mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

自粛要請を強制にしていいのか

2020-04-28 11:07:00 | 日記

 新型コロナウィルスの感染防止のために「外出や営業自粛」を都道府県の首長が「要請」しているが、それに従わない業者がいるというので、「店名を公開」したりしています「店名公開」が逆にその店の宣伝になっているとある芸能人が発言して、首長と延長戦のやり取りがあったりします。どう考えたらいいのかと、思っています。
 「店名の公開」は「要請」に従わない、たぶん社会的な「おしおき」を期待しているつもりなんでしょう。強制権力をもたない首長のせめてもの「圧力」でしょうから、致し方ないことと思います。また従わない店にしたら、「背に腹は代えられない」と考えての「確信犯」なのでしょうから、別に社会的な「おしおき」を非難する理由もないでしょう。
 
 だがもしできるなら、首長がけんか腰にならずに、まずはお店の「従わないワケ」を明らかにする「手順」を踏んでほしいと思いましたね。
 当のお店はどのような事情で従えないのか、首長の方が事情を聴きとってそれを公開すると、もっといいと思います。日々の収益がいくらいくらあり、店の店賃が月々いくらいくらかかっておいて、ひと月近く閉店すると、かくかくしかじか「破たんに至る」という事情がわかれば、政府に要請することもできるでしょう。政府としてもそれにどう対応するか、思案する「資料」となります。いまのように、「要請」はするが「補償」はしないというのも、地方財政の懐具合を考えれば、容易にわかることですから、最終的には税源を掌握している政府が手当てしてくれなければ動きがつかないのは、明白です。首長がそこまでやっていて、なおかつ、市民としての応分の負担を共有しましょうと呼びかければ、お店の方もムゲに袖にはできないかもしれません。
 
 でも、それでも「要請」には従えないという「反骨」というか、ヘンコツの方はいると思います。それはそれで、仕方ないではありませんか。「要請」すればほぼ8割方がそれに従っているなら、2割方のヘンコツがいても、それくらいは心得ないものがいる社会だと受け止めておくことはできるのではないでしょうか。
 もしそのヘンコツが多くなって(社会全体として8割の外出自粛)が保てないというのなら、「要請」ではなく「外出禁止令」という「ブロックダウン」を発動するしかありません。そこへもっていくだけの、「要請」から「禁止措置」への丁寧な手順と、その間に少しばかり異端者を受容する余裕があればこそ、市民は「強制措置」をも受け入れる気分になろうというものではないでしょうか。
 
 常日頃は、楽しく遊び戯れ浪費しましようと呼びかけて置いて、緊急事態になると行政府としての責任はどっかにおいて、市民の社会的連帯感にすがって「要請」に強制力を持たせようという(今の日本政府の)スタンスは、実質的な責任者である地方首長を追い込んでいます。首長も不得ものに目くじら立てるよりも、そういう(わが身の力なき)立場をみてとって、いくぶんの不埒ものを包み込んで(人の棲む)社会があるのですよと呼びかける方が、社会的共同性を大きく膨らませることができるんじゃないでしょうかね。
 今回の対応に関して、「だから民主的にやるよりは、政府が強制力を発動できるシステムの方がいいんじゃないか」という見当違いの飛躍が起こるのは、中央・地方の行政府が民意に耳を傾けて、その事情をつかんで対応する姿勢を示す「手順」をとっていないからだと思います。決して、全体主義がいいわけじゃないのだと、単純な飛躍を諫めるくらいのことは、してもらいたいと思うのです。
 
 ウィルスとの共生が最終的な落としどころというのであってみれば、ウィルス排撃のために一致団結するというのとは違うスタンスが必要なのではないでしょうか。ヘンな言い方ですが、ヘンコツなヒトも含めて社会なのだというスタンスこそが、「(ウィルスとの)共生の発想」のように思えるのです。どんなものでしょうかね。


機能不全?の地方行政府

2020-04-26 09:31:10 | 日記

 新型コロナの陽性者で自宅待機していた二人が死亡した埼玉県。知事の会見もちょっとだけ報道され、かえって、県は何をしているんだろうと普請が増した。報道はまず、首都圏としてひとくくりにするから、日頃、埼玉県の首長が都知事のように発信している姿を見かけない。
 ところが会見で、二人の自宅待機者の死亡が確認されたことから、ホテルなどを借りて陽性者の収容ができるように検討すると知事は説明する。なるほどと思っていたら、なんと、一人の死亡は、もう一人の死亡の十日も前ではないか。ならばなぜ、その十日間の間に、ホテル収用などの手配ができなかったのか。東京都や神奈川県はとっくに、ホテル借用の準備に取り掛かっていたのに。しかし、記者会見でそれを問う質問が出たのか出ないのかわからないうちに、TVの話題は次へ移ってしまう。
 
 だから県民としては勝手に予想するしかないのだが、埼玉県の首長が自在に動けないのはなぜかと、推測するしかない。当然流言飛語が飛び交うようになる。
 知事が無能なの? と、身近にいる主婦は思った。そうじゃあるまいと、私は考えた。
 
(1)この、大野元裕知事は自民・公明の青島健太候補を破って当選した、立憲民主など野党系の候補であった。県政を動かすのに、県議会与党の自公を差し置いて勝手に何かをすることができない。予算など、すでに組まれていることを執行する分には、不都合はないし、それなりの対処はできるであろうが、「補正予算」を組む必要があることは、手足を縛られている。とすると、自公が、知事の手柄にしたくないためにブレーキをかけているのか。まずそう思う。
 
(2)この大野知事は、衆議院議員から鞍替えして知事になった。父親は「川口自民党」をバックに川口市長を長年務めてきた。つまり保守政治家の後継である。根廻しとか、議会対策とか、保守政治のやり方については熟知しているとも考えられる。だが逆に、一匹狼的に自らの政策を掲げて世論を領導するような手法を知らない。その点が、都知事とも、神奈川県知事とも違う。だから外から見ていると「無能なのか」と思われるほど、何もしていないように見える。突破力がない、ともいえる。
 「川口自民党」は、昔から、自民党のなかの独立独歩派であった。かつて来、川口市民は、「自民党川口支部」ではなく「川口自民党」だと肩肘を張るのを、好ましく思い支持してきた。それがあったから知事選でも、大野市長の後継者である立憲民主党の大野候補を「川口自民党」は全面支持して、埼玉県自民党の本部と対立した。そして、選挙で勝った。勝ったから余計に、自民党内ではしこりが残る。保守政治のやり方が大野知事には通用しない。
 
(3)埼玉県の官僚が、すっかり保守政治に感化されて、新規の事態に対応する力を備えていないのかもしれない。議会の主流に目配りするばかりで、今回のような感染症に緊急に対応することが及び腰なのではなかろうか。つまり官僚もまた、知事の指示による以外は、新提案をして乗り出していくほど、大野知事のバックは強固ではない(と官僚たちは見越している)。
 
(4)ことに今回の新型コロナでは治療サイドの当事者にあたる県の医師会などが、知事のバックになろうとしなかったのかもしれない。県内における医師会の力は強い。ことに個人経営の町医者が多くを占めるから余計に、コロナを敬遠し、大型医療機関にそれを押し付けはするが、それと連携することに及び腰であったかもしれない。「自宅待機」もそうだが、「ホテル収用」に切り替える場合にも、大型医療機関ばかりか、地域の「かかりつけ医」の協力を得なければ、患者を手厚く診ることはできない。その点で、医師会の協力を得ることができなかったのかもしれない。
 
(5)前知事の上田清司は、かつての「民主党」をバックに4期知事を務めた。上田は自民党、新生党、新進党、などを渡り歩き、民主党に身を移してきた保守政治家。2003年の知事選で勝利して以来、保守政治諸党の混沌の最中を泳ぎ渡ってきただけに、県政を取り仕切るにはなかなかの力を発揮し、議会与党の自公の対立候補を寄せ付けず、16年も知事の座に居て、昨年、大野元裕に禅譲した格好であった。
 上田は今回のコロナ対応について、政府対応の「あいまいさ」を指摘しておいてから、「知事権限で利用できる県の施設はいろいろあるから、それを(自宅待機代わりに)使うといい」と大野を励ましている。
 
 わたしたち庶民は、上記のような諸事情を勘案して「流言飛語」的に埼玉県政を推察するしかない。
 県知事は、まずは発信力をつけて私たちが読み取れるように、直面している事態を明らかにしてもらいたい。もしこの「機能不全」が議会与党の「不協力」のせいなら、それはそれが明白になるような手立てを講じればいい。
 自らの「不明を愧じる」なら、与党に鞍替えしても頼りになる力を背景に持った方がいい。
 即応力が足りないなら、それこそ、都知事や神奈川県知事がやっているようにマスメディアを味方にして、力をある人たちを動かす方法を見いだせばいい。それをやってこそ、政治家ってもんだろうがと、ちょっとばかり憤懣をもって言ってやりたい気分になっている。


言葉にならない「おもい」は、何処へ行くのか

2020-04-26 09:31:10 | 日記

 去年の4/22から5/3にかけて、このブログで、「言語以前と言語以後の世界」とタイトルを振って、4回にわたって思いを綴っている。その十日ほどの間に、山にも行き、「令和」に変わったお祭り騒ぎを「天皇制の劇場化」とみてとったり、大澤真幸の雑誌に載ったエッセイを引いて、日本人の無意識の根っこにある「天皇制と民主主義」について考えたり、読んだ本の感想を書いたり、5本のエッセイを記している。
 それらを読み返して想うのだが、わずか一年の間に、私の言葉になるのかならないのかわからない領域の「おもい」が、増えたように思う。言葉にするほど「おもい」が固まらないのか、そうするのが面倒なのかも、わからない。なんとなく、ぼんやりと「何か」が胸中を漂い、口をついて出る言葉はなんとも「つまらない」。その「何か」がなんであるかをとことん探究しようという気力も薄れている。
「混沌の海から(何かを手掛かりに)引きずり出してみたところ」で「ことば」になる。その「何か」は、誰かの本を読んでいるときに出くわした(よくわけのわからないこと)(でも、何かしら大切なことを言っている感触は感じる)違和感というよりも、「わたしにはわからない(とわかる)こと」。ああ、若いときにもっとそのたぐいの本を読んでいれば触れたかもしれない「世界」が、渺渺と広がっていることだけは感じとれるような感触。
 
 今日(4/26)の朝日新聞「折々のことば」は

《ヒトは自分の見たいものしか見(え)ない 下条信輔》

 を引用して、鷲田清一は「…人の判断には自分でも気づかない枠組みがあり、フィルターがかかっている…」と下条のことばを借用して、「まなざしに期待のバイアスがかかり、他人の動きにもつい惑わされる。厄介なのは、辻褄を合わせようとしてますます自信の判断に固執し、引き返せなくなること」とことばをつないでいる。この(下条のいう)「自分でも気づかない枠組み」というのを、鷲田は(無意識に傾いている)自分の「期待」に合わせてものごとを選び観ていると解釈している。
 だが「自分でも気づかない枠組み」というのは「期待」という(好ましいこと)だけではなく、(気にしている傾き)と(善し悪しを抜きにして)読み取る方が的確なのではないかと、下条のことばに共感を感じつつ、わが身の感じている「わからない(とわかる)」感触を重ねて、思っている。その違いが気になった。
 
 つまり下条のことばを私ふうに言い換えると、

《ヒトは自分に見えるものしか見(え)ていない》

 といえそうだ。
 そして歳を経てみると、「自分に見えるもの」の地平の端境が薄ぼんやりと見えてきて、その向こうに渺渺たる「無明」が広がっていることだけが感じとれる。すでにこの渺渺たる領野に踏み出している人が数多いることは、幾多の本を手に取っても、なぜこのようなことに首を突っ込んでこのように言葉を紡いでいるのか、その世界の常套句であろうジャーゴンをふくめて、皆目見当がつかないことがあるからだ。逆に若い人たちのアクティヴな活動に、似たような感触を感じることも、最近は多くなった。
 もちろん「見たいものしか見えない」地点からそれを一口で、(わけのわからないバカだ)とか(そういう人もいるよ)と達観したふうな言葉を吐いて片づけることもできなくはなかろう。それが鷲田のいう「辻褄合わせの持論への固執」だ。
 だがこちらはもう、持論を固執する歳でもないし、そもそも持論などというものがあろうはずもない。ただ、わが「せかい」が出会わなかった「世界」が、別に次元を異にするわけでもないのに、屹立していることをぼんやりと感じるだけの「言語以前の世界」が内心に揺蕩っている。
 それをそのまま放置して、わが「せかい」を閉じることになるんだなあと「おもう」ばかりである。


夏鳥がやってきた

2020-04-25 11:41:21 | 日記

 カミサンの鳥友から「ケリが来ていると情報が入った。「どこ?」と問い返す。すると「野孫」と返信が来る。「どこだ? 野孫って」と重ねて問うと「あなたんちから20分くらい」につづけて、「国道○号線の××から信号三つ目・釣上を左折、信号一つ目・ファミマがあったを右折。そこから600mほど先小川にフェンスの手前を右折資材置き場のあたりを歩く」と丁寧なコメント。
 パソコンで「野孫」を調べる。土地勘がないと、車で行っても小路に入って迷うことが多い。去年友人が遺産として受け継いだ墓所のある明神宮の近くだとわかる。「釣上」も調べる。地図には「釣上(かぎあげ)」と仮名を振っている。「鉤」か「鈎」の間違いじゃないかと思った。今朝、早速行ってみた。「かぎあげ」の信号に表示されていた漢字は「釣上」であった。
 川の向こう、まだ水を張っていない田圃のなかに5人ほどのカメラマンがいたので、一発で分かる。巣があるらしく、オスが鳴くのと離れたところにメスがいて、ときどき声を上げる。カメラマンを警戒しているのだ。とするともう抱卵がはじまっているのだろうか。
 と、背中の方からも鳴き声が聞こえる。川のこちら側の田圃の畔にも一羽いて、その視線の先にもう一羽がいる。鳴き声で縄張りを主張しているのかもしれない。まもなく5月だから、田圃に水を張るようになる。田植えが始まる。畔に巣をつくっていたりすると、子育てが大変だ。そう言えば、擬態をするというのはケリではなかったか。いかにも怪我をしているかのように振る舞って、「敵」の目を引きつけ、巣や雛から引きはがそうとする。ここにいるぺアたちは、この先しばらくは、落ち着かない日々を過ごしそうだ。
 
 一昨日のことをメモしておかなくてはならない。お昼を食べてから家を出て、見沼田んぼの東縁の南にある富士塚からさらに東の川口北辺の住宅街を巡って芝川の調整池に出て、3時間くらい歩いた。そのとき、調整池の葦原でオオヨシキリの声を聴き、その姿も見た。今年の初耳、初見だ。よかったねえと自画自賛しながら帰ってくるとき、調整池南端の木立を飛び交う鳥の群れを見つけ、コムクドリだとわかる。飛び立って川向の木立に映ったからわかったのだが、なんと20羽ほどもいた。しばらく緑の葉の間に止まって何やらを啄ばんでいるようであったが、こんなにたくさんの群れを見たのも、記録しておかねばと思った次第。
 
 その前日に秋ヶ瀬公園で聞いたコマドリの声も、翌日の鳥友のメールで、やはり子どもの森でコマドリを観たとメールが入り確認。サンショウクイもいたよと、夏鳥の本格的な来訪が始めったことがわかった。
 私は門前の小僧だからこまごまとメモはしないが、今年の用意出歩くことなく散歩ばかりをしていると、さすがに記録しておこうかという気になる。ぼちぼち小僧から庭男くらいになりなさいと、成り行きが教えているのかもしれない。


暮らしの6割をオンラインで

2020-04-24 09:13:30 | 日記

 昨日(4/23)の新聞に、コロナ対策の「専門家会議が提唱する10のポイント」が掲載された。10項目のうち6項目がネットを利用するもの。「通販で買い物」、「在宅勤務」、「遠隔診療」などのほか、「筋トレやヨガは動画を利用」とあり、そのほかに「オンライン帰省」とか「オンライン飲み会」といった、ほとんどジョークかと思うものまである。
 のこり4つは、「マスクをつけ」「飲食は持ち帰りか宅配」「スーパーは一人で」と「ジョギングは少人数で空いた時間に」だ。最後のジョギングは散歩と言い換えてもいいだろう。要は、人との間をとって暮らせということ。文字を想いうかべて言うと、「人間」の「間」をとって「人」として生きていけということのようだ。「間」をとると「ま」がもたない人が出来する。その人たちは県境を越境して、営業を自粛していない遊び場にたむろする。遊びたいからというより屯していないと不安だからそうていると考えると、そうそう簡単に「人間」をやめられないということか。
 
 長年パソコンを使っている私にしてからが、ネット利用の「在宅勤務」や「遠隔診療」とか「動画を利用」などは、したことがないし、どうやったらいいのか(たぶん)戸惑う。せいぜい「通販で買い物」も、アマゾンで本を買うくらい。それとても、いつの間にか「アマゾンプライム会費」が月々引き落とされていて、「えっ、いつのまに、どうして?」と明細書を見て大騒ぎする。騒いだ結果、カード会社が調べてくれて、「(今後は)画面を操作するときに、うっかり「入会手続き」の部分をクリックしたりしないように」と注意を受けて、半年分全額返済手続きをしてもらったりする。これに懲りて、以後、通販も敬遠している。お年寄りでもパソコンを持っていない人、持っていても(私のように)操作するのにいちいち若い人の手を煩わせなくてはならない人には、気が重い。
 「オンライン帰省」とか「オンライン飲み会」なんて、これは専門家会議の「提言」なの? ふざけているんじゃないのか。どう考えても、ジョークに載せてコトを軽くみせようとしているように見える。「8割の外出自粛」ということもそういうことかと、こちらは都合よく受け取る。
 朝日新聞は《首相「オンライン帰省を」》と見出しを付けているから、内閣府の誰かが知恵をつけたのか? それとも大真面目に、今のご時世は、これですよ、と提唱したのだろうか。もし後者だとすると、世の中がすっかり変わってしまって、私らのセンスではもう、ついていけないというか、つきあっていられない。時代がかけ離れてしまっているようだ。
 
 パソコンならずともスマホが必要であろう。もうこの「提言」の項目数が占めるように大半がスマホで社会生活をやりこなせるような時代になっているのか。スマホどころか、携帯電話もない人たちはどうすりゃあいいんだと困るだろう。イヤそういう人たちはもう「埒外の人」ってことか。残りの人たちは10項目中の4項目だけを考えてくださいねってことだとすると、私らの暮らしはすでい6割がオンラインで成り立つように社会システムは出来上がっているのかもしれない。「埒外の人」たちは、残りの4割で暮らしている。「政府」にも「国民」にも私たちは「4割」だけ組み込まれ、6割はそっちのけだ。
 ひがんで、すねているわけではない。オンライン帰省なんてしたくもないし、オンライン飲み会をするくらいなら、「三蜜」だろうがなんだろうが屯して、「真正飲み会」を催す。「在宅勤務」ができないから首になる。「遠隔診療」で診てもらうこともできないから、病に倒れれば、野垂れ死にする。そういう覚悟を決めて、メインの世の中の「埒外の人」として人生を全うする。そう肚を決めるだけのような気がする。