mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

悪貨が良貨を駆逐する

2017-10-29 06:20:30 | 日記
 
 神鋼の検査不正ばかりか、日産に次いでスバルまで検査に不正があったと報道されています。ご近所の、実業世界に長く身を置いてきた知り合いも、「これで日本の製造業の評判も落ちるなあ」と慨嘆しています。「次はトヨタか」と底流する社会的共鳴を予感している方もいました。新聞は、「謎」などと書いて、不正がなぜ行われたのかわからないと思っているようですが、そうでしょうか。
 
 まったく実業世界を知らない私が、岡目八目で言うのもおこがましいのですが、昔から「悪貨が良貨を駆逐する」と言います。生産活動がグローバル化するにつれ、新興の競争者が登場してきますから、古くからの製造者もうかうかしてはいられません。ことに中国のように「安かろう悪かろう」という、いつぞや日本が受けた悪評判同様の競争相手となると、品質とか納品期限を守るといった商業上の良さばかりでは万全の評価をしてもらえないこともあって、とどのつまり価格の競争という舞台に引き出されてしまいます。むろん、あまりにひどい品質であると、それ自体が悪評判となって定着してそっぽを向かれてしまいますが、そこそこの品質を確保できるとなると、契約上の争いは、価格、納期が早いとか、期限を守るなどの条件になります。
 
 不正で問題になった神鋼も、納期限に迫られてと言っているようでした。生産能力に見合った納期限では受注できないとなると、どこかで手を抜くことになってついつい許容限度内の手抜き不正をするようになったというところでしょうか。でもこれは、新興の競争者の仕掛けてくる競争の質によって規定されるように思います。つまり、製造業者の倫理というのは、いい品質のものを早く安く作ることから滑り落ちる要因を内包しているとは言えますまいか。今回のそれも、ひとつの綻びが出たというところではないでしょうか。自社チェックに任せていて、何かあると検査介入するという経産省の立ち位置は、対外競争的には「身内のなあなあになる」可能性をいつも秘めています。
 
 アメリカなどでそういうことをやると、びっくりするような「懲罰的賠償」を求められますが、その根底には、いつでも企業社会は不正をする可能性を持っているという見方が流れています。企業の自然(じねん)=business natureとみているわけです。それが辛うじて、企業倫理の崩壊を食い止めています。長く護送船団方式に浸ってきた日本では、監督官庁も企業も、まずそのように監督者ー企業を見ることをしていませんね。立ち位置を相互に尊重・忖度して、相見互いを貫いてきたのです。そういう意味では、監督官庁も統治の倫理を貫くという姿勢ばかりではなく、具体的な方法を策定しなければなりません。企業の倫理を守らせるにたるチェック体制というわけです。
 
 つまり企業も、監督官庁も、人間観、社会観、企業観、国際競争観をあらためて検討し直して、良貨が悪貨に駆逐されないようにする道を探らなければなりません。政府もまた、グローバル化の風の中で「良貨」を追及する使命を求められているのですが、強い政府の尻馬に乗って胸を張っているキツネでは、それもなかなか適わないかもしれませんね。
 
 さて今日からまた、五日間ばかり旅に出ます。今度お会いするのは来月の三日。しばらくお休みします。ではでは。

「信仰心」という「辞書後の世界」

2017-10-28 09:50:20 | 日記
 
 最近、『広辞苑』の改定作業が話題になった。言葉の意味・用語法やいわゆる「流行語」が(社会的に)定着したかどうかをチェックし掲載するか見送るかを一つひとつ検討して、新版は700ページも増えるそうだ。三浦しをんの『舟を編む』の行間に浮かぶ辞書編纂者の日々の振る舞いを想いうかべて、こういうご苦労なことをしている人がいることに、私たちはどういう面でどれだけ依存しているだろうかと思いを致したこともあった。そういえば、何百年に及ぶ「オックスフォード英語辞典」の何年版にどう書かれているかを検証して、社会論であったか教育論であったかを論じていた(日本人)学者がいて、「辞書」を社会的変遷の「史料」とするのは(学問的に)邪道のように非難する(やはり日本人学者との)やりとりがあったことも、記憶にある。辞書を史料とするのは安易すぎるという趣旨であったろうか。でも、広辞苑の改定作業を思うと、そう安易なこととも思えない。
 
 そうした「ご苦労」を(反面教師的に)思い出させる「表現」にぶつかった。落合陽一『超AI時代の生存戦略――シンギュラリティに備える34のリスト』(大和書房、2017年)。その一節に「信仰心」と題したものがあった。副題は《「信じる」という単純なことが、個人のメンタル維持にも原動力になる》と振り、本文でこう解説する。
 
《今の時代を生きる私たちにとって、「信仰心」は必要なのだが、ここでいう信仰というのは宗教という意味ではなく、「何が好きか?」「何によって生活が律せられているか?」「何によって価値基準を持つか?」という、「自分の価値基準は、何だろう?」という問いに対する個人の答えのことだ。》

《……人によっては、「趣味に生きる」ということが信仰だったり、「子育てする」ということが信仰だったりする。文化への接続という意味でも、敬虔なキリスト教徒や仏教徒だったりすれば、その教義にしたがって平穏に暮らすことが信仰になるわけだ。》
 
 この著者は、「信じる」ということと「信仰心」を一緒くたにしている。たぶん「信念」も同じと考えるのであろう。つまり、価値の差異はことごとく(人それぞれが)「信じる」ことによって生まれ、宗教の「信仰心」もそれと同列におかれて考えられている。「神々を信じる」ということと趣味嗜好(の根拠)とが同じに扱われては、神も仏も顔色を失うに違いない。どうしてこんな「間違い」がまかり通っているのであろうか。
 
 じつはこの点に、「AI時代」のもたらした「魔法」があると落合陽一は言う。2007年にiPhoneが誕生して以来10年の間に、インターネット上にAIがもたらした「新たな社会空間」がそれであると提示する。
 
《第二の言語・視聴覚空間をつくり、住所を持ち、SNSを生み、社会をかたちづくった。言うなれば人はデジタル空間にもう一度生まれた》
 
 つまりそこに生きる人=デジタル・ヒューマンは「集団への体験共有」から「個人の能力拡張」へと大きく舵を切った。その結果、人びとの得てきた「専門的修練」がAIに呑みこまれ、「特権的に得てきた何か」も民主化されてしまう、と。《「集団への体験共有」から「個人の能力拡張」へ》というのは、《共同幻想を脱した時代には個人一人一人のビジョンが重要であり、「整理」や「フレーム」「パラダイム」という名の信じるもののプラットフォーム化が、前時代のビジョンという名のコンテンツと同様に重要になっていく》ことだと見立てる。つまり、シンギュラリティによってAIに任せる仕事はAIに任せて人間はクリエイティブに生きるという能天気な「テクノフォビア」を抱懐するか、AIに仕事を奪われると危機感を懐くばかりになっている事態に、新たな枠組みをもって考えようと、呼びかける形になっている。
 
 「信仰心」という神々という超越的な外部を想定した物言いが、「趣味嗜好」や「信念信条」という自己中心的な選好と同列におかれるというのは、まさしく落合陽一のいう「第二の言語・視聴覚空間」だからなのかと、私は思っている。もはや「共同幻想」はAIによって(全きまでに)敷衍されてプラットフォームとなり、自由意志とか自己実現はアイデンティティを構成するキーワードの地位から滑り落ちる。結局、その時代を生きる人々(デジタル・ヒューマン)は、己固有の「信じること」を基盤として「人機一体」の時代を生きることになるというのである。
 
《自分の価値基準を自分で作って、自分で何か価値を決めて進行していくということなので、それは意識してやっていかなくてはいけない。》
 
 と明快である。いやはや、まいったねえ。私のような年寄りが、前時代の空気の中で暮らしてきたことは十分認めるが、シンギュラリティによってここまで、「辞書の社会」からも脱落することになるとは、思いもよらなかった。旧言語の遺跡を徘徊する私たちホモ・サピエンスは、デジタル・ヒューマンは棲み分けることができるだろうか。
 
 ちなみに、このデジタル・ヒューマンの落合陽一さんは1987年生まれ、今年30歳になる筑波大学の助教。学際情報学の博士号を持つ。なぜこうした「権威」的なことを記すか。じつは、この人の視界に入れているセンスが、私は嫌いではないと感じているからだ。たとえば「自分で決めたゲームの定義のなかで、人は本気で遊べるだろうか」と自問し、「問題設定があり、それを解決していき、そのなかで報酬が決まり、楽しいと思える。それが遊びだったのではないだろうか」と回答領域の限定をしておいて、たとえば「スキーをゲーム的にとらえると……その報酬として風を切る感覚がすごく気持ちがいい」と展開する。つまり、自分で枠組みを考えて「遊び」にしていくというセンスを提案するのは、自らの輪郭を自画像的に描きとって、それによって「世界」を構想しろと言っているのと同じである。そういう点で、棲み分けるというのとは少し違うが、両方の時代を繋ぐ思索のプラットフォームの同一性をイメージしているのであるが、これは私の錯誤なのだろうか。

無意識に刻まれた依存から自律すること

2017-10-26 09:33:34 | 日記
 
 宮下奈都『太陽のパスタ、豆のスープ』(集英社、2010年)を読む。10月21日に、同じ作家の『羊と鋼の森』(文藝春秋、2015年)を読んで《究極の「美」を求め続けて歩く世界》と題してこのブログでも取り上げた。そのときは、「豊かな社会に生まれ暮らす人ならではの幸運」と、まず感じたと記した。と同時に、この「幸運」の成立由来を覗きたくなり、この作家の古い作品を読むことにして、図書館に注文した。
 
 間違いなく「幸運の由来」のひとつが、この作品、『太陽のパスタ、豆のスープ』のテーマであった。
 
 わたしたちはヒトとして生まれ落ちたときすでに、文化的な資産を受け継いでいる。直立二足歩行にはじまり、運動系も頭脳系も、言葉も感性もほぼ三、四割は遺伝子に書き込まれていると、脳科学者も指摘するほどである。そのなかには、遺伝子に書き込まれていることなのか、生まれて後の「環境」に育まれ(真似び学ぶこと)ことによって獲得されるのか、未だ分明でないことも含まれる。たとえば女性が、結婚ということによって、その後の自らの人生をどう生きていこうと(胸中に胚胎)するのか。日本という社会(の習俗・規範・制度)が「結婚」ということにかぶせている「妻(嫁)」の位置をくぐらせたうえで、女の人たちは自らの生き方を選び取っている。となると、「結婚」が決まった若い女性が、その先の生き方を「夫」とともに歩もうと思うのは何の不思議もない。それは(したがって)、「夫」(の人生)への依存でもある。「夫」は夫で、妻とともに暮らすことを選び取った瞬間に、習俗や規範や制度によって「妻」に依存した暮らしをはじめるようになり、定年後に離婚状を突き付けられて慌てるという格好になる。
 
 『太陽のパスタ、豆のスープ』は、この、女性に無意識に刻まれた「依存」から抜け出し、自律した人生を歩む、その踏み出し方を紡ぎだした作品である。生物的なヒトとして受け継がれてきたことのなかに、すでに「人間」としての社会生活につながる繁殖の原型がかたちづくられていると、進化生物学者で、文化人類学者のジャレド・ダイヤモンドは指摘している(『セックスはなぜ楽しいか』)。だがその生物的進化に加えて「愛の物語」を紡ぎだすことによって、いっそう絆を固くしてきたと、私たちは考えてきた。ところが宮下奈都は、「自律」の土台になっているのは「太陽のパスタ、豆のスープ」であるとみてとる。その過程を、結婚を目前に控えて「婚約解消」された一人の女性を主人公の心裡の様子をたどりながら、掬い取っている。
 
 「自律」とは、しかし、社会的な孤立ではない。「夫/連れ合い」に依存しないために、社会的に孤立してしまっては、実も蓋もない。誰かに依存しない在り様ながら、社会的「かんけい」のなかに自らを(自身の意思で)マッピングすることでもある。ことに今のグローバルな分業のご時世、社会的な依存なしに生きてはいけない。だからそれを振り切って「自律」というのは、それ自体が幻想と言わねばならない。そういう社会的「かんけい」とのかかわりを意識するところがあってこそ、開かれた自律になる。そこまで視野に入れて、宮下奈都は書き込んでおり、それを象徴することがらが「太陽のパスタ、豆のスープ」というわけである。
 
 常々私は、女はえらいと思ってきた。何しろ子どものころから、家を出ることを運命づけられ(覚悟を決め)て、自らの人生を描いてきたのである。それに比べて私の世代の(戦中まれ戦後育ちの)男は、厨房に立つべからずばかりか洗濯も掃除も、「手伝い」程度しかしたことがなく、要するに母親から教わらなかった。ことごとく母親に依存していたのである。これが、家を出て独り暮らしをすることになったとき、どれほど難儀したことか。
 
 男であるわたし自身、どう「太陽のパスタ、豆のスープ」を手に入れるようにしてきたかと考えてみると、山を歩くというのが大きな位置を占めてきたと、いまさらながら思う。いや、たいしたことではない。テントをかつぎ、寝具・食料を持参して山に向かい、何日かを過ごして下山することの中に、他人に依存しない、自律的な暮らしの実務を取り仕切る、意志と方法と具体的な動きとがある。そのようにして身につけた身体技法が、平地にいて、連れ合いと過ごす暮らしのかたちにも現れている。そのようにして五十年も一緒に過ごせば、互いの「依存」の頃合いも、「自律」の測り具合も、適度に測れるようになっているといえようか。
 
 「太陽のパスタ、豆のスープ」を経て『羊と鋼の森』の「豊かな社会に生まれ暮らす人ならではの幸運」にたどり着いているとわかると、やはり女はえらいと改めて思うのである。

おいっ、何かを失ったんじゃないか、お前。

2017-10-25 14:59:42 | 日記
 
 今朝方寝ていて、ふと、思い浮かんだことば。「おいっ、何かを失ったんじゃないか、お前。」。
 
 なんだろう、このぼんやりとした思いは。ぽっかりと胸中に穴が開いたような、いや、その穴に竹で編んだ覆いをし、落ち葉をかぶせて見えなくしているような、自己欺瞞的な何か。若いころであれば、空疎な不安を懐いたかもしれない。だがいまは、そうとは言えない。どこかで、それでいいのだ、とバカボンのパパのように腕を組んで頷いている。
 
 そうか、昨日の七ガ岳を途中で止めて帰って来たことか。不甲斐ないというか、昔なら、靴に水が入ろうと構わずじゃぶじゃぶと歩き登ったであろう「平滑沢」を、眼前にして引き返したことに、気持ちの何処かがこだわっているのか。内心の「私」が許せないと思っているのかもしれない。行く前に「幅は数メートルというのに数百メートル続く平滑沢」とあったのに心惹かれて、行ってみようと思ったことを忘れて、「入山禁止」とか「山の会の下見」という勝手な目安を(じぶんで)つくって、(こりゃあ無理だ)と、ひきかえした。じつは単なる「じぶんへの言い訳」にすぎなかったんじゃないか。こりゃあ、お前さん、もっと大きな心的退歩が起こっていたんだよ、それから目をそらさないで、自分の身に起こっていることをつかまないでどうするよ。そう言っているようでもある。
 
 昔、松浦武四郎のことを書いた本を読んだとき、いやこいつはすごいと感じたことを思い出す。幕末の松阪に武士の次男坊として生まれ、全国各地を放浪するように旅してまわる。そのうちに蝦夷の地を越えて樺太や国後択捉にまで足を延ばしたのであったか。それを事細かに書き記した絵図と文章を残し、明治維新後に北海道開拓の役目を受けたが、明治政府の役人たちの(アイヌに対する)横暴な振る舞いに憤激して辞任したのであったか。記憶がぼんやりと概念的になっていて、今すぐに確かめられない。そのとき「すごい」と感じたのは、旅の途中で見かけた白山、大峰山、富士山、男体山や磐梯山、北海道の大雪山などに登ったと思われることであった。むろん信仰の山として「講」などを組んで登る人はいたであろうが、全行程徒歩で歩き記す。道なき道も(案内役がいたかどうかは記されていないが)分け入ったと思われ、山小屋があるでなし、生活用具すべてと食糧も自身でもっていったとすると、こいつはすごいと驚嘆した、と思う。
 
 昨日の、台風一過の七ガ岳どころではなかったろう。足元が濡れるというのも、なにそれ? と思うようなことに過ぎない。そうか、冒険心が失せてしまっているのだね、今の私は。心裡に「自制心」というか、自分の力量を推し量る秤があって、おいおい待てよ、そこへ踏み込んだら(日常に)戻るのは大変だよと囁く内心の声になって聞こえてくると言おうか。
 
 考えてみると、私の戻る「日常」なんて、たいしたことではない。一日や二日戻れなくても、だからどうってことはないのに、なぜか、ブレーキがかかっている。凍え死ぬような寒さもまだやっては来ないのに、どうして「言い訳」をしているのか。前穂高の雪の岩稜でも、むろん先導者がいたとはいえ、ザイルを結んで痩せ尾根を歩き、前を歩くヤツが右へ落ちたらオレは左へ落ちて止めなくちゃならないと緊張に包まれて歩いた。剣岳の岩登りでも、雪渓を詰めそこからザイルを結んで頂上へと岩をつかみながら登るときの引き締まる身の強張りも、どこかへ置いてきてしまっている。
 
 やっぱり独りで登っているのが、気にかかっているのだろうか。山中で滑るとか転ぶとか、何かあったときに、万事極まる。「入山禁止」の表示を無視したとなると、助けを呼ぶわけにはいかない。「登山届」をカミサンには渡しているから、一日還らなければ救助要請はするであろうが、それに期待すること自体、もはや登る資格を失っていると思われる。
 
 冒険心が失せてしまっている。そのことの発見が、今朝の目覚めになった。身体能力の低下にともなって意欲が落ちるのは幸せなことと、誰かが言っていたか。いまその地点に立って、どちらに歩きだそうかと思案している。

登山道の修復にまで手が回らない

2017-10-24 19:26:27 | 日記
 
 今朝早くから、いそいそと七ガ岳(ななつがたけ)に行ってきた。福島県会津市と栃木県日光市が境を接するところから、会津側にちょっと入り込んだところにある。尾瀬の入口、桧枝岐の北である。日光、那須、尾瀬というよく知られた山に接していて、あまり知られていない。だが、1500mを越える標高をもち、荒海山は太平洋側と日本海側の分水嶺になったりもしている。文字通り奥ゆかしい山々である。
 
 空には雲がかかっているが、遠方の男体山や女峰山など、奥日光の山々は、高速道路上からしっかり見える。11月上旬の気温というから、山歩きにはうってつけ。那須塩原ICで降りて塩原を抜け日光・会津街道に入る。雨でも降ったのだろうか、路面が濡れているところがある。乾いているところもあるから、どこか山から水が沁みだしてきているのであろう。と、道路の上を薄く滔々と水が流れて、側溝に流れ落ちている。
 
 会津西街道と別れて七ガ岳の羽塩登山口への林道に踏み込む「七森橋」を渡ろうとして、ビニールで覆った掲示が目にとまった。

「大雨のため土砂崩れ。七ガ岳登山禁止」

 新しい掲示ではない。文字も色あせ、ビニールも剥がれかけている。誰が、いつ、という表示もない。むろん林道は通行止めではない。落石がないか注意しながら、山へと走らせる。廃屋のような人家もある。田圃か畑にしていたであろう雑草の生えた休耕田もある。路面には落ち葉が濡れていくつもの塊をつくり、小さい木の枝が緑の葉をつけたままそちこちに落ちている。石だけは車のパンクにつながる。すすむと、道路に水があふれだし、浅い川のように流れている。落ち葉の塊が水を堰き止め、流れを変え、太い木の枝が流れを大きくはねあげて奔流のように見せているところもあった。道は悪くない。
 
 3kmほど入った「廃屋 喜三郎小屋」のところに「工事中」「土砂崩れのため通行禁止」と書いた立て看板が何本か立てられ、道路に張り綱をして「全面通行止め」と書いた掲示をつるしている。ここに車を置く。予定していた駐車場のある「章吾橋」の2kmほど手前か。9時に歩きはじめる。蛇行する林道が曲がる処に、別に直登してショートカットする登山道が地理院地図には掲載されている。その入口のところにも「通行禁止」の看板があり、何よりその所から、水が奔流となって林道へ噴き出している。土砂崩れというのは、登山道のことかもしれない。でも、いけるところまで行って、土砂崩れの現場を見てくるくらいのことはしなくちゃと、歩を進める。もうこの段階で、私の山の会の下見という見方は、ほぼ捨てている。こんな「登山禁止」と表示しているところに連れて行ってもし事故でもあったら、目も当てられない。だが私は折角来たのだから、なるほどここが行き止まりの現場か、ということくらいは現認して来ようと、考えはじめている。
 
 細い川のように水が流れ下る登山道(らしきところ)は、中くらいの大きさの石がごろごろとして、それを伝いながら歩けば、水に浸かることはない。落ち葉が積もって堰のようになっているところを踏むと、ずぶずぶと水の中に脚をつけたようになる。それに注意して、ストックでバランスを取りながら登ると、案外悪くないルートだと思う。笹が大きくなりすぎて藪を漕ぐようになっているところもある。いつから「登山禁止」か知らないが、人が入っていないのか。沢の奔流が傍らにあるのか、左の方に流れの音が響く。そちらの方の水流は、こちらとは比べ物にならないくらい大量のようだ。
 
 章吾橋の手前で舗装林道と合流する。章吾橋から林道をわかれ登山道に入る。「土砂崩れのため、登山禁止」とあり、「南会津町」と掲示責任を記している。その脇の木に掛けられた「←七ガ岳」の指導票の方が、新しく、はっきりと主張しているように見える。眼をあげると、起ちあがる山体を覆う木々の紅葉が、折からの朝日に映えて黄色に輝く。ブナもある。シラカバが林をつくっている。トチノキやカツラの木もある。赤いカエデやナナカマドが少ないが、これらは一点豪華的に、黄色い黄葉の中に紅い色づきを見せて、美しい。
 
 林の中を蛇行するように、石と土を敷き詰めた登山道(らしきもの)がある。水がたまり、あるいは流れているが、これは台風のせいで流れをつくっているだけであろう。章吾橋が渡る本流は程窪沢というらしいが、ここの水量は、一昨日までの台風の影響であろうか、すこぶる多い。登山道はササに踏み込み、あるいは踏み跡が薄くなる。倒木が道を塞ぐ。程窪沢が河原を広げ、あるいは深く、狭くなって水流が激しく多くなる沢に臨む石を伝う。倒木に行く手を塞がれ行き止まりで斜面を登る。崩れる斜面で気がつくのだが、土砂崩れというのは、この辺りのことを言うのか。何本もの巨木が根こそぎ倒れ、大雨に流されて沢を塞ぐように横たわる。
 
 向こう岸に渡らなければならないが、水量が多く(たぶん)ふだん踏む飛び石が水没している。川幅が狭く、大きな踏み石が適当に位置しているところを探すが、見つからない。何度か行き来して探したのちに、肚を決めて渡る。ストックを使わないと、渡れなかった。さらにそこから、倒木を回り込み、低いところを越え、また沢に降りて、向こう岸にわたり、上部へと詰める。やっと、平滑沢の取り付きに出る。両側から大きく山体が寄せてくる平滑沢の末端には、大量の長さ10mほどの灌木が行く手を阻む。灌木は流れ下る水をもそこで堰き止めるように壺をつくっている。こんなはずではなかった。来る前に読んだガイドブックでは、こう記されている。
 
《平滑沢は幅こそ数メートルだが、美しいな目が数百メートルにわたってつづいている。水深も浅く、フリクションも利くので、防水性のある靴なら、水流のなかを快適に歩ける》
 
 七ガ岳を(面白そう)と思ったのはこの記述だ。だが、その数メートルの沢に入り込むのに、迫る斜面をトラバースするわけにはいかない。そんなに緩い斜面ではない。結局壺に溜まる水の中に脚を入れて、「渡渉」するしかない。だが靴に水を入れて歩く用意はない。その上の平滑沢の水量も、「水深も浅く」という状況ではない。そう考えて、ここで今日のアプローチを終わりにした。ここが「土砂崩れ、登山禁止」地点だと判断したわけだ。
 
 下山のとき、陽ざしの向きによるのであろう、黄葉がいっそう鮮やかにみえる。章吾橋からは林道を降る。この林道は、車が来ても不都合はない。だが(たぶん)「道路工事中」の邪魔になると判断したのであろう。でも、いつから?
 じつはその辺を聴いてみたくて、帰りに「会津高原尾瀬口駅」まで足を伸ばした。駅舎の案内をしていたのは20歳代後半の若い女性。「登山禁止」は、2年前、9月の大雨の時に登山道も崩れた土砂で危険になって、採られた処置だという。そのまんま? と迂闊なことを聞いてしまった。彼女は、「道路の修復もありますし、福島はそれどころじゃないものですから」と申し訳なさそうに応えて、私は私で、そうか福島だったんだここは、と尋ねたことを反省していたのでした。
 
 荒海山も「登山禁止」。当分手を付けられないから、登山禁止解除は、出ないでしょうという。いや悪かった。福島県を私の趣味に付き合わせようなんて、お前何様だと思ってんだと、自戒しながら帰宅したのではありました。