mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

よく体を動かすという献身性

2018-08-26 06:12:47 | 日記
 
 今日は防災訓練。17地区自治会の200人ほどが集まって、なかなか盛況であった。
 
 昨日、総務係の私は「前日準備」のために避難所へ行った。集合時刻の15分前に着くように行ったのに、すでにブルーシートは広げ置かれ、位置調整をしている。気が早いというか、「(集合時刻を)決めた意味」を無にするような振舞いが、ここでも幅を利かせている。それでも、打合せのときに配られた「マニュアル」に則って、シートとシートの幅は1m20cmと、メジャーで測かる人がいて、動かす。大きなシートだから四人がかりで動かさないと皺になる。こうして、置いたシートを養生テープで止めていく。むろん私も、一員として作業をしている。ところが、タオル鉢巻の職人風情の60年配が、「ここ広すぎるよ」と言いながら、勝手にどんどん配置を変えてしまう。この人、何なんだ? と私は思うが、他の人たちは黙ってそれに従う。メジャーで測っていた若い人も、文句も言わず、付き従って引き続き仕事をしている。私は(なんだ? こいつ)と思うから、それ以降は鉢巻おやじの動きをみているだけにした。この人のことを、Yさんと呼んでいるから「マニュアル」の欄を見ると、総務班の班長のようだ。なるほど、古いタイプのヒトだと思う。率先垂範、身体を動かすことを厭わない。総務班という役員の長なのだから、どんな仕事がどうあって、誰が何をやるという采配を揮えばいいのに、そうはしないで、黙々と自分で動く。体育館のシートも、1m20cmという距離は役所のデスクワーク。その幅をとると設計図通りに体育館が使えない。鉢巻おやじの手直しした方が間違いなく使い勝手がいい。つまり、勝手知ったるこの人がやることが理に適っている。
 
 そういう感懐を、夜、近隣の知り合いと飲みながら話をしたら、「ああ、Yだね。あれは市議会議員だよ」とこともなげに言う。地区の名士らしい。そうしてこの名士は、じぶんで取り仕切るばかりか自分の身体を動かすことを第一信条にしているかのように、人に何かを指示するようなことはせず、全部自分で動く。まるで、現場の指揮をとる軍曹のようなものだ。いや軍曹の方がまだ、部下に対する指示を怠らない配慮がある。彼はそれもしない。まず隗より始めよ、だ。そして薫陶を垂れるでもなく、人がついてくることを当たり前と考えている。だから、ひと段落ついて、役員の一人が「もう帰っていいですか」と訊ねても、知らぬ顔をして自分の関心に没頭している。その話を聞いた私の近隣の知人は、「ああ、彼は耳が遠いんだよ。聞こえてないんだね」と、解説する。ハハハ、悪い人ではないが、リーダーじゃないね。そう私は思った。
 
 ところが今日、鉢巻おやじが避難所全体の司会進行を務めている。それがなかなか堂に入っている。声も張りがある。メリハリも付ける。なるほど彼は市会議員だったんだと思う。こういうリーダーシップというか、現場力を発揮する世話役がいるんだと感心した。ま、古いタイプって言えば古いが、アナログなリーダーと言えようか。地区の行事にはふさわしいのかもしれない。

見えない世界のぶつかり合い

2018-08-24 08:49:07 | 日記
 
 マルクス・ガブリエル『なぜ世界は存在しないのか』(講談社選書、2018年)を読みはじめた。この著者は1980年生まれのボン大学教授。今風に言うと、アラフォーの哲学者。新たに哲学を考えるとして、本書を著したと意気込みを語る。これまで幾多の哲学書を読んだが、「哲学を哲学(勉強)する」ものが多く、それはそれで、なるほどカントはそういうことを言っていたのかとか、現象学ってそういうことだったのかと、リライトされた物語を読むような気持がしていたものだ。「哲学する」こと、言葉を換えて言うと、ものごとを自らに引き寄せて考えることはエッセイのような形で提示されるものが多かったと思う。このアラフォーの研究者は、それに正面から挑んでいる。
 
 世界は存在するかという、本の表題にかかわる問いから始める。存在するとは意味の場に立ち現れることと定義して、世界はひとつかと問いの視覚をずらす。上に記した「哲学を哲学(勉強)する」というリライトされたものを読むときの気分は、「世界はひとつ」という無意識の前提にたっていることだと気づく。客観的だとか科学的だという言い方で、観ているものの立場をそぎ落として語る第三者的語り口は、それ自体が超越的な立ち位置がある(かのように)と前提しているのだ。
 
 ここで私がいう「それ自体が(もつ)立場」をマルクス・ガブリエルは「性質の担い手=実体」と規定して、デカルト、ライプニッツ、スピノザの交わした論争を簡単に、次の三つに整理する。
 
1、一元論(スピノザ)たった一つの実体だけが存在する。
2、二元論(デカルト)考える実体:精神と物質的な延長実体:身体という異なる二つの実態が存在
3、多元論(ライプニッツ)数多くの実体が存在する。
 
  「世界は存在しない」というマルクス・ガブリエルは「3」である。つまり、意味の立ち現れる場は人の数ほど異なる。重なり合っているところも多いから、ニュアンスの違いを含みながらも、言葉が通用する。私も、「3」に近いとは思うが、「1」にも近いのかなあと思う。というのは、「3」の数多くの「世界」を全部合わせたものを「混沌の海」とみる立場があるからだ。それは誰が見ているのかと問われると、「わからない」。でも「わからない」ものとか「わかるかわからないかもわからない」ことがあるという「無明」という観念を、仏教思想を通じて、いつしか私たちは身につけている。自らを卑小な存在とみるとみえてくる世界だ。そう思うから、本書の著者に簡単に同調するわけにもいかないが、ヨーロッパ哲学が東洋思想と混淆し始めていることを実感する。
 
 ただ「3」だと思うから、畏れを知らず、わが身の裡を振り返り、思念をまとめる。と同時に、私はなぜそれを、そう感じ、そう思うのか、その根拠をつねに問いかけて、他人とかわす言葉の微細な違いが、なぜ、なにを意味している違いなのかに、心を止める。その私自身の思索の傾きの足場を、この著者が指摘している点だけは、得心している。
 
 本書は「自然科学の世界像」「宗教の意味」「芸術の意味」などにも触れて、この年になるまで私の触れてきた「世界」と交錯する論述をしていて、面白かった。

屹立する外輪山

2018-08-23 15:51:28 | 日記
 
 富士山の西側にある毛無山に上った。富士山を大きく取り囲む御坂山塊の山脈続きにある。静岡県と山梨県の県境。富士宮市の麓に車を置き、山頂へ向かう。1946m、標高差1100mほどの登降だ。振り返って思うと、大きな岩山である。そこに土がつき木が生い茂り、高さ1700~1900mの外輪山をなしている。その山並みの西側は山梨県が大きく南へ割り込んでいて、南北に富士川が流れ、5月に登った七面山のある身延町や早川町と南アルプスが峰を連ねる。
 
 6時に家を出る。中央高速を走り河口湖ICを出て、富士山をぐるりと回り込むように西側へ向かう。良く晴れている。富士山が雲をまといもせず、くっきりと姿を見せている。ところが西側に向かい合う外輪山は雲が取り付いて姿が見えない。台風が明日には近づいてくるとあって、南の風が吹き込んでいるのか、平地の気温は高い。じっとりと汗ばむ湿度も尋常ではない。8時半には登山口の駐車場につく。すでに7,8台の車が止まっている。皆さん毛無山に向かった人たちだろう。
 
 身体が重い。先週は、カミサンに御嶽山の植物を教わりながらゆっくりと歩いたから、あまりトレーニングになっていない。暑さにのんべんだらりとしている日頃のだらけようが、いま、負荷になって感じられる。ひとつ沢を渡ったところで、沢沿いの地蔵峠へ向かう道を分け、稜線へ直登するルートへ踏み込む。これが結構な急登だ。しかも、縄を張り巡らした岩場が何カ所もある。落葉樹の樹林だから陽ざしは当たらないが、風も抜けない。すぐに汗が身体を流れ、帽子は取ったものの、バンダナもすっかり汗に濡れて頬を汗が伝う。標高100m上がるごとに「合目」の標識が立ててある。一合を15分のペースで上るのが、上へあがるにつれてだんだんきつくなる。5合目の手前で、上から人が降りてくる。今朝駐車場で顔を合わせた女の方だ。「おや、早いですね」というと、「みょうがを買わなくちゃならないから、今日はこれで帰る。五合目まで行って来た。富士山が見えたよ」という。5月に登ったときにはミツバツツジとムラサキヤシオが満開だったと毛無山のことに詳しい。聞かれて応えるうちに山の会の話になる。彼女も勤労者山岳会に属していて、幌尻岳にこれまで三回挑戦し、三回、台風や大雨やらに見舞われて登れなかった、あなたは登ったかと。こちらは一回の挑戦で、登頂したよと、半時間近く話し込んでしまった。身体が重いから、休む方に動いてしまったんだね。
 
 そこでストックを出し、四輪駆動にする。これでかなり楽になる。いわばは相変わらずだが、道はしっかり踏まれて安定している。急登ではあるが、危ないところはない。八合目を過ぎたあたりで、70年配の単独行者が降りてくる。この先に富士山がよく見えるところがある、ついておいでというようにルートを外れて苔生した樹林へ踏み込む。その先の岩場にのぼると、なるほど、木々が切れて、東側が児ら気ている。だが上空は雲が覆う。下の方は向こうの尾根筋と谷間が見事に下へと深い緑の衣を広げ、一番下に登ってきた登山口辺りの広場と建物が綺麗に見える。この70年配は「私は藪漕ぎ専門」といい、毛無山の主のように歩いているようだ。この山が、元は金山であったこと、私が下山地点にしようと考えている地蔵峠のあたりには遊郭もあって繁盛していたこと、この山の持ち主がいま90歳、山を相続しても意味がないからとキャンプ場を開いたら、これが当たって、夏場は盛況だということなど、おしゃべりが止まらない。私の方も、ふんふんと耳を傾けて、体を休めている。
 
 富士山展望台という標識があり、たしかに岩場の一部が東へ開かれているが、見えるのは雲ばかりだった。そこからほどなく毛無山の主稜線に登り、地蔵峠への分岐が現れ、その先に「アルプス展望台」。先ほどの70年配が尾根の西側は雲がなく眺望が利くと言っていたので、ごつごつした岩を5メートルほど登り覗き込む。だが今は雲がすっかり上がってきて、遠方に北岳のバットレスだろうか大きな丸い山頂がちょっぴり雲間に見えただけだった。
 
 そこからほんの5分ほどで毛無山の山頂についた。11時45分、コースタイムより25分余計にかかっている。すこし広く木々が途絶えた山頂部に「毛無山」と書いた「山梨百名山」の標識と「1846m毛無山――富士宮市」と記した凸凹の立看板が3メートルくらい離れて二本建てられている。県、市境のようだ。周囲はすっかり木立に覆われ、眺望はまったくない。お昼にする。汗をかいているせいか、少し冷えるように思った。ウィンドブレーカーを羽織る。私のやって来た方向から、トレイルランナーだろうか、軽装の外国人が走ってくる。「コンニチワ」と挨拶をして、雨が岳の方へ走り去った。どこから来てどこへ行くのだろう。
 
 今度は、話し声と一緒に3人の若い男女が雨が岳の方からやってきた。「えっ! 雨が岳から?」と聞くと、「いえいえ、毛無山の最高峰に行って来たんです。でも雲の中、何も見えなかったし、山名も違っていました」とアラフォーの女性リーダーらしい人が話す。「山梨百名山」の標識が静岡側と逆の位置に立っているんじゃないかと、疑問を呈して、「この山を山梨に上げてもいいから、富士山頂戴っての、どうよ」と笑う。ああ、静岡の人なんだ。「そうです。この山も静岡の人の所有ですよ」と、やはりこの山に詳しい。私にどちらから下るかと訊ね、地蔵峠からと応えると、「標識がたくさんついているけど、登り返すところが二カ所あって、おしゃべりしていると見落として下っちゃうから気を付けてね。一人だとそういうこともないか」と解説してくれる。あなた方は? 登ったところから下るわ。道がしっかりしているからと、分かれた。
 
 この若い人たちの言い分通りだった。地蔵峠の道は、歩きにくい。上部はばら石を敷き詰めて土が崩れないようにしている。下るとトラバースが多くなる。渡渉も何カ所かある。毛無山が岩の山だというのがよくわかるほど、岩場を上り降る。ロープが適宜ついているから危なくはないが、岩は滑りやすい。渡渉も、水が多いと靴にまで水が入る。地蔵峠から1時間5分とあった登山口近くの分岐まで1時間半かかった。私自身がくたびれていたからだろうか。沢の下部に来て、にぎやかな子どもの声が響いてくる。50名くらいの子どもたちが沢水に浸かり、遊んでいる。引率の大人も何人もいて、夏のキャンプ生活を楽しんでいるのだとみえる。その真ん中を、ハイごめんよと渡渉して対岸に渡り、登山口へ向かう。2時45分着。全体で6時間15分の行動時間。おしゃべりや休憩を挟んでいるとは言え、コースタイムより45分もかかっている。
 
 帰りは来るときのように順調には運ばなかった。ものすごい渋滞。お勤め帰りの車だろうか。やはり予定より45分余計にかかって帰宅した。岩山である外輪山の屹立する感触が、身体に残った。

無心が自省の原点か

2018-08-23 11:57:19 | 日記
 
 アジア大会がTV画面をにぎわしている。新聞の紙面も、日本選手の金メダルにだけ関心を示し、それ以外は成績さえ報道しないという報道ぶり。しかも、中国が金メダルを取った種目は紙面にも掲載されない。なんとも面妖な「報道ぶり」と思う。別に公平・公正にというのではない。競技の神髄に迫るというか、競技者が自身の身体にぎりぎりの磨きをかけたところに焦点を当てて競技をみる目を養いなさいよと、いつも思う。日本ファーストとでもいうようなナショナリティの称揚は、もうそろそろ卒業してもいいのではないか。
 
 水泳の、400m自由形の決勝を観ていて、ちょっと面白いインタビューを観た。レースが始まってすぐに江原騎士という選手が飛び出した。その速さがすごい。150mへ向かうところでは、世界記録を示す画面の線が江原の足元にある。身体ひとつ抜きんでているのだ。これは速すぎるのではないか。彼の隣の中国のSUN Yangも、WRライン前に手が出ている。さらにその脇の荻野公介の方が、力を矯めて、最後の追い込みにかけているようにも見えた。江原も疲れが出てきたのか、SUN Yangに追い抜かれ、萩野との2位争いになったが、なんとか逃げ切ったというレース展開。面白かった。
 
 その後のインタビューで「SUN Yangの追い込みをどう意識していたか」と問われたのに対して、江原は「えっ」としばしわが身の裡をのぞき込むような沈黙をして、「いや何も考えていません。これから後でよく考えてみます」と応えたのが印象的であった。
 
 そうか、そうだろう。泳いでいるときは「無心」なのに違いない。だが「後でよく考えてみます」と言ったのは、つまりレース運びという「戦略」を俺の身体はどう考えていたろうという思いを込めて、振り返ろうと思ったのであろう。それは、ちょうど人が自己を対象化して自画像を描くような、自省の原点に立つ行為と思えたのだ。
 
 ぎりぎりのところにわが身を追い込んで無心となったのちに、自省の原点に立つ。これはちょうど、瞑想状態を通して自己へと至る道筋と同じだ。すばらしいではないか。騎士という名前を「ないと」と呼んでいたのも印象的で、覚えていた。メディアも、こういうことに着目して報道してもらえると、アジア大会ももっと面白くなるのだが。

避難訓練

2018-08-21 16:16:30 | 日記
 
 今週末に、私の暮らす地区を含む「避難訓練」が行われる。団地の自治会役員をしているので、約付きで顔を出すことになる。だが生憎、その準備打合せの日に団地の修繕専門委員会があり、私はそちらを優先しなくてはならず、代わりに自治会副会長が出席して話を聞き、「資料」をもらってきた。

 なんとその「資料」が、三冊、A4判で百ページ近くもある。さいたま市が作成した「避難所運営マニュアル」が49ページ。区役所の作成した「避難所一斉開設訓練」「避難所運営訓練」がA4判で30ページほど。そして実施地区の「○○小8ページの学校避難所運営委員会次第」という要項である。「運営委員会」というのは関係地区の17の町内会や団地自治会の代表で構成される。総務、情報、救護、食料などなどの役割の分担も明確、組織図も指揮系統も、きっちりと整っている。システムだけはいつでもしっかり整える日本の官僚のデスクワークのみごとさをみるようだ。
 
 「訓練」ではあるが、二百人を超える参加者があり、避難所になる小学校の体育館の「地区配置図」は、周囲との間隔を2メートルとり、ブルーシートを敷いて区画してする。そのシートを敷くのを前日に役員が集まって行うというのが、ま、ちょっと「お笑い」であるが、震度6の地震が訓練当日の午前九時に起こり、十時には集合して、避難所登録、割り当て、炊き出しや救護、マンホールトイレ、簡易トイレの設置など、「次第」が決められている。百ページに及ぶ三冊のパンフレットに目を通すだけで、すっかり「避難はかく行われる」というのが目に浮かび、感心してしまった。
 
 というのは、いまから二十年近く前になるが、私の務めていた学校が避難所に指定され、年長者であり、かつ交通機関が途絶えた時にも徒歩で来ることができるという理由で私が、「責任者」になったことがあった。その時のやりとりを思い出した。「責任者」ではあるが、避難所の差配は全て行政官が行うから、学校施設の使用も備蓄庫の開閉もすべて外から来た行政官に任せてくださいというのが、なにをいっているのかわからなくて、文句をつけたことがあった。「行政官って、どこのどういう行政官だ?」という問いに、校長も答えられなかった。「責任者って何だ?」と質したが、これにも校長は「いや場所の管理責任てことですから、名前だけ。いてくれればいいんですよ」というだけで、あった。当時の私は、ま、その現場になれば、「場所の管理責任」てことだけでも、やるこ分かるだろうくらいに考えて、引き受けたことがあった。
 
 その時の、「行政官に任せるすべて」がふた昔のときを経てどっと押し寄せてきた感じだった。考えてみると、二十年前の「避難場所」設置は阪神淡路大震災を受けて考えられはじめた、文字通り机上図式であった。まだ行政の方でも手掛けたばかり。それが今回は、東日本大震災を経過することでわがコトとして、想定されている「避難訓練」だ。すっかり図式は整うことになったと言えそうだ。
 
 だが実は、小学校に避難するのがいいのかどうか、現実問題となると、わからない。「大洪水が起こったときには使えない避難所」というのにも「大洪水のときでも使える避難所」というのにも、どちらにもわが地区の小学校は含まれていない。元は田圃。標高は8メートルくらい。我が家より少し低いくらい。わが家は古い町名が「井沼方」、昔の湿地を埋め立てて住宅地にしたところだ。だがわが団地は地下の岩盤に届くまで杭を打ち、躯体を支えている。築後28年を経て、地盤沈下で周りの盛土は沈み、躯体が十センチほど浮き上がったようになってはいるが、建物自体はしっかりいている。つまり、大地震や大洪水のときにわが家に立てこもったほうが良いのか非難したほうが良いかと自己判断を求められたら、私は迷わず、我が家に留まる。我が家が住めなくなるほど倒れたり潰れるときは、この小学校だって起ってはいられまい。たぶんわが団地の外の方々もそう思っているに違いないから、「避難訓練」に力が入らない。
 
 でもまあ、大きな町内会集団の地区の一角にあるから、「お付き合い」で参加するわけだが、いざというときは、「お付き合い」は水と食糧のおすそ分けをどう頂戴して確保するかだけになるのではないか。そんなことを思っている、ぶり返した暑い夏の日である。山にでも避難したいね。