mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

深掘りの起点(5)ヒトの現存在をみる視線

2023-06-19 10:17:06 | 日記
「人生まるごと空間」である教室の子どもたちに対して、教育行政がとっている方針は産業社会に適応する能力の育成という限定された機能的空間=学校という位置付けである(と前回の末尾で述べた)。その齟齬が「勉強/学習と理解」に現れているのが「ボランティア通信」の描く教室の風景であった。それを「息苦しい」というのは、すでにそれを経過し終わった後付けの言説である。子どもたち当人は、「それが人生まるごと」と受け止めているから(基本的には)適応するしかない。黙ってノートをとっていれば(取り敢えず)教師や親から文句は言われないし、学校ってこういうものなのだと思っているうちにある日突然「成績」という評価として降りかかってきて驚くというわけだ。「何だ半分ほどの子どもは分かっていない」という事態は、教師の側からみた齟齬の現れである。
 もう十年も前になるが、認知症に関して記述した「続々・おそろしい話」で、イヴァン・イリイチに触れたことがある。この方は、人が学校教育を通じて限定的につくり上げられていることを批判し、半世紀以上も前に「脱学校化」を提唱した。その源になる彼の指摘を紹介した。少し長いが、前のブログサイトが閉鎖されたためにこの文章はもう読めなくなっているので、その部分だけ改めて掲載する。
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★ エピメテウス的人間になれ
 ひとつは、イヴァン・イリイチです。この人の人となりは、ちょっと措いておきますが、プエルトリコなど中南米を中心にカトリックの司祭として貧しい人々の救援救済に力を尽くした人です。そのイリイチを追ったデイヴィッド・ケイリー編『イバン・イリイチ 生きる意味』高島和哉訳/藤原書店、2005年)では、イリイチが現代世界に二通りの人間がいると指摘したことに触れています。プロメテウスと彼の弟エピメテウスです。
 二人ともギリシャ神話に登場する兄弟。エピメテウスは、ヘシオドスやギリシャ後期の著述家たちによって、うすのろという評判を付与されています。対してプロメテウスは、神々の特権物を強奪することによって、応報の女神ネメシスを呼びよせた、つまり自ら世界を切り開いてゆく人間です。
《イリイチは以下のように記している。「古代の人びとは、運命・自然・環境に挑むことはできるが、そのためには危険に身をさらさなければならないことを知っていた…)現代の人びとはそれ以上のことをおこなっている。かれは自分の抱くイメージに即して世界をつくり、まったく人為的な環境を築き上げようとする。だが、その後かれは、そうすることが可能なのは、つねに自分自身をその世界に適合するようにつくりかえるという条件においてのみであるということに気づくのである」。》
 つまり現代の人間は、つねに自らをつくりかえることにおいて「世界に適合」しようとしなければ、生きていけない、それがプロメテウスだというのです。言われてみれば、経済の復活とか景気の振興をGDPに託して云々している私たちの姿は、間違いなくプロメテウスであり、その「世界に適合」するようにつくりかえる一端を担っているのが「学校教育」です。とすると、エピメテウス的存在とは、学校において不適合であり、逸脱をしてついにはドロップアウトするような存在を意味しています。
 そう位置づけておいてイリイチは、プロメテウスは「人々の期待」に沿うように生きるのに対して、エピメテウスはパンドラと結婚して)「希望」を抱いて生きる人を象徴している、とみてとります。そうしてそこに、近代の人間社会が陥ってもはや抜け出しがたく泥沼への道程を踏み出していることを救済する「希望」を見出したいとイリイチは考えています。近代のシステムにがんじがらめになっている事態を離脱し、[自然存在]としての人間の姿に、「希望」を見出したいと願っているように思えます。
 カトリック教会の系列に身を置いたことから人生をスタートさせたイリイチらしく、人間が生きるとはどういうことかを視界に収めて時代批判をしているのです。このエピメテウスの姿は先に述べた「認知症者当人」に重なるように思えてなりません。(2013/7/30)
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 十年前は認知症者当人を取り出している。だが現在の子どももまた、エピテテウス的に生きる道を閉ざされてプロメテウス的に生きる道筋に誘導されているというわけである。でも、人類文化の伝承という視点を組み込むなら、プロメテウスばかりでなくエピメテウスも暮らしを立てていかねばならない。読み書き算を知らないで生きていくわけにはいかない。今の社会状況が与件になって、それだけで子どもたちの生きる道筋は方向付けられてしまう。つまり、ある小学校の教室に見る「子どもたちの知/血的理解」の問題が、社会構造や気風と分かちがたく結びついているから、簡単に「脱学校」といって済ますわけにも行かない。その社会的根柢に「教え子教師」の困惑も「ボランティア老教師」の戸惑いも、ひと度足をつけてから、現場の実情にまで還ってこなければならないのだ。
 このときエピメテウスかプロメテウスかという二者択一にしてしまうと、たぶん遣り取りは現実論か理想論かという選択の様相を呈して、行き詰まってしまう。だが、たとえばこれまでに教育改革論を例にとれば、「ゆとり教育」として提起され(すでに間違っていたとして廃棄され)た方策を改めて検証して組み直せば、その中に「人生まるごと」を組み込める要素があると、直感的にワタシは感じている。あるいは橋爪大三郎が提起した教育改革論を思い出す。午前中だけ基礎的なこと(読み書き算)を教え、午後は自在に子どもたちが学び過ごす時間とするというモノであったと記憶している。それは、子どもたちの現在(実存空間)としての学校と大人社会の側が期待する将来(適応の教育)とを折衷することのように響いていたが、そこにもうひとつ便宜的な方策を組み込めば、面白い学校空間が生まれるとワタシは経験的に思っている。それが前回触れた「成績評価をしない」教室である。それは、親や大人社会の側がそれぞれの子どもを唯一無二の存在としてみるために、順位序列を放棄することである。
 順位序列というのは、人を全体の数の中に位置づけることである。それは、数として数えることができる要素で、実存在を限定することにほかならない。集団の中の個人という位置付けだ。唯一無二の存在としてみるとは単独者としてみること。比較も順位序列も全く関係なく、人それ自体の存在をみる視線が、子どもたちの成長空間にもっとも必要とおもわれるからだ。それは同時に、親や大人社会の子どもをみる視線に、現実存在としての人の姿を取り戻す作用をする。順位序列は、それの必要なときに必要なところで限定して取り扱うという自制を求めることでもある。
 こうしたことについて言葉を交わすステージを、親や大人社会はもっているだろうか。「当事者研究」というような真摯な議論として遣り取りする場面を、一体どれほどの親や大人がもっているかと考えると、何とも心許ない思いが湧いてくる。
 そんなことを夢想するのは、やはり八十路の老爺になったからではないかと思ってもいる。