mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

変わらず降り続く雨

2020-07-31 08:50:48 | 日記

 奥日光は、昨日(7/30)も朝から雨。ゆっくり食事をとり、宿を出て、竜頭の滝上の駐車場に車を置く。ここから高山を往復して来ようというわけ。上りはじめるころには雨がやみ、「9時~12時曇り」の予報通りだと喜んだのもつかの間、小雨になる。ただ、樹林の中を歩くから、それほどうるさく感じない。戦場ヶ原につづくカラマツの林とミヤコザサの森は、しっとりと濡れてみずみずしい。足元は砂利道になっていて、ぬかるんでいない。大きく高山の山体を西へへつって回り込み、緩やかに高度を上げる。高山の北端のピークを巻いて中ほどで稜線に上がる。ここにロープが掛けられているが、それほどの急登ではない。稜線上には「←竜頭滝・高山→」の標識が立つ。深い雲霧が進路を閉ざしている。
 
 前を歩くカミサンはときどき立ち止まって、ヤマガラだろうかと鳥の声に聴き耳をたて、腰をかがめて草をみている。巻道で追い越していった60歳代の単独行者が、前方でしゃがみ込んでいる。反射板をつかってキノコを撮影していた。立ち止まったカミサンに「フウセンダケ。おいしくないよ」と言い、あとにつづく私に「これね、ぬめぬめしてるんですよ」と、一本を抜いて(私に)差し出す。さわると、なるほどぬめっとしている。私たちが先行する。
 
 稜線歩きも、ところどころのピークを巻くように踏み跡がつづく。冬ここを上った時は、全部雪の下。稜線の上がるまでのトラバース道は、深い雪に覆われ、見当もつかなかった。むしろ急斜面を木登りのようにして上り、早く稜線に出て、ほぼピークを踏むように直進した。その時の印象では、結構な急登の高山と思っていたのに、この緩やかな上りは何だ。拍子抜けするようだった。
 最後の上りにかかるところで、ズダヤクシュが楚々とした白花をつけて何輪か笹薮から顔を出している。そこから一息で山頂であった。やはり雲霧の中。山頂の標識と少し離れたところに、「←小田代ヶ原・竜頭滝→」の案内標識があった。1時間半。のんびり歩いた分には、コースタイムを15分オーバーした程度。喜寿の山歩きとしては、ま、そこそこなんじゃないかと笑う。
 
 15分ほどいて、下山する。ズダヤクシュのところで、先ほどのキノコカメラマンに出逢う。カミサンが「テングノ・・・ってキノコありましたよね」と声をかけると「ああ、メシモリですよね」と返事が来る。何やらやりとりがあって「気を付けて」と挨拶して分かれた。「なに天狗って?」と私が聞くと、「うん、なに。どれほどのキノコの人かと思って」という。訊ねて確かめたのだそうだ。人が悪い。少しばかりのジグザグの急坂を下る。右手の樹林の間から下の方にぼんやりと見えるように思うのは、中禅寺湖だろうか。
 細い急斜面の下りにかかるところで、前方から登山者が列をなしてやってくる。わきに除けて、通り過ぎるのを待つ。一人一人が、挨拶をして通り過ぎてゆく。14人。中年のようにみえる人から、アラカンくらいの人たち。男性が二人いたが、息が苦しそうだ。末尾は年配の女性。リーダーだろうか。「どちらから?」とカミサンに声をかける。少し言いよどんで「埼玉からです」と応じると、「私たちは千葉。」と肩をすくめるようにして笑う。コロナの移動自粛を気にしているのだとわかる。駐車場の車も、宇都宮ナンバーととちぎナンバーであった。帰るときに横浜ナンバーが1台止まっていたが、これは山ではないかもしれない。
 
 12時に下山。さかさかと帰途に就く。立ち寄ろうかと思っていたとんかつ屋は、外にも人が順番待ちをしていた。いろは坂を下って古川電工の工場近くにある中華料理屋「幸楽」に行く。ほぼ地元の工事服を着た人たち。レバニラ炒めと麻婆ラーメンを頼んで、待つ。窓は開けてある。お喋りは低声だ。食べ終わると、何人かずつ工事用車両に乗り込んで、それぞれ別の方向へ向かって行った。
 食事を終え、高速をつかって帰ってきた。スーパーで買い物をして、ガソリンも入れて3時帰着。まことに順調であった。
 こうして、雨の奥日光が終わった。梅雨明けではなかったが、雨の戦場ヶ原や湯元も夏の風情としては悪くない。人も閑散として、夏休みという気配がなかった。それがまた良かった。


水滴る奥日光

2020-07-30 06:20:38 | 日記

 今日(7/29)も雨。今年の梅雨は、どうなってんだろう。もうじき8月だぜ。いつもなら、「梅雨知らず」と言われる奥日光も、連日の雨、雨、雨。
 でも、もともと雨だと思っていれば、雨はどうってことない。
 今日も赤沼から歩き始めた。歩くはじめる前に、赤沼のバスセンターの案内センターに立ち寄った。戦場ヶ原はほぼ立入禁止。昨年の台風19号が残した爪痕の始末がついていないのだ。
 どうして、一年近くも? と思うかもしれないが、栃木県の予算案がどうつくられ、どう執行されているかわからないから、外から口を出すわけにはいかない。でも、案内所のガイドは、大切であった。小田代ヶ原から泉門池に出て、そこで食事をして湯滝に抜ける、湯川沿いのルートが閉鎖されている。
 えっ? とすると、森の抜けるルートか?
 その通りであった。昔は冬場しか使えない、案内標識のない森の中のルート。ワケ知ったる人が案内して、森を抜け、湯滝へ向かうルートは、周辺の地形をみながら、山の裾が湯滝と泉門池からの笹薮(あるいは雪の原)と出合うところを目指して歩くことで通じていた道である。ありがたい。
 話は前後するが、赤沼から小田代ヶ原までの間を歩く人たちは、結構多い。皆さん傘をさしている。中には、立ち止まって鳥の声と姿を追い続ける方もいて、皆さんそれぞれの好みに応じて、このルートに足を運んでいる。聞こえたのは、ホトトギスとウソと何やらわからぬ鳥の声。
 
 実際歩いてみると、小田代ヶ原から泉門池のルートも、本当によく整備されている。昔の木道二本も、六本を組み合わせた広い木道に付け替えられ、小田代ヶ原の入口から出口まで、しっかりきちんと整備されつくしている。バリアフリーにするための工事であったそうだ。
 小田代ヶ原はホザキシモツケの花盛り。加えて、ノアザミとニッコウアザミが満開であった。泊まった宿のガイドがとった小田代ヶ原の写真が、上記の二つと貴婦人を構図に入れた見事なものであった。あとで撮影者のアベサンに聞いたところ、「これが見られるのは、今年が最後かもしれません」という。写真のすぐ外側と手前に大きく育つ木々があって、来年になると、もうこの姿は目に入らないということだそうだ。見ていた私たちは、ところどころにあるトモエソウの終わりかけた花に風情を感じていたのですがね。
 途中追い越していった、アラフォーの元気なお姉ちゃんに案内してもらっていた十数人のグループも、隊列の後ろの方の人たちは、おいおい大丈夫かよと思うほどよたっていたが、私たちを追い越し、お昼をほぼ一緒のところで過ごし、少し先に出発したが、ついに、湯滝まで追いつくことはなかった。たいしたものだ。
 go-toに団体はないって? あの人たちは「若い人たちの団体」だったろうか。「年寄りの団体」だったろうか。う~ん、ひと口に年寄りともいえないから、ま、go-to好みの「団体」さんだったのだろう。でもガイドはたいへんだろうなあと、団体を率いたことを思い出して、同情している。
 
 それでも泉門池に着いた頃は、雨が落ちていなかった。雲の中。お昼にする。男体山は見えない。昔はここにシカが現れたりしたが、今は駆除がすすみ、また、シカ柵が設えられて、姿をみることはめったにない。そうそう、シカが運ぶというヒルも、一匹をルート上に見かけたくらいだった。
 湯川沿いに代わる湯滝へのルートは、しかし風情がない。森の道と呼んだのとは異なり、切り払われた笹原が何だか乱暴な人工物と変わらぬ 道にみえた。なんだろう。人の設えたものは、全体の景観に溶け込むかどうかが問われるのではないかと思った。この道、今年作ったものだそうだ。昨年の台風19号で通れなくなった湯川沿いの木道に変わるルート整備を環境省がすることにしていたのに、いつまでたっても取りかからぬのに業を煮やした地元の観光業者が「これでは小学生の修学旅行でここが使えない」と強く懇願して、栃木県と日光市が国から土地の借用を願い出て、この道を開いたそうだ。突貫工事だったのだろう。
 
 湯滝の水が、例年になく多かった。滔々と流れる湯滝の見事さは、標高差で華厳の滝に及ばないが、間近に見える点では、それに勝るものがある。その湯滝の脇の道を流れ口まで上る。この道も整備され、手すりのついた標高差100mの歩きやすいルートになっている。
 その湯滝の落ち口から南に進路を変え、南岸を通って湯元へ向かう。こちらは深い森と湯ノ湖の湖を隔て辿る、面白い道。踏み跡はしっかりしている。ただ、押し寄せる外山の山体が崩れたところもあり、なお、木の根がしがみついて崩落を抑えているところも通過して、歩きごたえのある道となる。冬場には、通行止めとなることが多い。富山の雪が崩れ積もって、道を塞ぎ、除雪もできなくしてしまうのだ。
 
 こうして今日の、小田代ヶ原と湯ノ湖縦走は終わった。行動時間は4時間40分。標高差はせいぜい百メートルちょっとだから大したことはない。師匠も、植物ばかりでなく、ここ十数年の間に歩いた孫たちとのことを思い出して、感慨深げであった。


まさしくgo-to-trouble

2020-07-29 16:59:42 | 日記

 奥日光に来ています。東京のコロナ感染者数がどんどん増えていた今月の初め。7、8月に予定していた宿泊を伴う山行を、(山の会の常連が)白紙に戻した。宿(での感染)が心配というのだ。その当時は、梅雨が早く開けるといわれていたから、それで私の山プランは、まったくフリーになった。ならば、まず奥日光に行ってカミサンを師匠に植物の門前の小僧にでもなろうかと考え、宿を予約した。政府のgo-to-キャンペーンなどが始まる前の話。
 
 ところが、梅雨が長引く。昨日(7/28)も、霧雨が降る。高速路もほぼ順調、まず、日光植物園に入った。何年ぶりだろう。15、6年程前には頻繁にここを訪ねて、花や木の葉の色づく写真を撮った。ハンカチの木の白い花をはじめて見たのも、ここであった。懐かしい。イワタバコの花があるよと、先着して帰ろうとしていた見学者が教えてくれた。
 ヤマユリが元気がいい。ウバユリはもう終わりかけている。アジサイが終わったのからはじまったのまでいろいろとある。クサアジサイが今を盛りと咲いている。タマアジサイはこれからの準備が整っている。アキノタムラソウとチダケサシが背の高さを競うように花を伸ばしている。
 なにより園内のどこにいても高木の緑葉に覆われて、降っている雨がやわらぐ。森に浸っているという感触が心地よい。東屋でお昼をとって、2時間半も観て回った。師匠はツルガシワが確認できてよかったという。私はキレンゲショウマがちょうど花を開きはじめているのに、楚々とした思いを感じていた。
 終わりころになって、手の甲にヒルがついているのに気づいた。降り落して、事なきを得たと思ったが、師匠もまた、手の甲にヒルをみつけ、拭うとそちらの手の指に移り、振り払うと足元の靴にしがみついてなかなか頑張っていた。しばらく、山のヒル談議をしながら奥日光に向かったが、宿に付き、風呂に入ったところで、左足の靴下が真っ赤になっているのに気づいた。脱いでみたが、二カ所ヒルが吸い付いた跡があり、そこからの血が止まらない。靴下を棄て、絆創膏でを貼って凌いだ。痛みはまったくない。師匠も同じように、靴下が真っ赤になっていたという。これが、第一のトラブル。
 
 笑いながらワインを空けて夕飯を待っていたが、トイレの電気がつかない。テレビがつかないとカミサンはいう。フロントに電話をすると、この辺り全体が停電中だという。でも部屋の電気は付いているよというと、それは非常電源が作動しているからという。スマホで調べると、5時27分湯元停電、120戸、回復見込み8時とある。
 夕飯は大丈夫なのか。大丈夫じゃなかった。前菜を用意したところで、全部中断。夕食も始まらないまま、部屋で待機。それでも6時半ころまでは、外の明かるさで本が読めたが、その後は部屋の電気も消えてしまった。
 まさにgo-to-troubleだねと話しながら、あとは早々と寝に就いた。
 8時になっても回復しない。宿のスタッフがお茶やお菓子を持ってくる。
 9時45分頃に宿のスタッフが味噌汁とおにぎりとおしんこを乗せたトレイをもってきてくれ、「いま、しばらくお待ちを」と挨拶してまわる。「いや、我々はこれでもう十分です。ご苦労様」と応じて、おにぎりを食べていたら、部屋の電気がついた。
 その10分ほど後だったろうか、「夕食の準備ができましたので・・・」と放送があったが、もうお腹はいっぱい。電話もきたが、食べないと告げた。
 寝付くこともできず、読みかけの小説をそのまま読んで、とうとう読み終わってしまった。11時ころ就寝。一食抜いた気分が胃袋に心地よく、6時前に目が覚め、風呂に行った。停電後のトラブルで風呂入口の廊下に水が溢れ、スタッフはその始末に大わらわ。本当にご苦労さんでした。
 もう一泊する私たちは、一食抜いたくらいの気分で鷹揚でいられるが、一泊で帰る人にとっては、まさにトラブル。朝食でスタッフと声を交わす言葉を聞いた。6人ほどの団体で来ていた人たちは、「部屋飲みで過ごしたわよ」と、コロナ構わず笑っていた。日本の旅客は、十分しっかりしている。


とんび

2020-07-27 11:48:34 | 日記

 新型コロナウィルスのお蔭で、古いドラマの再放送を観ることができる。7/25には、重松清原作の「とんび」の前編と後編、各73分が一挙に放映され、録画で観た。既視感があった。原作は読んだ覚えがある。ひょっとしてと思って、調べたら、2011年(2011/11/26)に「我がことも他人事、他人事も我がこと」と題して感想を書いていた。転載する。
                                            *
 重松清『とんび』角川書店、2008年)を読む。子どもが生まれ、育ち、親元から離れて行き、その子どもが親になるという、親と子とそれをとりまく人々の物語である。主人公は私たちより少し上の年齢か。高度成長からバブルがはじけるころまでの時代の流れは、ちょうど私たちの子育ての時代と重なる。そのせいか、何度も目をうるませながら読みすすめる。
 舞台となる街の設定も、岡山県に隣接する人口20万人の市。ちょうど福山市の半分くらいの人口であるが、少し行くと海辺に出るイメージは私が育った玉野市と似ている。もちろん方言はほとんど変わらない。小説は読む者がイメージをつけくわえながら読み取るから、たぶん体に刻まれた無意識が「なにか」に反応して、目が潤むのであろう。その「なにか」とは何か。
 重松清は、親と子、育ちゆく子どもの姿を、内面の微妙な揺れ動きとともに描いて秀逸な作品をものしている。『とんび』では子どもの内心はほとんど描かれないが、主人公である父親の、子どもを介在させた気持ちの揺れ動きは、不器用なキャラクターと周りの人びととのやりとりによって浮き彫りになっていく。
 重松清は[子どもを育てるのは親のつとめ、一方的な贈与である]と信じていて、それを確信することができたときに、親は子から、子育てから自律するというメッセージを、この『とんび』から送っているようである。むろん、子が親となってその確信にめぐり合って己の来し方を再認識するという二重底に、物語はなっているのではあるが。そのことが、私を涙目にさせる。うれしいのである。私自身の感じとってきた「自己認識」が行間に垣間見えるからであろうか。
 親との若いころの確執も記憶はすっかり薄れ、あることはことばとして抽象化され、あることは身体の記憶として心中深くにたたみこまれて、いずれにせよ、昇華されて心中におさまっている。
 親ばかりではない。ふるさととか、旧友とか、街の風景を含む時代そのものが、すでに現実のものというよりも、遠い、あるいは高いところに蜃気楼のような印象を残して見えている。過去は過去、よきものとしての過去をとりだすこともできるし、現在とのつながりを見つけ出すこともできるが、身体の現在の感覚を切断するほどの痛みは伴わない。我がこともどこか、高みではないが、ひとつスクリーンを挟んでみているような視点が、加齢とともに滑り込んできているようなのだ。距離をおいてみている。言葉を換えて言えば、他人事(ひとごと)なのである。
 これが自律だ、と思う。我がことも他人事、他人事も我がことのように感じとれる。ただ感じとれる。考えると、つまらない言葉の羅列になる。こうした地平にふと佇ませてくれたのが、重松清だと言えようか。
                                            *
 観ていてひとつ感じたことがある。小学校時代からの親しかった高校の同級生が、地元の大学へ行った。帰省するごとに彼とは話すことがあったが、かれもまた「とんび」同様、母一人子一人の母子家庭。父親は戦死していた。そうか、彼が岡山の大学へ進んだのは、母親を一人にしておけなかったからかと、はじめて思い当たった。岡山で就職し、後に結婚して東京住まいになり、90歳近くになってやっと母親が決心して東京に来て暮らすようになった。
 兄弟が5人もいた3男坊であった私は、親元から独立することばかりを夢見ていて、その通りに運び、じつは親のことなど一度として心配しないで、こちらで暮らすようにしてしまった。だが、親の暮らしを気遣って「ふるさと」を離れるわけにいかなかった人たちも、考えてみるとずいぶん多かったにちがいない。いや、いつか亡母のことを記したときに、私の弟が母親を残して関東の大学へ行っていいのかと述懐していたことを、思い出した。兄たちが次々と出郷していくのを(母親とともに)感じていて、そう思ったのであろう。弟の心裡を推し量ることさえしないで、のうのうと暮らしてきたわが身を、情けないなあと思うが、いまさら、後の祭りだ。
 ま、仕方がない。子どもが自律することって、そういうことよ。わが身のやって来たことを振り返ると、今の息子がどう振る舞っていようと、知ったことではないと見切るところにまで、歳を重ねてきてしまった。
 そうか、もうひとつ。重松清の「とんび」は、鳶が鷹を生むような物語りでもある。これは、戦中生まれ戦後育ちの私たちにとっては、経済成長から呼応度消費社会を経て、バブルがはじけ、その後の「失われた○十年」という特異な時代の、特異性の象徴のような物語である。鳶が鷹を産まなくても構わない。トビがスズメになっても、シジュウカラになっても、自律して人生を送って行けるようであるなら、それで十分という物語りが、これからの時代にはふさわしいかもしれない。
 そこもまた、能天気な時代であったなあと、感じる。ごめんね、ピーヒョロロ。


完結編を眺望する

2020-07-26 08:16:19 | 日記

 5/23に予定されていた卒後60年ぶりの「高校同窓会」が、コロナウィルスの関係で11/14に延期となった。その幹事長から「10/5に幹事会を開いて11/14の開催を行うかどうか決定する」と知らせがあった。それと合わせて彼が指導してきた「サッカー」に関するエッセイを添付してきた。私が高校生の頃には「蹴球」と呼んでいた。高校の授業ではラグビーを教えていたが、サッカーはやらなかった。手をつかっちゃいけないというルールだけで、グラウンドを走り回るのは、わかりやすいと言えばわかり易かった。だが、ボールを取り合ってすり抜けられるのは、身体能力的にとても適わず、いつも騙されたような無念さが残って感じが悪かった印象が強い。
 ゲームとしての面白さに注目するようになったのは、日韓共催のワールドカップ以後ではなかったか。子どもの頃にはボールを追いかけるゲームだと思ってきた。それが、パス回しによって自在に変化し、あるいは一人がボールをもって突破するという変幻自在の組み立ても、敵味方の配置に自分の立ち位置を位置づけて壁を突破する戦術に結び付けていくチームワーク。なるほど浦和レッズの本拠地として長年ファンを育んできた地だけのことはあると、感嘆してみるようになった。埼玉スタジアムまで自転車でも15分ほどの距離に住むこともあって、試合がある日に駅から発着するバス便の賑わいも関心を惹くようになった。
 以下のような返信を幹事長には送った。
                                            *
 お便り有難うございました。10/5の幹事会で、11/14の同窓会が開催される決定が出ることを祈っています。ただ、関東地方からは「参加しないで」ということもありうるかなと、思っています。
 サッカーに関するエッセイを読ませていただきました。若い人たちにバトンを渡すのは、たいへんですよね。私はいま、あることで知った「岡田メソッド」(英治出版、2019年)を読んでいます。サッカー指導者の岡田武史が2014年にFCバルセロナのメソッド部長、ジョアン・ビラから次のような言葉を受け、考えた結果を集大成したものです。

「スペインにはプレーモデルという、サッカーの型のようなものがある。その型を、選手が16歳になるまでに身につけさせる。その後は、選手を自由にさせるんだ。日本には、型がないのか?」

 岡田はサッカースタイルやプレーモデル、テクニックとプレーパターン、年代別エクササイズから、コーチングやチームマネジメントに至るまで、一つひとつ子細に型を取りだして、解説しています。いわば、岡田武史のサッカーにかける世界観ばかりか、プレーヤーや子どもたちに向ける人間観も浮かぶような記述をして、面白く読みすすめています。
 ありがとうございました。36会Seminarの人たちにも、転送します。まだまだコロナは収まりそうもありません。お気をつけて、お過ごしください。
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 岡田武史『岡田メソッド』(英治出版、2019年)は、FCバルセロナ のジョアン・ビラの言葉に刺激を受けた岡田武史が、サッカーのプレーモデルを組み立て、愛媛県の今治に本拠を置いて若い人たちを指導し、同時にクラブチームや小中高校のサッカー部の指導者たちを糾合して、指導法と実践とを5年程かけて体系化してきた。本書は、それを一冊にまとめたもの。しかも岡田武史は、今治のチームが四国や全国で活躍することによって今治の指導チームを、新しいサッカー選手養成の日本の本拠地とすべく、現地の社会に溶け込んで地域振興も含めて全力投入していることがうかがえる。
 
 スペインと日本の指導法の違いも興味深い。根柢には自然観の違いがあるように思う。スペインはサッカーという人為の作ったゲームには、まず人為のプレーモデルがあり、それを若い人たち(未だ人ならざるヒト)にはまず叩き込んで、それをわがものにしたのちに自在に展開させるという発想。「自然:ヒト」はフォルムを与えることによって「人」にするという人為の介在が不可欠と考えている。それに対し日本では、ヒトは生まれながらにして人であり、天性の才能や才覚を自然に伸ばし、その上に戦略や戦術という方を憶えさせるのが「じねん」だという感性が底流している。
 スペインには、ゲーム・プレイモデルという人為性が、人間をつくると考える信念が横たわる。それにたいして日本では、子どもという自然性が天性を拓いていくのが「じねん文化」という感性に浸っている。サッカーというゲームに関して言えば、スペイン流は明らかに「勝つ」ことへの必然の展望が開けている。それに対して日本流は、ゲームを「娯しむ」ことが究極の目指す所。その違いがサッカーの勝負を本業としてきた岡田武史には、目からウロコのジョアン・ビラの言葉となって響いたのであろう。
 
  岡田メソッドは、そういう意味で、岡田武史自身のサッカー人生の集大成、完結編である。むろん岡田とともに、ほかのサッカー指導者や地域の人たちを巻き込んで、しかも全国的な展開を視野に入れてすすめていることからしても、いわばサッカーという窓口から、世界の頂点に上り詰めるまでの展望を拓くものといってもいいであろう。本書を概観すると、その眺望が見えるように思う。
 でも私は、ふと手塚治虫のマンガ「ジャングル大帝」を思い出す。岡田メソッドの眺望は高台の頂点にたつライオンの姿を描き出している。しかし手塚マンガのそれは、ライオンの眼下の向こうにさらに、はるかに渺渺たる森が広がる。その景観こそが、私の完結編の眺望に相応しくみえる。私は自然の中へ解けて消えていくのだと。
 さてどちらの眺望を完結編としてお好みかは、ヒトそれぞれであろう。ただ一つ面白いと思うのは、岡田メソッドが四国の今治という町を拠点に、そこを全国区に、世界に広げていくという位置づけを手放さないことである。まさにコロナウィルス時代にふさわしい、具体性を備えていると言える。