昨日のブログで、「1968」に表題のような問題提起をしていた竹中労や太田龍に触れた。ふと、では「流言蜚語を庶民大衆の武器とせよ」ってどういうことよと自問したら、そうか、表題だけでは誤解を招くかも知れないと思った。
どういう誤解か。「流言」という言葉の意味は「根拠のない噂を言いふらすこと。またはその噂」と国語辞典は読み解いてくれる。だがこの「根拠」って何かと自問すると、行き着く先は「権威」である。「誰それが言っていた」という誰それが、「権威筋の人」ならば、単なる噂ではなくなる。政府筋、警察官、学者あるいは専門家、新聞用語でいえば「権威筋の語るところに拠れば」ってこと。何に権威を認め、何を取るに足らないと考えているかは人によって変わるから、まずそこで世の中共通の「権威」って何? という疑問が生じる。
その「権威」とかかわるが、誰がそれを伝えているか。だれからその「うわさ」を受けとったのか。そう詮議することが肝要と情報通・専門家は言うであろう。それは専門家のすること。庶民大衆は、そんなことをいちいち区別して聞いているわけではない。耳学問というのもそうだし、新聞や本を読んで、あるいはTVや映画を観て知ったことを、ひとつひとつコレは何チャンネルの何という番組で誰がどういう遣り取りの中で話したと、住所登録するようにコトバを繰り出していたら、きっとその人は埒外の人になってしまうであろう。
噂だってそうだ。直に目にしたワケでもないのに伝え聞いたデキゴトを噂と呼ぶ。とすると、今の世の中に広まってワタシに届くデキゴトの大部分は「うわさ」である。百聞は一見にしかずという俚諺ですら、視覚を優先して聴覚を差別する言説と聞くと、そうだよなあ、どうしてワタシはそうだと思ってきたんだろうと自問に変わる。それの自答は、しかし、確かにそうだという経験的体感以外に応えようがない。それくらい私たちは言葉の洪水の中で言葉の文法構造を身に付け、用法に慣れ親しんで、しかもそれが文法構造をもっているとは意識もしないで、わが言葉として用いているのだ。それが庶民大衆。私のワタシである。
だがちょっと考えてみると、私たちが日頃口にしている言葉も、根拠のない噂同然なのではないか。いつ身に付けたかも憶えていない。誰がそう言っていたかも分からず、ただ皆さんがそう遣っているからそうなんだと思い込んで身に付けてきた言葉を、ほぼ無意識のうちに繰り出して私たちは言葉を交わしている。これも「根拠のない言葉」といわれれば、絶句してしまうくらい心当たりのあることである。
なにしろ9月は、防災の月というだけでなく今年は関東大震災百年であった。まさしく流言蜚語の暴走した朝鮮人虐殺の報道も、小池都知事や松野官房長官が何と言おうと否定しようもなく、沢山の映像や音声の証言がドキュメンタリーとして情報網にアップされた。
どういう誤解か。「流言」という言葉の意味は「根拠のない噂を言いふらすこと。またはその噂」と国語辞典は読み解いてくれる。だがこの「根拠」って何かと自問すると、行き着く先は「権威」である。「誰それが言っていた」という誰それが、「権威筋の人」ならば、単なる噂ではなくなる。政府筋、警察官、学者あるいは専門家、新聞用語でいえば「権威筋の語るところに拠れば」ってこと。何に権威を認め、何を取るに足らないと考えているかは人によって変わるから、まずそこで世の中共通の「権威」って何? という疑問が生じる。
その「権威」とかかわるが、誰がそれを伝えているか。だれからその「うわさ」を受けとったのか。そう詮議することが肝要と情報通・専門家は言うであろう。それは専門家のすること。庶民大衆は、そんなことをいちいち区別して聞いているわけではない。耳学問というのもそうだし、新聞や本を読んで、あるいはTVや映画を観て知ったことを、ひとつひとつコレは何チャンネルの何という番組で誰がどういう遣り取りの中で話したと、住所登録するようにコトバを繰り出していたら、きっとその人は埒外の人になってしまうであろう。
噂だってそうだ。直に目にしたワケでもないのに伝え聞いたデキゴトを噂と呼ぶ。とすると、今の世の中に広まってワタシに届くデキゴトの大部分は「うわさ」である。百聞は一見にしかずという俚諺ですら、視覚を優先して聴覚を差別する言説と聞くと、そうだよなあ、どうしてワタシはそうだと思ってきたんだろうと自問に変わる。それの自答は、しかし、確かにそうだという経験的体感以外に応えようがない。それくらい私たちは言葉の洪水の中で言葉の文法構造を身に付け、用法に慣れ親しんで、しかもそれが文法構造をもっているとは意識もしないで、わが言葉として用いているのだ。それが庶民大衆。私のワタシである。
だがちょっと考えてみると、私たちが日頃口にしている言葉も、根拠のない噂同然なのではないか。いつ身に付けたかも憶えていない。誰がそう言っていたかも分からず、ただ皆さんがそう遣っているからそうなんだと思い込んで身に付けてきた言葉を、ほぼ無意識のうちに繰り出して私たちは言葉を交わしている。これも「根拠のない言葉」といわれれば、絶句してしまうくらい心当たりのあることである。
なにしろ9月は、防災の月というだけでなく今年は関東大震災百年であった。まさしく流言蜚語の暴走した朝鮮人虐殺の報道も、小池都知事や松野官房長官が何と言おうと否定しようもなく、沢山の映像や音声の証言がドキュメンタリーとして情報網にアップされた。
その流言蜚語と「武器とせよ」という流言蜚語とはどう違うのか、違わないのか。そこに踏み込んでおかなくては、トランプ風の暴走へと向かいかねない。
竹中労や太田龍が、どういう論理を用いて問題提起していたかはすっかり忘れた。だが今、ワタシがどう受け止めているかは言葉にできる。「どうしてワタシはそう思ってきたんだろうと自問。その自答は、しかし、確かにそうだという経験的体感以外に応えようがない」。でもそう応える振る舞いを保持してきたから。それについては、昨日のブログにも触れているからおおよそ誤解を招くことはあるまい。だが実は私の無意識も働いているから、そこへ踏み込んでみないとワタシ自身がどう暴走するかしないかは、ワカラナイ。もっとも暴走する力は、もはや体力的にない。だから不安にはならない。
じつは「情報」そのものが流言蜚語となるわけではない。「情報」そのものは価値的には優劣なく所在している。ただ、送り手は(無意識にということが多くあるが)価値付けて送りだす。受け止める方も、自分好みの「情報」を聞き取る。つまり「情報」は厳密には「ものそれ自体」。それ自体は見えない。受け止めた瞬間すでにそれは、何らかの価値付けをされることになる。
といいながら、この言い方も変だと思っている。「情報が所在している」という時点ですでに、情報は「ここにある」と目に止まっている。目に止まる瞬間からすでに価値づけられていると言うのであれば、「所在している」と表現するときすでに「価値づけられている」と言える。つまり「情報」はつねに価値づけられて私たちの前に登場する。「事実そのもの」は存在しない(も同然な)のだ。出来したデキゴトが、遭遇した人の心身を通して(無意識に)価値づけられ流言蜚語として流布する。
誰が価値づけているのか? 言い出しっぺであり、伝言ゲームのような言い伝えっぺであり、受けとるヒトであり、受けとる人の集団で相乗されることにもなる。誰が誰と特定できないけれども、その「情報」に関わる人々のすべてが、あれこれと価値づけ、増幅し、ときには沈静化する。
ということは多様な価値付けがあるってことではないか。むろんそうだ。
俚諺にもあるように《流言は知者にとどまる》。「流言は愚者の間では次々とひろまるが、知者は聞いても人に言わないのでそこで止まってしまう」と国語辞典は解説している。
竹中労や太田龍が、どういう論理を用いて問題提起していたかはすっかり忘れた。だが今、ワタシがどう受け止めているかは言葉にできる。「どうしてワタシはそう思ってきたんだろうと自問。その自答は、しかし、確かにそうだという経験的体感以外に応えようがない」。でもそう応える振る舞いを保持してきたから。それについては、昨日のブログにも触れているからおおよそ誤解を招くことはあるまい。だが実は私の無意識も働いているから、そこへ踏み込んでみないとワタシ自身がどう暴走するかしないかは、ワカラナイ。もっとも暴走する力は、もはや体力的にない。だから不安にはならない。
じつは「情報」そのものが流言蜚語となるわけではない。「情報」そのものは価値的には優劣なく所在している。ただ、送り手は(無意識にということが多くあるが)価値付けて送りだす。受け止める方も、自分好みの「情報」を聞き取る。つまり「情報」は厳密には「ものそれ自体」。それ自体は見えない。受け止めた瞬間すでにそれは、何らかの価値付けをされることになる。
といいながら、この言い方も変だと思っている。「情報が所在している」という時点ですでに、情報は「ここにある」と目に止まっている。目に止まる瞬間からすでに価値づけられていると言うのであれば、「所在している」と表現するときすでに「価値づけられている」と言える。つまり「情報」はつねに価値づけられて私たちの前に登場する。「事実そのもの」は存在しない(も同然な)のだ。出来したデキゴトが、遭遇した人の心身を通して(無意識に)価値づけられ流言蜚語として流布する。
誰が価値づけているのか? 言い出しっぺであり、伝言ゲームのような言い伝えっぺであり、受けとるヒトであり、受けとる人の集団で相乗されることにもなる。誰が誰と特定できないけれども、その「情報」に関わる人々のすべてが、あれこれと価値づけ、増幅し、ときには沈静化する。
ということは多様な価値付けがあるってことではないか。むろんそうだ。
俚諺にもあるように《流言は知者にとどまる》。「流言は愚者の間では次々とひろまるが、知者は聞いても人に言わないのでそこで止まってしまう」と国語辞典は解説している。
いまも知者が、学者とか専門家とか、その筋の権威ある方として、詮議穿鑿してくれている。だから私たち愚者は、それをさらに伝言ゲームのように耳にして、真偽を確かめつつ「情報と認識」を身に付けるのだ。近頃、詐欺メールが隆盛である。同じようにサギ情報も横溢している。疑わざるべからず。だが一番に疑うべきは、無意識に振る舞っているワタシであるということ。これこそいの一番に疑問を振る向けなければならない。
なるほど愚者と知者か。ははは。昔はそういう区分で「流言蜚語」を差別化していたわけだ。だが、今のご時世、愚者と知者と公言するだけでモンダイになる。「流言蜚語を武器とせよ」という提案自体、学者・専門家の「知」に疑念を呈し、庶民大衆の「情報」と「認識」を組織していこうという気概の発端となった。つまり愚者の武器として「流言蜚語」を再構成せよと訴えている。たぶんその気概にワタシのナニカが共感したのである。
今日はここまでにするが、こうして考えていると、人の認識というのはなかなか奥深い文法構成をもっているように感じる。その途次に、心があり、関係感知の世界がヒトそれぞれに構成され、それが無意識の心身一如の動きになって、ヒトの交わりに繰り出されている。アタマって、そのどこに位置してるんだ? 集団的無意識って、どこでどう作動して流言蜚語を加速しあるいは減速するのだろうか。自問はつぎつぎと転がっていく。
今日はここまでにするが、こうして考えていると、人の認識というのはなかなか奥深い文法構成をもっているように感じる。その途次に、心があり、関係感知の世界がヒトそれぞれに構成され、それが無意識の心身一如の動きになって、ヒトの交わりに繰り出されている。アタマって、そのどこに位置してるんだ? 集団的無意識って、どこでどう作動して流言蜚語を加速しあるいは減速するのだろうか。自問はつぎつぎと転がっていく。