通信」に載せた。2013年には1400枚近くに増えた。この年3月定年後にやっていた大学講師の仕事が終わりとなり、ならばやろうよと声をかけられ、36会という高校同期生在京組のseminarを始めた。そのせいもあって、こまめにメモを取るようにしたせいもある。seminar後の「ご報告」を書くこともした。山へ足を運ぶことも多くなった。
 2014年には1700枚になっている。この年、母親と兄弟二人が亡くなった。わが身の来し方を振り返ることも多くなり、書き付けることが頻繁になった。2015年1500枚と少し減ったが、この年、亡母と私の兄弟5人の人生を振り返って一冊にまとめ、写真集も添えて母親の一周忌に間に合わせて本にしてもらった。
 2016年には1800枚、2017年1700枚、2018年1500枚と月間120枚から150枚のペースで記録していっている。その間に後期高齢者になり、seminarも順調、山へ入る回数も多くなった。そうそう、2018年には、私の最初の孫が二十歳になることから『**と孫たちと爺婆の20年』と題して、初孫が生まれてからのち5人の孫たちと過ごした20年間の記録をまとめて一冊の本にして、プレゼントした。
 2019年1700枚とコンスタントに書き続けている。山に入ることが多くなり、山の会の人たちとも「槍ヶ岳を目指そう」とトレーニング山行を組んだ。ああ、良いペースで歩くようになったと私自身は喜んでいた。だが後で振り返ってみると、ほかの方々には過剰だったらしく、「槍」が終わってみると、ずいぶんと体に無理がかかっていたようであった。
 そしてコロナが襲来する2020年。実はこの年に高校の同期生が喜寿を迎えることもあって、田舎で同期会が企画された。在京組のseminarを「ご報告」するのには一番の機会。それもあって、5月の同期会に間に合わせようと大部のseminar記録1800枚をまとめはじめていた。A3版三段組みで300頁になった。しっかりとデザインしてもらって製本印刷し、『うちらあの人生わいらあの時代 古稀の構造色-36会seminar私記』と題して仕上げ、同期会の方々にお配りした。逼塞することが多くなったせいか1800枚も後半にさしかかるほどになった。
 2021年の4月には、私の山の遭難事故があり、入院加療が20日近く続き、右肩を壊していたのに1600枚と結構な枚数に上った。山に行けなくなった反動か、家に逼塞している憂さ晴らしか。まさしく徒然草。
 つれづれなるままに、日暮らしパソコンに向かいて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。


今年の閲覧数

2021-12-30 10:02:30 | 日記

 去年のブログ閲覧数が送られてきて、そうかそうだったと今年のそれを覗いてみた。今年は、4月に山の事故があったせいか、7月からの記録しか残していない。だが、大きな変化があった。
 2021年の週平均閲覧数は、590。去年の4割減。一昨年の6割減である。週の最高閲覧数は、975。去年の週平均1002にも及ばない。一昨年の最高閲覧数のほぼ半分になっている。週の最低閲覧数は、349。おととしの最低閲覧数は815だったから、半分以下だ。
 このサービスサイトのブログ総数は、相変わらず30万件を超えている。これは去年も記したように、消滅放置ブログが9割ほどと考えると、総数そのものは問題にはならない。
 一つ気になるのは、一昨年と去年の間には、閲覧数と順位との間にそれほどの違いはなかったが、今年は大きな違いが生じている。去年の最高閲覧数は一昨年のそれより1割ほど減、順位も21000位から26100位へと下がっている。ところが今年の最高閲覧数が昨年のそれに比して4割減しているにもかかわらず、去年の順位26111位よりもグンと上がって、15042位となっている。これは何を意味しているか。
 一昨年と去年の間には消滅放置されるブログもあれば、新たに参入するブログもそこそこあって、若干の生きているブログ数減で済んでいたのだが、去年から今年にかけては、消滅放置を埋める参入ブログがなく、減る一方となっていると推察できる。ツイッターやチャット、その他のSNSに向かっていって、ブログというしんどいメディアは廃れていっていると考えられる。
 ま、閲覧数とかその順位とかはブログ主宰者の私にとっては、どうってこともない。だが、もしそれが、長い文章を読むのがメンドクサクなって、写真や画像で直に脳幹に飛び込んでくるメディアが好みになってもて囃されていっているのだとすると、やがて人間のものの見方や考え方や振る舞いの仕方が、大きく変わってきてしまうんじゃないか。いやじつは私自身も、新聞記事の長いのを読むのがメンドクサクなって、見出しだけ目を通して、ふ~んそんなことを言ってんのかと一知半解して通り過ぎることが多くなった。さすがに違和感を感じて一言批判的に触れるときには、長くても読むけれども、そうでなければざあっと観て流す。私のそれは、歳のせいだと自分で承知しているつもりだが、案外、歳などは関係なく、時代の文化がそういう方向へ流れているのかもしれない。
 先日(12/20)取り上げた、ハンナ・フライ『アルゴリズムの時代 HELLO WORLD』は、そうした人々の趣味嗜好まで思うように誘導する手法が行き渡って社会に蔓延していることを記していた。社会システムというか、町の作り方や環境の形によって適応しようとする私たち自身が身を変え、それにうまく適合する才能のスイッチを押して、それを継承していくことを思うと、単なる揣摩憶測とは思えない。
 とまれ、週平均閲覧数の方々には、1年間お付き合いくださいましてありがとうございました。メンドクサイ年寄りのよしなしごとをご笑覧くださったことに、厚く感謝申し上げます。
 コロナウィルスの第六波がいよいよ姿を現し始めたような報道。それにしても、感染が一番少なくなっていた11月の段階で、第6波のピークが2022年の1月下旬に来るんじゃないかといっていた専門家の見立て。日々報道される感染者数は、その「予言」に導かれるように数値を伸ばしている。さすがというか、見事というか。私たち市井の庶民の観ているのとは違った世界を見つめる人たちがいるとわかるだけで、この世界よろしくねとお願いしたくなります。
 佳い年をお迎えください。


「哲学する」グレーゾーン

2021-12-29 08:36:25 | 日記

 国分功一郎が「哲学する」ことについて触れた文章が、微妙なところで私の思念とスパークして、なるほどと思わせると共に、わが身に突き刺さる。
 近代政治思想の出発点とも謂われるホッブズの「自然権」に子細に触れ、それが原点から説き起こそうとしたことを評価した後に、スピノザがやはり、ホッブズと同じ「自然権」概念のもっと子細な解釈からホッブズの「リヴァイアサン」とは逆の政治哲学へ転回する過程を追ってきたあとで、当時イギリスで人気を博していたジョン・ロックの『政府二論』を取り上げている。
 その入口のところでレオ・シュトラウスの言を引用して、
《ロックは哲学者として哲学者たちに語ったというより、イギリス人としてイギリス人たちに語ったのだと述べている》
 と前置きして「そのような本として読むべきなのかも知れない」と手厳しい評価を下して、こう続ける。
《哲学は概念を用いて根拠を問う。新しい哲学が生まれるのは、それまでものごとを基礎づけていると見なされてきた根拠が改めて問い直されるときである。……対し、根拠が問われずに述べられたことは、どれだけ理論的に見えようとも、哲学にはならない。それは著者の単なる主張である。……ロックの自然状態論とは、まさしくそのような意味での主張である》
 と結論的に述べている(『近代政治哲学-自然・主権・行政』ちくま新書、2015年)。
 これが私にガツンときた。
 これまで、自らの自問自答を哲学していると考えて来た私にとって、半ばなるほどと思い半ば腑に落ちない思いがする。なぜだろうと立ち止まった。
 ホッブズとスピノザへの展開が「自然権」概念に関して受け渡すように語り出されていることは国分の追跡で明らかだが、スピノザとほぼ同じ時代に(オランダとイギリスという異なった土地で)活躍したロックは、自然状態を論じるときにホッブズの自然状態に関する言説を(根柢に立ち戻って)批判してではなく、自然状態には自然法があると提起して
《……すべての人類に〈一切は平等かつ独立であるから、何人も他人の生命、健康、自由、または財産を傷つけるべきではない〉ということを教える》
 と引き取る。ホッブズは
《自然状態を描き出すに当たり「希望の平等」という非常に興味深い論点を提出してきた。この平等を根拠にして、戦争状態にまで至る論理が巧みに展開されていた》
 と、「自然状態」または「自然権」に対する根拠の差異を指摘し、ロックのそれには所有権の確立が前提されていると、その「根拠」の薄弱さを剔抉する。つまり、ロックのそれは、単なる主張に過ぎない=哲学ではないというわけだ。そしてロックは「イギリス人としてイギリス人に向けて語った」(つまり政治的言説)と見極めている。
 なるほど、そこまで根柢的に(自問自答であっても)やりとりをすることが「哲学する」ことなのかと、わが思考の底の浅さに思いを致す。
 と同時に、腑に落ちない思いも感じる。国分は「哲学者たちに語る哲学」を俎上にあげ(ようとし)ている。だが私はいつだって、「イギリス人がイギリス人に語って」いるように、日本人が日本人に語っている。というか、市井の庶民が市井の庶民に語るように、自問自答しているに過ぎない。そのとき、根源へ根源へと踏み込んでしまうと、まるでタマネギの皮を剝くように、どこまでも「わからないこと」が先に見える。といって(私にとって)スピノザやロックにあたるホッブズは何と問えば、敗戦体験まで戻る。敗戦体験以前の、わが身に伝承されている(親の立ち居振る舞い文化から伝えられた)大正教養主義は、私の無意識に沈んで土台となっている。そこへ降りたとうとするとき、いつも敗戦時の大転換が「齟齬」して、西欧的に身と心の、身体と精神との分裂をそのままに抱え込んでいるように感じられる。二つの違った文化流路が流れ込んで、いつも、何事に関しても引き裂かれた(アンビバレンツな)感懐を内心に生み出していると感じている。それが何かを突き止めようという思いが、私の哲学するである、と。
 こうも言えようか。
 国分が剔抉する「根拠」を探し求めて(わが身の内面へ遡るように)考え続けているのが私の「哲学する」一つの流路。もう一つが、現在の「わたし」が抱懐している「せかい」の奈辺に位置しているのかを位置づけようとして「哲学する」こと。
 その後者にあたる領域のひとつが、謂わば「政治哲学」と思ってきた。私がジョン・ロックに親しみを感じている(と今思って振り返ってみる)のは、戦後育ちの過程で意識世界に刻み込んできた第二次世界大戦への人類史的反省の産物、「日本国憲法」が、謂わば「根拠」のように(我が内心に)座っているからだ。それは、教育という形で外から持ち込まれたものでありながら、わが身の意識世界をかたどってきた原基であり、それを(日常の出来事に触発されて)対象化して批判的に再構成して受容していくことが、青年期以来の私の活動だと思っている。つまり哲学の歩んできた道筋を私は、門前の小僧としてしか知らないけれども、その門前の小僧の現代政治意識の一角にロックが位置を占めていることを好ましく感じているのだ。
 もちろん国分の提起する「哲学する」に敬意を感じている。彼のロックへの批判も理解できる。しかし私は、市井の庶民流の哲学する志を持ち続けていきたい。開き直るわけではなく、庶民の市井の道を歩いて行きたいと思うのである。


文化を忘れた金銭脳への偏り

2021-12-28 10:57:13 | 日記

 これまで日本社会をつくるのに経済脳ばかりになっていると批判してきました。もう少し子細にみると、経済脳であっても1980年代までの(つまり産業高度化過程の)日本の「資産」は、追いつき追い越せというモデル追随精神に溢れていたにせよ、世界の先端に追いつく気風に溢れていました。世界を牽引するほどの力が無いというのは、極東の島国という地政学的・歴史的な立ち位置から来る精神的核ではありましたが、高度経済成長が生み出す資金にも恵まれて、それなりに理化学研究や科学技術や人文社会科学にも潤沢な資金が回っていたわけです。むろんそれでも、その状況に満足できない優秀な頭脳は海外へ流出していきましたが、それはそれでまた、日本の学問研究に環流する回路をもっていました。またそれらが、(ある種の国民的一体性を保っているという社会的気風と雇用形態の作風とによって)一億総中流という中間階層の大量な創出という事態を生み出し、功罪取り混ぜてはいても、あるナショナル・アイデンティティを高めてはいたのでした。
 つまりこうも言えましょうか。
 経済的な成長・発展を考えるとき、市場をめぐる金銭というよりも、それを推進する人々のインセンティヴにもなる活力は、その社会を構成する人々の文化的な力に負うところ大なるものがあります。学問研究の水準という意味だけではなく、市井の庶民の立ち居振る舞いが持っている佇まいの文化性が産業過程に大きく影響しているのです。
 言語学者の大野晋だったと思うが、1980年代か1990年代にアメリカの自動車産業を訪れたときの印象記を書いていました。組立工程の工員が、吸っていたたばこをぽんと組立中の車に投げ込んでいるのをみて、ああこれでは、アメリカの自動車はダメだなって言っていたのを思い出します。丁寧とか、清潔とか、時間厳守とか、手を抜かない誠実さというのは、単に金銭的に始末できることとは別次元の「ものづくり」に関わる大切な要素だというのです。
 ところがバブル崩壊後の日本の為政者も、産業家たちも、グローバリズムの波に押されたとは言え、経済脳が金銭換算脳にだけ成り果てたようでした。しかもコストパフォーマンスとカタカナにして短期的な効果だけに目を留めた。大学改革にしても中等教育改革にしても、長い目でゆったりと育てる土壌をつくることに関心を失い、実利効果だけを評価する方向へ社会の気風を向かわせてしまったのでした。高校で言えば進学実績ばかりに目が向いて、生徒を育てる学校の気風は片隅に追いやられた。生徒たちは受験学力だけを求めるように仕向けられていったと言えましょう。
 為政者や産業家たち、日本社会の主導的な人たちの考えるトップダウンは、下司が黙って上司の言うことを聞く有り様をイメージしていたのでしょうか。現場仕事をしてきた私などからすると、現場に身を置く人たちが自ら熱意を持って取り組む仕事こそが、その場にいる人たちの力の差を補い合ってチームワークを生み出していく。そこには、その人々が育ってきた過程で関わった文化の総合力が現出するのです。産業家や為政者のリーダーたちは、そういうダイナミズムにたぶん気づくことなく現場仕事というものをみてきたのではないか。そう強く感じさせました。
 口先だけの百年の計ではなく、豊潤な大衆社会を過ごした時代経験を教訓にして、文化的な力が培われるような視線こそが、経済脳にも、バックアップする為政者の政策脳にも保たれていなくては、小心翼々の小吏と、面従腹背の庶民を輩出するだけの世の中になってしまう。いや、今の社会はそうなっています。そういう社会においては、内政的には得意満面のいいことづくめのイメージしか描けないだろうし、ひいては外交的にも、肝の据わった人間世界を見渡す施策を繰り出すことができないと思えるのです。


経済脳と謙虚さ

2021-12-27 16:49:59 | 日記

 昨日の「移民を受け容れることができるか」を書いた後で目にしたのが、東洋経済Onoine野々口悠紀雄の記事「日本が国際的地位を格段に下げている痛切な事実」。「いつの頃からか日本人は「謙虚さ」を失っている」と副題を振っている。
 2000年と2020年の先進40カ国の一人当たりGDPを比較して、日本の特徴をつかみ出している。2000年に、第1位ルクセンブルクに次いで第2位だった日本。アメリカは第5位であったが、2020年に日本は第24位、アメリカは変わらず5位だが2000年比58.7%増となっている。
「自国通貨建て1人当たりGDPの2000年から2021年の増加率をみると、つぎのとおりだ。日本が4.6%、アメリカが91.0%、韓国が188.0%、イギリスが78.5%、ドイツが64.2%。」と野口悠紀雄はデータを示す。野口は2点指摘する。
(1)アベノミクスが始まる直前の2012年には、順位が低下したとはいうものの、世界第13位。第10位のアメリカの95%だった。第20位のドイツより12%高かった。
(2)日本の地位がこのように低下しているにもかかわらず、日本人はいつの頃からか、謙虚さを失ったとして、次のような事実を挙げる。
《2005年頃、日本の1人当たりGDPのランクが落ちていると指摘すると、「自分の国を貶めるのか」といった類の批判を受けることがあった。客観的な指標がここまで落ち込んでしまっては、さすがにそうした批判はない。それでも心情的な反発はある。……日本の経済パフォーマンスの低さを指摘すると、「自分の国のあら捜しをして楽しいのか」という批判が来る。アメリカの所得が高いと言うと、「所得分布が不公平なのを知らないのか」と言われる。つまり、外国にはこういう悪い点があるのだという反発が返ってくる。……韓国の高い成長率に学ぶ必要であるというと、「韓国は日本の支援で成長したのを知らないのか」という意見にぶつかる。》
 いかにも実業場面をみてきた野口らしく、クールに事実を見つめない日本のエコノミストに憤懣やるかたない思いが伝わってくる。野口の憤懣の根にあるのは、彼に反論する人たちが「1980年代の成功体験」にしがみついていることと読める。これは私が言ってきた「自足」とは違う。野口はそれを「謙虚さを失った」と表現している。どういうことだろうか。
 経済脳だけで考えても、1980年代の日本経済のバブル的隆盛は、日本の工業力の力だけで達成されたわけではありません。アメリカの自足による停滞という「敵失」もあれば、軌道に乗る前のEUのちぐはぐもあったでしょう。何より学ぶべき技術的モデルは欧米にあり、なお、東アジア・東南アジアの唯一の先進国という立ち位置が、途上国との依存関係という優位性も作用していたに違いありません。
 それを「日本人の優秀性」のように固定して受け止める心持ちが「停滞」へとつながるベースを為しています。1992年のブッシュ父大統領がアメリカの大手企業経営者を引き連れて日本訪問し、日米経済摩擦を協議したときの、日本マス・メディアの得意満面の報道ぶりは、印象深いものでした。そのときすでに日本の経済はバブルが弾け、「失われた*十年」へ突入していたにも関わらず、金持ち喧嘩せず然と鷹揚に構えて、何と600兆円もの内需拡大を約束したのですから、まさしく「太平洋戦争の恨みを晴らした」つもりになったのかも知れません。
「謙虚さを失う」と野口悠紀雄は評しましたが、経済競争において優位に立つか劣位に甘んじるかをクールに見て取るセンスが磨かれるには、優位なときほど謙虚に実力を見定める視力が必要なのです。その当時すでにどなたかが指摘していましたが、モデルを追いかけるときの日本は力を発揮するけれども、トップを走るには決定的な戦略的思考が欠けているという「課題」を本気でクリアしていったのかどうか。せいぜい1980年代に「ゆとり教育」を提起して、創造力を培う何かをやったつもりになっただけじゃなかったか。
 潤沢な資金を注ぎ込んで百年の計を立てたつもりだったかも知れません。だが計画を遂行するには、現場の気風を醸成することから諄々と手を尽くさねばなりませんのに、トップダウンが機能しないことが最大の現場問題として、国旗国歌の法制化や職員会議の決議権を取り上げるとかとか、現場の牙を抜くことに夢中となって、壮大な構想を現実過程に移して遂行していく実務を、ほとんど第二次大戦の兵站なしの戦線拡大のように指図したのですから、現場はボロボロになるばかり。教師たちは自分たちが何をしているかを自問自答しながら技を身につけていくものなのに、ただただ「年間計画」を提出し、「実施報告書」を書区ことに追われ、10年次の免許更新をすればいいんでしょとばかりに、新しい教育施策に向き合うようになった。それが21世紀日本の教育の実態であったと、すでに退職している私は、後輩たちから耳にしたのでした。結局その「ゆとり教育」も2010年代に「脱ゆとり」と称して取り下げてしまうほどでした。ときの文部行政の中心にいたヒトが「団塊の世代が現場からいなくなれば、学校は良くなりますよ」と1990年代に口にしたのは、忘れられません。その短期的な視野には呆れてものも言えませんでした。
 さて、そういうわけで私は、せいぜい小渕内閣が提起した「21世紀日本の構想」の答申がイメージとしてはもっとも良かったと受け止めていますが、むろん、言説だけです。日本の産業構造から、外国人労働者の受け容れ、地方分権や大学教育の改革などなど、フォローする視界の広さと長い年月を治めた戦略的視線は、ひょっとしたら面白い日本の変革につながるかと期待させましたが、全くの画餅になってしまいましたね。
 そのあげくが、アベノミクスです。株価とか企業収益の増減とか、通貨の円安を図るとか、何とも短期的なことにしか関心を示さないのが常態になってしまった。かつて大蔵省MOFが誇っていた日本の屋台骨を支えているのは私たちだという誇りも、一人の首相の切った啖呵を保持するために文書改竄を手がけ、しかもそれを指示した官僚を護ろうと奔走し、ついには裁判を回避するために訴えを「応諾」するという為体。野口悠紀雄ならずとも、日本のシンクタンクは、もうすっかり錆び付いてボロボロになってしまっていると、愚痴をこぼしたくなるだけですね。
 こういう状況だから、ますます防衛問題でも外交とかをすっ飛ばして、すぐに敵基地攻撃能力とかイージス艦装備という暴力装置の話になってしまうのですね。危なくてしようがない。そう思います。
 謙虚さを失ったという野口の評は、まだ甘いといわねばならないほど、日本の行政システムは腐りきっているように思えます。こんな日本に誰がした! と嘆くのは、まだ早い。バブルの恩恵に浴してきた人たちは、その前に、1990年代以降の30年間を、お前さんはどう過ごしたのかい? と自問自答して、自らの思念を長期的にめぐらしてみてはどうだろうか。その上で、経済脳から文化脳へ切り替えるにはどうしたらいいかを思案してみようかとおもっているのですが、さてどうしたらいいんでしょう。