mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

バリアの違い

2023-06-08 09:23:07 | 日記
 歩いていて、ふと思い浮かんだこと。
 先日「触れること」に関する文化人類学者の繊細な感触の発達について記した。マレーシアのサラームという挨拶(まず手のひらを合わせ、その後手を取って胸に押し当てる)の仕方は、文明の十字路であった土地で見知らぬ人と始終行き交うが故に、敵意がないことを示す作法として出来上がったと紹介していた。それに対して文明の吹き溜まりである列島で暮らしていたニホンジンは、顔見知りの間で居心地良く暮らしていたから、直に肌を触れ合うような挨拶(友好/敵意の表明)を行う必要がなかった、と考えたところで終わっていた。
 そうだバリアだと思った。
 居心地よく仲間内で暮らす列島の住人は、顔見知りがバリアになっていた。見知らぬ人とまず接触するのはバリアだ。バリアの中に「場」が生まれている。阿吽の呼吸とか以心伝心という意思疎通が通用するのは、このバリアの中の場だ。バリアの中を満たしているのは気風。空気を読むとか読めないとかいう空気とは、この気風である。共有されている振る舞い方の作法。違和感を持たないで身に馴染む人の無意識でもある。
 そうか、逆に言うと、周りのみんながそうしているから私もそう振る舞うのを恥ずかしいと思わない。幕末明治の頃に日本に来たイギリス人女性が上州を旅したときの驚きを記していたのを思い出す。異人が来たというので、うちから飛び出してきた人たちが居並ぶ。中には風呂から飛び出してきて、裸のままの女も男も子どももいる、と。混浴に驚くというのも、別の人の旅行記にあったか。これはバリアに取り囲まれてすっかり警戒心を解除している姿そのものだ。それに比し商業交通を生業としていた人々の群れ、たとえばイスラム法の戒律では、女性は肌を見せてはいけないとまで厳しい衣装を着せられている。バリアが個々人の肌身にまで狭まって張り巡らされていた。
 列島の住人のバリアにおいては、バリアとバリアの間にもまた「場」が生まれる。余白と言っていいか。人と人との間の空気が、肌身に接しているのではなく、集団的な保護膜となってヒトをつつむ。この余白が生み出す挨拶、つまり儀礼の様式が、お辞儀であったり敬語であったりする。家というバリア、ご近所というバリア、世間というバリア、社会というバリアと、バリアの広さと次元を変えて位置づき方を表す「格式」を表現するように複雑化してきた。
 対するに文明の十字路では我が身がバリアの基本単位。そこに生まれた挨拶という儀礼が、まず身体性の繊細な動きとして現れるのは、チンパンジーやゴリラのグルーミングでもよく観られる。無用の衝突を回避し、でも他者であることをベースに置きながら、それなりに相応の交通を果たしていく。良し/悪しは抜きにして、触れる/触れない儀礼様式がバリアの外の異質なものとの交通に必須のこととして形作られ堆積して来た。それが同時に「場」の観念を列島においては作ってきたと言えまいか。
 ところが、近代になって一挙に交通の範囲が広がる。列島も世界の一端を占めて文明の衝突の中に投げ出される。行き交う十字路の作法は、まさしく文明の衝突という様相を呈する。その衝突においてもまた、優勝劣敗が作用する。圧倒的に達者な西欧、米が十字路の場の作法の主導権を握ってきた。世界の片隅で文字通りひっそりと暮らしてきたニホンジンは、当然身を縮めてひたすら真似た。学んだ。漢字から平仮名をひねり出したように小手先を弄して新規の技を生み出して大きな顔をするようにもなった。
 それに応じてバリアも変わっていかなければならなかった。それを承知していたはずなのに、バリアの大本になる身体性という無意識は「急に動けない」ことに気づかなかった。見知らぬ世界に向き合っているという危機感が、どこかで「居心地の良さ」を担保しておきたいという生理的無意識を作動させたのかもしれない。文化の異なる人とうまくやっていくことに、なかなか馴染めない。相変わらずガイジンとして遠ざける気風を拭いきれない。
 あるいはこうも言えようか。女房は「奥様」であって「家内」である。「表様」ではないという身に染み込んだ作法が、働いてしまう。人口減少ということに経済の衰退を重ねて脅威と感じる学者は、盛んに移民をどう迎えるかを考え論じている。だが、その前に「奥様」「家内」を家族制度から解き放って「共働き」の世界を常識化することに、なかなか踏み出せない。思い及ばないのではない。いやそれがいいかどうかは別として、女は「家内」であるという社会的仕組みが、税制から夫婦の同姓という法的体制は変えなくちゃならないと思っても、社会的な習俗が習いとしてきた「おんな」の振る舞い・作法、翻って「おとこ」のそれらを切り替えることができない。「家族」バリアの持ってきた作法が「おとこ」を規定し「おんな」を位置づける。そのバリアは(グローバルな世界では)もうとっくに機能しなくなっているのに、列島住人の無意識の身体性においては古いまんまに受け止めて、はて何が問題なのだろうとグローバル・ノースの間で特殊扱いされていることにも気が行き届かない。これが、私たちの現在である。
 別に欧米の気風がいいと言っているわけではない。列島の無意識のそれが、それなりに(違った感触を持っているから、旅の違和感として)欧米にもてはやされていることも、わかることはわかる。だが頭は近代欧米流の経済成長論を目論みながら身体は無意識の古いまんまでやってけないかという虫の良さは、バカじゃないのと思うくらい間違っている。どちらをどうしろというのではない。前者を取るなら後者を改めよ、後者を取るなら前者を考え直せとは思う。
 その道筋の目鼻くらいは、市井の老爺にでも考えられるかな。そう思わぬでもないと、今やいろんなバリアから放り出された化外の民は考えながら、今日もとぼとぼと歩いている。