mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

攻撃準備態勢の虎

2018-07-31 10:59:11 | 日記
 
 原題「CROUCHING TIGER――WHAT CHINA'S MILITARISM MEANS FOR THE WORLD」を読んだ。原著は2015年の出版。日本語訳のタイトルは『米中もし戦わば――戦争の地政学』(文藝春秋、2016年)。著者ピーター・ナヴァロはトランプ大統領の補佐官。国家通商会議議長という肩書をみれば、トランプのお気に入りということが分かる。そればかりか、いまトランプが中国に対して非難する「知的財産権の侵害」とか「国家安全保障上の理由による経済制裁」が何を意味しているか、よく理解できる。アメリカからみた中国の現在を、軍事の枠組みからみてとっている「概観」である。
 
 ネコ科の動物が獲物を前にしたとき背を屈め勢いよくダッシュして襲い掛かる。CROUCHINGと呼ぶその姿勢を、いま中国は取っているという見立て。太平洋をアメリカと二分支配する覇権を唱え、アメリカの権勢を押さえる構想をもって臨んでいる中国の軍事戦略を、主として海洋面に焦点を絞って描き出している。海洋面に絞るから、当然日本も、南シナ海のフィリピンやベトナムというアセアン諸国も、あるいはインドも、わがコトとして考えざるを得ないテーマである。
 
 トランプの補佐官と言うと眉に唾つけて見たくなるかもしれないが、中身は意外にクールであり、アメリカの政策的な傾きに対しても批判的な視線を隠さず、中国の「力」の評価も、その動きの微細なずれも、上手にとらえている。不都合な真実をフェイクニューズと口を極めて謗るトランプの側近にしては、ことの検証の仕方や第三の道についても目配りを怠らない。いかにもアメリの知性(のバイプレーヤー)が軍事面において解析・言及したという趣がある。
 
 クラウゼビッツや孫子が登場する軍事的対立の構図は、国際法の身勝手な解釈をごり押しするような、ごく最近の中国の南シナ海における振舞いをみていると、ほとんどマキャベリの時代に戻っているような気がする。この種の本を読むと、いつもそう感じるのだが、地政学的な展開に気持ちが奪われて、はらはらとしながら我が国の備えを考えるようになる。もちろんこの著者ナヴァロは軍事オタクではない。現代の戦争が「戦わない」ために行われていることを押さえているし、「総合国力」が決め手になることを視界に収めている。そうして「ペンタゴンにしろアメリカ政府や議会にしろ、中国に対する防衛力を考える際に、グローバルな視点が欠けている」と指摘する。「アメリカが軍事力だけを問題にしているのに対して、中国は総合的な国力についえ考えている」と。つまりアメリカは(そこに至るまでに長く続いた軍事的、経済的、文化的な)自国の圧倒的優位を前提とするスタンスから抜け出ることができず、ほとんど無意識に限定的な局面で既定事実が変わっていないものとしてしまっているというのだ。ここが(国際関係を考えるうえでの)トランプ政権のキーポイントであったとみると、いわば根底から、ラディカルに国際法や国際関係の「既成事実」を覆して、再構築していっているトランプ政権の政策が、案外、古い国際関係から離脱して、新しい関係を築く時代を迎えた兆しと言えるかもしれない。
 
 中国の考える「総合国力」というのは、力がないときには黙って従っているが、国力が整えば(前言を翻してでも)、それなりに言うことは言わせてもらうわという立場を手に入れる、ということだ。むろん言うことがないがしろにされないように軍事的な裏付けが必要であることも織り込み済みだ。臥薪嘗胆というか、韓信の股くぐりというか、そういう時代を経てきた怨念を晴らす「国力」を培っているというのだ。たしかに現在中国の覇権主義的な振る舞いは、パクス・アメリカーナの波間に浮かんで安定してきた日本にとっては、目に余る行為であるが、日本の後塵を拝して長く耐えに耐えてきた中国からすると、いまこそ対等以上に向き合うだけの立場を手に入れつつあると、自信を持ってきたのである。
 
 ナヴァロの指摘が面白いのは、経済的な交通が頻繁になれば、自ずから戦争の緊張は遠ざかるということを、一蹴していることである。互いに得るものがないのが「戦争」事態であることは確かだが、経済的な交通が深まれば、相互の平和的な関係が確かなものになるとは限らないという。逆に、軍事的手段に訴えなくても経済封鎖などの「平和的手段」によって「総合国力」が削られたり、景気後退が必然づけられ、経済の低迷が続くこととなると、国内反乱の多発も含めて内情は不安定になる。彼はそうはっきりと、これからのアメリカの戦略を軍事的な側面と絡めて指摘し、提言している。むろん日本は、有力な味方につけ、アメリカの採るべき戦略の一環として位置づけられている。アメリカもまた、太平洋の支配権を譲り渡す気はないと明快にしている。
 
 この「力」とその「方向性」を現実のものと考えると、日本がどう道を選択するかに、あまり自在性はない(と思われる)。安倍首相がアメリカとの連携を強化する道を選ぶのも、やむなしと思う。と同時に、北朝鮮とトランプの「和解」劇の進展がいくぶんかでも東アジアの緊張を和らげ、一触即発を先送りしていることに、胸をなでおろす。トランプは、中国との綱引きで、北朝鮮をアメリカ側に取り込むことを意図しているに違いない(と推定される)。むろん、中国の後ろ盾に支えられた北朝鮮の今後の振る舞いが(たぶん)従来と変わらぬ強気を保たせるにしても、この猶予期間に北朝鮮が経済重視路線へ転轍する道筋を開いてくればアメリカは食い込む足場をつくることに成功する。
 
 でも、いつか日本は、アメリカの鼻息を伺うスタンスから独り立ちする朝が来る。トランプは、いかにも商売らしく、駆け引きによって日本にも圧力をかけることを忘れないし、昨年日本を訪問したときでさえ、横田基地に降り立って日本の盟主、真正支配者・アメリカを誇示した。安倍首相がそれを認めざるを得なかったことも、現実である。そういう意味では、日本はいつか、東アジアの国際関係を自前で準備し、紡ぎ始めなければならない。
 
 そのときの日本の「総合国力」とは何か。歴史的な、この70数年の歩みも含めて、考えておかねばならないと思った。

自然(じねん)主義的

2018-07-30 18:51:15 | 日記
 
方法的な視線の違い

  山折哲雄『これを語りて日本人を戦慄せしめよ――柳田国男が言いたかったこと』(新潮選書、2014年)に、柳田と折口信夫と南方熊楠を対照させて、その三者の方法的な視線の違いを指......
 

 一年前のこれを読んで、あのときには気づいていたのに、今はすっかり忘れて過ごしていると、「おのれ」のことを思った。折口信夫の「己自身を不思議と受け止める」感覚に心震える思いを懐きながら、それを忘れてしまうなんてと、いま、臍を噛む思いだ。

 

 ついつい私は、柳田のように「自然還元」してしまう近代合理性にどっぷりとつかっていると、わが胸に手を当てる。ことばを変えて言うと、私の身体は柳田的。ときどきの瞬間に私は、折口的な直感に浸されるのを感じる、というわけだ。そして、意識して己を振り返ったとき私は、混沌のなかに溶け込んで、でもそれでいいではないかと初原に戻っているんだもんと、そこにある己自身を合理化している。

 なんとも手の施しようがないほど、自然(じねん)主義的になっているなあと、自己批評している。いいか悪いかは、もう今となっては、わからない。そんなことを感じた。


庶民の気骨の原基をみた

2018-07-29 11:42:58 | 日記
 
 河治和香『がいなもん――松浦武四郎一代』(小学館、2018年)を読む。松浦武四郎は幕末の伊勢に生まれ、全国各地を旅して歩き、山に登り、ついには、何度も蝦夷地にわたって地誌的にもアイヌの暮らしにも通じ、大量の記録を残したことでよく知られている。北海道の名付け親とも言われながら、明治維新後は北海道開拓の「名誉職」を辞し、その地に足を踏み入れることなく生涯を終えた。
 
 この松浦武四郎の足跡を、河鍋暁斎の娘を舞台回しにして語らせたのが、この作品になった。松浦武四郎が東京となった街の江戸風情の移り変わりとともに、その胸中を語る口ぶりは、しかし、一番肝心なことを口にしない風流人の趣がある。だが彼の死後に触れたところで、彼がいかに幕末期の蝦夷地に対する松前藩や幕府の施策、それがアイヌの暮らしに及ぼしている甚大な打撃について激しく記録し、幕府に訴えてきたかを浮き彫りにする。そして、彼の感じてきた「痛み」は、単なる同情共感ではなく、自らが和人としてアイヌにかかわっていながら、和人の暴虐を諫めることも抑えることもできず、無力なままに「記録すること」に終始してきた自らのありようへの、痛切な「無力感」であった。それゆえに彼は、暁斎の娘に対してもついにその胸中を言葉にせず、死語の遺品のなかに語らしめることになる。そこに、人が本当に誇らしくおもうことは、まさに自らの「痛み」をともない、かつ、市井の人として没することに埋もれてしまうものだと、この作家は記していると思われた。
 
 その筆致は軽快。軽々と江戸を引きずる東京とその風情を描きだし、あたかも武四郎や暁斎や、それを取り巻く人々の気風が、行雲流水の如く東京の下町を流れ漂うようである。それが彼らの人柄を表象するように感じられて、好ましく思った。
 
 松浦武四郎について書かれたものを、これまでもいくつか読んできたが、その行間から彼の飄々として、しかし虐げられたものへの接し方を、旅の作法から身に備えて行ったところに、人が人に接するときの風儀がつくりだされていくと思われた。今の時代に、(私ごとき)山歩きをする程度のことを「旅」と呼んでは、当時の「ひとふで書き的旅」に申し訳ないが、わが脚でことごとくを始末しなければならない途上において(己の非力をベースにして)いかに人の情に扶けられているかを感じると、同情や共感という「痛み」とは異なる、わが身の非力をベースにした「痛み」として感じとれる地平に立ってこそ、下々のというか、庶民の生き方の原基に触れると思う。
 
「がいなもん、ってなんですか?」
「がいなもん、ちゅうのは、伊勢の方では、途方もない、とか、とんでもない、って意味ですなあ」
 
 と、河治は記す。だが私の知る(高松方言の)「がいなやつ」というのは、我意を通す意地っ張りだったり、無理を通す荒っぽい奴を意味する。つまり世間の常識を軽々と踏み外してわが意を貫く、気骨者のことだ。その松浦にして、わが身の非力を沈黙に封じたところに、庶民の気骨の原基をみたように思う。行雲流水でありながら、その気骨の風儀だけは培っていることに誇らしさは宿るのだ。かくあらまほしき生き方よのお、と思わないではいられない。

仙丈岳――四周の眺望は絶品だった

2018-07-28 12:46:50 | 日記
 
 甲斐駒ヶ岳の登りでkwmさんの不調が高山病のせいではないかと考えた私は、仙丈岳の登山ルートを、当初計画から逆のコースに変更したほうが良いかもしれないと思っていた。それに一日目の下山でkwrさんもすっかりくたびれていた。仙丈小屋へ回り込むルートの方が(早く)山頂を眺めることができる。そこから引き返しても仙丈岳を観たことには違いないと。ところが第二回の夕食のときに仙丈小屋の支配人が「おすすめ」として、当初のkwmさんが策定したルートを紹介しているのを耳にした。第一回目の夕食のときは、酔っ払いの話し声が絶えず、支配人も説明を省略してしまったのだろう。寝床で聞きながら隣のkwrさんに「おすすめ」にしたがおうかと声をかける。そうそう、もう一つあった。支配人が「甲斐駒ヶ岳へ行く方はコースタイムより2時間くらい余計に、10時間ほどかかるとみておいた方がいい」とコメントしていた。これはkwrさんに効いた。甲斐駒ケ岳の全行程を今日は8時間10分で歩いていたから、なんだそれなら(俺たちのペースは)結構いけるではないか。7時間10分かかる仙丈岳のコースタイムを歩けるだろうかと心配していたのがウソのように思えたにちがいない。
 
 第三日目早朝、食事は3時半から。3時過ぎると早い人たちがごそごそと動き、目も覚める。kwmさんも昨夜は導入剤を服んで酔っ払いたちのはしゃぐのも知らずに寝入ったらしい。睡眠は十分。kwrさんも筋肉痛などと言っていない。ヘッドランプが要らない時間になったら歩きはじめようと4時半に出発する。樹林の中の道は、しかし、よく踏まれていて安定している。甲斐駒ケ岳の道と比べると、体のバランスがとりやすく、はるかに楽に歩ける。背中の方がだんだん明るくなる。「仙水峠の方だね」と、昨朝の日の出を思い出して話す。昇る朝陽と反対側の西の空が、樹林越しに赤っぽい。霧が出ているのか薄雲が張っているのか。一合目、二合目、三合目とおおよそ標高百メートルごとに標識がある。四合目のところで中学生だろうか、十数人の集団が休んでいる。朝3時ころにキャンプ場を出発したという。ちょっと時間がかかりすぎている。きゃあきゃあとはしゃぐ子たちもいる。みると、ジャンパーを羽織って座り込んでいるのもいる。「寒いのかい?」と声をかける。傍らの子がうんうんとうなずく。高度は2400メートルほどだから高山病が出てきてもおかしくない。頭が痛いとか寒いというのは高度障害の初期症状だ。そう声をかけていると指導者らしい大人が何人かいるのが分かった。目で挨拶をして上へ向かう。中学生というのは、キャンプなどで眠らないではしゃぐ。これが登山には最大の障害になる。たいへんだな指導者は、と思う。
 
 マルバダケブキが群落をつくっている。オトギリソウやソバナが花をつけている。1時間半で五合目に着いた。kwrさんはもう30分かかるとみていたのか「なんだか儲かったような気がする」と顔を崩す。ここから直登して、小仙丈岳を目指す。後ろを振り返ると、樹林の間から甲薬師岳の斐駒ヶ岳が黒々と見える。その向こうに八ヶ岳の鋭鋒が雲の上に浮かんでいる。東へ目をやると、地蔵岳のオベリスクが際立ち、観音岳や薬師岳の鳳凰三山がスカイラインをつくる。針葉樹の木立と枝葉が視界を区切って絵のように思える。そしてすぐ近くに、北岳がまるで少し平たい槍ヶ岳のように尖って背を伸ばしている。「いや、いいねえ」と嘆声をあげながら、急斜面を軽快に登る。西が見えるところにくると、槍ヶ岳から大キレット、穂高岳の峰々が雪をつけて雲の向こうに浮かぶ。
 
 ハイマツ帯に来ると一挙に視界が開ける。あっ富士山と誰かが声を上げる。北岳の北側に連なる小太郎尾根から乗り出すように富士山が雲を下の方にまとって紫に霞んで姿を見せている。北岳と間の岳も一緒に視界に収まり、「1,2,3の峰が並んだね」とシャッターを押す。ウサギギク、ハクサンフウロ、ミヤマキンポウゲだろうかシナノキンバイだろうか。アキノキリンソウらしき黄花、ミソガワソウだろうか、青紫の花も道辺に顔を出す。すっかり稜線部に出る。風が気持ちいい。小仙丈岳が丸く大きい山頂部を正面に据える。振り返ると八ヶ岳が、赤岳から蓼科山まで雲から突き出て一望できる。西をみると、木曾駒ケ岳を真ん中に南へ空木岳までが並ぶ。木曽駒の向こうには御嶽山が噴煙を吐いた部分を白っぽく光らせて平らで大きな山頂部の単独峰を誇示している。さらにその右、北の方には乗鞍岳が横たわり、先ほども見た穂高や槍の稜線へと雲上のパノラマをみせる。「あれ、白馬じゃない?」とkwrさん。そうだ、南峰と北峰の特徴ある鹿島槍ヶ岳、その向こうに五竜、唐松と白馬への稜線が連なる。そこへ行く手前の遠方に雪をかぶって鋭鋒をみせるのは剣岳ではないか。何とも贅沢な、中央アルプス、北アルプスの展望台であることよ。
 
 小仙丈岳の山頂は、まさに360度の眺望台。だが、富士山が雲に隠れ始めている。宿の支配人が「おすすめ」といった理由が分かる。いま7時過ぎ。山の朝は早い。みるみる雲が山に掛かり、眺望は悪くなる。上りをおすすめしたのはこれだったと得心する。小仙丈岳には後から登ってきた人たちも一息入れ、眺望を楽しみ、賑わっている。あとから登ってきた一団、「中学生?」と声をかけると「高校生も一人いるよ」と応える。中高一貫校の中学生中心の登山部らしい。四合目で出逢った中学生と違い、4時ころ出発してここに到着している。コースタイムで頑張っているんだ。顧問らしい女性を交えた大人がついている。「君たちの6倍くらい生きてるからね」というと、72歳だとすぐに計算する。「いいねえ若いってのは。若返りたいんじゃない、あなたも」と(やはり中高一貫校で中学生登山部であったことのある)kwrさんに声をかけると、「いやもういいよ、おれは。人生は一回でたくさん」と笑う。
 
 ここからの稜線歩きは、仙丈岳の大きな山稜と東側カールを目に収めながら、200メートルほどの標高差を上り詰める。眺望は言うまでもない。穂になったチングルマの群落もある。岩場を降りも仙丈岳全体の視界の中に、清々しい。イワギキョウだろうか、岩を割るように、その合間から顔を出し、咲き連なっている。仙丈岳の稜線部に来て西側に回り込むと、西側のカールと仙丈岳の山頂部が見事に見える。たくさんの人が集まっている。ハイマツに覆われた山稜部と山体は大きくまあるく美しい。なるほど南アルプスの女王と呼ばれるだけのことはある。今回参加を予定していながら、mrさんとmsさんが、体調損傷で断念せざるを得なかった。彼女たちは「南アルプスの女王だから(上りたい)」と言っていた。東側に屹立する白根三山(北岳、間の岳、農鳥岳)を雄とすれば、対するにこちらは女王であると誇っているようだ。それくらい仙丈岳はド~ンと構えて独立峰のように壮大である。西側カールの仙丈小屋も馬の背ヒュッテも一望のもと。足元にはウスユキソウ(エーデルワイス)、ミヤマダンコンソウ、ミヤマツメクサ、富士山で見かけたオンタデも赤っぽい花をつけている。イブキジャコウソウの群落が彩を添える。この稜線歩きは、それだけで気分が良くなるほど、見事なルートだ。
 
 8時40分、まさにコースタイムで仙丈岳の山頂にやってきた。風が強い。汗ばむ身体が心地よく冷える。電話が通じるのかケイタイで「いま、山頂。すっごくいい。おまえも登れるよ」と奥さんと話している人の声が弾んでいる。雲が出てきて、遠方の眺望はあまりよくなくなってきた。私たちが歩いて来た稜線を下山している一団が、スカイラインを画してとても清々しい。こちらのルートで良かった。途中私たちを追い越していった70歳の夫婦が小屋の方から上がってきた。彼らはまた小屋へ戻り馬の背ヒュッテ経由にするという。結局彼らは、稜線上の醍醐味を味合わないままになると思った。仙丈小屋へは標高差250メートルほどをカールの縁に沿うように降る。けっこうな急斜面だが、kwrさんの歩きは軽い。
 
 仙丈小屋の前にはテーブル付きのベンチがある。ここでお昼。9時10分。お弁当を開く。卵焼きや鮭に鳥そぼろをご飯にまぶしている。リュックの中で傾いていたから、弁当パックの中身が偏って崩れている。「量がちょうどいいよ」とkwrさんはうれしそうだ。kwmさんも全部食べた。昨日のような症状はまったく出ていない。そこへ、昨日甲斐駒ヶ岳でであった福岡から来たという単独行の年配者に出逢った。彼は昨夜大平山荘に泊まり、そちらから登ってきて、今日ここへ泊るという。たぶん私たちと同じ年齢だろうが、元気そのものだ。私たちが出ようとしたところへ、小仙丈岳で追いついてきた中学生の一団がやってきた。「72歳?」と計算した中学生と目が合い、手を振って別れを告げる。
 
 20分ほどの昼食タイムののち、出発。すぐにお花畑に出逢う。ヨツバシオガマの花が艶やかだ。バイケイソウが緑の花をつけマルハナバチが飛び交っている。カラマツソウが楚々として綺麗だ。ハイマツの稜線上は、しかし風も通らず、お花畑が広がる。遠景はすっかり雲に隠れはじめた。槍ヶ岳が少し見える。振り返ると、仙丈小屋が仙丈岳を背にしてカールの中央に居座っているように見える。だんだんハイマツの背が高くなる。目の高さにハイマツの実が青くなっている。その実がいくつも、落ちて齧られている。と、ぎゃあ、ぎゃあとしわがれた声がする。ホシガラスだ。kwmさんは目がいい。すぐに見つけて「ほらっ、そこよ」とstさんに教えている。「えっ、えっ、わからない」と首を振る。ついに見つける。「うわあ、うれしい、みたみた」と声が上がる。ハイマツの実はホシガラスが齧ったものだ。何羽もいるようで、あちらこちらで響きのよくない声がする。
 
 登山道に沿うように「植生保護柵」が設けられている。シカに食われてこんなになったと、「1995年の馬の背の状況」を写した写真をつけている。国立公園だから環境省の事業だろうか。保護育成に努めている。こちらのルートを選んでよかったとお花畑をみて思ったが、かつてを知る人からすると、こんなものではなかったんだよと言いたいようだ。沢を三つも四つも横切って、五合目への道をたどる。面白い変化に富んだルートだ。ひとつの沢の上部には、まだ溶けやらぬ雪渓が残っていた。今年は水が不足するほど妥当が、雪は少なかったのだろうか。向こうからやってくる人も多くなった。この人たちは馬背のヒュッテに泊まるか仙丈小屋まで上るかするのだろう。
 
 トリカブトが青紫の花をつけている。クロクモソウが星形の赤い花をたくさんつけて勢いがいい。五合目で上りの道と合流した。仙丈岳の山頂付近ですれ違った若い女性二人がお弁当を食べている。彼女たちは馬背のヒュッテに止まって、私たちと逆回りにここにきている。言葉を交わす。11時前だ。時計を見たkwrさんは、なんだそうすると、1時半のバスに間に合うではないかという。当初の計画では16時のバスに間に合うように下山となっていた。だからここまでの途中でも、急ぐことはないよ、ゆっくり行きましょうと行っていたのだ。いつもなら6時間を過ぎたあたりから歩行速度が落ちるkwrさんが今日は快調だ。彼は目標ができるとそれに合わせてついつい頑張ってしまう「癖」がある。いやそれが彼の人生をつくってきたのだと、経歴を知る私にはわかる。
 
 五合目を過ぎてからkwrさんの歩きがコースタイムより早くなった。すぐ後ろから中高年女性を率いるグループがの声が聞こえる。kwrさんは(この人たちに追い越されるわけにはいかない)と思ったようだ。やがて彼女たちの声は聞こえなくなり、前を歩く一団の姿が見えるようになる。四合目の標識は、今朝気分の悪くなった中学生がしゃがんでいたところだ。あの子たちはどうしたろうか。三合目はすっかり樹林の中。上るときは意識しなかったが、けっこう起伏の大きい踏路だった。二合目でキャンプ場へ行く道と分かれそうだ。る。stさんが「人は右へ行こうとするクセがある」といっていたら、kwrさんも右への道へ踏み込もうとする。違うよ左側から来たんだよと声をかけるが、朝の上りのときと印象が全く違うという。一合目を過ぎてルートが広くなる。一人座り込んで何かを操作している。「鳥の声を録音しているみたい」と誰かが言い、声を潜めて通り過ぎる。ちょうど登山口近くに来たとき、その人が追いついてきた。「鳥の声を禄んしてたんですか」ときくと、「いやそうじゃない。上ってくる人の目線を録っていた」という。山梨のTV局のスタッフらしい。いつも山歩きの絵は尻を録ることになってしまうのを違った視線で見直しているそうだ。着いたぞ! とkwrさんの声が上がる。12時15分。出発してから7時間45分の行動時間。後ろから来た山梨TVが「申し訳ないが、これから登る格好をとらせてもらえないか」と聞く。やろやろと応えて、kwmさんを先頭に登り口へ少し入る。山梨だけで放送されるそうだ。
 
 バスが出るまでに時間がある。こもれび山荘の生ビールで乾杯し、吾一ワインを付け加えて気分よく広河原行のバスに乗る。仙丈岳で一緒になった人たちも乗っている。黒戸尾根から甲斐駒ヶ岳に登ってテントに泊まり、栗沢山を経て北沢峠へ下ってきた30歳代の女性単独行者もいた。こんな強い人がいるんだ。広河原で乗り換えて甲府へ向かう。3時ころ甲府に着く。kwrさんが「こんなにあったかい」とぼやいていると傍らを歩いていた母子が笑う。「山の帰りですか」と聞く。「ハイ、甲斐駒と仙丈岳に登ってきました」と応じる声に張りがある。駅前のほうとう屋で食事をして、またビールで下山祝い。特急あずさの座席に座り込むとすぐに寝入ってしまった。立川の近かったこと。こうして無事に帰宅。すぐそこに台風が来ているという。なんとも幸運に恵まれた山であった。

甲斐駒ヶ岳――名山の展望台に上がる

2018-07-27 16:17:26 | 日記
 
 一昨々日(7/24)から昨日まで山に入った。いくつかの幸運に恵まれて、百名山二つを踏破し、絶好の眺望を満喫して、無事に帰ってきた。山の会の「日和見山歩」の企画。kwmさんをチーフリーダーに、甲斐駒ケ岳と仙丈岳を登ってこようという、梅雨明け十日のお手本のような山歩き。kwmさんが一年前に登りたいと「ツアー」に応募していたところ、参加者が足りないというので中止になった山旅である。その話を聞いて「ならば、あなたが企画すればいい。私も参加して、日和見山歩として実施しましょう」と声をかけ、実施にこぎつけたもの。「日和見山歩」はこれまで、文字通り「お手軽気分で上ろう」という趣旨が含まれていた。だが、これがうまくいけば、中級の山も含めることができる。山歩講全体が「行きたい山に行ける山の会」に変貌してくれれば、主宰をしている私としては肩の荷を降ろせる。これをきっかけに山歩講自体が変わることを、私は期待していた。
 
 幸運というのは、不運と背中合わせになっていると、往きながら感じた。甲府から広河原へ入るバスは12時発。「特急スーパーあずさ」を「企画」は記載していたが、私は一本早く行って甲府でお昼を食べ、翌日の昼食も買ってバスに乗ろうと「特急かいじ」に乗りこんだ。kwmさんもkwrさんも、やはりこれに乗っていることが分かった。「新型特急かいじ」は静かで空調も効いて快適。座り込んで本を読む。ほぼ読み終わってしまったので、えっまだ着かないのと目を上げると「四方津」と駅の表示が目に止まる。時刻をみるともう甲府についていてもいい時刻だ。なに遅れてるの? 車内アナウンスが「猿橋のポイント点検をしているので、今しばらくお待ちください」という。動き始めたが47分遅れ。別の車両に乗っているkwmさんにメールを入れる。もし12時のバスに乗れなかったら、どうしますか? その次のバスで広河原まで行ってから考えましょうと、返信がある。もう一人の参加者であるstさんは、この次の「スーパーあずさ」だろうか。kwmさんが連絡を取ってくれ、彼女は11時半過ぎに甲府についている、私たちは遅れると連絡してくれた。特急はほぼ12時に甲府に着く予定と車内アナウンスがあったので、stさんにメールを送り、電車遅延のためバスの出発を10分ほど遅らせてもらえないか頼んでくれと依頼する。彼女はその通りに動いてくれ、じつはバスの2台目が10分遅れで出ることになっていて、私たちは広河原へ行き、接続する北沢峠行にも乗ることができた。不運があるから幸運があると思った次第。
 
 さて北沢峠で降り、今日宿泊の仙水小屋まで40分ほど歩く。北沢峠の長兵衛小屋近くのキャンプ場には、びっしりとテントが並んでいる。高校生たちの夏の合宿のようだ。翌日甲斐駒ケ岳の山頂で出逢った高校生の顧問らしい人に聞いたが、滋賀県の高校登山部が合宿を行っていて、北沢峠をベースにそれぞれに山へ登っているという。いい季節なのだ。樹林の中をkwmさんを先頭に快調に歩く。陽ざしは明るいが、暑くはない。いかにも都会の炎熱地獄を抜け出してきたという風情である。標高を200メートルほど上がった樹林の中に、姿を隠すように仙水小屋はあった。4時15分着。ついてすぐに夕飯になる。小屋外のテーブルとベンチに席を占め、お膳に盛り付けたおかずとご飯を頂戴する。ハンバーグもついてちょっと見には手がかかっているように見える。12畳ほどの部屋に7人の泊り。ゆったり。定員の半分ほどか。静か、寒くもない。水が豊富。流しっぱなしの蛇口が3つある。コックを取り払ってあるから止めようがないが、ついてたら止めちゃうよねとkwrさんは言う。トイレも水洗だとkwrさんは言っていたが、流水式。タンクに貯め、固めてヘリで運ぶというが、どこでどうやって荷を積み下ろしするのか不思議であった。
 
 翌朝の食事は4時から。済ませて歩きはじめたのは4時40分。ヘッドランプもいらない。10分ほどで樹林を抜けるとごろごろした石の積み重なった急斜面にぶつかり、それをトラバース気味にゆっくりと登る。左側は樹林だ。kwmさんがホシガラスをみつける。水場だろうか、3羽が集まってくる。子育て中の一家かもしれない。正面の峠がまぶしくなる。陽が上って来たのだ。仙水峠からは、正面に大きな摩利支天がかぶさるように現れる。上って来た朝日を受けて、白く輝く。若い人3人が下から来る。何時ころ出たの? 下のキャンプ場を4時半かなと一人が応える。とすると、私たちの倍速で歩いている。そりゃあすごいと、先へ行くよう道を譲る。
 
 コメツガの林の中を急登だ。薄い土の下には岩が腰を据える。だから樹々の根は深く入ることができず、横へ広く張り出す。その根を踏み岩を伝わるようにルートはつづく。ところどころ樹林が切れると、東の方に長く連なる尾根が見える。早川尾根だ。その先に地蔵岳のオベリスクが特徴のある姿を朝陽にさらしている。45分も登ると背の高い樹林はなくなり、ハイマツが道の両側から押し寄せるように体にかぶさってくる。風が心地よい。見晴らしがよくなる。南に仙丈岳が大きな山容を横たえている。その東の方には、北岳も、間の岳も南は稜線を連ね、山の色も緑から紫へと、距離感をみせながら変わっている。唇のような形の花をつけた白い花が咲いている。トウバナの仲間だろうか。茎の先に一輪、リンドウの仲間が咲いている。トウヤクリンドウが緑っぽい楚々たる花をみせる。ヤマハハコの仲間が群れている。広い土が広がる山頂、駒津峰2740mにつく。歩き始めめて2時間ほど。標高差600mを上がっている。ほぼコースタイム、いいペースだ。北側に、文字通りデンと甲斐駒ケ岳と摩利支天が、逆光のなかに白く輝く姿を見せて位置を占める。駒津峰から標高差は300mとないのに、その競り上がり方は尋常ではない。まさに主峰という格好だ。
 
 ひとたび下り、ハイマツと岩が織りなす稜線を歩いて駒ケ岳に近づく。六方石と名付けられた大岩のところから「↑直登、う回路→」とあり、先ほど先行した一人が「直登」方面から降りてきている。荷物が通らなくて難儀した結果、う回路を辿ることにしたらしい。kwrさんも右のう回路へ道をとる。こちらは大岩と、その上に流れ落ちる小粒の砂を踏む。滑りやすく、歩一歩の脚に力が入る。50分で摩利支天との分岐に出る。ここに荷を置いて摩利支天にいく人がいる。まあまず、山頂に登ってからにしましょうと、山頂へ向かう。すぐ上に見えている山頂まで50分ほどかかった。堆積する砂が滑りやすく、ルートもあちらこちらにある。狭い岩の間を通るときは、荷物が引っかからないか心配したほどだ。黒戸尾根からのルートと合流するところに上ったころ、kwmさんが苦しそうにしている。胃が痛いというが、高山病ではないか。昨夜あまり寝付けなかったという。あと10分ほどで山頂だから、とりあえず山頂まで行って下山を早めようと話して上を目指す。仙水峠で私たちの倍速で歩いていた若者3人が降りてくる。彼らは直登ルートをとったようだ。「いや下りには使えないですよ」と笑う。ずいぶん長い間、山頂にとどまっていたようだ。
 
 8時33分、山頂2967m。4時間足らずであるいた。ほぼコースタイム。摩利支天が低く小さく見える。それほど混みあってはいない。北アルプスも八ヶ岳も見えるには見える。鳳凰三山も北岳も間の岳も一望ではある。だが、眺望を楽しむほどの余裕がない。私たちと相前後して登ってきた人たちがカメラのシャッターを押してくれるというのでお願いし、代わって彼らのカメラのシャッターを押す。直登ルートを登ってきた高校生グループがいる。顧問は「下山はルートが見つけにくい(から降りないほうが良い)」と満足げに話す。15分ほどいて私たちも下山を開始。下から高校生の集団が上がってくる。「恐いよお」「もう泣いちゃう」と言いながら歩いてくるのはまだ一年生だろうか。彼らが通り過ぎるのを待つ。下のグループが「降りてください」と声をかける。お言葉に舞えて先に降りる。下から次々と高校生の集団がやってくる。気を付けてすれ違いながら、4時ころキャンプ地を出発したとしたら、いいペースで歩いているではないか。
 
 下山もなかなかしんどいコースであった。途中でお昼をとる。9時半頃。風が心地よい。kwmさんは食べられないそうだ。上りがつらいという。下りになるとそれほど体に衝撃はないというから、駒津峰からの下りは、長いが大丈夫だろう。戻りながら甲斐駒ケ岳を振り返ると、見事な山容が屹立するように聳えている。直登ルートが見える。あれが間近に行くとどこを登っていいかわからないのだろう。行くときにはそれほど感じなかったピークの威容が漂うようであった。
 
 駒津峰を降りはじめたのは10時40分頃。向かう双児山はこんもりと大小二つのピークが重なり合うようになる緑の森にみえた。だが下り始めてみると、足場は岩だらけ。歩きにくいことこの上ない。はじめはあらかたハイマツ。kwrさんが先頭でkwmさんの脚の運びを気遣いながら、ゆっくりと降る。ハイマツ帯を抜けるとコメツガの樹林になる。足場はしっかりしているが、大木が根っこに近くでぐいと曲がり、雪の重みに何十年と曝されてきたせいだとみえた。双児山のところで一組の夫婦が休んでいた。彼らは駒津峰まで行って戻るところだという。聞くと7時ころ上り始め、駒津峰について甲斐駒ケ岳までどのくらいで行けるかを訊いたら、往復3時間半ほどだという。自分たちは2時間半ほどで往復できるとみていたから、山頂を諦めて下山しているという。「インターネットで調べたら日帰りで往復できるってあったから」と旦那。奥方は「あなたはいつも計画が甘いんだから」という目をしていたと、あとでstさんが言う。可笑しいが、そういうことってあるよなと思う。今朝ほど私たちを追い抜いて行った若者たちは、ほぼ倍速。彼らがコースタイムを書き記したのだってあるんだから、インタネットで調べるだけでなく、地図やガイドブックで「標準的な」コースタイムを確認する必要があるだろうと思う。もちろん自分たちの歩行速度もチェックしておかねばならない。
 
 おおよそ30分ごとに休憩をとり、また降る。針葉樹の樹種は違ってきているが、何が何かはわからない。こうして1時前、こもれび山荘に着いた。ここまでの行動時間は8時間10分。休憩などを全部含めてだから、まずまずの歩行であった。だが今回の山行は、これからが勝負だ。利尻岳で9時間の行動はできると分かっている。今回は、高度に馴染んで高山病を発症しないで上ることと、明日仙丈が岳という3000メートル峰に登ること。これを二日続けてできるかどうか。はじめての試みでもある。でもまあ、一時までに下山して、小屋の生ビールで祝杯をあげる。いっぱいで収まらず二杯も飲んでご機嫌になって着替え、昼寝に入ったのは二時であったが、これがとんでもない誤算。あとからやってきたグループが小屋の外のベンチで飲み会をはじめてしまった。やいのやいのと喋るばかりか、声が大きい。発泡スチロールの箱に氷を入れ、ウィスキーの大きな瓶を持ち込み、山の話にかこつけて人のうわさや自慢話に花が咲いている。それがちょうど私たちのベッドの枕元と来ているから、寝れやしない。それでも二時間ばかりうとうとし、4時ころから外を歩く。なんと広河原から以上に、木曽川から何台ものバスが出入りして人を運び入れる。この人たちみなが、甲斐駒ヶ岳か仙丈岳に登る。ちょっとした壮観というか、たいへんな賑わいだ。のんびりしていたら、渋滞しかねないと思った。
 
 夕食を済ませ、6時には床に就いたが、「宴会」は二次会三次会とつづいて、おしゃべりは止まらない。女性陣も、まるで中学生の修学旅行のように、寝ている人たちにかまわず大声で笑い、はしゃぐ。若いころなら怒鳴りつけ太郎が、こちらも若いころにはご近所構わず酔っぱらってご迷惑をかけた脛の傷がある。この人たちは普段、こんなふうにはしゃぐこともないのかもしれないと思って、山小屋には珍しい喧騒を味わっていた。結局夜八時の消灯になって、彼らも力尽きたように静かになり、わが方も朝方3時過ぎまで熟睡することができたのであった。(つづく)