mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

年寄りの静かな交歓

2023-10-31 09:24:14 | 日記
 11月の36会の例会に参加できませんとメールをしたら、会員の一人、keiさんから以下のようなメールが来た(文面はプライバシー保護のため仮名など一部変更しています)。

F様/長い間、36会の事務局を有難うございました。/36会は、11月8日で散会になる気が致します。お勉強はしんどくなり、お茶のみ友達としては希薄な関係。新橋まで出かける意味が見いだせないとすれば自然散会でしょうね。/何かの機会にまたお目にかかることがあると思いますが 今までのご尽力心からにお礼を申し上げます。取り急ぎ kei

keiさま/ご丁寧なメール、ありがとうございます。ミドリさんが世話を焼いて下さるお陰で、36会も延命するようですね。あなたには、「失われた30年」に関する質問を投げかけられ宿題にしてしまって、いまだ棚上げしたままです。いつか機会をみて、あなたとミドリさんにはお会いしたいと思っています。/Oさんも持病が悪くなり、信州のどこかに療養中らしく、逢うことも適いません。マンちゃんと2人、「36会」の命名者が消えてしまったようで、寂しく思います。/「わたし死なないんじゃないかしら」と百歳に際して感懐を述べた宇野千代さん、間際まで磊落なお喋りを筆にした寂聴さんのように、あなたも元気で百歳を目指してお過ごし下さい。 F-k-t

F様/百歳まで生きることは、周辺がかなり犠牲になり、疲弊致します。85歳くらいまでがいい線ではないでしょうか? 「失われた30年」って、経済成長がなかったというだけではないのでしょうか? なにが失われたのか?お話を伺いたいです。/ミドリちゃんとも相談して、「さいたま」に出かけるのもいいかなと思ってます。ミヤケさんも呼び出しますか? 話は違いますが、出身中学の文化の違いがあるように感じるのは私だけでしょうか。私は差別化や分類をする性質ではないのですが、狭い地方都市で、距離も近い地域にもかかわらず、36会に参加している人たちとの間に文化の違いを感じるのです。/私は1年間しかT高校に在籍してなく、皆様と交流がなく、よく知らないからだと思いますが。/私は9月で引退致しましたので、自由な時間が多くなりましたが、多忙を極めているのはミドリちゃんだと思いますので、相談してみます。取り急ぎ kei

keiさま/メール、ありがとうございます。9月で「真・引退」なさったのですね。おめでとうございます。マンちゃんの名付けた「ゴッド・マザー」から解放され、これからいよいよ「シンkei」の登場となるってわけ、面白いかもと思います。
「百歳まで生きることは、周辺がかなり犠牲になり、疲弊致します」
 おっしゃる通りです。ワタシ自身が周囲の産物ですから、「ワタシの存在」そのものが周囲にどう迷惑であるかは「周囲のモンダイ」でもあります。「己の欲するところに遵いて矩を踰えず」と高齢者のことを表現したのは、「世間の規範」が身に染み付いしまった高齢者は矩を越えるほどの振る舞いはできませんねという感懐。自儘に生きていいよという俚諺ほどに受け止めています。85歳くらいで、まだ元気に振る舞えるくらいで身罷るのがいいなあという「ご希望」はよくわかりますが、はてさて、そのようにいきますかどうか。
 先週、奥日光に行ってきました。湯の湖のほとりの休暇村湯元に泊まって、湯の湖の周囲や戦場ヶ原、小田代ヶ原、光徳などの紅葉を堪能しました。あなたが62年前に水没した湯の湖に、かつて白樺の古木が湖に佇立していた当時の面影はありませんが、今年は例年より遅い紅葉が彩りを添えていました。
奥日光の混まない時期、雪の湯の湖や戦場ヶ原にでも行きませんか。ご案内します。
 ミドリさん・ミヤケさんと私へのグループ・メールは、うれしく思いました。ミヤケさんとも音信が消え、マンちゃんとも遣り取りができなくなり、Oくんもまた遠くへ行ってしまったように感じて、歳をとるってことはこういうことだなと感じていました。あれこれ刺激的な「疑問」を投げかけられることは、日頃わが身が棚上げしているコトを、わが胸中で自問自答する起点にもなります。是非、あなたとミドリさんに音頭をとって貰って、いろいろとお話しできればありがたく思います。
 たぶん来週には、この間私がちょっと忙しくしていたことをわかって頂ける「便り」がお届けできると思いますが、それが片付いてから、「四国お遍路・最終章」を仕上げるべく準備を進めています。予定では11月の勤労感謝の日ころには帰ってこられるだろうと思います。
 12月にでも、そのご報告を兼ねてお会いできるといいですね。/お元気にお過ごし下さい。 2023-10-31 F-k-t

naviのズレ

2023-10-30 19:54:54 | 日記
 奥日光へ行っていたときのこと。帰りに車を運転しながら「自宅」を目的地に入力したところ、車の現在位置を知らせる△マークが、走っている国道から何十メートルか外れた道のないところを示している。それはズレたまま高速道を走っていた。それ気づいたのは、東北道を出る浦和ICのところ。naviの表示はまだそれが20m先を左折となっていたからであった。
 こんなことは初めて。その翌日、ディーラーにもっていって診てもらった。
 9年前の車だから純正品とは言え「データも古いんでしょ」という。
 いやいやそういうことではなくて、GPSの現在地表示がズレるんですよ。
 山間地域を走っているときとか、走行中に操作したりすると、たまにそういうことが起こります。
 そう聞いて、走行中に操作したと言えなくなった。
 でもねそうなったときは、一度エンジンを切って、改めてnaviを設定し直すと治ります。それとね、スマホを使っているのでしたら、Bluetoothでスマホのnavi案内を車のnaviから音声として出力できますよ。
 そりゃあ、いいね。でもBluetoothって何? とこちらは、話の筋道が見えない。というか、この方のつかっている言葉がわからない。いやいや、世間の言葉遣いのスタンダードが、わからなくなっている。
 ディーラーのスタッフは心得たもので、先ず車のnaviを操作し「スマホと連動する」ようにし、私のスマホを受けとってあれこれと操作をして、「ハイ、できました。これで大丈夫です」とにこやかであった。
 家への帰り路をnaviとスマホに入力して走ると、たしかに切れのいいnaviの音声に続いて、くぐもったような音声のスマホの声が聞こえてくる。ふむふむ、これなら良かろうと今日(10/30)、赤城山の中腹まで行ってきた。ところが、往きだけでスマホは電池を使い尽くし、その後まったく役に立たなくなってしまった。これも困ったものだ。どうしたらいいかわからないまま、使えなくなったスマホを持ち帰り、今充電している。
 何だか時代がとっくにずうっと先へ行ってしまったみたいに感じている。

神無月の神鳴り

2023-10-29 05:57:01 | 日記
 昨日(10/28)は天気が荒れると関東地方に警報が出た。朝早くでかけたカミサンを見送ったあと、ゴロゴロと雷鳴が響く。うん、まだ遠いが、埼玉県の北半分には注意報が出ている。えっ、じゃあ、そちらの方へ行ったカミサンは鳥見どころではない。大変だろうな。ま、でも電車の駅にいる間だから、ひどければ帰ってくるか。
 やっときた寒気が、来たぞ、オレって告げている。3月には(今年は2月だったっけか)暖気が告げる春雷だ。百年にいっぺんの暖気が日常化し、比して寒気も異常化したか。11月に鳴っていた秋雷が神無月の10月にやってきた。出雲の神在月もひっそりしているかも知れない。
 9時半過ぎて図書館に本を返しに行く。3冊返し、予約していた1冊を受けとる。空はどんよりと雲が蔽い、遠雷がゴロゴロと鳴っている。私も折畳傘をリュックに入れてきた。出歩くのを控えているのだろう、人が少ない。雑誌でも読もうかと思っていたが、大雨になってはいやだと思い、さらに遠くの家電量販店に向かう。
 スマホのラインが今月末で使えなくなるかも知れないと昨日お昼のTVでやっていた。どうしたらいいのか。LINEとyahooが合併したために必要な手続きだという。ラインに送ってくる「プライバシー保護のための変更通知」をああしてこうして「yes」を押せば良いと番組は簡単な操作法を伝授している。
 だが私は、いつも「知らない外からのメールは削除する」という詐欺防止の方法に従っている。パソコンにだって、毎日80件近いAMAZONやETCやなんとか銀行のメールが押し寄せてくる。「迷惑メール」に何度登録しても、構わずずかずかと本メール画面に入り込むから、送り手は何か特異な手段を講じているのであろう。辟易している。LINEからのメールもそれと同じ運命になったはず。
 番組伝授に従って、「ホーム」「設定」で試みてみるが、どうにも「yes」と応答する画面が出て来ない。そこで、いきつけ家電量販店のスマホ売り場に行けば、yahooの関係は教えてくれると思ったわけ。
 若い男のスタッフが対応してくれた。でも彼もオロオロしている。少しベテランらしい女性スタッフがやってきて、手持ちのスマホにある画面を表示して、若い男子スタッフに渡す。彼はそれに従って、私のスマホを操作する。でも、立ち往生している。また女性スタッフが来て、何かを教える。何でも私のスマホの容量が一杯で、アプリをいくつか削除しなくてはならないらしい。どれを削るかと何度か遣り取りし、女性スタッフの助言も何度か繰り返して、「これで使えるようになりました」とやってくれた。この間30分も。いやはやご苦労さん、お手数をかけましたと若いスタッフにはお礼を言う。彼はニコニコと「どういたしまして」と送り出してくれた。丁寧だなあ。
 生協に脚を伸ばす。その頃には陽ざしが指し、道路も乾いてきた。買い物をリュックに入れて3.5㌔。帰りには日陰を辿りたいほどに気温が上がる。でも夏日にはなっておるまい。お昼後も「お遍路の旅」プランを立てながら、気持ちよく過ごした。
 夕方帰ってきたカミサンは雷と大雨に出会したが、駅で暫く様子を見て帰ろうと思っていたら、一緒に出逢った探鳥仲間のところへ車の人が駆けつけ、その後一緒にあちらこちらと経巡って来たとご満悦であった。神さんはいたんだね。

移り気

2023-10-28 08:55:08 | 日記
 取りかかっていた「本」の上巻が届いた。B5サイズの332ページ。ズッシリと重い。『70代の山歩き 山歩講9年の記録 上』(日本出版ネットワーク刊)。下巻は来週前半に出来上がるようだ。
 おや、と思ったのは、著者である私の気分。やったあ、出来上がったぞという成就感は、昔の思いのように感じられる。下巻の末尾に付けた「追い書き」の日付も去年の11月。出版社に原稿を入れてから1年が経過しようとしているのだ。それもあってか、そうかこんな風に仕上がったのかととてもクールにみている感触が強い。ま、5回も校正で目を通している。読むごとに誰か他人の書いた本を読むような心持ちに変わっていくような感触を味わっていた。ほんとうに「著者の手を離れている」。著者の心持ちが「外化する」という表現が似つかわしい。
 こうしておいて、後で読み返してみると、私の山歩きのクセとか変化が浮き上がってくるかも知れない。ただ単に「記録」であったものの行間にワタシの無意識が刻まれている。その「発見」が楽しみと言えば愉しみ、へえ、そうか、こんなふうに感じているんだと、改めて言葉になって意識に上る。いまさらそれを、イヤだなあと言う気持ちはない。八十年余もかけて身に染みてきた身体性。イヤなことと感じても、それがワタシなのだから致し方ないと受け容れる。でもそう読み返せるのは、まだ暫くときを置かねばならないだろう。
 そう思って昨日は、「謹呈」の鏡書きをつくった。下巻が来たら何十冊かを講中や知人に贈る。その文面を簡略に書いた。「オチがついて起承転結が決まった。ドキュメンタリー・タッチの一篇のものがたりと思ってご笑覧下さい」と記して、そうだよな、そういうことだよと「本」にした思いが、うまく絵柄に嵌まったように思った。
 いやじつはそれより、おやと思っているのは、もう次のことに気持ちが移っていることだ。九月に「本」が仕上がり、十月には四国お遍路の最終章に出かけることにしていた。十月のささらほうさらの例会でも、「えっ、行ってないの?」と驚かれた。何で言い訳がましく「行かなかったわけ」を説明してんだよと、我がことながら思う。
 でもね、行かなかったせいで、十月下旬になって図書館に予約しておいた本が届いた。白川密成『マイ遍路』(新潮新書、2023年)、「札所住職が歩いた四国八十八ヶ所」と副題がついている。五十七番札所の住職。この57番栄福寺は今治市にある。私の前回までのお遍路は、今治市の59番札所までであったから、栄福寺はイメージが残っている。市の郊外に位置し、56番札所から街中の住宅地を抜ける手書きの「案内図」を頼りに一本道を辿った。南に平地が広がり、58番札所が南西の山の中腹にあった。
 いやそれより、この本の著者は6度に分けてお遍路を歩いている。その5度目が62番札所からなのだが、歩いた時期が去年の十一月。ちょうど私の予定している時期と重なる。むろん歩くペースは違う。なにしろ五十代の半ば、私の子どもの世代である。なによりこの真言宗のお坊さんは信仰心に溢れている。お大師さんの事跡を辿る心持ちを、空海の著書からの引用を含めてあれこれ解説しているから、私の目に留めないことごとが書き込まれている。そういう意味で、面白く読み進めている。
 それには、また別の機会に触れるが、それよりも私が感じているのは「気移りなワタシ」である。「本」からすでに離れ、「遍路」に向かっている。あと二週間足らずの間に「本」の謹呈を済ませ、歩き遍路の準備を調えて出発しようと、日程を考えはじめている。
 つまりこういうこと。ワタシはこの「気移り」が幸いして、次から次へとわが身の動かし方をわが心に持ち込み、それ以前にとらわれていたことからココロを解放している。これがわが心の健康法であり、じつはこれがまた、私が何に取りかかっても中途半端、門前の小僧、一知半解、牽強付会の輩としてコトを成し遂げないちゃらんぽらんに終始した元凶である。
 それをまた正当化するべく、理屈を捏ねて、テツガク談義に持ち込むという思い付きの飛翔を遂げて、卑小さを隠蔽してわが胸中からさえ消し去ってしまう。まったく自儘な性分といい、適当さといい、よくぞそれで八十路まで辿り着けましたねと自分を誉めてやりたいというよりは、運否天賦に感謝しなくちゃあねと天然自然の所為にして、わが佇まいとしては責任回避をするってのが、ワタシ流。その感謝を献げに、四国お遍路の最終章に行ってこようと、そこまで理屈は完結している。
 そういうワケです。

権威の遊動性と固着

2023-10-27 09:59:22 | 日記
 現代ビジネスというサイトで、宮本常一の思想を紹介した『今を生きる思想 宮本常一 歴史は庶民がつくる』の新書本編集部が、コマーシャルを打っている。そこに東日本と西日本を比較したことに触れていて、ワタシの琴線に触れるものがあった(以下の引用文中の番号は引用者が振った)。


《(1)宮本は、東日本については同族集団、同族結合が基本であり、縦の主従関係を基本にした家父長制的な傾向の強い上下の結びつきを特徴とし、それに対して西日本の場合、フラットな、横の平等な関係を結びあうのが特徴だとする。/(2)縦の主従関係が東日本に見られるのに対して、寄り合いや一揆のような横の組織は、西日本に発達するという考え方である。/(3)東日本では年齢階梯制は非常に希薄で、年寄り組、若者組、娘組のような年齢階梯制が見えないことも強調する。》


 西日本で生まれ育って18年、関東に来てから62年を過ごした私が、なぜか違和感を感じ続けてきていることが取り出されているように思った。上記の(1)~(3)に対応するように記すと、こう言い換えることができる。qは引用者。
(1q)東日本の「権威」の固着性……西日本の遊動性
(2q)東日本の縦系列の「指示-臣従」傾向……西日本の協議制
(3q)東日本の職階制秩序……西日本の年の功感覚


 いやじつは、西日本と東日本という対比で私は考えたことがなかった。近代化が日本の伝統的な秩序感覚と交雑して、こういうかたちになっているんだろうなあとおもうばかりであった。それにしても、どうしてこの人はこうも固定的な秩序意識を好むのかと不思議に思っていた。宮本常一の新書編集部は、その例証・根拠を記してはいないから、宮本の本を手に取ってみるよりほかないが、身に刻んだ「感性」の整理方法が、この違いを生んだと言えるのかも知れない。
「感性」の整理方法というのは、心の作用である。日常のデキゴトや振る舞いにわが身はいつも何某かの影響を得、影響を与え、そこで受けとった感触を「世間」とか「世界」の感触として心中に刻むのが「心」である。そうして刻んだ世界の感触が、モノゴトを意識して言葉にし、論理立てて考えていくときの無意識の傾きをつくる。
 半世紀以上もそうして言葉を交わしてきた私の友人Oは、1980年代の頃、森毅という数学者が文化や社会について発言しているのを読んで、この人は一筋縄ではワカラナイと批判的に口にしたことがある。視点があちらこちらと一定しないために、どうとらえてどう批判すればいいか困っているという風であった。私は、いろんな視点を組み込んでいて、森毅自身が一つの次元に治めきれないんじゃないか。批判するならOの視点を固定すればいいだけのことではないのかと応対したことを思い出す。私は人に対するに厳格なOが、対象とする森毅の姿をコレと同定することができないで困惑していると思っていたのだが、いま思うと、人の何かに関する主張というものが、一つの視点から繰り出されてくる(べき)と固定することが、そもそもおかしいというべきだったかも知れないと、宮本常一の新書編集部の指摘をみて思った。友人Oの厳密さにいつも圧倒されていた私は、自身のちゃらんぽらんさと森毅のとらえどころの無さとを重ね合わせて、もっと深入りすべき論題だったかも知れないと思い返している。
 学校教育の問題を考えるときにも、(2q)の問題に出会したことは一度や二度ではない。新しい学年団を発足させるとき、責任者となった私は「運営方針」を提示する。細かいイベントなどの子細については担当者が提案すればいいし、協議の場でその提案が変わっていっても構わないと思っていた。ところが若いスタッフの一人が、「主任の提案なのに修正していいのか?」と言いだしたことに驚いたことがあった。「協議しているのだからそれは当然でしょ」と返したが、その若い人からすると、職階的立場が上位の人の提案はそれ自体が「指示」にあたるものであって、下位のものはそれに従うしかないという「体育会的な発想」と受け止めて、わらっていた。だが、今こうして宮本常一の比較文化的な視線を組み込むと、そういう簡単な「問題」ではなかったのかも知れない。
(3q)の「年の功」に関しても、高度消費社会と情報化社会が進んだせいで、年寄りよりは若い人の知恵知識が時代を動かすようになったせいで、「年の功」のセンスが希薄になってきたとばかり思っていた。西日本ではそうであったかも知れないが、東日本では「年の功」より職階的序列、役目における序列秩序が(自ずと)優先されるものだったかも知れない。面白い論題だ。これは是非図書館に予約して読まねばならないと思って、早速予約サイトを開いた。ところが、もう一月半も前にすでに「予約済み」であった。
 ははは、忘れちゃってるんだね。高齢者の「覚え」がこうだから、世の中のコトが何度でも愉しめるってワケか。いやはや。