mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

第24回Seminar報告 (2)住めば都

2017-01-30 19:00:33 | 日記
 
 「武蔵野台地の突端」と江戸が開かれた地勢を昨日引用したが、思えば、講師のM.ハマダさんが営んでいる小売店は新橋。江戸のころの、まさに武蔵野台地の突端、その先は江戸湾であった。今はその先が東京湾に13km延びて、「暁ふ頭公園」になっている。目下埋め立てている「ごみ処理場」までは、さらに5km延びる。2020年のオリンピックのボート会場建設で話題になった「海の森公園」のあるのがここの鳥羽口になる。この埋め立てが「日本の近代」なのだが、私の印象では、江戸初期からの埋め立てと明治以降の埋め立てとは全く異なる。「江戸はエコ、明治以降はエゴ」という近頃流行りの図柄に私も俗されているのであろうかと思うが、最近の中国のPM2.5の惨状をみるにつけ中国の30~40年先を歩いて来た日本の姿が思い出されて胸が痛む。
 
 「享保年間(1716~1736)の江戸の人口が130万人~140万人」というのに、まず驚く。江戸期最初の人口調査が1721年とされているが、その総人口が約3100万人。ということは、4割超が集中していたことになる。講師のM.ハマダさんによると、幕府の旗本・家臣・家人が20~30万人、大名と家族・家臣が50万人、町人が50万人、その他僧侶や浪人が5万人といい、住まいも定められていたそうだ。人口比と土地家屋の所有関係を単純に較べるわけにはいかないが、町人人口が三割ほどということは、住まう場所は一割にも満たなかったとみてもよかろうか。時代物小説などで賑やかな江戸の町をついつい思い浮かべてしまうが、実はそれほどの場所を占めていなかったようだ。
 
《「下町と山の手」の「下町――て一の意味ではなく江戸城に対する城下町という意味」。つまり、職人・町民の町が下町で、「山の手――武家地が中心、江戸城の西・北側を守るため」》
 
 と説明する。江戸は軍事都市から政治都市へと成長し、「中央集権国家の完成?」へと変貌したとみている。武家は基本的に消費者である。ということは、江戸の町は基本的に消費中心。商業・職人の活動が盛んになるだけでなく、武家の兵站というか、彼らの食べ物はどこから調達していたのであろうか。明暦の大火(1657年)によって焼け野原になった江戸は、その再建のために、再び「天下普請」を行い、全国からのヒト・モノ・カネの交通は、ずいぶんと賑わいを見せていたに違いない。
 
 でも天下普請にせよ、大火再建にせよ、人夫はどうしたの?
 そりゃあ、たとえば木材や石材の切り出しは切り出し地で賄ったでしょうが、江戸は江戸で現地調達したんじゃないの?
 そうか、それで仕事を求めて江戸に人が集まったってわけか。
 今と同じじゃない?
 幡随院長兵衛って、口入屋がいたよね。
 やくざじゃない? それって。
(ええっとね……とスマホをいじりながら幡随院長兵衛の「紹介」を読み上げる人がいる)
 ということは、日常生活に必要な食糧ばかりでなく、日用品も贅沢品も、お上への献上品も含めて、ものすごい物流のネットワークができあがったってわけね。
 貨幣経済も市場も、「江戸」と牧歌的にイメージしているのと違って、ずいぶん盛んだったと考えて良さそうですね。
 
 享保年間は、すでに江戸が始まってから100年以上の年月を経ている。人口の4割が集積しているという様相からすると、天下普請が功を奏し、参勤交代や江戸勤番が人を集め、壮大な消費地・江戸がつくりあげられてきていたと思われる。江戸の町に水路を張り巡らし、塩辛い井戸水ではなく上水路を整備して飲み水を確保したうえに、物流の中心的な担い手としての舟運を利用していたと、講師は話をつづける。その壮大な展開は、すでに近代の市場経済に近い踏み込みをしていたと推定しても、不思議ではない。そんなことを考えながら、明治以降の江戸・東京の変貌ぶりを思い描いていたのでありました。
 
 幕末の「江戸城開城」が大きな意味を持つと講師はいう。江戸が(維新時の)戦火にまみれなかったのはひとえに「西郷隆盛と勝海舟の会談」のおかげと。なるほどそういうことがあって、江戸を東京として、都に据えたかと思えた。ところが講師によると、じつは、「東京遷都」とは言わないらしい。1968年7月17日の詔書でも「江戸を東京と改称」することは記して「東京奠都」と呼んでいるが、「東京遷都」とはいわないという。いや、呼び方だけではなく、天皇自身が、その初期にはさっさと京都に帰ったりして、腰が定まらなかった事実があるようだ。面白い。それがあるから、京都ではいまだに「天皇はんを、はようお返しなはれ」というらしい。
 
 「都」ということについて言えば、江戸は江戸時代を通じて事実上の政治の中心であった。それを「みやこ」というのか、それとも「てんのうはん」のいたところを「都」というのか、考えてみたこともなかったが、今やその天皇さんも「象徴」になってしまったから、ますます「みやこ」から遠ざかるようになってしまった。行政的な地位だけでなく、「大阪都」などができると、日本には「みやこ」がたくさんできる。ま、それもいいか。「住めば都」というからね。

第24回Seminar ご報告(1)江戸の「列島改造」町づくり

2017-01-29 20:16:43 | 日記
 
 昨日は第24回Seminar。これで満4年が終わる。75歳までは続けようやと話していたが、75歳になる年か、75歳がおわる年かは詰めてなかった。その入口に、いよいよ差し掛かる。会場の大学にまだ務めているSさんが「あと一年くらいは頑張るから、終わるところまでやろう」という。そういうわけであと一年、つづけることになった。
 
 今回は講師:M.ハマダくんの『江戸・東京の街づくり』。家康以前の江戸のイメージが、あまり私たちの中にない、と講師は話しはじめる。将門の首塚と大田道灌が城を築いたという程度か。築城とはいえ、後の江戸城とは比較にならないほどの、土塁のようであったらしい。だが口火をそこから切ったものだから、家康が、秀吉によって国替えを命じられて、江戸に居城を定めることになった1590年当時の地勢はどうであったろうかと、関心が傾く。
 
 「江戸は地の果ての空白地であった」と大雑把なイメージを描く。
 
 《旧利根川は東京湾に直接注いでいた。千葉県側の下総台地と武蔵野台地のあいだの幅は12km~16kmの谷のような低地。荒川デルタと利根川デルタといえる湿地帯。……江戸城は武蔵野台地突端(どんづまり)につくられていた》
 
 大川から東は下総だったという、その大川は今の隅田川。元は、上野台地の東側を流れる入間川が、川越方面から流れ込み、舟運として使われて川越まで一日で行き来していたそうだ。「徳川時代以前の江戸の河川流域図」によると、さらにその東に元荒川が利根川と合流して(今の江戸川として)流れ、それと並行するように、さらに東に渡良瀬川が(今の松戸の少し西を通って)江戸湾に流れ込む「太日(ふとゐ)川」となっている。現在の利根川や渡良瀬川の流路は、したがって江戸期以降に改修されて、大きく流れを変えていることがわかる。「240万石の国替え」とは言え、こんな低湿地帯。秀吉は家康を畏れていたのであろうが、それにしても家康は小田原などに居城を定めず、どうして江戸に腰を据えたのかと思われる。
 
 《武蔵野台地の末端は上野飛鳥山、本郷巣鴨、小石川、牛込、麹町四谷、芝、白銀の「七つの大地」に別れていた。日比谷は入江。》
                             
 と講師は述べ、「江戸には七つの丘がある」点でローマとの地勢的な(ということは防御的にも、都市交通的にも)有効な「判断」が介在したであろうと推察する。そう、塩野七生の本にもそう書いてあったと、誰かが口を挟む。むろん江戸城の守りというよりも、街全体の暮らしと守りを河川と台地の入り組み具合を見通して適地とみたと思われる。つまり、将軍となってからの「天下普請」によって、河川の流れを変え、埋め立てをし、上水道を整備し、五街道を整え、江戸の地大規模な配置換えが行われ、神社・仏閣や吉原の移転、広小路・形を大きく変え、まるで17世紀の田中角栄とでもいうように国土改造計画を遂行した、と。
 
 地形だけではない。明暦の大火(1657年)では江戸城の天守閣が焼け、
 
《大名160家、旗本・御家人608戸、神社・仏閣約350、町屋48000戸、市街地の六割が焼け野が原となった》
 
 とある。そのあとの再建に際し、防火対策から大規模な屋敷の配置換えや神社・ぶっかっく、吉原の移転も進められ、広小路や火除け地の配置も行われたという。大川の向こうが大規模に開発され、埋め立てられた。そういわれてみて思うのだが、高度経済成長期に「夢の島」と言われていた土地が今やすっかり東京湾の沖合へと進出しているではないか。江戸初期から始まった「埋め立て」という近代の所業が、今もなお、ほぼ同じセンスで引き継がれてすすめられている。これが東京という人工都市の象徴的な姿だということが出来そうだ。これが「素敵よ」という人もいれば、「いやだなあ」と感じる私のような者もいる。
 
 首都圏にやってきて私も56年が過ぎるが、こういわれてみると、まるで東京の地勢的なことを見ていなかったなあと臍を噛む思いがする。すっかり改良された江戸の上に、さらに人工的に改造が加えられ、その上に乗っかって何食わぬ顔をしてきた。そう我が身を振り返る。面白い。
 
 講師のM.ハマダくんは江戸物の小説をたくさん読んでいることもあって、それらの話しを織り込みながら、今と江戸とを行き来しながらテンポよく「街づくり」がすすむ。ほとんど江戸時代から日本の「近代」が始まっているようにイメージをふくらましながら、Seminarが始まったのでした。(つづく)

ガラパゴス

2017-01-27 10:33:08 | 日記
 
 相場英雄『ガラパゴス』(小学館、2016年)上下二巻を読む。ミステリー。身元不明の自殺体として処理されていた「事案」に殺人の臭いを嗅ぎ、「903」という記号で処理されていた遺体が「解き明かされていく」。その背景に、日本産業のガラパゴス化が底流して、「事案」の悲劇性が読み取る読者の日常に突き刺さる。
 
 読んでいる途中の新聞に、アメリカの新大統領が「日本車の輸入に文句をつけている」とニュースが載る。「1980年代を思わせる勘違い」とトランプを評する記事だが、相場英雄の小説を読んでいると、果たして「勘違い」と言えるかどうかわからない、と思う。
 
 1980年代の、たとえば日本の自動車産業はアメリカをしのぐ隆盛を誇った。そこでは『ジャパン・アズ・ナンバーワン』の著者の言をまつまでもなく、日本的経営の優越性が取り沙汰された。同業他社との切磋琢磨が、1970年代の二度のエネルギー源の高騰に立ち向かって生産性を向上させた。この日本の社会文化をベースにした生産システムが、豊かな石油資源に胡坐をかいていたアメリカの自動車産業を凌いだのであった。だがこの「日本的経営の優越性」が90年代に入って、グローバリズムの波にさらされたとき「世界標準」に取り残される結果を生んだ。その事象を、いろいろな局面に当てはめて「ガラパゴス化」と呼ぶようになった。
 
 例えば商品の、多機能・多品種・少量生産が(国内同業他社との競争を意識し、日本人向けの商品生産として)精緻を極めるようにすすめられていても、グローバル市場においては必要機能を満たせば価格の安い方が競争を勝ち抜くから、労働力の安い後発中進国にはかなわない。こうして「ガラパゴス化」は国際市場においては不適応の烙印を押されることになる。家電製品も、パソコンも、携帯電話も……、あれもこれも「ガラパゴス化」を抜け出して、国際市場に焦点を合わせて組み立て直す方向へと出立したのが、バブル崩壊後日本の「失われた十年」「失われた二十年」であった。それはすでに27年になろうというのに、未だに「失われた」まゝに、「景気浮揚」のことばとカンフル剤的な資金投与だけが産業界に向けて行われている。
 
 つまり、日本の社会や文化とグローバル市場との「かんけい」をどうするのか見定めないままに、1980年代の経済的高揚を夢見てカンフル剤を注入しても、社会や文化の基盤がぐずぐずと崩れる結果にしかならないと(庶民である)私は実感している。相場英雄の作品も、もし主題的に焦点化するならば、その日本の庶民の暮らしが「働きやすくする」政策がもたらした崩壊過程を描き出している、と言える。
 
 バブル崩壊後の日本はグローバル化の道を歩いて来たのに、どうして自動車産業の「関税」が今さら問題になるのか。トランプが「勘違い」しているのか。そう単純に言えないのは、日本もアメリカも、それぞれの社会が抱えている文化をベースにして、産業グローバル化への歩度をすすめているからである。トランプはこれまでの(国際関係交渉の)成り行きをすべてチャラにして「立論」する。そこにはたしてきたアメリカのイニシャティヴをも顧慮しない。いま、日本車のアメリカへの輸入には「関税ゼロ」なのに、日本へのアメリカ車の輸入には「(排気量1200ccの場合)2.5%の関税」がかかる(ヨーロッパ車には10%などとさまざまだが)。ならばいずれもゼロとすべきだというのが、トランプ流。彼の言説は目前の焦点化したコトしか眼中に置かない。それを実現することがほかにシワ寄せをもたらすとすると、それはそれが生じたところでまた、考えればいいというわけだ。肝心なのはアメリカ・ファーストの強腰。
 
 そこでふと思い出す。1992年1月の父ブッシュ大統領の来日。あの、晩餐会で大統領が失神したとき、ブッシュ氏はデトロイトの主要自動車産業界の経営者を引き連れて、日本の自動車市場の開放、アメリカ製品の売り込みに奔走していた。そのときアメリカの自動車経営者は、日本の道路幅が狭いのはアメ車を輸入させないためだと発言して、マスメディアはそれを嗤った。アメリカはどこまでも自己中心的だ、と。ところがグローバル化が進展してみると(中進国もさることながら)欧米の自動車産業も小型化が主流となり、ディーゼルの改良もふくめて燃費の改良もハイブリッドばかりでなく、格段に進んだ。それでも自動車はまだ健在の方だ。半導体、リチゥムイオン電池、液晶・プラズマの薄型パネル、太陽電池、金型など、かつて日本が誇った主力産業は、すっかり中進国へ移動している。
 
 なぜか。機能的に済ませればいいものは安いに越したことはない。となると、労働力の安い中進国へ産業の主力が移動するのは避けがたいこと。もしそれをも国内生産に取り戻したければ、国内労働力を安くするしかない。「働きやすくする」というのは「雇いやすく/回顧しやすく/する」こと。こうして、低賃金労働が「非正規雇用」「派遣労働」として広まる。若い人たちにはそこしか場がない。将来の希望なんて、考えられない。ブラック企業が蔓延する。グローバル化の生み出した社会の実態が悲惨なこれだと、相場英雄は描き出してストーリーを展開する。ガラパゴス化を捨て去ることは日本の文化を切り捨てること。そういえば海に囲まれて、あたかもトランプがつくるという隣国との「壁」を地勢によって果たしている日本では、すでに地政学的にトランプを内包しているのかもしれない。
 
 ひとつ気付いたこと。犯罪捜査というのは、被害者(加害者も)の記号的存在を、一つ一つ丁寧に探り当てて個別具体性を起ち上げて「かんけい」を解き明かし、さらにその裏に底流する社会のメカニズムにふれるプロセスである。刑事というのはそういう意味で、作家のような「人の人生をまるごとつかみとる」作業をしている。警察小説や犯罪小説が面白いと感じるのは、読む者が自分の人生を重ねて読むからにほかならない。相場英雄という作家は、それを全面的に展開して、今の時代をあぶりだしていると思った。

Mt. ever young

2017-01-26 11:16:48 | 日記
 
 山の会の月例山行。今日は静岡県の東の端、神奈川県との境にある「不老山」。5時間ほどの山歩きの下山後に、駅まで車道を1時間歩くという行程。標高差は約700m。当初、逆のルートを考えていて、登山口まで朝一本のバスに乗ろうと企画していたのだが、下りの急斜面よりは上りの急斜面の方がいいかと考え直して、駿河小山駅から入山することにした。小田急線の新松田駅で乗り換えた電車は御殿場線の沼津行き。国府津から沼津までのこの経路は、箱根の北側を走る。調べたわけじゃないが、(たぶん)東海道線の丹那トンネルが抜けるまでは、こちらが東海道の本線だったのではないか。そう思うほど、ウィークデイの通勤時間帯を過ぎているというのに、乗車している人が多い。同行する何人かも、国府津から乗ってきた。
 
 駿河小山駅から歩きはじめたのは9時20分。正面に雪をかぶった富士山がすっきりと立っている。毎日富士山を見ながら暮らすというのも悪くないなあと思う。同行しているうちのkw夫妻が、一週前にここを歩いたと聞いた。じつは山行日を一週間違えて来てしまったらしい。交番でルートを聞いて金時公園脇から登り、私の予定しているルートで下山した、という。登ったルートは林道がしっかりしていて、下山にはいいかもしれないという。私は、山頂から樹林の中を降って、国道に出てから1時間歩くのがどうかなと思っていたので、あとで皆さんに訊いてルート変更をしようと考えていた。
 
 鮎沢川を渡り20分ほど歩いて生土(いきど)の集落を過ぎ、高速道の下をくぐると、すぐに右への登山道に入る。「富士箱根トレイル→」とあるが、不老山の名はない。少し進んでやっと、「ここより不老山 聖域に入る」と手書きの表示板が木柱に打ち付けてある。「六根清浄」とも記している。ここから、先週歩いたkwrさんに先頭を歩いてもらう。いきなりの急登。階段様の狭い足場が何百段かあるが、そこに土が崩れ、その上に落ち葉が降り積もって、まあるく盛り上がり、歩きづらいことこの上ない。手すりがついていなければ、転げ落ちそうだ。
 
 kwrさんは、すぐ後に続くotさんの息遣いを耳にしながら、ゆっくりと登る。急登を登り切ったところで、odさんが「年寄りにはきつい」というようなことを口にする。「この中で年寄りって言える高齢者はotさん一人だけだよ」と、後ろから混ぜ返す。75歳以上はotさん彼一人。「そうだよね。75になるまでは働けってことよね」と誰かがつづける。お喋りしながら歩けるようになった。標高400mを越えたあたりから650mほどまでは「ハイキングみたい」と声が上がるほど、緩やかな稜線歩きがつづく。スギとヒノキの樹林帯。全体に暗いが、ところどころ陽ざしが差し込んで落ち葉が降り積もる。
 
 手書きの表示板は、このあとずいぶんたくさん設えられていて、登山道の案内板というよりは、不老山の紹介板という風情。良寛の歌が記されていたり、「不老なる山のいぶきに触れもせで さびしからずや金を説く君――平成野晶子」と謳っていたり、北原白秋の「からまつの~」を書きつけたり、なんとも我流趣味の展示場のようになっている。
 
 木々の合間から富士山が雲一つない姿をみせている。登山口から1時間ほどのところの木柱看板に「この新ルート 88歳と80歳の2人が開鑿し56本の道標を建てた(2005年)が、翌年にすべて破壊された。憤懣やるかたない」とあった。ここまで残されていた紹介板と製作者が同じ人物かどうかはわからないが、もし同じだとすると、「なんだよ勝手にこんな煩わしいものを建てて、止めてくれ」と思う人がいても不思議ではない。このルートを「開鑿した」というが、2005年以前の山の案内書にも紹介されているから、この製作者の勝手な思い込みとも思える。「不老山 It means ever young.」というのもあった。ご当人は思いもよらないであろうが、不老山を「自分の思い」で私するものとも言える。山を静かに歩きたいと踏み込んできた人からすると、まったく余計なこと。鳥肌が立つというものでもある。それにしても「不老」というのを「ever young」というと、ちょっと違うなと思う。むしろ「ageless」とか「unfading」という方が、感触が近い。ことに「unfading」というのは世間から疎まれて「不老」であるという憎まれっ子がはばかっている感じがあって、私の好感する語感に近い。そんなことを考えながら、歩く。
 
 山の斜面が崩れたところは樹林が少し切れている。そこのところで、富士山が見事な姿を見せる。その都度立ち止まってカメラを構える。危ないよ! とsさんが大声を出す。綱を張ってあるが、滑ると何十メートルか下へ転落してしまいそうだ。歩いているとときどき、ど~んど~んと音が聞こえる。東富士演習場が近いからか。ヘリコプターのローターの音もけたたましく聞こえる。標高650mほどで、生土から登る別のルートと合流する。ここから後半の急斜面の登りになる。「あと標高差280m!」と後ろが声を出す。登り口ほどの急斜面ではないが、ずいずいと登る。標高900mで広い林道を横切る。木を伐りだしたときに使ったものであろう。相変わらずヒノキとスギの混淆林がつづいている。otさんも好調なようだ。
 
 山頂手前に、もうひとつ生土から登ってくる分岐があった。kw夫妻は、先週こちらから登った、「楽だったよ」という。ではこちらから降りようと衆議一決。その先の富士山展望台は雪が残っていた。それにしても大きい富士山が見える。お昼は山頂の樹林の中のベンチ、ちょうどそこに差す陽当たりを浴びながら30分もとった。ルリビタキがすぐ近くを飛び回る。
 
 12時34分、下山開始。kwrさんが先週登って来た道は、やはりそれなりに傾斜が厳しい。落ち葉が降り積もり滑りやすい。そのうち広い林道に出る。すぐにまた細い登山道に入る。「登山者は登山道を通ってください」と、入口に記した掲示がある。標高800mくらいから急峻な階段に入る。「えっ、こんなところが登り易かったんですか」と後方のsさんが声を出すが、前を行くkwrさんには聞こえない。「まあ、先達に任せて、大船に乗ってましょう」と末尾の私。どうも道を外したようだ。
 
 私はスマホを出して、GPSで現在地をみると、あきらかに階段のところから林道を大きく外れている。進む方向の登山道は(国土地理院地図では)途中で消えている。急峻な階段は東電の高圧鉄塔修復用の作業道のようだ。でもスマホの地図を見ると、少し途絶えた先の左寄りに、向こうから登山道が伸びて消えている。その先を辿ると1kmほど先で立派な林道に合流している。「行こう!」と声をかけ、そちらへすすむ。急な倒木だらけの斜面を、ゆっくり下る。木につかまるが、その木が枯れていて、ぽきっと折れる。ずるずると滑る。そうしてやっと、踏み跡らしきものが下っているのを見つける。皆さんハラハラしながら足元を見つめて降りている。
 
 それでも、面白いとsさんはいう。「でも、今日の歩き方は邪道ですよ」とsさんに話す。山で迷ったときは原則として、迷い始めたところまで戻る。だから、東電の作業道へ入り込んだところへ戻るようにしなくちゃね。でもスマホのGPSと地図で自分の位置と先の登山道がわかるから、こんなことができると説明する。私の山のコーランだ、とも。
 
 こうして、スマホの画面を見つめながら、やっと広い林道に出た。kwrさんもホッとした様子だが、彼が先週上ったルートの、山ひとつ越えた谷筋になる。遠回りになるが、これで安心して駅まで行ける。いまは閉鎖されている弁天公園の脇を通る。目指すは金時公園。そこから20分で駅だという。おしゃべりが始まる。ところが、金時公園の脇へ出る道が、工事中で通れない。ひき返して、また500mほど遠回りする。何か大掛かりな工事をしている。「第二東名の海老名までつなげる工事」だと、あとでkwrさん聞いた。
 
 15時3分の電車にちょうど間に合った。国府津まで行った人たちと松田駅で別れ、小田急線組は新宿へ乗り換えた。がらがらの電車、途中から乗り込む人たちでいっぱいになったが、ひと眠りしているうちに新宿。家へ帰り着いたのは6時ちょっと前であった。来月76歳になるotさんにとっはever youngだったかなunfadingだったかな。

大寒を超えた

2017-01-24 10:23:47 | 日記
 
 陽ざしの入り方が違ってきた。我が家のリビング。向かいに五階建ての建物があるから、冬場、一階に住んでいる我が家に陽ざしが入るのは、南西側が最初、やがて南側と移ってリビングが明るく、暖かくなっていた。それが、南東側からの陽ざしが最初に入るようになった。太陽が早く高度をもつようになったのだ。大寒というのは太陽が黄経300度に来たときを謂うと、何かの本にあった。「黄経」というのがどういうことなのかよくわからないけど、冬至のころと比べると、たぶん、太陽の我が家に差し込む角度がある高さに恢復したときを謂っていると解釈している。なにより陽ざしが、うれしい。
 
 二十日が大寒。一年で一番寒い日ということになる。でも、実際には昨日から冷え込みがきつくなった。このところの気候変動は、「平年並み」が通用しない。気温の変化も、降水量も、振れ幅が大きい。おまけに地殻の揺れ幅もダイナミックになってきているから、そちらの方もトランプ流に「ポスト・トゥルース」になってきているのだろうか。
 
 さて、寒中お見舞い申し上げます。師走に喪中はがきをもらって、そうか親御さんが亡くなったかとか、兄弟を亡くしたかと驚いてお悔やみの手紙を書いていたら、「寒中見舞い」は大寒が過ぎてから出すものよとカミサンに言われたことがあった。あるいは、話しは違うが、喪中はがきの文面には句読点をつかわないとも言われて、初めて(そんなことを)知った。来た文面を見ると、たしかに句読点がない。知らないってことは、強い。私のような人が増えてくると、今度は、文面を見て(なんだこの人は句読点を使ってない、と)使わない方が無作法ってことになるのかもしれない。
 
 でも、作法が消えてなくなっていることを考えると、無作法も一緒に消失している。作法は、沈黙の振る舞いで場にふさわしい儀礼を表現する方法であった。「慮(おもんぱか)る」という振る舞いは、「慮る」方と受ける方との気が合わなければ、その振舞いは中空に消えていく。双方の気合がしっとりと保たれていてこその「気遣い」であるから、わかる人にはわかるが、わからない人にはわからない。これもそうやって、喪中はがきの句読点のように、いつしか変容してしまう。
 
 となると、婉曲に表現するよりも率直にものを言う方が、「真意が伝わる」と思うようになる。昔でいえば、庶民と公家の、あるいは今でも残る関東と関西の語法のちがいが、その辺の変容ぶりのちがいが絡んでいるように、私は思って来た。関西生まれの私が、関東に暮らして五十有余年、語法に関して言えば、関東ぶりが身についてきた。ときどき表現が「直截的すぎる」とか「言いすぎ」と言われるのは、(いちいち調べたことはないが)評者の関東・関西・東北(あるいは出自の階層・階級)という生まれも影響しているのではないかと、思っている。
 
 言文一致運動が実ってそれが社会的に一般化したのは円地文子がデビューしたとき、1961年であったと、どなたであったかが、どこかで書いていた。その年に高校を卒業し関東で大学に入った私としては、言文一致で育って、社会的に完成したころに関東に住まうようになった。その私が率直にものを言う方が真意が伝わると感じ、出来るだけそれを実践している。ということは、大衆社会の真ん中にいて、案外、庶民が使う語法の一般性を代表しているとみてもいいのではないか。
 
 陽ざしが東から入るように移り変わってきたことに、そんなことを思っている。