mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

決意――見切る/断ち切る

2022-05-31 21:12:07 | 日記
 昨日はしこたまお酒を飲んだ。コロナの感染が日本ではじまる前以来だから、2年半ぶりか。大学の同じ専攻の卒業生が集まった。全員でも12人しか居なかったのに、そのうち4名が他界。2名が移動に不自由する状態、残る6名がすでに廃校になった跡地に行き、そのうちの一つの建物が二つの大学として使われてはいたが、あとの校舎はすでに取り払われ、区立の公園として利用されている。廃校になって半世紀近くになろうか。跡地に育った公園の樹木は幹回りも太くなり、中には巨樹の風格さえ漂わせているものもあった。建物の裏にあった池の周りは鬱蒼と茂る森になり、裏側の出口は小石川植物園に連なっている。
 卒業後半世紀以上が経ち、すでに傘寿を迎えている者もいる。お昼前に集まり、元構内を散策し、近くのレストランに入って旧交を温めたのだが、そのうちの一人、甲府から来ていたTが別れるとき「これが最後だから」と永訣のような言葉を残した。それはあたかも、今日以降はこれまでの人生とはきっぱりと手を切って、彼岸に渡る準備に勤しんで過ごすからおわかれだねと、「決意」を告げる言葉であったように響いた。その「決意」のほどが私の胸中にじんわりと響いて、今朝になっても鳴り止まない。
 そうか、人との関係の断捨離か。これまでに積み重ねてきた関係の束と縁を切って、すっきりと身を処していく。ここまでの友誼に感謝するとはいわなかったが、80歳になって先の道筋は、まさしく一期一会。曳きずらない。死ぬよりも前に、こういう形の「自裁」があるのか。いやあっても不思議ではない。世の人の歩む歩き方とは、ひと味もふた味も違う、彼自身の歩みがあったろう。その歩み方が、若い頃の古い友人たちにはつたわっていないかもしれない。それはそれで一向に構わない。ただ、そうしたわが身のほんの一角に痕跡を残してきた君たちとも、こうして別れの言葉を告げる機会を持てて良かったよと、いっているのかどうか。彼自身が、自らの内部で、何かを見切り、断ち切った。「決意」するとは、何かを見切り、断ち切る行為。彼は何を見切ったのだろう。なにか「せかい」を見切り、断ち切った。
 ずるずると関係を引きずる。何事もなるようになると、ちゃらんぽらんにすごしてきた私は、「訣れ」という「決意ある振る舞い」は、滅多にとったことがない。山の遭難事故をきっかけに自然消滅していった「かんけい」は、それはそれで「わたしの決意」を必要としなかった。そうか、私が断捨離が苦手というのも、わが「せかい」の一角を捨てることができないからだ。旧交を温めるという、ワケの分からない「かんけい」をよくわからないままに捨てることもできず、保ち続ける。そういう「わたし」の身の習い、つまりクセが肌身に染みこんで、いつも「決意」を回避し続けてきた。
 それじゃあ、起死回生というか、わが身を根柢的に革めるってこともできないわけだ。ま、この歳になって今更だから、それはそれでいいが、甲府の彼は、そこを身切って「これを最後に」と訣れの挨拶をしたんだ。すごいなあ。根を生やしたんだ、甲府に。葡萄づくりに。
 じゃあ「わたし」は何に根を生やすのか。そもそも根付くような土を育ててきてるんかい? そんな自問自答がぼんやりと躰をめぐっている。


浮遊する「わたし」

2022-05-30 05:24:33 | 日記

あなただれのおきゃくさま?

 身体不自由の長期入院という事態は、日頃のわが身の在り様を考えさせるに衝撃的でした。 入院当初2回の食事は、食欲もなく汁物だけを飲んで下げてもらいました。お粥にしてもらい、煮びたし......

 この記事は、去年味わった人生の原点でした。1年経った今、それを忘れている日常に戻っています。なんとなくそれでいいかもというわが身の感触が半分、やはり原点を忘れちゃあいけないなあという思いが半分。後者がじつは、神は微細に宿ることを示唆していると思うが、今更それを身につけようという観念は、年寄りには無理筋という思いも湧き起こります。身に遵いて矩を越えず。とすると忘れていいんだよと、長く付き合ってきた躰が呟いているように思えます。
 たぶん「わたし」は、上記両者の狭間を浮遊していて、晴れときどき雨というように移ろっている。それをどちらかに落ち着かせたいという次元の違う心持ちが、これまた身の裡のどこかに巣くっていて、ふとした弾みに顔を出しているのだと感じます。でも、そうした心持ちの動きを意識すると、移ろっている「わたし」が面白いのであって、どちらかに落ち着いてしまったらつまんないじゃないかという呟きも聞こえてきますから、「わたし」の浮遊感が面白いのかも知れません。
 そもそも、確たる「わたし」があるわけではありません。そもそも「ことば」がわが身のものではないように、「わたし」は世間の文化的気風の諸々がほぼ80年分集積し堆積して出来上がっているもの。振り返って辿ってみると、浮遊していない方がモンダイってことです。いや歳をとると浮遊しなくなって、固執することが多くなるのだろうかと、プーチンの振る舞いをみていると思います。この歳になって「わたし」が浮遊しているなんて、素晴らしいと誰かが哲学的に裏付けるようなことをいってくれると、嬉しい。そういうところにいる。そんな感じがしています。

そうか、ここでお遍路が終わったのか。

2022-05-29 05:14:53 | 日記
 昨日は一日、ボーッと過ごした。車を出して買い物に行き、ついでにカミサンを映画館まで送り届けて帰宅してから、TVを見る元気もなく、図書館で手に居入れた保坂和志『遠い触覚』(河出書房新社、2015年)をちょっとずつ読みながら、何かを想いながら過ごした。5/25と26に青山文平の小説を読みながら考えたことを記したが、その感懐が「ぶらり遍路の旅」の始末がついた証しのように思えた。
 振り返ってみると、今月9日にお遍路から帰ってきてから、「ぶらり遍路の旅・ご報告」を毎日少しずつ綴って仕上げるまで13日かかっている。それに、出発前の心裡の不安を記したものと、歩く途中の海部町の気風にまつわる社会学者の調査報告を読んだ記憶とを付け加えて仕上げた。見出しも含めて、1頁58字×50行二段組み、A4版で20頁。四百字詰め原稿用紙で約140枚になる。
 それをプリントアウトして、17年前のお遍路をするきっかけを作ってくれた友人のカクさんに手渡し、しばらくご無沙汰したご近所の友達にご笑覧頂いて、ぶらり遍路の今回の始末を付けた。「長旅をした」私に「何処へ行ってたの?」と訊ねてくれたメル友にはpdf版を添付してみてもらっている。
 keiさんからの返信。
《「四国のお遍路」に行ってらしたのですか。前書きしか拝見しておりませんが、自然体が80歳には一番ふさわしいのではないか、最良の選択をなさったのではないかと感じています。(笑)/ゆっくり拝読させていただきます。/私は左膝変形性膝関節症を受け入れつつ、「筋トレで筋肉に働いてもらい、せめて現状維持を」と、3日坊主を克服したく願っている最中です。取り急ぎ》
 とある。そうだね。80歳ともなるとあちこちに故障がくる。ことに膝関節や骨は、よほど習慣的に歩いていないと弱くなってきてしまう。その耐用期限が迫っているんだね。でも「筋トレ」は、わりと短期間で効果が出てくる。現状維持で十分だから頑張って。
 名古屋のohgさんからは、続けて2通の返信があった。
《小生は足掛け5年かけて、一部は乗り物を使いましたが、曲りなりにも完歩しました。立江寺は僧房で泊まりましたが、隠岐の島の漁師の信仰寺だそうで、泊まった時も島から大勢が参拝に来ていました。丁度お寺の市の日で、老いたおばさん達に代わって遍路してきてくださいと触れられた幸せな?想い出があります。/また、あなが隠岐の島で清遊したのことも併せて想い出します。良い傘壽の記念になると良いですね。》
《感想を続けます。19番から37番まで一挙に歩くとは流石です。岩本寺にも想い出があります。窪川駅から7.8分の処で泊まりました。美馬旅館と言って、老舗の地方宿ですが、林芙美子等が泊まった文人宿です。天気には恵まれなかったものの、窪川の風情が忘れられません、四万十川の上流域にあって、美馬旅館の料理も美味かった。/岩本寺の天井画に、モンローを描いた一枚があったのはあなたも観たと思いますが、遍路寺では異色ですよね。奥様の故郷から岡山の同窓会出席とは考えましたね。》
 立江寺が隠岐の島と縁があるとは識らなかった。また、岩本寺のモンローの天井画にも気づかなかった。もし「ぶらり遍路」のつづきをやるときは、岩本寺の天井画を見てみよう。美馬旅館には、十年ほど前に泊まったことがある。四万十のヤイロチョウを観に行ったとき。まだ早朝暗いうちに宿を出ていくのに朝食をお弁当にしてくれた。それがなかなかのモノであったと記憶が甦ってきた。そうだった、どっしりとした風格を感じさせる装いの老舗旅館だ。今回そこは、大型連休もあってか「満杯」であった。
 想えば、「ご報告」を書き終えてひとまず終わった「ぶらり遍路の旅」は、こうしてまだ、続いていると言えるのかも知れない。


生い茂る緑、穏やかな夏の到来

2022-05-27 09:11:26 | 日記
 昨日(5/26)、北本自然観察公園に行った。師匠が来週の植物案内をする下見のお供。晴れ、行くときの気温は24℃。naviの案内に任せて、いつもと違う道を辿った。予想していたルート(新しくできた上尾道路)よりもさらに荒川寄りの道へ踏み込む。あとで気づいたのだが、新しくできた道を私の車のnaviは認知していない。ぐるりと回り込んで、結局同じ道路に出た。バカみたい。17号国道を走った方が20分は早く着いたかなと思った。
 人影は多くない。入口の芦原からオオヨシキリの声が迎える。鳥友からサンコウチョウがいたよと知らせがあったが、師匠は全く鳥には関心を払わない。ただ歩きながら、「あ、これ、キビタキの声」と私に伝える。ホトトギスも声を立て、「一昨日カッコウを軽井沢で聞いた」と師匠はご満悦。ツツドリは? ジュウイチは? と私は混ぜ返す。コッ・コッ・コッ・コッ・コッとドラムを叩くような声がする。木立が茂る湿地の上を覗くと、薄茶色の躰がみえる。クイナだと、最初思った。双眼鏡を覗くと、躰に白い斑点があり、クイナよりもどっしりとしている。コジュケイよと師匠が言う。それで想い出した。お遍路の旅で一番よく声を聞いたのが、このコジュケイだった。民家の近くが好ましい棲家らしく、チョットコイ、チョットコイと鳴いた最後に、コッ・コッ・コッと尾を引くように始末の声を立てていたっけ。
 自然公園の植物はうっそうと生い茂っている。湿地も萱や葦が背を伸ばし、水面がみえない。ときどきみえる水面はちょっと脂ぎって光る。これって、分解が進んでいない泥炭層の尾瀬みたいだが、たぶん、違うんだろうなとおもう。
「よく見ると、水の中にニホナカガエルの脚の生えたオタマジャクシやミナミメダカの姿」とセンターのガイドにあった。探してみるが、一匹もみえない。
 師匠は花の終わったスミレをチェックしている。ヒメスミレ、アオイスミレ、ツボスミレ、タチツボスミレ、コスミレと葉を見て指さす。電動草刈り機で草原を切り払う作業が行われている。スミレも首先をちょん切られている。でも根茎が残るから来年の開花には影響ないらしい。5年ほど前に倒れた江戸彼岸桜の倒木から生えて花を咲かせていた桜が、今年はとうとう花も付けなくなったという。あ、これって、老衰と思った。
 クララが小さな白い花を連なるように下向きに咲かせて楚々としている。イボタの木が固まるように花を付け、すっくと立っている。芦原に白っぽい緑の穂を着けたクサヨシが広がって緑の中に涼しい風を通している。イチヤガラの花が車の輪っかのように茎の先に茶色に咲いている。師匠に言われて触ってみると、その茎がくっきりと三角形になっているのが、面白い。へえ、いろんな形があるんだ。ヤブマオウとメヤブマオウの葉の末端の形が違うってことも、聞くとなるほどと分かる。
 ウグイスカグラが、たくさんの赤い実を付けている。師匠が食べられるよというので、一つ取って口に入れた。水っぽい甘さが口中に広がる。おいしくはない。ガマズミも花が実に変わりつつある。ナツボウズという草が、いかにもその名にふさわしい丸っこい実を一つ付けて、他の草木の間に身を隠していた。あっ、オオシマザクラだと、下を向いて歩いていた師匠が言う。サクランボの実が落ちて踏み潰されているのを見たからだ。桑の実もたくさん落ちて園路を汚している。そういえば、少しばかり柳絮が風にながれ、園路には白い粉を撒いたように落ち、雨に濡れて、やはり道を汚している。
 木道の上に、体長の二倍ほども尾の長いカナヘビがいる。日差しを愉しんでいたのであろうか、私たちの足音に驚いたように、躰をくねくねと揺すりながら走って姿を消した。
 子ども公園の方では、流れる水につかって泳ぐように遊んでいる3歳児前後の子どもたちの声が響く。小さなテントを張り、もっと幼い弟妹を寝かせているのだろうママたちの姿も、緑に包まれて日差しに揺れる。ああ、緑陰って、こういうのをいうんだ。久々に穏やかな夏の到来を感じた。


オニが暴れる

2022-05-26 08:02:20 | 日記
 昨日の《「人が生まれるとき鬼も生まれる」と、内藤雅之が語ったことがあった》という言葉が、わが夢の中で暴れ回っている。まさしくブラウン運動。
「ヒトが生まれるときオニも生まれる」。ヒトは人の形をしているが、オニは姿が見えないが、ヒトが生きるエネルギー源、活力の元。ヒトは「オニを飼いならす」ことによって成長して人となる。飼いならさないと鬼になる。その途上における心裡の葛藤を、何時であったかTVの画面で口にした若者がいた。
「なぜ人を殺してはいけないんですか?」。
 その討論番組に出演していた「有識者」たちは一瞬絶句し、その後にそういう問いを投げかけること自体がモンダイという風に反駁した。その後しばらく雑誌などで、作家や学者や映画監督や有名人たちがその応えを口にしたが、「わたし」の腑に落ちる言葉はなかった。だが、青山文平の作品の主人公の上司が、見事に応じていると思った。
 かの若者は「鬼を飼いならす」のに手間取っていた。そう考えると、彼の疑問も腑に落ちるし、その後に続いた識者の応答が、なぜ応えになっていなかったのかも分かるように思った。識者は善悪のモンダイと考えて応答していたのだ。
 17世紀の初期に編纂された『日葡辞書』によるとオニは「悪魔。または、悪魔のようにみえる恐ろしい形相」とある。善悪二元論の典型的なとらえ方であり、「形相」にまでいい及ぶのはいかにも実体的な世界観が表している。
 だが大野晋によるとそれより古い中古の時代のオニがとらえられている。
《オニを表す漢字は「鬼(き)」。中国では死者の霊。「万葉集」ではモノ(亡霊・怨霊の意の上代語)と訓み、マ(魔=悪鬼の意の漢語)とも訓む。「和名抄」には鬼が物に隠れて姿かたちがみえないことから「隠(おん)」のなまったオニと称した》
 と古来のヨミを記したあと、
《『名義抄』では「神」に「鬼ナリ」と注し、「カミ・オニ・タマシヒ」の訓を記し、「鬼」には「オニ」、「邪鬼」には「アシキモノ」、「魔」には「俗ニ云ハク、マ・オニ・ココメ(鬼女)・タマシヒ」とある。カミ(神)は天地・海山・草木・鳥獣などの自然物、風雨など自然現象の一つ一つ、また家とか門などの個々の万物に備わった霊的存在で、形は見えず、恐ろしい力を持つとする。》
 と記し、善悪二元論に見舞われる前の、中動態的な用法に注目した。そしてさらに、
《また、人の命を支配するので、人は神に捧げ物をして、その恵みを受けようとした》
 と、人が鬼・神と共に生きようとしたことを記している。
 つまり大野晋の記すこの時代以降に、鬼と神が善と悪とに別たれ、それと共に人の身の裡から悪しきものとしてのオニを排除する傾きが生まれ、人はケガレを忌み嫌うこととして、身の裡から追い出そうとしたのであろう。現代に生きる「わたし」たちは、この善悪二元論にとらわれており、そうすることによって「オニ」が悪しきもの、「カミ」が善きものとして、双方共に単純化され、わが身の裡に宿るタマシヒの深さが失われていったと感じられる。それは同時に、生きるエネルギーの源泉に、善きも悪しきも共々に雑居して、それらを「飼いならす」ことが成長することとみなすというヒトの内面の複雑さと、それが作動するメカニズムの重層的な奥深さも失われていったと思われる。
 鬼と神とが一体であった頃の今を生きる此岸を見る中動態的視線は、まさしく「照照と考える」のでなければ、みえるものがみえないことを、身を以て日常毎として体現していた。それが善悪二元論的に分節されるとともに、みえるものしか見えない。みたくないものはみないというクセを身に刻むようになってきた。それが現在では無いのか。そう教えているように思える。
 オニが暴れる。カミも暴れる。暴れるソレをわが身のこととして取り込むかどうかは、「飼い慣らせるか否か」にかかっている。そう考えると、わが身そのものが動態的に変化し推移し、しかもその主体は「わたし」そのものという実感も伴ってくる。フェイクもヘイトも、戦争も平和も、みな共々にわが身の実感においてとらえ、理解し、心の総合力によって統一する。これこそが「飼いならす」こと。そう思って、わが身の「確かさ」を吟味しながら、日々を送る。これだ、これだ。そう思って、目が覚めた。