mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

深掘りの起点(4)文化伝承の原点

2023-06-18 08:51:43 | 日記
 子どもを教育することに関する社会の共通軸を「人類史文化の伝承」とひとまず措定しておこう。取り敢えずこう言えば、いろんな思惑を包括できる。
 だがこの伝承がどう行われているかに思いを致すと、どこでだれがだれになぜどう「伝」し/どう「承」けとっているかによって、大きな違いが生じてくる。ヒトの文化の伝承はモノの受け渡しのようにはいかないからだ。
 まず、何が受け渡されているか。文化という目に見えないもの。身のこなしや作法、振る舞いになっている関係の取り結び方など。習慣や習俗となっていて、教える側も身の無意識に沈んでいるようなこと。職人の親方は、その昔、技を盗めといったようだが、教える側も意識していないこととともに伝えることが必須になる。親が子に伝えることも粗方が、このようなことだ。
 ヒトのDNAはチンパンジーと98%は同じだといわれているが、ヒトも同様、98%は身が備えている与件として受け渡されている。その上の文化の伝承だが、これまた習俗・習慣によって無意識化されて伝えられている。そこでは、意志して言葉で伝えること以上に、感性や感覚、好みや傾き、なにより生きていく意欲の源が受け継がれている。
 ちょうど脳内の情報伝達が神経細胞の軸索から出力し樹状突起で受けとるときのシナプス(隙間)を教室としてイメージするとわかりやすい。情報伝達物質はシナプス(空間)を跳躍してレセプターと呼ばれる細胞に達し伝えられていく。このときの「跳躍」は、送り手と受け手の「関係」とシナプスのオーラを反映する。送り手の思うように受けてくれるかどうかは、分からない。情報伝達物質の濃淡を生むばかりでなく、送り手側の無意識も含め、それに対する受け手の好悪も反映して送受信される。何がどう伝わるかは、一概に言えない。ただ、情報伝達物質に、送り手の意志だけでなく無意識も含まれることは、忘れてはならない。
 現場教師からすると、まずここで生じるズレに直面する。教師の繰り出す「教えたいこと」は、場の空気と受けとる態勢ができているかどうかというシナプスを跳躍しなければならない。「先生のいうことをノートにとって」という「しつけ」が行き届いていると、「教えたいこと」はそっちのけにして懸命にノートをとるが、何も「教えたいこと」は届いていないという結果を招く。その子どもの様子に教師が気づくためには、教壇に立つワタシは児童にとって何者なのかを、恒につねに意識するしかない。
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 先日、TV番組で「中学教師の加重労働」が話題になっていた。萩生田元文科大臣と橋下徹元大阪市長がコメンテータとして出演し、部活動も担任仕事も生活指導も教師の仕事から切り離して、教科指導の専門家とするのが一番いいと意見が一致していた。橋下徹は元市長としての経験からであろう、聖職者だと現場教師が勘違いしていると指摘していた。
 その思い違いをなくして教科指導の専門家として(教科毎に分業して)取り組めるように学校現場の仕組みを調えようと提唱していた。そりゃあそれが上手く運べば一番いいかもしれない。これは学校教育を「学力養成」に限定している考えている。だが現実には、子どもの生活をまるごとかかえて、人類文化の継承を(アタマで考える)知的な領域だけでなく(無意識が受け継いでいる)身の振る舞い方をも伝承している。社会が多様化するにつれて子どもたちの身のこなしもさまざまとなり、それだけ齟齬しぶつかり合うことが頻出する。親も子どもも地域社会もその変容について行けず、あたふたしている。
 それもあって、学校の態勢を分業的に変えるだけでは決定的に不足である。社会全体の学校や教育や教師に対する見方が変わらなければならない。橋本や萩生田が提案するような(生活指導を担当するカウンセラーを配置することや保護者からの申し立てを引き受ける部署をつくって分業する)ことがなぜできないか。ことに小学校の児童にとっては(その心身形成の段階からして)学校が生活のまるごとの場面だからだ。それに応じて教師もまるごとの関わりが求められている。それが、現場教師が自らの仕事を聖職と思い込む根拠になっている。分業化すれば、間違いなく進学高校にみるように教師は教科の専門職になっていく。だが1/3ほどの学校では、教室秩序が維持できなくなる。それを小学校でやるとなると、たぶんもっとひどい情況が生まれるであろう。
 レセプターはまるごとの存在として学校に現れている。でも送り手は断片の専門家として教壇に立つとしたら、これはたぶん、児童の所作・振る舞いが集約点を失って拡散されてしまうからだ。集約点とはシナプス、「教えたいこと」の授受をしている場、教室の空気である。生活指導には別してスクールカウンセラーが取り組むというとき、教師や同級生や親や大人たちの無意識の立ち居振る舞いが醸し出すシナプスが、まるごと(やはり無意識にレセプターに受け容れられて)かたちづくってきた要素が、掻き回される。それはそれで混沌が生じるから、たぶん、ますます「教えること」も拡散する憂き目に遭う。
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 それはそれで教室の空気を拡散すると同時に開放的にするから、学校を窮屈と感じている生徒たちにはいいかもしれない。学校を「勉強するところ」と考えないで、毎日「人類文化の」何かに触れて人と交流する子どもの社会と考えれば、成績評価から解き放たれた生活空間としての組み立て方も生まれる。社会的には、学力とか将来役立つ能力の育成といった目的的な使命感で満たされて、子どもも教師も息が詰まりそうになっている。たぶん資本家社会的市場経済を生き抜いていかなければならないという人生の位置付けが、教育の社会通念として席捲してきたのであろう。しかしそれを、人類文化伝承のまるごと生活空間と位置づけて学校教育を設計することができれば、少なくとも息苦しさを取り払うことはできるであろう。
 だが、そうした視線を親や大人や社会や為政者が持てるか。経済成長を株価の高騰に照準を合わせて云々している現状をみると、いや、難しいなあと溜息が出るのである。