mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

生きていくということ

2019-04-19 11:36:29 | 日記
 
 昨日(4/18)の朝日新聞社会面の記事は、切ないものであった。「気鋭の研究者 努力の果てに」と見出しを付けた7段抜き。将来を嘱望された日本思想史の研究者が、経済的な苦境から抜け出そうと結婚し、しかしそれが破たんして、命を絶ったというもの。2年前、43歳であったという。
 
 記事は、博士号をもっていても就職先がなく、文科省の特別研究員として口を糊してもせいぜい3年。それも近年、独立行政法人として自立的経営を迫られて予算を削られている大学では、研究者を遊ばせておく余裕はない。専任教員を切り詰めて非常勤講師を充てているという。そうした中で、ドクターの称号を得ていても、就職できない人たちが8人に1人だというから、ポスドクは切実である。「大学院へ行くのはいいが修士までにしておけ、博士課程へ行ったら仕事がなくなる」と言われはじめたのは、もう30年以上も前。その頃より、博士課程の間口は3倍に広がったが、仕事の間口は30%ほど増えたにすぎない。
 
 じつはこの問題を私は、「平成時代」の一つの象徴として先月(seminar)と今月(ささらほうさら)の二つの勉強会で取り上げた。

 要点は二つ。ひとつは、平成時代の、たとえばノーベル賞受賞者が陸続と相次いだのはバブルに至る高度消費社会時代の残響だということ。つまり、いつだって私たちは前時代の遺産を食い尽くして生きている。だから次の平成時代の影響は、次の時代に現れてくる。戦中生まれ戦後育ちの私たちは、大正・昭和前期を生き抜いてきた父母の世代の文化的遺産を受け継いで(反省的に形を変えて)人生を送ってきた。それと同様に、私たちが主たる担い手として働いてきた昭和後期の一億総中流の高度消費社会の遺産を受け継ぎ、それを食いつぶして平成時代がつづいてきた。そのタイムギャップにこそ、文化伝達の奥義と国民性ともいえる資質・気質の進化的継承をみてとることができる。
 
 もう一つは、実は同じことなのだが、バブルが弾けて後の平成時代にこそ、日本はこれからの日本社会のあり方について戦略的な展望を提示するべきであったのに、経済の(旧態依然とした)活況化にばかりに目を奪われ、社会全体を見通してみると、大きな荒廃を招いたことだ。経済と社会が乖離するというのは、アダムスミスの描いた資本主義時代とも違うし、規模と展開のスピードと焦点となる経済的利得の集約点が、異なるからだ。かてて加えて、2011年の東日本大震災があった。あの時東京都知事の石原慎太郎が「天罰だ」と発言して不評を買ったが、何に対して「天罰」が下されたのかと問い詰めれば、経済専一主義で社会を忘れて暴走している為政者に対してくだされたものとたどり着けたかもしれない。それを、当の為政者の代表的一人があのように(つまり、他人事のように)言ったものだから、問題の焦点が絞り切れなかったのだ。
 
 朝日社会面の記事は、しかし、優秀な人材を育てる研究活動を軽視する文科省をやり玉に挙げている。だが文化的には、必ずしもそうとばかりは言えないのではないか。まずこの自死した方が、暮らしを全面的に親に依存していたことに、この問題の一つの根があると思う。たぶん両親は、優秀な娘を誇らしく思い、それこそ蝶よ花よと育てた結果、娘は「好きなことを見つけ、人並み以上に努力していれば、お金持ちにはなれないまでも、生きていくことはできる」と両親の思うがままに、育ってきたのだろう。だが、そうか。自らの身を保つためには、まず自力で、稼がなければならない。両親は、「人並み以上に努力していれば」のなかに、自律/自立することを含めて考えていたろうか。
 
 そう思うのは、豊かな時代に育っていく子どもたちを見ていて、「暮らし」の基本的部分を親に依存していることにわだかまりを感じなくなってきていると思ったからだ。私たちが子どもの時代には(子どもが多かったせいもあるが、ことに長子以外は)、親元から出ていくことが当たり前であった。経済的な苦しさもあったろうし、都会化が進行して働く場所を求めて移動する必要もあった。ところが、高度消費社会が進行するにつれて、子どもたちが親元を出ていきたがらなくなった。「暮らし」の基本部分を面倒見てもらえる、快適・好都合な親との同居を、むしろ好み選んだ。親もまた、穏やかな、逆らわない子どもとの同居が心地よくて、結婚しなくてもいいとまで(子どもに)言う親まで珍しくなくなった。
 
 この、自死した文系研究者は、いわば高度消費社会の王道を歩いた結果、社会的な(研究者を大切にすることさえ顧なくなった)風潮の狭間で、苦境に立つことになった。もしこれが、優秀でない、ごく普通の生活者であったら、今回のように記事になったかどうかさえ、わからない。年間自殺者の多い日本で、顧られない人たちがいかに多い事か。つまり、優秀な人材を失ったという損得で考える思いが底流にあって、この記事は成立している。これもまた、平成時代の、やっきになって経済回復を図ろうとする発想と根柢で順接している。それよりも、優秀でもない極悪非道でもないごく普通の人たちが、こうした苦境に立つことが、「中高年ひきこもり」に現れているのではないか。
 
 この研究者と同じ年代の子を持つ私としては、親元を遠く離れて家庭をもち(共稼ぎながら)子を育てている娘との違いがどこにあったかに、思いを巡らしている。ひとつ思い当たることがある。結婚するころだったと思うが娘が「お父さん、家は貧乏だったの?」と聞いたことがあった。人並みの暮らしをする程度に収入はあったと思うが、私の渋い生活ぶりがそう思わせたのであろう。しかし、そう言われてみれば私は、贅沢をすることにひどく抵抗があった。たぶん、敗戦後の貧しい時代が身に沁みていたのであろう。年に何十パーセントもの賃上げをしていた高度成長の終わる1970年代の中頃、組合が「特別昇給」をめぐる要求を論議していたのに関して「そんなにお金を要求しなくてもいいんじゃないか」と発言して、顰蹙を買ったことを思い出す。つまり、高度消費社会に入っていく社会を見ていて、喜ぶよりは、内心不安を感じていたのだった。それが日頃の振る舞いを通じて、娘に伝わっていたのかと思ったことがあった。
 
 それが良かったのかどうかはわからないが、少なくとも前時代的な(貧しかった)風潮を、私の振る舞いは体現していたのかもしれない。だからわざわざ自立の何のと言わないまでも、独り立ちしていくことを子どもたちに伝承していたと言える。つまり、自然に任せていて構わなかったのだ。ところが高度消費社会が一億総中流を謳うようになったころには、「自然」が変わってきていた。わざわざ「暮らし」に必要なことは何かを身に着けるように教えなければ、ことごとくが金銭で片づくようにさえ見えてきた。むろんお金を稼ぐことが、その前に必要になるけれども、それさえも親が面倒を見てくれる間に身についた「自然」は、忘れさせる。それが目前の課題になったとき、「ひきこもり」になったり、家庭内暴力になったりしたのではなかったか。
 
 優秀な研究者の自死があらためて、自律/自立することの根底に、独りの人間が身に備えなければならない生活習慣のなかに、社会環境にさえ左右されない志――暮らしを紡いでいくこと――が含まれていることを教えている。
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奥深いのに人気の山、丹沢三峰縦走路

2019-04-18 13:56:32 | 日記
 
 一昨日(4/16)から一泊二日で丹沢山の縦横路を歩いてきた。この夏の表銀座縦走のトレーイング山行と名づけている。何しろいずれも後期高齢者に突入し間もなく喜寿を迎えようという年寄りが意欲を燃やす。だが意欲だけでは適わぬのが年を取り、わが身の始末が思うようにならないこと。トレーニングと名づけはしたが、若いころのように「鍛える」というのではない。わが身の現在をできるだけきちんとつかんで、身に合わせて歩き方や休み方、食べ方や飲み方を、そのときどきの気分に任せないようにしようという心がけの実地チェックである。
 
 いつも山へのアプローチのたびに驚かされるのは、通勤ラッシュの苛烈さ。今回は小田急線。下りだというのに、乗り降りするごとにどっと降り立ちどっと乗ってくる。私は荷物を網棚に載せているから身軽ではあるが、掻き分けられ押し寄せられてつり革につかまる手も離されそうになる。小田急線の沿線も単なる住宅地ではなく生産と流通の拠点が面的に広がっているのだ。
 
 本厚木の駅に着きバスに乗る。このバスストップも駅前の広いターミナルから、道路を一つ隔てたバス停まで何カ所にも散らばって分かりにくい。「回送」と表示したバスが何台も、通り過ぎる。遠方から駅まで通勤客を運ぶのに慌ただしい。山へと入り込む私たちの乗ったバスは、郊外へ入ると立っている人はいなくなり、降りる人ばかり。やがて私たちだけになった。宮ケ瀬湖という大きな湖を回り込んで北の端の方の三差路バス停で降りる。標高300m。ここから標高1567mの丹沢山までの標高差を登る。ま、五合目から富士山に登るほどの標高差と考えている。6時間というコースタイムもほぼ同じだ。
 
 用意を整える。昭文社の地図には「夏季ヒルに注意」とあるからスパッツをつける。kwrさんたちはヒル除けのスプレーを靴に吹きかけている。塩水でもいいというから、もう少し陽気が暖かくなると、化粧用のスプレー容器につくってこなければならないと思う。9時55分、登山路へ踏み込む。快晴。南側斜面をトラバースするようにのぼるから、陽ざしが暖かい。と言って暑くなるほどではないから、いい季節である。新緑が山肌を覆い、山も衣替えをしはじめたばかりだ。そのなかにときどきミツバツツジがハッとするような彩をみせて佇む。近づいたのをみるとオシベがちゃんと5本ある。足元の枯葉の合間からフデリンドウも顔をのぞかせる。
 
 御殿森の頭を過ぎて東の方を見ると、見晴らしがよい。「あれは大山だろうか」とkwrさんがいう。山並みが連なり、はっきりとはわからない。標高700mほどになるとスギの森が広がる。それを抜けた先で高畑山との分岐に出る。山頂へ道をとる。11時24分、二人が標高766mの山頂。カラマツの幼い緑がやっと出始めた林のまろやかな頂に広いベンチが二つあり、食事をしていた一人がベンチのひとつを空けてくれる。彼らはここまで往復のハイキングだと笑う。私たちも食事にする。西の方にみえる三角錐の姿の良いのが丹沢山かとkwrさんが訊く。たぶん手前の円山木の頭じゃないか。丹沢山はそれに隠されていると応じる。20分ほどを過ごして先へすすむ。
 
 金冷やしという名のついた鎖場を通過する。鎖が新しい。難しくはないが、岩場もある。南側斜面のトラバース道が細く崩れかけている。振り返ると、木の葉の落ちた木々の合間に宮ケ瀬湖全体が見渡せ、山の奥深さを思わせる。キランソウが紫色の花をつけて咲いている。「←丹沢山5.4km・宮ケ瀬5.6km→」の標識がある。ほぼ道半ば。12時29分、スタートしてから2時間半。松木沢の頭の南側を通り過ぎる。左手の方に山肌に雪が着いたピークが見える。あれが丹沢山だねという。3日前の平地の雨が雪になって(丹沢山でも)30センチほど積もったそうだ。見えているのは東側斜面だから残雪が見えるのだろう。
 
 アセビの間を抜け、急斜面にかかる。大きな猿の腰掛がいくつも木の幹に取り付いている。本間ノ頭1344mの登りにかかる。私のスマホのGPSが松木沢の頭を過ぎたあたりで止まってしまった。なぜだかわからない。どこかあらぬところを押してしまったのだろうか。この後翌日まで、GPSは動かないままであった。「←7.6km宮ケ瀬湖・本間の頭・丹沢山3.4km→」の表示の傍らに「別名・丹沢三峰・東峰1345m」と表示がある。ここまで3時間。順調。ここから100mほど下って同じだけ上るという凸凹の稜線を歩く。「無名の頭1350m」というのにも、新しい表示札がついている。急な斜面には木製の階段が設えられている。古いのもあれば新しい階段もあり、丁寧に手当てがなされていることをうかがわせる。昭文社の地図には「ハシゴ」と表記があったが梯子は見当たらなかった。木製の階段に付け替えられたのかもしれない。馬酔木の木以外はまだ葉をつけていない。円山木ノ頭1260mを過ぎてまたアップダウンをこなし、三つ目の太礼ノ頭1352mを丹沢三峰山と呼んでいるようだが、瀬戸沢ノ頭1375mというのもあり、丹沢の山にしては凸凹の多い山並みがつづく。
 
 こうして高度を上げていくのだが、太礼ノ頭のところに「丹沢山1.9km→」と表示がある。ここから標高差200m余、コースタイム1時間が、疲れも加わってなかなかしんどい。kwrさんは、しかし、黙々と歩く。kwmさんも遅れじとついていく。すっかり葉を落としたブナの林が広がる。前方に雪が見え始める標高は1500mに近い。kwrさんは登路の窪みに溜まった雪を避け、枯れ草と枯木を踏みしだいて上る。丹沢山の山東は広くなっている。左肩にみやま山荘があり、右の広場にはベンチがあって、5,6人の人たちがおしゃべりをしていて、私たちをみると「こんにちは」と声をかける。若い人たちだ。
 
 こじんまりとした小屋へ入り、手続きをする。小屋の中はひとつだけストーブが置いてあるだけで、温かい。小屋の中のトイレはひとつ。外にはいくつか、ある。乾燥室や着替え室はあるが、むろんストーブに火は入っていない。2階の半分が蚕棚のように二段になっている。残り半分が2室の個室と屋根の高い居室。私たちは蚕棚の下半分の一部。私は早速、頭をごつんと梁にぶつけた。荷を解く。kwrさんは着替えをして、さっそくビールを買ってきた。私はお湯と芋焼酎を持ってきたが、kwmさんが、何でも珍しい「ポツンと一軒家の米焼酎」をもってきているというので、そちらの方のお相伴に預かった。クセがなく、泡盛のようにきつい感じもなくておいしい。生のまゝがいいよというので、お湯をカップに入れ、米焼酎をテルモスの蓋に入れてちびりちびりとやる。お腹がすているのか、ビスケットやおかきが口に合う。
 
 宿泊者は全部で6パーティ、15人。単独行は一人の自炊。若い人たちがおおく、年寄りは私たちだけであった。みなさん社交的。山の話などで盛り上がっている。元気だなあと感心する。黙々と食事を済ませ、さっさと引き上げたのは私たちであった。7時過ぎには床に就き、0時半ころ目を覚ましてトイレに行ったほかは、朝の5時前まで熟睡した。はじめ暑く、朝にはしかし、布団をしっかりとかぶっていた。枕元においてお茶のボトルが朝には空になっていた。夜中に500㏄飲んでしまったのだ。
 
 二日目(4/17)。窓の向こうが朝焼けに輝いている。東の方は木立があって見晴らしは良くないのだが、東の空、木立の隙間から差し込む光が、ひときわ赤い。5時前だ。朝食は5時15分からはじまり、食事を終わると、皆さん出立する。蛭が岳を経て西丹沢自然教室の方へ下る人たちなど、「またどこかで会いましょう」と声を掛け合って、それぞれのパーティが出ていく。

 kwrさんが富士山が見えるよというので、西の方へ見に行く。西の、どんよりとした曇り空を背景に、富士山がくっきりとした姿を見せている。その左わきには愛鷹山の峰が見える。さらにその左に峰を連ねるのは箱根の山々だろう。手前には丹沢の山塊が黒々とした姿で富士の裾を埋めている。なるほど、これほどに近いのだ。「あれは山中湖かな」とkwrさん。たしかに。

 出発して鍋割山へ至る2時間半ほどの間、ずうっと富士山を見ることが出来た。時間がたつにつれ、雪をかぶった富士山が、ますますくっきりと姿を現し、「まるで絵みたいだ」というほどであった。
 
 6時出発。南へ向かう。アップダウンはあるが、100m下って100m上るという稜線歩き。右手に富士山、左手に大山やヤビツ峠からの丹沢の峰を見ながら塔ノ岳に向かう。尾根の両側をシカ除けの柵が張りめぐらしてある笹原。柵の内側を歩いているのか外側を歩いているのかわからない。神奈川県の環境調査という表示が所所に記してある。木製の階段の脇に笹をえぐるように細いけもの道がついている。邪魔にされるシカも、大変だろうなあと思う。
 
 塔の岳1491mに1時間で着いた。広い山頂は風が冷たく強い。南をみると、相模湾の海辺がはっきりと遠望できる。丹沢というのは、これだけの高さをもっているが、都会の山なのだ。たぶんそのせいもあって、登山者に若い人たちが多いのであろう。塔ノ岳から花立への分岐(金冷やし)までの標高差100mほどが、木製の階段になっていて、昔の滑りやすい上り下りとは違ってる。ここで、みやま山荘に泊まっていた単独行の自炊登山者がやってきた。彼は私たちをみて「どちらへ」という。鍋割山だと応えると、そちらから大倉に下れるかと聞く。何だ、地図をもたないで歩いているのか。ここを下れば、大倉へは近道ですよと花立の方を指す。あとで彼は、私たちの後をついてきて、追い越したり追い抜かれたりして、前後しながら下っていった。
 
 まだ冬枯れの気配を残す稜線を鍋割山へ向かう。富士山が付き従うように、見え続ける。歩く人が多いらしく、道はしっかりしている。8時15分、鍋割山1272m山頂。ほぼコースタイム。ここからも、富士山がしっかりと見える。三頭の鍋焼きうどんた名物とあって、昨夜は食べようかと話していたが、まだ8時。それに小屋に人の気配はない。単独行の50歳前後の女性が上ってくる。みくるべの先の林道を詰めた宇津茂のさらに奥に数台の車を止める場所がある。そこからなら、2時間ほどで鍋割山荘に付ける。この30分ほど前にやはり6時ころ出て登ったという若い人に出逢った。1時間半で上ってきたことに驚いたが、道を選べばそういうこともできる親しい山ということになる。
 
 ここから後沢乗越へ向かう。何人もの登山者とすれ違う。水曜日だというのに、高校生のような登山者もいる。鍋割山荘の主人と思しき方が歩荷をしている。四段重ねの発泡スチロールを積み重ねて背負子に乗せてゆっくりと上ってくる。ここの下りは急ではあるが、足場がしっかりと安定しているから、歩きやすい。kwrさんが20kgあるかしらというから、とんでもない、60kg以上はあるだろうよと、尾瀬の百キロ歩荷の話をする。

 標高1000mほどのところでサクラが花開いていた。さらに標高を下げるとサクラが多くなり、ところどころにミツバツツジが鮮やかな赤紫の花をつけている。下るにつれて春がやってくる。

 後沢乗越のところで、十数名の一団に出逢った。おそろいの服装に若い。「山岳会?」と声を掛けたら、「山岳救助隊です」と返ってきた。失礼しました。あまり若いので、大学生か高校生かと思った。神奈川県の警察官らしい。これから塔ノ岳に行って救助訓練をするのだそうだ。

 二俣に向けて下る。下りきるところで、小丸辺りで追い越した、件の単独行の自炊男がやって来たので、道を譲る。だが彼は降りた沢の水を汲んでいる。また追い越した。

 二俣の手前で上ってくる一団と出逢う。二俣のところでは、これから沢登りの講習会でもするのであろうか、十人ほどのグループにザイルの使い方を教えていて、沢の奥へと踏み込んでいった。丹沢はいろんな上り方をするバリエーションルートが豊富にある。10時、コースタイムだ。
 
 二俣からは4キロの林道歩きになる。車は、大倉近くのところで進入禁止になっているから、ここを歩いてくる人たちは皆、この4kmを上ってくる。ミツバツツジの群落があるかと思えば、オオシマザクラだろう、白い花をつけて満開の花を谷へと向かって咲き垂らしている。飽きるほど歩いて大倉尾根をひとつを回り込むと大倉のバス停に着く。振り返ると、木々が緑づき、ところどころに桜やツツジを交えた彩が、山笑うという言葉を思い出させた。ヤエザクラが枝が折れそうなほどいっぱいに花をつけて、春の盛りを讃えていた。
 
 11時10分、大倉に着く。5分も待たないでバスに乗り渋沢駅に向かう。駅に降りて、乾杯して駅のホームに降りてから、私は、バスのなかに小さいショルダーバッグを忘れてきたことに気づいた。ほんと手帳とメガネが入っている。kwrさんたちに断り、引き返す。同じ会社の別のバスの運転手に訊ねると電話番号を教えてくれた。電話をすると、何とか車庫にあるから、取りに来いという。件のバスの運転手は、これに乗れ、近くになったら道を教える。10分ほど歩くと行けるという。バスに揺られ20分ほど、教えられた通りを歩くと何やら香辛料の匂いが漂う。「○○スパイス」と書いた会社がある。あるいは、「××テック」と名のついた工場があり、大型の車が出入りしている。やはり昨日の通勤ラッシュで感じたように、住宅街ではなく生産と流通の経済活動が盛んな地域になっているのだ。車庫の事務所へ行って忘れたバッグを受け取る。車庫から秦野に向かうバスに乗り、また小田急線を利用して帰ってきた。
 
 丹沢山は、奥深いのに若い人たちに人気の山だと思った。
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日本そのものが滅びに向かうか

2019-04-18 11:44:33 | 日記
 
風呂桶理論

  もう半世紀以上前になる。オーディオ・マニアの間で「風呂桶理論」というものが取り交わされたことがあった。当時、スピーカーの値段も性能もものすごいのが売り出されて、一本のスピー......
 

  一年前のこの記述を読んで、考えるところがあった。すでに一年前に問題になっていた「修繕積立金の値上げ案」は、「説明会」を終えて、来月の総会で担ぎされるはずである。専門家たちの見立てを住民目線でとらえ直そうとするのにいろいろと腐心したが、おおむね順調に事は運んだ。

 ただ、一年前に考えていた「風呂桶理論」の桶の板が、私の胸中でかなり変わった。わが団地の躯体は、このあと40年は持つというのが専門家の見立てだ。それを聞いたとき、40年経ったら、風呂桶の一つに都市計画が加わるであろう。人口減少も、もっと深刻にかかわって来るであろう。首都圏への一極集中的なありようも変わるであろう。もし変わらなければ、日本そのものが滅びに向かうと、私は感じている。

 にもかかわらず、一年前に私の見た専門家たちは、外部の状況は変わらないと見立てて、住民が古び、建物が古びてスラム化することを懸念している。だが、そのときこそ私たちは、国の将来像を描いて、都市計画を立て、それに従って団地などをどう始末するのか思案しなくてはならない。そのために私たちは、「都市計画税」や「固定資産税」を支払っているのだ。

 議会の人たちがそういうことを視野に収めているかどうかは知らないが、もし住民がそれを考えろというのなら、それだけの地方行政の権限を与えてほしいと思う。そうならないと、住民の、専門家たちの、ありとあらゆる世界で醸成してきたイメージが錯綜するばかりで、具体的な結論をもつことにならないと、思う。

 所詮、自分の寿命程度のことしか考えられないのだが、死後の世界が滅びの道行きになってほしいと思っているわけではないから、そういう道行のイメージを描いてくれる学者や政治家はいないものなのかね。

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賑わいのサクラソウ公園

2019-04-15 07:11:35 | 日記
 
  昨日(4/14)、珍しいことに、田島ヶ原のサクラソウ公園へ行った。珍しいというのは、今日からサクラソウ祭りが行われるからだ。ふだんは、こういうお祭りの日にサクラソウを見に行ったりはしない。しかしちょうど、遠方からの客人があった。そこへ昨年から東京に来て働いている姪っ子が合流する。カミサンがふだん自分のフィールドにしているサクラソウ公園を案内しようと思っても不思議ではない。たまたま祭りが重なっただけではあった。
 
 お祭りであるために、駐車場が使えない。浦和駅からバスに乗っていった。まだ9時台ということもあって、バスは空いている。車もスムーズに流れる。「サクラソウ公園」は、荒川左岸の広い河川敷にある。秋ヶ瀬橋から3キロほど上流の羽倉橋までの河川敷を秋ヶ瀬公園と呼んでいるが、その最下流に位置している。バス停は、土手の高さにあるから公園全体が見渡せる。手前のサクラソウ自生地はノウルシなどの緑に覆われて見え、その向こうの芝地や桜の樹林に、テントが張られ、舞台が設えられ、いくつもの屋台が軒を連ねて並んでいる。
 
 サクラソウ自生地の案内テントでカミサンが「今日はプライベートです」と挨拶をしている。ボランティアのガイドが私たちにパンフレットを渡してくれる。自生地の春の花が一覧になって掲載されている。サクラソウは二日前にみた時よりも勢いがある。金曜日の夜に降った雨が恵みだったのだろうか。「この黄色いのが、そう?」とどこかから声が聞こえる。色鮮やかで背の高いノウルシをサクラソウと間違えているのだ。「このノウルシも絶滅危惧種よ」とカミサンが客人に話している。姪っ子はあまり植物に関心はなさそうだ。私は、はじめてここを案内してもらった頃の「わたし」を想いうかべて、「ははは、絶滅危惧種って言えば、わが家にも二頭いるよ」と姪っ子に話しかける。ノウルシの緑とサクラソウの薄赤い色と遠方を縁取る散り際の満開のサクラ色が青空へとつづいて、いい季節になったと思う。
 
 突然パトカーのサイレンが鳴り響く。振り返ると、駐車場に止めた警備のパトカーの周りに子どもたちが集まり、警察官が何かを話している。アリアケスミレとかアケボノスミレ、ヒキノカサ、ジロボウエンゴサク、アマドコロと花をつけている。シロバナタンポポとかシロバナサクラソウという変わり種もある。ガイドボランティアのジャンパーを羽織った人がカミサンにつき歩いて何かを尋ねている。カミサンは(たぶん)この地のガイドのなかでは最年長に近いのではないか。知らないことは知らないといい、確かでないことを口にしない性分が信頼を得ていると、私は思っている。
 
 自生地を離れ、広い芝地の方へ出てみると、30人ほどが輪になって埼玉音頭を踊っている。浦和踊りというのは耳にしたことがある。浴衣姿の男性の手の動きがなかなか絶妙な揺らめきをみせて、ほほうと私の内心が感心している。花筏ならぬ花筵になったサクラをくぐりもう一つ向こうの芝地にでると、舗装路に沿って屋台がびっしりと肩を並べる。空揚げや焼きそばなど食べ物屋がつづく中に輪投げや金魚すくいもあって、明るい夜店って感じだ。芝地に大きな青いシートを敷いてドジョウすくいを披露している。その向こうには舞台をつくって、数十人の小学生ブラスバンドが演奏を始める。鼓笛隊のようなユニフォームが初々しい。身に余るようなチューバやトロンボーンを上げ下げし、トランペットを上に向かって吹き鳴らす仕種が、かわいい。
 
 11時、バス停の方からたくさんの人が降りてくる。私たちはそれに逆らって、帰途につく。おおよそ定刻にバスはやってきて、浦和駅まで運んでくれた。12時少し前にイタリアンのお店に入り、ランチを頂戴する。客人は岡山駅に車で来ているから、お酒は飲めない。私たちも飲み物はなしにして、おしゃべりをつまみに1時間ばかりを過ごす。
 
 東京駅へ帰る客人と姪っ子を送って歩いて家へ向かう。暖かくなり少し汗ばむほどであった。静かなサクラソウ公園の、賑ぎわいを覗き見た一日だった。
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間合い、距離、待つということ

2019-04-13 09:55:16 | 日記
 
 朝ドラを観ていて気づいたこと。小さな娘が、同級生の家の開墾に手を貸してやってくれと爺ちゃんに頼む。爺ちゃんはムズカシイ顔をして応えない。翌朝の場面。爺ちゃんが一度その場所を見に行ってみようといい、すぐに場面が切り替わる。次の場面。同級生の家で手を貸すと話を切り出し、親が余計なことをと反発するやりとり。どこの視点から爺ちゃんが考えているかが説得的に展開する。そして次の場面。開墾に取りかかる人たちの姿。それらがほんの15分ほどの一話に盛り込まれている。
 
 テンポよく、ストーリーは展開していく。そうか、私たちもすっかり今風になっている。現実過程としてみると、場面が展開するごとに挟まっている時間、沈黙の応答、それが意味する問題の複雑さ、そこに堆積している人それぞれの歩んできた(観ているものにもわからない)人生がある。それらのことごとくが、「かんけい」の深さを表現している。だが私たちは、テンポよく、ストーリーを追う。たぶん、その端折りがなければ、連ドラは観てもらえないであろう。
 
 だが、このスピード感が現実感覚になったとしたらどうだろうか。いや実際に、人と人とのやりとりは速度が増している。高齢者が電話をよく使いメールを嫌がるというが、私はメールを好む。相手の状況にかかわりなくこちらの意思を伝え、相手の状況が許せば返事が来るし、応答がないのは、それが返事だと思えるからだ。だが中には「開封確認の要求」というのをしてくる人がいる。なんだか、急かされるようで不快になる。沈黙しているとラジオの放送のように「事故」とみなされるとでも考えているのかもしれない。ところがLINEというのを利用していると、「既読」という表示が出る。見たか見ないかも機械的に伝えてくれる。つまり人々が、応答しないとか、沈黙しているとか、「考え中」というのを我慢できなくなっているのだね。展開の速さが、ただ単にドラマの中のお話しではなく、私たちの日常のスタンダードになり、それが身体化して気性にまで転化しているといえそうだ。
 
 そうなったとき、間合いとか、距離を持つとか、応答を待つといった振る舞いが、「かんけい」を表す意味合いから「削除」されるのではないか。彼の人自身の抱えた状況に簡単にほぐれないわだかまりが残されているとか、私との関係で即答できない何かがあるとか、あるいは人の歩いてきた径庭とか、世の中の気配に、ひと口に切り分けられない錯雑する事情が横たわっているという「かんけい」を読み取ることが、どんどん省略され、大事かどうかわからないことが捨象され、一筋の物語に集約されていくような、流れを感じる。それは、人間が一筋にまとめられていくことではないのか。
 
 AIには、たぶん、言葉にならない沈黙とか、迷いとか、今すぐに判断しにくい事情とか、なぜ今すぐにその判断をしなければならないのかという逡巡などを組み込んで「待つ」という、「間合い」がとれない。1円でも足りないと「領収」の応答が出てこないように、寸分違わず「間尺」に合わなかければ受け付けないという世の中が、すでに出来上がってしまったのか。
 
 宮本常一の「忘れられて日本人」にあった「村の合意の仕方」が思い浮かぶ。部落の代表が「寄合い」をして全員一致でなるまで、集まりをもつ。そこへ顔を出すために、伝馬船を漕いで海を渡ってやってくる人もいる。でも、「合意」が得られるまで「寄合い」は繰り返される。そのとき「かんけい」は、合意に至るまでの「困難」が何であるかを、ことばにすることなく、あるいは言葉にして表してもその裏側にある事情を、慮る。互いにそのようにして、それぞれの(部落の)持つ結界を踏み越えることなく、思いやることによって、長年の蓄積が何であったかという時間とその流れを共有する場を持つ。遠い昔のことのように思うが、その向き合い方の中に、人生の多様性とか人の才覚や才能、感覚や人柄の厚みや幅、つまり、わからないことがいっぱいあることを感じとっていったのではなかったか。
 
 「待つ」ということの大切さを、痛感する。
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