mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

第23回36会aAg- Seminar ご報告(1)宗教的に考えるとは、どうすることか

2016-11-28 10:23:33 | 日記
 
 11月26日、第23回36会aAg- Seminarが行われました。講師はkmkさん。お題は「私の仏教探訪」。kmkさんは、義母の死をきっかけに仏教に興味をもち、浄土真宗の師匠について勉強をしてきた。一時は仏門に入ることまで考えたことがあるが、師匠がなくなって頓挫。その後は、上座部仏教にもこころ魅かれ、「仏教探訪」をつづけているという方。2年前に「般若心経を読み解く」をお題に、このSeminarの講師を務めてもらったこともある。「Seminarの案内」には次のようなキャッチコピーがついていました。
 
 《今月の講師は、kmkさん。2年半前に「般若心経を読み解く」講師をしてくれました。その後さらに、出逢ったスリランカの小乗仏教へと傾いていっているようです。ときどきのSeminarでは、現代物理学であれ、宇宙論であれ、究極の論理をさらりと「そんなこたあ、こういわれてんのよ」と仏教から解きほぐしてみせ、周囲を驚かせてきました。彼女の仏道への関心は、何処へ向かっているのでしょうか。久々に岡山弁の聴きごたえをお確かめください。》
 
 こうしてはじまったSeminarでしたが、入口のところで躓いてしまいました。というよりも私が、わやにしてしまったのではないかと、反省しているところです。kmkさんはお釈迦さんのことばにより近いところから物事を考えているとして、上座部仏教(スリランカ出身の)僧侶の本を読んだことから話しはじめました。
 
「人は今のことを考えていない」
「過去や未来のことを妄想している」
「人は死を我がことと考えないで暮らしている」
「自分が死ぬかもしれないと考えたら、過去のことや将来のことよりも、今この一瞬一瞬を大事に考え、大切にして生きていける」
 
 とある。それははじめて彼女が仏教の勉強をしてみようというきっかけになった(浄土真宗の)僧侶の言葉と重なる、と説明して、「仏教を学ぶ意味」と題するテープを流しました。それを聴いているうちに私は、だんだん腹が立ってきました。
 
 テープは、椋鳩十の「と弟子のやりとりをのさようなら」を入口に、ヨハンナ・スピリの「最後の別れのことばが美しい」を引用し、ときどき釈迦と弟子のやりとりを引用して、「純粋に生きることの素晴らしさ」「美しく生きることの素晴らしさ」が大切と説き、今の時代に「希望を持ち、純粋に、正しく生きることが欠けてきた。自分の利を護るのに一所懸命になってしまっていて、心ある人々は憂えている。」「命の大切さを忘れかけている」「たった一度きりの人生を大切にする心構えが必要なのではないか」「一瞬一瞬を大切にして、為すべきことを為せ」と、20分ほども説いていました。
 
 この僧侶は、自分がどういう位置に立って、このようなことを説く資格があると思っているのか。純粋に生きるとか、正しく生きるということと、為すべきことを為せということが、断りもなく使える時代ではないのではないか。その生き方の中に、いまここの糧を求めて懸命に生きている人のことが算入されているのか。あるいは豊かになって糧は十分に得ていて、ゲームのようにお金を儲けることに勤しんでいる人のことは、為すべきことを為していることに入るのか。それら「一瞬一瞬を大切にしている」人々は、「純粋で、正しい」と考えているのか、そうでないのか。そんなことが胸中を去来して、そうしたことに踏み込みもしないで、高みから「お説教」する僧侶に腹が立ったのでした。
 
 しかし、こともあろうに、それをkmkさんにぶつけたのが、間違いでしたね。考えてみると、kmkさんがこのテープを聞いたのは、母上が亡くなってすぐのとき、つまり喪に服している時でした。彼女の関心は、日常的な次元を直にというか、ベタにみているのではなく、生老病死の人生という長いスパンのなかにおいて、みていたのだと思います。そこには、一瞬、日常の暮らしにあくせくとしている自分から離れて、(神や仏の眼で)自分を振り返ってみる状態にあったのではないでしょうか。ですから彼女が心を揺さぶられたのは、自らを対象としてみる「超越的感触」を感じていたからだと、思います。
 
 そう考えると、上記のテープの僧侶の話し方は、現実生活の「情況」と、道徳的に考えて片付くことと、宗教次元で考えてこそ大きく転換が図れることと、何もかもが一緒くたになって放り込まれているのでした。ですから、いまどこで、どのような暮らしをしている、誰に向かって、そのような話をしているのか、そんな話が、時と処と対象とする人という「場面」を区切らないで普遍的に通用すると思っていることに、腹を立てたのだと、反省的に思っています。
 
 つまりそれを受け止める方は、宗教的に考えるとはどうすることかを、まず、しっかりと見据えてkmkさんの話に向き合わねばならなかったのだと、思います。人生を大きく振り返り、あるいは、人類史のなかの私たちのありようという位置づけをしたうえで、思いを馳せねばならない場面だったのだと考えています。それは逆に、kmkさん自身が、あるいは僧侶の「お説教」をする(テープの)僧侶が、あらかじめ、話をする/聴く「次元を限定」しなければならなかったのだと思います。
 
 そう考えてみると、僧侶の話は、そのような「次元の限定」をしていません。いつも、普遍的な「真理」について話していると前提にしています。だが、もうそういう前提が通用する時代ではありません。
 私がかみついたことについてkmkさんが、「うまく言えんがわたしらは、何が正しいか、どうすることが純粋化ということは、わかっとるんじゃが……」と応じていましたが、思えば私たちの時代は、ある程度そういうことを共通の価値としてもって成長してきました。戦火による焼け跡と食糧難という戦後の混沌が共有しているベースでした。大人たちが(社会や国家という全体像に関する)自信を無くし、言葉を失っていましたから、私たちは「日本国憲法」がもっていた「理念」をある程度共有して育って来ました。
 
  だが、日本が経済的に大きく変貌し、高度消費社会という時代を経過したことで、すっかり共有する価値観も、変わってしまいました。だから「次元の限定」をつけなければ話が通じない地点に来てしまっているのです。(つづく)

「ふるさと」という情緒

2016-11-26 09:49:47 | 日記
 
 「ふるさと」というのを「自分」が生育った風景とそこに象徴される「かんけい」とみて、私はこれまで「出自」といってきた。それは言葉を換えれば、「アイデンティティ」の話とみてきたわけだ。だが、ホァン・ミンチェン(黄銘正)監督の映画『湾生回家 Wansei Back Home』(台湾、2015年)をみて、ちょっと訂正というか、言葉の重心をもっと情緒に移して考えるべきではないかと思った。
 
 「出自」と重ねて「アイデンティティ」というとき、どちらかというと「ルーツ」をイメージしていた。言葉の土壌がかたちづくられ、自分の感性が培われ、自己の(無意識と)意識が育まれてきた足跡を「アイデンティティ」と呼ぶと考えていたからである。つまり「人間存在」というものを「ことば/ロゴス」でとらえようと考えてきた。だがその根っこにある「情緒」こそが、「アイデンティティ」や「出自」の原基をなすのではないか。そうしてその「情緒」が今、蒸発の危機に瀕している、と思った。
 
 この映画の「湾生」というのは、日本の植民地時代の台湾に生まれた日本人のこと。大半は、敗戦によって日本(本土)に帰って来た。なかには台湾に留まるために、あるいは、台湾人と結婚していたために、現地にとどまり、子や孫、曾孫をなした人もいる。あるいはまた、我が子を育てられず、台湾人に預け母親だけが本土に帰国、残された子どもが養親に育てられ、そのうちの長男と結婚して幸せに暮らしているケースもある。その、日本本土に帰国した湾生が戦後、「ふるさと」を訪れる。あるいは、台湾人である、湾生の子孫が、自分の母や祖母の「ルーツ」を辿ろうと、日本を訪れる。この映画は、そうした人の動きを映像にとどめたドキュメンタリーである。
 
 登場する湾生はほとんど、昭和初年から昭和18年ころまでに生まれた人たち。つまり今、88歳から73歳くらいの人たち。敗戦のとき、18歳であった人がいちばん年寄りであったか。もちろん台湾を訪ねることができるくらい元気であるという理由もあろう。だが、親兄弟の消息が紹介されるにつれ、彼ら以上の年配者は、たいてい戦死していることがわかる。本土に帰国した彼らが目にしたのは、焼け跡と食糧難に囲まれた混沌の社会であった。だから彼らには、台湾という「ふるさと」が理想郷に感じられる。
 
 その湾生が自分の生まれ育った現地を訪れる。地元の人と話すうちに、軽々と中国語が口を突いて出る。その彼らと出逢った台湾の人たちが、ごく自然に日本語でやりとりをする。「台湾の人たちは(日本統治時代に)植民地だと教わったわけではない。日本だと教わり、そう思って育ってきた」とナレーションが入る。必ずしも差別的にばかり扱われたわけではないということか。「いいことも悪いこともいろいろあったが、総じてインフラの整備という点で日本の統治は好感を持って受け止められている」と客観的に語る研究者のことばも添えられている。祖父が入植し開墾し、果物が豊富に実ったとされる「ふるさと」が、いま元の荒野に戻ったまま捨て置かれている姿も映し出される。つまり今台湾は、当時の日本の入植開拓とは別の方向へ進路をとっているということだ。
 
 そう言えば、訪れた「ふるさと」は都会地ではないように思えた。昔日のたたずまいを色濃く残す町であったり、農村部のようであった。「ようであった」というのは、その町に暮らす人たちの、湾生を迎える応対が、私の子どものころの岡山の農漁村と工業の併存する地方都市の「人々」の振る舞いや、四国高松の(当時は)辺縁部にあった農村の人びとの佇まいに近い感触を湛えていたからであった。湾生は、その昔日の面影を目にするだけで涙があふれ、言葉を失っていた。
 
 あるいは、日本に「ルーツ」を訪ねてきた湾生の子や孫が、祖母(曽祖母)の生まれ故郷を訪ね、戸籍に湾生である母(祖母)の名が記されていることを知って(捨てられたのではないと)感動し、墓参りをし、その祖母(曾祖母)が本土帰国後に暮らしていた大阪を探し当て、身を寄せていたアパートの大家に当時の祖母(曾祖母)の様子を聞いて、嬉し涙をながす。その姿にも私は、昔日の日本の街のたたずまいとその人たちが身に備えていたたおやかな情緒を感じて、こみ上げてくるものを感じた。
 
 つまり、「ふるさと」を感じる「アイデンティティ」というのは、根っこにおいては「情緒」そのものであり、それがまつわりついた「ことば/ロゴス」や「振る舞い」でなければ、「ふるさと」を心裡に醸し出すことができないのではないか。
 
 なぜそんなことを考えるのか。先月大連と瀋陽を訪れ、そこに感じた大きな違和感のことをすでに記した。もちろん、満州と台湾という違いはあろう。また台湾は、日本統治時代に比べて蒋介石の親友によってまことに過酷な中華民国時代を経過したことが、〈昔はよかった〉という感懐を残したという要素もあったに違いない。だが、なによりも満州に対する侵略と傀儡支配という日本の冒した力技による介入が、私の内部で収まりがつかないままに、熾火(おきび)のようにまだ燃えているからだったのではないか。とするとこれは、私の「情緒」的には決して消すことのできない「違和感」として胸中に抱き続けるしかないのかもしれない。
 
 ひとつの映画が、また私の心裡の深みを探し当てたように思った。

「お金の話」 心裡の扉を開ける

2016-11-25 09:07:15 | 日記
 
 昨日TVをみていたら、高校生向けに「お金の話」をはじめたという報道があった。なんでも経済取引における責任能力が18歳から発生することに応じて、どこかの金融・証券関係のベテランが高校へ出向いて出張講義をするという話だ。なんだ、そんなことなら何十年も前、バブルのころからあったと私は思う。そうして、そんなことよりも大事なことがあるだろうが、と内心のどこかで声が聞こえる。
 
 私も「お金の話」を若い人たちにしたことがある。だがそのとき私は、私が「お金の話」をするのだと思い込んでいた。いま思うと、若い人たちと「お金の話」をすることを忘れていた、と思う。私が彼らに「教える」と思っていたのだ。だが今なら、彼らがどうお金のことを考えているのかに耳を傾けて、それに対して私がどう考えるかをやり取りすればよかったと思う。そのようにふるまったら、私が「教える」のではなく、私は「場を整える」だけ、彼らが勝手に「学ぶ」。もちろん「場を整える」というのは、無手勝流ではできない。「お金」にかかわる視座や視線を取り出して方向付けをする必要がある。
 
 いうならば、「教える」というのが「教わる」側から見ると「自動運転」だとすると、seminar的な場面というのは、海に浮かぶ船の「自律運転」のようなものだ。「自動運転」ならば、行き先を確認して乗り込めば、船は勝手に目的地に向かってくれる。操縦する船長は教師だ。だが「自律運転」というのは、船長は船が転覆しないように取り計らいはするが、どこへ向かうかは乗り組んでいる人たちの気の向くままになる。ただ、船が転覆しないですすむというのは、どこか停泊地にこぎつけることが必要だ。船内の秩序だけを取り仕切ればいいのではなく、どこかの停泊地につけるようにはしなければならない。そのとき、「どこかの停泊地」というのは、「お金の話」にとっては何であろうか。
 
 ひとつは、「教わる」側が「自律運転」を実感できること、であろう。自分たちの発言によって紡ぎだされてくる言葉によって、自分たちの「お金」に対する見方が浮き彫りになり、どうしてそう感じているのか、そう考えているのかと、感性や思索の根拠へ話が向かうと、そのやり取りを黙って聞いているものにも、自分の感性や思索の根拠への問いかけになる。つまり参加者が、参加した実感と意識を持ち、発言者の参与によって思考が深まったと感じ取ることができる。だが「自律運転」とはいえ、「根拠」へ発言を向かうには、自然発生的な発言を待っていては、かなわない。
 
 教室における発言を自然発生に任せておくと、私はこう思う、俺はそう思わない、という自己の感懐の陳述に終始する。なぜ(そう思う)と聞いても、そのほうが得じゃん、そうしないとどうなるか心配だわと、肌身に触れるような感性次元を披歴して終わる。そうすると、奴はそんなことを考えてるんだ、あの人はそう思ってるんだと、発言者個々人の特性を発見することに終始する。それでは「お金の話」をした背民seminarとしては停泊地に着いたといえないのではないか。
 
 つまり、「教わる」者たちが感性次元を披歴したときに、さらにその深みへ切り込んでいく「問い」を船長が発することによってseminarは、「自律運転」の様相を発言者、参加者の胸中に醸し出してくるのではないか。「場を整える」というのは、参加者たちが自らの心裡に思索の垂鉛をおろしてゆくきっかけをつくることによって、はじまる。せいぜいその起動の発端をつくるだけである。推進力は参加者の発言による。重要なのは、「深み」へ向かうかどうかだ。「深み」は「教わる」人たちの内心に潜んでいる。その戸口を開けるかどうかは、それぞれの本人次第。そしてたいていの人の扉は、本人が自ら閉じたり開いたりしているのではなく、身を置いている「場」によって扉が開いたり閉じたりしている。seminarの場において、たとえば一人が「深み」へ踏み出せば、ほかの人たちはその足跡に引きずられて、同様に心裡に垂鉛を下してゆく。だから船長が「場をつくる」というのは、やはり特権的な位置を占めているといえる。その特権的な位置は、「教わる」人たちより「深み」を見る視線を持っていなければならない。少なくとも扉のありかを指し示すことができなくては適わない。
 
 「深み」に向かわず、「教わる」人たちを「高み」に導こうとするのが、先ほどのTVに登場していた金融・証券関係のベテランだ。むろんそれも、「世界」を見る視野の高さと広さを獲得することにはなる。だがしばしば、若い人たちにそれをもとめると、地に足がつかないままに浮遊してしまう。「高見」に立っていると、自分が神の視座を得たように錯覚し、世界について云々する資格があると、勘違いしてしまうのだ。いや実はTVに出ているベテランたちを見ていて、日ごろ私が感じていることでもある。世の人たちは真実を見る目がない、だが私はそれを見極める目を持っている。なぜかそう前提にして、自信たっぷりに発言している方が多いのだ。たしかに、(仕事として)教育世界に長く住んできた私などが「世間知らず」であることは認める。金融・証券業界のベテランたちのような「世界」は、ドキュメンタリーとか小説でしか知らない。だが逆に、それが「私たちの世界」かと問えば、一角ではあるが、肝心なところを占めているとは言えない。やはり、世の波間に浮かぶ小舟のような立場ではないか。
 
 それよりも、「深み」に向かう視線は、なぜ私たちが今のような感性と思考をもってきているのかを、吟味する。そうすると、「お金」がなかった時代から私たちの祖先が何をどうしてきたかに思いが至る。現在に集積された過去の時間が、ずっしりと降り積もっていることを、まず実感できる。それは「高み」への問いにもつながる。どのようにして、今に至ったのか。なぜいま「高み」と自称している金融・証券関係のことごとが、あたかも世界を支配しているようにみえるのか。そのことは、私たちの暮らしにどう関係しているのか。それほどに重きを置く必要があることなのか。そうした自問をする人たちの扉を(自ら)開くのは、「深み」への問いかけを契機とする以外に、ない。
 
 もし私たちが、後に続く若い人たちに何かを残すことができるとすれば、その扉のありかをみつける姿をさらすことかもしれない。だって私たちもいまだ、自分の扉を開け続けているのだから。

雪は降~る あなたは~来ない

2016-11-24 10:58:10 | 日記
 
 一昨日(11/20)は温かかった。半袖でもいいぐらい。カミサンを車で浦和まで送り、ついでに図書館へ寄って本を返し、本を借りてくる。いったん帰宅して車を置き、医者に行き剥離骨折をした小指の様子を見てもらい、そのままぶらぶらと街を散歩してきた。日向を歩いていると汗ばむほど。羽織っていた長袖を脱いで手に持ち、半袖になって見沼田んぼの方に向かう。公園のケヤキがすっかり色を変え銀杏も黄色くなって、秋深しという感じになっている。公園の高台からの芝を敷いたスロープを走り降りる保育園(幼稚園?)児らの声が、広いグラウンドに響く。スロープに寝転んでごろごろと転げまわっている子たちもいる。若い街だ。
 
 昨日(11/23)は予報ほどには晴れていない。西の方のところどころに低い雲がみえて、そちらは雨かと思わせる。青空も見えるし、寒くはない。でも、温かいというほどではないから、長袖にセーターを着て、軽い羽毛服をリュック入れて歩く。通船堀を抜けて芝川の左岸に立つ。下流へ向かう入口に「農に触れる散歩道」と表示する看板がある。2週間前に学園地区を左に見てあるいたところだ。グラウンドで部活動に興じる賑やかな声が聞こえる。そうか、今日は勤労感謝の日だと、祭日であることに気付く。右岸と異なり左岸の堤防の上は舗装してある。サイクリング道路という表示もある。芝川の川口市部分が手入れされて下流で荒川に合流するところまで整備されている。その半ばまでを歩く。外環道をくぐって、昔、鳩ケ谷と言われていた地に入ると、カモメが飛び交う。はじめ1,2羽、しばらくすると群れになって飛んでいる。海に近くなったというよりも、荒川に近づいたのであろう。まさに「川口」なのだ。
 
 そこから芝川の右岸に移り、土手を上流へ向かって帰路につく。右岸はまったく整備されていない。土手の上には踏み跡がしっかりついている。芝川の水量は多い。オオバンが鳴き、ハクセキレイが土手を横切る。カワウが切り株にとまっている。シラサギが川の流れをなめるように上流へひらりひらりととんでいく。先ほどまで水に脚をつけていたダイサギが、ふ~わりと身を浮かせ、上空をぐるりと舞う。気がつけばカモメは姿を見せていない。風はない。
 
 車の通りをくぐる土手道はいま、工事中で通れない。さらに高速道と一般道の並行して走る外環道も、回り込んで広い道の信号を渡る。何度かそういう経路を繰り返していると、車が頻繁に通る広い通りの信号の向こうに「角上魚類寺泊」と大きな看板の店が賑わいを見せている。祭日、それも正午を過ぎているとあって、買い物客でごった返している。食堂でもあれば、何か腹に入れようと店に入る。食堂はなかったが、すきっ腹で鮮魚類を並べている店に入るのは、まずかった。刺身や寿司がうまそうで、ついつい買ってしまった。これじゃ、家に帰って食べるしかない。買ったものをリュックに入れて、急ぎ家へ向かったが、どう歩けば最短で帰れるか、土地勘がない。一度芝川沿いに出ないと分からないと思った。
 
 おおよその見当をつけて芝川へ近づきつつ、家に向かうようにすすむ。山で迷うよりも、わかりにくい。山は周囲が見渡せれば、尾根と渓とがわかるから、おおよその見当がつく。だが住宅地は、どこも似たような造り、必ずしも区割りが四角ではない。道がゆるりと屈曲している。古い町なのだ、川口は。なんとか見知った道路に出て帰宅し、買った寿司を、遅いお昼にした。いい気分であった。よく歩いたからだが、歩きながら、よくぞ1億2千万もの人がこうやって活動して生きているんだと思うと、それだけで〈よくやってるな、人間は〉と、一国主義的ではあるが、感嘆してしまう。
 
 そうして今朝、自転車置き場に落ちる雨音で目が覚めた。しばらくすると電車の通る音が聞こえる。おや、5時を過ぎているんだ。起きることにした。路面は濡れているが、雪は積もっていなかった。それが霙に変わり、雪になったのは7時ころ。静かに振り続け、今も降っている。車の屋根に積もり、生垣のヒバの頭も白くなった。電線にスズメであろうか、何羽もの小さな鳥が並んで止まっている。カミサンも予定の植物観察に行くのをやめて、時間をかけて朝食をつくっていた。
 
 でもなんだ、この三日間の天気の移り変わりは。20℃ほどから16℃、そして今は1.5℃と激しく変わる。ラニーニャ現象とか説明はあるが、その大きく激しい変動が地球の転変の「自然」に組み込み済みのことなのか、人の活動がもたらしめたものなのか、気になる。むろんただただ、「自然」の成り行きに身をあわせて生きていくしかないのだが、昨日の「感嘆」が罪深いことのように思えてくる。いつかこの私の「気になる」ことが氷解する「恩寵」が降りてくることを、ほのかに期待しているのに、気づく。
 
 でも、雪は降~る、あなたは~来ない。

遊びの達人(3) 「庶民の、読み・書き・のしかた」

2016-11-22 13:52:51 | 日記
 
 遠回りをしてしまった。11月10日のmsokさんのお話しに入る。彼は三つのプリントを用意していた。
 
(1)《『自分で自分にインタビュー』独占掲載》と銘打った四百字詰め原稿用紙で15枚に及ぶ「資料」。
(2)《ささらほうさら msok原稿》と題した、四百字詰め原稿用紙16枚ほどのプリント。「小説」である。
(3)16×23字詰めの「手作りの原稿用紙」。「〈特製〉第5回異議有馬記念競走落馬記念原稿用紙」と頭に表題がつけられ、冒頭に「◎〆切を守る姿勢が笑顔呼ぶ」と標語がつけられ、末尾に「名誉編集部謹製」と発行者の銘も入っている。
 
 そうであった。mskoさんは、36年間続いた「異議あり!」紙の初代編集長と三代目の編集長を務めた後、「名誉編集長」の栄誉を得た。それほどに、彼の我がミニコミ紙に及ぼした影響は多大であった。継続こそが力だとマンネリズムを称揚する。高度経済成長が勢いをもっていた時代である。何事も新奇なものを、より成長させ、改革を図ることが必要と誰もが考えていたころ、いやいや「暮らし」そのものはマンネリズムそのものだよと、声を出すような振る舞いであった。それに耐えるために、ミニコミの発行作業を彼は「作業変格活用」と名づけて、「遊び」にする知恵を働かせた。メンバーを馬主に、その力量を競走馬に見立てて、原稿書き、ガリ切りなどをポイントにして1年間の「競馬」に仕立てた。なんてことのない「グラフ」上の「競馬」であるが、「予想」を出し、年2回の合宿ごとに「馬場」での進捗状況が書き出され、納めの合宿において「表彰」が行われた。賞品も出た。「川口信用金庫」と書かれた街中で配られたティッシュだったりしたが、皆面白がって競争に参加した。
 
 10/14のこの欄の《庶民としての文化的自律—地の塩の「楽しさ」》の中で、
 
 《70年代には、「異議あり!」の発行を媒介項としてはいたが、その作業よりも、集い、遊び、ソフトボールをやり、旅をし、議論をし、酒を飲んで、「バッカだなあ、俺たちは」と謳ってきた。》
 
 と記した。三角ベースや柔式野球を「運亊」、麻雀や歌やゲームを「遊亊」と名づけたのも彼の手による。帽子やTシャツ、短パンのユニフォームをつくり、記録をとり、あるいは打率、勝率を計算し、名球界の殿堂入りを決めるところまで、一つひとつを丁寧に「遊び」に仕立て上げる。ついにはフラッグをつくって九州に出かけて「全国大会」を行うところまで、本気でまじめに遊びつくすことに力を尽くした。そうそう、「バッカだなあ、俺たちは」というのは、msokさんが作詞した我がグループの歌・『異議あり!ブルース』の一節である。考えてみれば、酒を一滴も飲まない彼が46年間、酒飲みたちの放歌高吟に付き合ってよく過ごしてきたものだと、呑兵衛の私などはほんとうに感心する。
 
 前掲の(1)「資料」は、msokさんの近況を問答式に書き記したもの。声を出して問いと答えを読み合せる運びにした。そのなかに、先に上げた『異議あり!ブルース』の一節、「♪エクリチュールの花も咲こ~」とあるのを引用し、こう続けている。
 
 《……私は御存知のようにエクリチュールには縁の遠い人間で、寧ろその剰余の方にぞっこんの性向(むき)がありまして、されば剰余の花をばこの小説で咲かせたらと念じておる次第です。》
 
 と、「エクリチュールの剰余」を「得意」としている自白がある。そもそも「近況」を文章にして、現場で声をあげて読み上げ(させ)るというのも、msokさんの得意技が奈辺にあるかをよく表している。話を聴くよりも、文章にしてそれを読む方のが、彼の文章作法の極意である。彼の人柄と面白さが伝わる。彼自身が目下200枚ほど書きすすめている「時代小説」の、原稿用紙4枚ずつのプロット4カ所もプリントされていたわけであるが、それを声を出して読んだkwさんが「声に出して読むとよくわかる。いや、いいよ、これっ」と褒めた。msokさんは「そうなんですよ。私は音楽を奏っているように書くのが好きなんです」と、素直にお褒めを受け取った。msokさんは若いころから、モーツアルトやバッハのようなクラシック音楽の、好事家であった。ケッフェル番号を聞くだけでその曲が思い浮かぶほどの入れ込みようであった。音感がいい。演奏者によって同じモーツアルトも違ってしまうことを、同じ好事家の友人とずいぶんとしゃべりあっていたが、私にはとんとわからないことであった。
 
 そう言えば、こういうこともあった。私は香川に生まれ岡山で育って埼玉に来たのだが、彼とあった当初、私のサシスセソのサ行の発音がヘンだと、ずいぶん彼にからかわれたことがある。彼はそれを単純化して真似をするのだが、私にはシャシシュシェショにしか聞こえない。なんてことを言うんだと噛みつくが、周りは彼に同調するように笑って頷いている。よほど私の耳が悪いのかもしれない、と思ったことがあった。あるいは、埼玉北部地方の抑揚を消した平板な地名の呼び方を取り出して、ひとつの特徴だと話してもいた。そういった音韻とか抑揚に敏感であった。
 
 と、上記のようなことを書きすすめていた今日(11/21)の朝日新聞「文化・文芸」欄に、「村上春樹さんデンマークで語る」という企画記事が出ている。そのなかで村上春樹が「現地の図書館や大学を訪れて」(訳書を日本語で朗読して)語った紹介がある。
 
 《僕は作家になる前、東京で小さなジャズクラブを経営していました。書くためにさまざまなことを、音楽から学んだのです。……僕にとってリズムとメロディとサウンドは、書く上でとても大切なことです。だから今日は、日本語の音とリズムを楽しんでほしい。》
 
 そうだこれだ、と思った。msokさんの胸中にこだましているのは、ジャズというよりはクラシックであろうと思うが、彼の文章には音楽が流れている。そうであれば、その文章に「どんな意味があるか」などは二の次、心弾むように読めたり、耳にして面白いと感じることができれば、それで十分ではないかという「遊び」の心がかれの「エクリチュール」を満たしている。
 
 かと言って、言葉の現在だけに目をやっているわけではない。古文書を読み解く勉強をし、目下の時代小説に生かし、舞台となる地域の歴史的検証も怠ってはいない。謙遜して「剰余」と言っているが、ひょっとするとそれも謙遜ではなく、世の中に「エクリチュール」と認められるようなところ、テーマを論じたり、意味を問うたり、意義を考えたりすることをとびこえて、はみ出すことこそ、我が本領と思いなしているのかもしれない。そこに彼の、「庶民の、読み・書き・のしかた」を確立しようとする大志があるように思った。つまり、彼が受け止める「剰余」は、一般的普遍的な体制(エスタブリッシュメント)に回収されない「生活者のエクリチュール」を意味していると思えるのである。
 
 彼の配布した(3)「名誉編集長謹製原稿用紙」は「宿題」になった。お題は何でもよい、来月の「ささらほうさら」までに書いて提出せよ、それを「冬合宿」でどう扱うかは「合宿学事担当」に任せる、と。いかにも名誉編集長時代の彼らしい「指示」のしかたであった。むろん異論を唱えたものは、一人もいない。
 
  皆、彼を敬愛してやまないのだ。