11月26日、第23回36会aAg- Seminarが行われました。講師はkmkさん。お題は「私の仏教探訪」。kmkさんは、義母の死をきっかけに仏教に興味をもち、浄土真宗の師匠について勉強をしてきた。一時は仏門に入ることまで考えたことがあるが、師匠がなくなって頓挫。その後は、上座部仏教にもこころ魅かれ、「仏教探訪」をつづけているという方。2年前に「般若心経を読み解く」をお題に、このSeminarの講師を務めてもらったこともある。「Seminarの案内」には次のようなキャッチコピーがついていました。
《今月の講師は、kmkさん。2年半前に「般若心経を読み解く」講師をしてくれました。その後さらに、出逢ったスリランカの小乗仏教へと傾いていっているようです。ときどきのSeminarでは、現代物理学であれ、宇宙論であれ、究極の論理をさらりと「そんなこたあ、こういわれてんのよ」と仏教から解きほぐしてみせ、周囲を驚かせてきました。彼女の仏道への関心は、何処へ向かっているのでしょうか。久々に岡山弁の聴きごたえをお確かめください。》
こうしてはじまったSeminarでしたが、入口のところで躓いてしまいました。というよりも私が、わやにしてしまったのではないかと、反省しているところです。kmkさんはお釈迦さんのことばにより近いところから物事を考えているとして、上座部仏教(スリランカ出身の)僧侶の本を読んだことから話しはじめました。
「人は今のことを考えていない」
「過去や未来のことを妄想している」
「人は死を我がことと考えないで暮らしている」
「自分が死ぬかもしれないと考えたら、過去のことや将来のことよりも、今この一瞬一瞬を大事に考え、大切にして生きていける」
「過去や未来のことを妄想している」
「人は死を我がことと考えないで暮らしている」
「自分が死ぬかもしれないと考えたら、過去のことや将来のことよりも、今この一瞬一瞬を大事に考え、大切にして生きていける」
とある。それははじめて彼女が仏教の勉強をしてみようというきっかけになった(浄土真宗の)僧侶の言葉と重なる、と説明して、「仏教を学ぶ意味」と題するテープを流しました。それを聴いているうちに私は、だんだん腹が立ってきました。
テープは、椋鳩十の「と弟子のやりとりをのさようなら」を入口に、ヨハンナ・スピリの「最後の別れのことばが美しい」を引用し、ときどき釈迦と弟子のやりとりを引用して、「純粋に生きることの素晴らしさ」「美しく生きることの素晴らしさ」が大切と説き、今の時代に「希望を持ち、純粋に、正しく生きることが欠けてきた。自分の利を護るのに一所懸命になってしまっていて、心ある人々は憂えている。」「命の大切さを忘れかけている」「たった一度きりの人生を大切にする心構えが必要なのではないか」「一瞬一瞬を大切にして、為すべきことを為せ」と、20分ほども説いていました。
この僧侶は、自分がどういう位置に立って、このようなことを説く資格があると思っているのか。純粋に生きるとか、正しく生きるということと、為すべきことを為せということが、断りもなく使える時代ではないのではないか。その生き方の中に、いまここの糧を求めて懸命に生きている人のことが算入されているのか。あるいは豊かになって糧は十分に得ていて、ゲームのようにお金を儲けることに勤しんでいる人のことは、為すべきことを為していることに入るのか。それら「一瞬一瞬を大切にしている」人々は、「純粋で、正しい」と考えているのか、そうでないのか。そんなことが胸中を去来して、そうしたことに踏み込みもしないで、高みから「お説教」する僧侶に腹が立ったのでした。
しかし、こともあろうに、それをkmkさんにぶつけたのが、間違いでしたね。考えてみると、kmkさんがこのテープを聞いたのは、母上が亡くなってすぐのとき、つまり喪に服している時でした。彼女の関心は、日常的な次元を直にというか、ベタにみているのではなく、生老病死の人生という長いスパンのなかにおいて、みていたのだと思います。そこには、一瞬、日常の暮らしにあくせくとしている自分から離れて、(神や仏の眼で)自分を振り返ってみる状態にあったのではないでしょうか。ですから彼女が心を揺さぶられたのは、自らを対象としてみる「超越的感触」を感じていたからだと、思います。
そう考えると、上記のテープの僧侶の話し方は、現実生活の「情況」と、道徳的に考えて片付くことと、宗教次元で考えてこそ大きく転換が図れることと、何もかもが一緒くたになって放り込まれているのでした。ですから、いまどこで、どのような暮らしをしている、誰に向かって、そのような話をしているのか、そんな話が、時と処と対象とする人という「場面」を区切らないで普遍的に通用すると思っていることに、腹を立てたのだと、反省的に思っています。
つまりそれを受け止める方は、宗教的に考えるとはどうすることかを、まず、しっかりと見据えてkmkさんの話に向き合わねばならなかったのだと、思います。人生を大きく振り返り、あるいは、人類史のなかの私たちのありようという位置づけをしたうえで、思いを馳せねばならない場面だったのだと考えています。それは逆に、kmkさん自身が、あるいは僧侶の「お説教」をする(テープの)僧侶が、あらかじめ、話をする/聴く「次元を限定」しなければならなかったのだと思います。
そう考えてみると、僧侶の話は、そのような「次元の限定」をしていません。いつも、普遍的な「真理」について話していると前提にしています。だが、もうそういう前提が通用する時代ではありません。
私がかみついたことについてkmkさんが、「うまく言えんがわたしらは、何が正しいか、どうすることが純粋化ということは、わかっとるんじゃが……」と応じていましたが、思えば私たちの時代は、ある程度そういうことを共通の価値としてもって成長してきました。戦火による焼け跡と食糧難という戦後の混沌が共有しているベースでした。大人たちが(社会や国家という全体像に関する)自信を無くし、言葉を失っていましたから、私たちは「日本国憲法」がもっていた「理念」をある程度共有して育って来ました。
だが、日本が経済的に大きく変貌し、高度消費社会という時代を経過したことで、すっかり共有する価値観も、変わってしまいました。だから「次元の限定」をつけなければ話が通じない地点に来てしまっているのです。(つづく)