mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

(2)ボヘミアンと使い捨て

2019-09-30 09:30:06 | 日記
 
 Seminarの「団地コミュニティの社会学的考察」でもう一つ物議をかもしたのが、私たちの寿命と建物の劣化をどう考えるか、であった。時間がなかったSeminarの場では、説明もしなかったし、やりとりも行えなかったが、fjkwさんが「子や孫に受け継ぐってことを考えなきゃあ、良くないわよ」と言い、tkさんが「子どものいない人だっているよ」と受け、「それって、都市計画のモンダイじゃないの?」と返したところで、終わってしまった。少し丁寧に考えてみよう。
 
 都市生活に入った1960年代、すでにそうであったが、私たちは「故郷喪失者」であった。前回のSeminarでfmnさんが「人生はボヘミアン」と謳って、胸を打つ響きを奏でたように、ただ単に「田舎」を棄てた(あるいは、追われるように故郷を出た)というだけでなく、急速な産業社会化の波に襲われて、社会そのものが「田園」を失っていっていた。その変化が私たちの心に残したものは「使い捨て文化」ではなかったかと、いま感じる。
 
 住まいについてだけ考えても、私は転々と移り住んだ。結婚してから国体選手村として使われた跡の県営団地に住み、その後、高層住宅の13階を手に入れ、のちに現在の「団地」の1階に移った。つまり、暮らし方に合わせて住まいを変えてきた。いまの住まいに固執する理由は、何もない。夫婦のどちらかが最期を迎えれば、養護老人ホームにでも移るのが良かろうと、カミサンと話している。今の建物の寿命があと40年ほどと見たてられているから、いずれ売り払ってどこかへ移り住むことになるというのが、今の建物にもっている将来イメージだ。
 
 長期修繕に臨んで、現在の「団地」をどう維持するのかと、何年か前に住民アンケートを取ったことがある。適当時期に建替えるのか、できるだけ長く保持していくのかによって、長期修繕の手の入れ方が異なるからというものであった。結果は「できるだけ長く保持する」であった。だから私は、修繕などについても、「手を入れるべきはいれる。それに必要な積立金を(そのときどきに応じて困らない程度に)用意すればいい」と考えていた。(理事長になってから)修繕専門委員から「廃墟にしたままにするというのではなく、取り壊して更地にする資金も視野に入れるべきだ」と(長期修繕計画の視野を)問われ、「自分の寿命程度のことを考えるってことで行きましょう」と躱した。そのとき私の脳裏を掠ったのが、「それって都市計画のモンダイではないか」ということであった。
 
 少子化、人口減少といわれながら、首都圏の住宅建築状況をみると、新築が相次いでいる。さいたま市の私のご近所でも、中層団地や戸建て新築のラッシュだ。土地所有者が亡くなって、遺産相続の関係で土地を売り払ったり、農地を転用して活用方法を変えているのであろう。需要はある。さいたま市の人口がいくぶん増えていることもあろう。東京よりは価格的に手に入れ易いから、若い所帯が社会移動している。それでも、賃貸の中層住宅に空き家が目立つ。古い賃貸から(契約更改を機に)新しい賃貸に移り住んでいるのだ。これって(社会全体からみると)、使い捨てじゃないのか。
 
 わが住まいに限って言えば、「子や孫に受け継ぐ」というとき、この建物や共有土地を「受け継ぐ」とイメージしていない。子や孫がどこに住むかを私たちが決めることではない。私の寿命以上に建物がもつのであれば、いずれ売り払う。それを誰かが買う(とすれば)その人たちが、今のわが家の寿命である40年ほどのちに建替えるかどうかを思案することだと思う。そのとき日本の人口はさらに一層人口が減少していて、(建替えても)買い手がつかないこともありうる。となると取り壊して、更地にして、どうするのか? 多分、売れなければ資産にもならない。となると、更地にすることが管理組合の総会を通るとは思えない。そのときすでに(たぶん)居住者は歯が抜けたように少なくなっているであろうから、スラム化する。廃墟となると、取り壊す費用を負担するよりは私有権を放棄する方を選ぶ。これって、個々人が「子や孫が受け継ぐ」と考える問題なのか。子や孫の世代にどう受け渡し引き継ぐのかと考えると、個々の家の始末のことではなく、都市計画のモンダイとして構想することだと思うのである。「都市計画税」を支払っているのは、そのためだと私は思ってきたが、違うのだろうか。
 
 「限界集落」のモンダイが提起されてからもう十年以上になるか。私が山に行く途中に見かける「空き家」は、都会の「団地」の行く末を先取りしているように見える。飯豊連峰を縦走して弥平四郎(という名の集落)に下って来た時のことを思い出す。
 
 静かな山際の弥平四郎は町と呼んでもいいくらい何十軒もの民家が道路の両側に軒を連ねている。下山途中に通過した山小屋の主人が「デマンドバスを予約しておいた方がいい」と教えてくれたので、その小屋で予約してもらった。デマンドバスが来るくらいだから、集落として成り立っているのだろう。木造の家々は古びているが、手入れがなされているように見える。人影は見えない。庭の草がぼうぼうと背丈を伸ばしている家もある。古いガイドブックには下山地集落に温泉があると記されていた。「宿」と書きつけられた看板を見つけた。だが、戸は締まり人のいる気配がない。
 
 やっと一軒雨戸を開け、風を通している家があった。声をかけると奥から女の人が出てくる。宿が締まっていることを訊くと、皆さん町に移り住んで、いまはやっていないという。でも、どうして、そんなことを訊くのか? といぶかしげ。いやじつは、汗を流したくてというと、「うちの風呂場で水で良かったらお使いなさい」と言ってくれたので、ことばに甘えた。着替えを済ませると「うちのごちそうよ」といって、コップに水を汲んでくれた。山水を引いているそうだ。冷たくておいしい。何杯かお代わりをした。
 
 このお宅も町に移り住んでいる。お盆前だったので、墓参りに親族が帰ってくるから、風を通して草取りをしておこうと思ってねと、話してくれる。ご亭主も帰ってきて、しばらくおしゃべりに加わった。この集落に日頃棲んでいるのは数軒、十人に満たない。だがお盆になると子どもや孫が帰って来て賑やかになる。月に一回ほど町からやってきては、家の手入れをしている。もう誰も戻ってこなくなった家もある。冬には2メートルほどの雪がつもるから、雪下ろしもしなければならない。多いときはね4メートル近くつもって家が埋まってしまったこともあるのよ、と笑いながら話す。6月のブナの新緑がすばらしい。ここへ嫁に来て、それが一番気に入ったと、奥さんは言葉を足す。
 
 デマンドバスが来た。一人老女が乗り合わせる。というより、この方がデマンドしていたのに私が同乗させてもらったわけだ。病院へ行くのだそうだ。駅まで20kmほどあるのに300円て安いですねというと、私らはタダみたいなものだからと笑う。途中でバスを止めてもらい、農家のみかんを買って、「いつもごくろうさん」と運転手さんにプレゼントしていた。
 
 考えてみると、私たちの親が、このようにして暮らしていた。親が亡くなってしまうと、墓参り以外に「ふるさと」に還る理由がなくなる。墓をこちらにもってきたりすると、すっかり縁が切れてしまう。登山のときに見かける山の周辺の住まいをみると、「空き家」が圧倒的に多くなった。すっかり朽ち果てて屋根が落ちてしまっているのもある。こうして土に還るのだとわが身の行く末を重ね、自然の力を肌に感じて感慨ひとしおだ。(つづく)

目に見えないコミュニティ

2019-09-29 11:04:14 | 日記
 
 昨日(9/28)のSeminar《「団地コミュニティ」の社会学的考察》を提起していて、「コミュニティなんて、あるの?」という反応を、わりと広い範囲の人たちにみて、そうか、コミュニティは目に見えなくなっているのだと気づいた。
 
 《「コミュニティ性」というのは日常の暮らしの実務を土台にして、それを取り仕切る所作と「かんけい」です》と、私は解きほぐしたつもりであった。「翻訳して」と言われて、「ふだんのくらしを、どのように、誰に頼んで、行っているか。そのありよう」と言い換えてみた。だが「コミュニティなんて、あるの?」といった人は、アメリカの上流階層の人たちが住まう(ゲーティッドかどうかは知らないが)コミュニティの話をして、お金を潤沢に用意してあれば「コミュニティ性は、問題にもならない」という趣旨の発言をした。かれは「団地管理組合」の仕事は、建物とその環境の維持保全であって(お金持ちたちの話となると)、ことごとく委託して「(商)取引」としてやってもらえば済む話と考えている。それは、その通りだ。
 
 つまり私が提起している「団地コミュニティのモンダイ」というのは、自前の管理組合理事会が建物と環境の維持管理のコントロール部分を司っていることから生じている。つまり、発生する事態と状況を把握し判断して、修理保全を業者に委託して対処している。ときには自分たちで緊急に対処しなければならない場合も生じる。その事態把握、状況判断、対処の運びの過程で、理事や管理組合員や居住者の「文化的な齟齬」が浮かび上がる。
 
 「取引」においては、需要者と供給者の文化的な齟齬は「契約」時点において明らかになり、その締結時にやりとりを済ませて始末することができる。「取引事業」終了ののちに「齟齬」が浮かび上がった場合には、修正工事が行われたり、法的に争ったりして解決する。つまり、「関係性」として問題になる「コミュニティ性」は、外化されている。ところが、自前管理組合理事会が取り扱うときは、「文化的な齟齬」という関係性は、身の裡にあって発生する。そこに、集合住宅の集団性が露わになる根拠がある。
 
 「コミュニティ性」を厄介なことと感じている人は「コミュニティ性」というのを何か「(他者との)制約を背負い込む関係」と考えていることも分かった。「取引」は契約ではあるが、制約ではない。文化的な齟齬が外化されて取り扱われるならば、ますます「制約」的な要素は排除される(いやなら契約しなければいいのだ)。だが「取引」のバックグラウンドには、社会的な規範やシステム、法秩序という人びとの暮らしに介在する「暗黙の強制力」が働いている。倫理学者であったアダム・スミスはそれを「道徳」と考えていた。彼の時代の西欧にはキリスト教倫理が根づいていたから、経済関係を論じるアダムスミスの論調は、「(神の)見えざる手」が働いて市場関係が調整されていると考えることができたのである。
 
 今の日本では、近代的な市民社会をかたちづくる過程で(ことに戦後の経済成長の時代には)安定した社会関係を築いてきた。ことに1980年代からの高度消費社会を実現したころには、「一億総中流」と呼ばれた上向きの社会的気分も作用して、文化的な齟齬は消えたかに見えた。むしろ多様化と独自性が称揚され、日本文化の伝統的にもっている集団性や共同性は、因習的弊害として退けられた。ジャパン・アズ・ナンバー・ワンの市場経済が世界標準になるような錯覚をもちさえしたのであった。つまり、市場社会の背景を支えてきた「暗黙の強制力」がすっかり身に馴染み、市場社会の社会システムとして一世を風靡したともいえる。たぶんそれに、伝統的な「お上」意識も働いて、社会を支えているのが自分たち一人一人であることさえ、忘れてしまった。そういう時代の空気にどっぷりと浸って、後期高齢者である私たちは、ことばも感性も身につけてきている。
 
 バブル崩壊後の日本社会の変化が、文化的な齟齬として表れ始めているのではないか。自前管理をしている私の「団地管理組合」は、その齟齬に突き当たり、面倒なやりとりをこなさなければならなくなっている。それが「コミュニティ性」を意識させる。戸建て住宅に住まう人たちの(すでに、あるいは、いずれ)直面する「問題」に(やっと今ごろ、あるいは、早々と)向き合っている感触がある。
 
 その「問題」とは、Seminarで表出して、片づけないままに時間が来てしまったこと。私たちの今の住まいを、将来的にどう処分するのか。団地ばかりか、戸建て住宅にしても、廃墟にして放置するのかどうか。「子や孫に受け継ぐってことを考えないのは、ひどいわよ」とfjkwさんは声を上げたが、それは、個々の所有者が考える問題なのか。あるいは都市計画として、然るべきところで考えなければならないモンダイなのか。引き続き、考えてみたい。

奇遇のヨーキ、日本百名山・会津駒ケ岳

2019-09-27 14:47:12 | 日記

 先日(9/20)「女心と秋の空」を記した。台風が来る。ところが足が速い。9/25の奥日光は台風一過の晴天の予報。ならば日帰りで行きませんかと、ほかの方々に呼び掛けた。「眺望もいいというから、頑張ります」と古稀を越えたmrさんからの返信。ところがkwさん夫妻から「やはり体調が恢復せず、見合わせたい」との返事。mrさんに知らせると、「皆さんがそろっていくようにしましょう」ということで、見送りとなった。

 そもそも今年の山歩き、山の会の定例山行の外はいつも私が単独行で行っていた。それにトレーニング山行をやっていたkw夫妻がつきあうようになって、皆さんにも呼び掛け、それも山の会の山行に組み込んだから、一挙に山の会の山行が増えた。私にとっては、単独行の不安が少しだけ解消されることになる。でも皆さん年寄りだから、こういうことは起こる。でもでも、皆さんの体調不良に私まで付き合っていたら、体力は遠慮なく落ちる。そこで急遽、どこへ行こうかと山を探る。今年予定していた山で天候が悪くて行けなかったところが何カ所か、残っている。何しろ私は、山の会では「雨男」の異名がある。私の企画した山では、雲のなかだったり雨だったりするのだ。秋晴れの好天はめったにない。こうして、会津駒ケ岳へゆっくり一泊で登ることにした。
 
 会津駒ケ岳にはもう四半世紀以上前になるが、登ったことがある。春ではなかったか。山スキーの達者な方と一緒に出掛け、山頂付近にテントを張った。駒ノ小屋は屋根以外は雪の下であった。中門岳へと続く広い尾根は、全部雪ノ下。天気は良かった。だが雪のない駒ケ岳を知らない。上り始めの急斜面に四苦八苦したのが記憶にある。
 
 登山口まで車で走った。行程では5時間ほどかかるところが、4時間で到着。林道の上の方にある駐車場とそこへの道路上には、何十台もの車がすでに止まっている。隙間を見つけて車を置き歩き始めたのは、9時45分。滝沢登山口には「会津駒ヶ岳5.3km」の標識が立つ。その脇に、「駒の小屋に宿泊される方は予め予約の上、登山してください」と看板が掛けられている。そう言えば予約の時に「お一人一つの布団です」とわざわざ知らせてくれた。素泊まりだから、水や食事、コッフェルなどが荷になるから、日帰りの人が多いと聞く。いいところなんだろうと思った。
 
 いきなりの急斜面の上り。山頂までの標高差は1000m余。合戦尾根の「三大急登」と似たような上りだ。カエデやブナの落葉広葉樹が多い。秋が深くなればもっといいかもしれないが、いまでもまるで新緑の中を歩くようで気持ちがいい。下山してくるアラカンの単独行者に出会う。聞くと日帰りで、5時半に出発したという。とするとここまでほぼ5時間。早いではないか。中門岳まで行ってくると往復7時間半ほどの行程なのに。私の方は標高差400mを1時間。いいペースだ。半ばの「水場」まで1時間25分。ほぼコースタイム。ザックが置いてある。誰か水を汲みに沢までいっているのか。と思っていたら、ひょっこりそちらからアラフィフの男が現れた。水場まで下り5分ほど、それなりに出ているという。
 
 陽ざしはあるが樹林の中。涼しく、汗もかかない。標高1850mのところの階段に腰かけてお昼にする。出発してちょうど2時間。食べていると、件の水くみ男が登ってきて先行する。陽ざしの中で、ゆっくりキムチスープをつくりお昼の稲荷寿司を食べて、再び歩きはじめる。西の上空に雲が出て、どんどんこちらにやってくる。樹間から見えていた稜線がすっかり雲に閉ざされる。すれ違う下山者が多くなる。「中門岳、良かったよ」とうれしそうな顔。午前中は見晴らしも良かったようだ。木道になる。湿原に出た。少し広いところのベンチで、先行した水くみ男がお昼にしている。挨拶だけしてこちらが先行するが、その先もずうっと雲のなかだ。ぼんやりと浮かぶ草モミジが、ときどき切れた雲間の陽ざしに照り映えて美しい。カメラを構えたときにはもう霧のなか。湿原を区切るように伸びる木道の先から、ひょいと人影が現れ、挨拶をして下って行く。雨男の面目躍如だなと思う。
 
 大きな池が現れる。その脇には新しい木道が設えられている。ここから山頂へ向かうのか。とすると駒の小屋はすぐ近くではと思って見上げると、すぐ上にあった。3時間。これもほぼコースタイムだ。まだ1時前だが、山頂も中門岳も霧に閉ざされていては、面白くない。明日は晴れるだろうと期待を込めて、小屋に入る。小屋前のベンチには一群の若い人たちがいて、食事をしながらにぎやかだ。小屋の自炊室は土間になっていて、すでに何人かが陣取っている。トイレは外にあり、小屋よりも一段高い所に位置している。とするとかつて雪の上にみた屋根は、トイレの屋根であったか。
 
 荷物は階段の踊り場におくようになる。屋根下の部屋は12畳くらいはあろうか。縦横にできるだけ敷けるように布団が置いてある。その一つに割り当てられた。すでに一人横になっている人がいる。しかし横になって本を読むには、まだ早い。いつもそうだが、山に泊まるときの、早着きから夕食までの時間を過ごすのに、戸惑う。本も持参するが、焼酎を持参している。縦走のときには小屋で焼酎を飲んで、外を見ながらボーとしているのがたのしみだ。今日は、空気も乾いて汗もかかなかった。早々と焼酎でボケに入ろう。
 小屋の缶ビールをひとつ貰って飲み終わって焼酎に取りかかった2時前、玄関で小屋の女主人に挨拶をする声が聞こえる。どこかで聞いた声だ。目を上げると、人の肩越しにつるつるの頭が見える。えっ、これも見たことがある頭だ。なんだ、タナカヨーキじゃないか。テレビで三百名山踏破というのをやっている若者だ。つい先月、霧ヶ峰の高原荘に泊まったと、ペンションの女主人が話していた。霧ヶ峰から八ヶ岳、富士周辺、奥秩父、丹沢を経てひと月半ほどでここまでやって来たか、と思った。
 
 でも、NHKスタッフの姿が見えない。先ほど小屋のテラスのベンチで食事をしていた若者たちがヨーキ歓迎モードに入っている。「あれ、追っかけよ」と土間で食事をしていた登山者が、あとで話してくれた。でも私も、ミーハーなのだ。ちゃんと見ておこうと外へ出る。登山者がヨーキさんの横に立ってVサインをしている。黙ってちゃ悪いと思って「ヨーキさん、写真撮っていいですか?」と訊ねる。その問いが珍しかったのか、彼が私のほうをむいて、「いいですよ」と人懐こそうな口だけを動かす。カメラを構え、シャッターを押す。ありがとうというと「いえ、ありがとうございます」と丁寧な受け応え。つい、「高原荘にお泊りになったそうですね」と踏み込むと、「えっ、どうして?」という顔をする。

 「ご主人から話お聞きました」
 「南極料理人のかたのね」
 「からだをお大事になさってくださいね」
 と返した。

 ヨーキさんと一緒に「追っかけの人たち」も立ち去り、 見上げると山頂の雲が取れている。小屋下のベンチにまで下りてみると、池の上部の木道のところに朱い上着を着たヨーキさんのしゃがんだ姿が見える。何をしているんだろう。こちらを向いて、上部にちらっと光るものが見えた。カメラのようだ。なるほど、NHKスタッフがいない代わりに自撮りをして挿入するのだろうか。カメラと彼に位置からすると、池と小屋と自分の姿とを映したいようだ。しゃがんでいたのは、「追っかけ」の人たちが池脇から立ち去るのを待っていたようだ。私もいては迷惑だろうと思い、小屋へ引き上げた。
 
 2時ころからゆっくりと飲みはじめる。一人だったのに、少しずつ人が増える。先ほどヨーキさんの脇でVサインをしていたアラフィフの女の人が、やはり女の山友と一緒に座る。この小屋の常連らしい。いろんな食材をもってきている。ペットボトルに容れた焼酎らしきものも、ある。「重かったでしょう」というと、「これがたのしみでしょ。15kgくらいですよ」と笑う。山友は8kgくらいと、すっかり彼女に頼っていることを明かす。やっと晴れ間の今日明日休みが取れたからと、訊きもしないのにアラフィフであることを口にし「よく来るんですか」と私に訊ねる。昔、雪の中の小屋の屋根をみただけと応じ、山談義になる。話ながら、私自身の会津駒ケ岳概念が全然違ったものであることに気づく。
 
 今日会津駒ケ岳に来ることを知ったカミサンは、「会津駒は、陰気な山だから」といった。「暗いってこと?」というと、「そう。わたしが登ったときは」と応えた。たぶんこれは、彼女がそういう気分のときに、しかも天気が良くない時に登った印象かもしれない。雪の会津駒は、手強い上りではあったが、明るい見晴らしが印象に残る。今回も、日差しを遮る樹林の心地よさと、湿原に出てからの池塘と草モミジと霧、汗も出ない冷えとが体の記憶だ。
 
 正面に座った老夫婦は、久々に登山を再開したが、どんな山に行けるだろうか。槍ヶ岳に行けるかしらと訊ねる。アラフィフのVサインは「ここの上りができれば合戦尾根も登れる」と応じ、山友が「二週間前にこの人に騙されて槍ヶ岳まで行ってきた。たいへんだった」とつけ加える。「槍沢から時間に余裕をもって登れば、大丈夫ですよ」と私が応えると、どこに泊まればいいかと聞いてメモを取っている。アラフィフたちは一日目に槍沢小屋に泊まる予定だったが、十時ころに着いたので先へ行こうと、とうとう槍ヶ岳山荘まで行ってしまったと笑って話す。「若いから、あなたがたは」と、体力と相談して泊りを多くすれば、槍ヶ岳には行けますよと励ます。
 
 夕食を、早着きの人は5時半までに済ませて(自炊場を空けて)くださいと言われ、そのまま居座って夕食も済ませ、5時には就寝態勢に着いた。一時だが霧が晴れる。早々と寝床にいた人は、星の写真を撮ろうと上がってきているそうだ。件の水くみ男は、荷物を担いだまま山頂まで行ってから来たと3時過ぎに顔を出した。自炊場の壁には深田久弥の「日本百名山」の一節を、小屋主人が手書きしたのが掛けてある。
 
 《どこが最高点か察しかねる長大な山が延びていて……六月半ばの快晴の日、ただ一人この山にあるという幸福感が私を恍惚とさせた》
 
 そうか、6月はまだ雪があるのか。翌日、快晴の下に中門岳まで行った印象を加えていうのだが、最高点をいまの駒ヶ岳にするよりも、中門岳にすべきだと思った。いまの駒ヶ岳山頂は樹林に囲まれ、眺望はない。深田久弥が上ったころはひょっとすると、木々もそれほど背が高くなく、眺望が利いたのかもしれない。山頂には古びた山名表示板が南と北に向かい合わせにおかれ、南は富士山を真ん中において、東は田代山・帝釈山、西は平が岳、苗場山をおいて、18山が記されている。北は、中の岳・越後駒ヶ岳から窓明山・三岩岳など6山が記されている。だが、まったく眺望は利かなかった。翌日の中門岳の山頂は見晴らしがよく、飯豊連峰から磐梯山、安達太良山まで遠望できた。
 
 夜の寒さはそれほどでもなかった。トイレに起きてみた空の星の多さに、驚いた。まだこんな空を仰ぐことのできる夜があるんだ。25日くらいの月が掛かっていた。
 
 翌朝(9/26)は快晴であった。4時ころから動きがはじまる。私も4時半過ぎに起きだし空を見あげて、中門岳を朝飯前にするか迷った。だが山頂は樹林におおわれて眺望は利くまい。5時半過ぎの日の出を見るのは、むしろここの外のベンチが良い。自炊場の賑わいを避けて、外のベンチに腰掛け、テルモスのお湯でココアをつくり、持参のアンパンをかじって腹ごしらえをしながら、朝日が昇るのを見た。
 
 そろそろ出ようとした頃、小屋の女主人が出てきて「足元が霜で滑ります。ストックに頼るよりも、バランスに気を付けて。三度は滑ります」と注意している。私も、下のベンチで日の出を観ようと木道を歩いたら、つるりと滑ってしまった。5時40分歩きはじめる。新しい木道は適度に金網様のものを打ち付けてあって、滑らない。だがすぐに古い木道に変わり、朽ち果てて崩れていたりする。ストックに頼るというよりストックを軽く使ってバランスをとり歩幅を小さめにしてすすむ。振り返ってみると、朝焼けの小屋と池とが美しい。一人先行する女性を追い越し、山頂に立つ。やはり何も見えない。中門岳への道をとる。こちらも木道は新しく、金網を打っている。木道は霜が張っている。背中の方から陽ざしを浴びながら、ひとまず下り、山頂をトラバースするルートと合流してから、やはり木道の中門岳への道をすすむ。先端の方まで一望できる。深田久弥が言うように、どこが山頂だかわからないほどいくぶん高低差をもつ大きな尾根である。全体が池塘というか、小さな水溜りや池があり、草モミジが美しい。片道1時間余というからまだ少し先と思っていたら、山頂から40分かからずに「中門岳」の木柱があるところに着いた。大きな池のほとり。まだ先に小高いところがあるから、山頂ではないようだ。「この周辺一帯を中門岳と称する」と木柱に掘りつけてある。一人先行の男の人がいて挨拶を交わす。木道はつづいているから、先端まで行ってみる。突き当りにも大きな池があり、たもとにベンチも置かれている。ここはさらに先、会津の方が見通せ、北西の、越後駒ケ岳の方も見渡せる。木柱のところで引き返していたら、中門岳の印象はすっかり変わるんじゃないかと思った。このベンチで、アンパンの残りを食べていると女性が一人やってきて、「ここはいいですねえ」と感嘆の声を出す。またひとり高齢者がやってくる。
 
 帰り道を辿る。駒ケ岳の山頂手前で追い越したアラカンの女性が、やってくる。「滑り易くて」とずいぶん慎重だ。でも、この年で一人で来るなんて、たいしたものだと思う。昨日の水くみ男ともすれ違う。彼はこの山が初めてだそうだ。荷物を全部背負っている。私はナップザックに水と若干の食糧をいれているだけ。件の、夜カメラマンも三脚を据えている。右手に尾瀬の燧岳などが、そのずうっと左に日光白根山や男体山、太郎山から女峰山までの日光連山が並ぶ。池塘の表面が輝きを増し、草モミジが一層引き立つ。
 
 トラバース道を通った帰りは、小屋まで40分ほどであった。小屋について朝食用に湯を沸かし、インスタントラーメンを食べる。昨日のアラフィフ女性がやはり食事を済ませて、パッキングをしている。大きなカステラを切って「どうぞ」という。彼女は食べない。えっ? カステラは小屋の女主人と、後でお茶するようであった。なるほど常連客というのは、こういうものか。こういう山小屋を持っているのも、山歩きの愉しみかもしれない。お返しにミカンを二つ差し上げた。
 
 朝食を済ませ、トイレも済ませて、下山にかかる。8時15分。15人くらいのグループが山頂へ向けて出発するところだ。俺はここにいるからとやりとりしていた年寄りがいた。「中門岳へは行かないのか」と聞くと、「中門へ行くなら私もいきますよ。山頂だけっていうからね、ここで待つのよ」と、やはりこの山の常連であることを付け加えた。
 
 その男の傍らにいた女性が、私の後に続いて降りてくる。昨日は霧に包まれていた草モミジの湿原が朝日に美しく輝いている。カメラに収める。つづいてきたアラカンの女性が後ろに立つから、道を開ける。が、先へ行かない。うん? と振り返ると、どうぞ先へ行ってください、という。ときどきカメラを出して構えながら、私はゆっくりと降る。草地を抜け、樹林帯にかかる。登ってくる若いペアがいる。早いですねというと、6時に出たという。そうか、ここまで3時間半、昨日の私と同じペースかと胸中で計算している。昨日お昼を食べた地点も、いつのまにか通り過ぎてしまった。その下のところで、登ってきたグループと、私に着いてくるアラカンとが言葉を交わす。地元の人なのかもしれない、と思う。実は後にぴったりと人に着かれると、あまり気分が良くない。こちらは下り道と溶け合うように下りたいのに、急かされているように感じるからなのか。道を空けて「どうぞ」というと、「いえいえ、とても尾瀬の主のような方の先へは行けません」と妙なことを言う。「ん?」思うが、こちらが年寄りだと言っているようなものか。気にせず、少しあいだを開けるように急ぎ足にして下り、着いてくる気配を感じないようにする。
 
 「水場」に着いた。帰途のちょうど半ばだ。45分で下っている。9時前。そこで上って来ていた二人連れの女性から地図をみせられて「ここはどこですか?」と訊かれる。たぶん四万分の一地図のコピーなのだろう。色付きペンでルートを記しているが、地図を見てもわからない。よく見ると彼女が見ているのは、「燧ケ岳」の地図だ。ここは会津駒ケ岳ですよというと、えつ、こっち? と別の地図を出す。やはり四万分の一地図のコピーだが、こちらには水場のマークが記されている。そのやりとりをしている間に、アラカンの女性が追いついて、休んでいる。まだ彼女は、私に着いてくるつもりのようだ。
 
 登ってくる人とすれ違うことが多くなった。道を譲りあるいは譲られ、帰りの道は上部ほど早くは降りられない。件のアラカン女性も後ろで上っている人と言葉を交わしている。そのあと私の後ろについて、上りの人をやり過ごす。「お知り合いが多いんですね」というと、「昨日同じ宿に泊まった人たちです」と応じる。えっ? 「わたしは今朝4時半に登り始めたんです。あの人たちは1時間あとですね」という。ずいぶん(歩くのが)早いじゃないですか、と感心した声を出すが、彼女は早立ちと言われたように聞き流す。そうか、4時半に出て、山頂へ行って下山すると小屋下が8時15分くらいになるかと、私の計算機は働いている。
 
 駐車場まであと標高差で70mくらいのところで、立ち止まっている4人組に出会う。一人の女性は上を向いて石に手をついている。「上りですか?」と訊くと、その脇にいたご亭主らしき男性が「いえ、下りです。膝を傷めて」と困っている。エアサロンパスが入っていたことを思い出して、それを出し、膝にかける。少し冷やしてから、濡れたところを拭きとり、テーピングテープを膝に巻く。おおよそ筋肉の運びに合わせて、それを扶けるように巻くと、いつか講習で習ったことを思い出して、テープを巻く。ストックはひとつしかないという。広い道だから片方の手をご亭主が支えてあげてと話し、あと少し頑張ってと声をかけて、先へ下る。それにしても、膝の保護ネットも筋肉補強タイツもしていなかったなあ。
 
 すぐに登山口の階段に着いた。水場からちょうど1時間。駐車場は本当に、今日もいっぱい。陰気な山どころか、人気の山だねとカミサンにメールを打って、無事下山を知らせた(つもりであった)。ところが、スマホが「機内モード」になっていたため、家へ帰りつくまでそのメールが届いていなかったことに気づかなかった。ま、結果佳ければすべてよし、だ。
 
 何より、秋空の天気とタナカヨーキとの出逢いは奇遇であった。そうか、どっちも陽気か。

溶け崩れる「民意」へのテロ

2019-09-24 16:31:26 | 日記
 
 村上龍『オールド・テロリスト』(文藝春秋、2015年)を読んで、何だか私たちは、どうしようもないところに来ているように思った。その「私たち」というのが、「日本の人たち」なのか、「日本の年寄り」なのか、「何もかも含めて日本」なのか、わからない。村上龍は、もう四半世紀前に「世の中の暗い部分だけを描きつけていてもどうしようもない。ここまでの創作路線を改めて、少しは世の将来のお役に立つような仕事に力を傾けたい」という趣旨のことを述べて、創作も変えてきたことがあった。阪神淡路大震災やオウム真理教事件があった前後だと思うが、いま、確かめる気力がない。その最初の創作が『希望の国のエクソダス』であったり、『13歳のハローワーク』だった(ように思う)。
 
 たまたま図書館の書架にあって、目に止まったのが、本書。何とも読みにくい。あれ? 村上龍って、こんなに読みにくい文体だったっけ? と思うほど、主人公の内心の揺れがぎくしゃくとして行間にあふれ出ている。もちろんスムーズに流れる文体が優れていると言っているわけではない。描き止めようとしている事柄が、人の肉体を通すとそれほど容易に受け止められたり消化されたりするわけではないから、嘔吐したり、何日間も体調を壊したりすることは起こりうるのだが、この作家は、これほどそれにこだわる文体だったっけ? もっと人が傷つくことや死に頓着しないハードボイルドなところがあったんじゃないか、と妙に感じたわけ。
 
 物語り自体は、それほど複雑ではない。一人のジャーナリストを主人公に据えて、彼を巻き込みながら「テロ」が展開していく。(社会的にも老後的にも)矍鑠として果敢な年寄りたちが死に場所を求めて最後の華を咲かせる「場」を求める。生きながらすでに死んでいる若者たちが、介在して事件は起こり、記録者として見初められた主人公が、事件のひどさに反応してぎくしゃくしてしまう。
 
 村上龍は、「世の将来のお役に立つ」ことを意図したにもかかわらず、世の中が現在のようになってしまっていることに苛立ちを隠せなくなったのかもしれない。と言ってかつてのように、クールに「コインロッカーベイビーズ」を描きとるほど、センスが飛び跳ねてもいない。この四半世紀の間に彼は世のエスタブリッシュメントの空気に身を浸し、圧倒的な社会システムの枠組みの強固さに撥ねかえされてきたのかもしれない。とうてい敵わないと感じ続けてきたのではないか。敵わないのは、国家権力(ばかり)ではない。いやそれ以上に、高度消費社会の暮らしにどっぷりとつかって「生きる」覇気どころか、魂までも失ったような人々に、抗えない手強さを感じているように見える。もし村上龍が、何がしかの「将来イメージ」を持っているとしたら、手強い彼の敵は、まさしく「民意」という茫漠とした社会の空気であり、その「民意」がもはや手の付けようがないほど、溶け崩れてかたちをなさなくなっている。それに対する「テロ」は、したがって、世の中のすべてを解体し、かつての焼け跡闇市のような状態から再出発することをイメージすることに帰着する。さて、どうなるか?
 
 こうしてハラハラしたい思いを抱えて読んでいるのに、ぎくしゃくとした運びと文体とが進行を阻害し、ついには、昭和20年夏以降の本土決戦におけるゲリラ戦のイメージまで動員されていく。そうか、「半島を出よ」という作品も、あったな。だが、ついに、活劇に至らず、憂さを晴らそうとする読者の期待は裏切られ、溶け崩れる「民意」って、ひょっとすると、今の私のような人のこと? と、自問自答する状態を誘発する。
 
  まあ、同じ年寄り。いつか似たようなことをイメージして、尖閣諸島へ片道燃料だけを積んで年寄りが操縦して押し寄せるって考えたことを重ねて思った。つまり、「国難」である尖閣諸島問題と高齢者問題とを一挙に片付ける名案であった。だが、「オールド・テロリスト」の敵は茫漠たる大衆、「国難一挙解決案」の敵は尖閣諸島に押し寄せる中国系の難民。どちらも外国勢力と向き合う点では似たようなものではある。またどちらも夢想。年寄りだって、すでに、溶け崩れているんだもの。

ひとを非難するこころの救済

2019-09-23 08:54:59 | 日記
 
 モノを書いていて思うのだが、他人(ひと)の何かを批判したり非難したりするとき、内心のどこかに心地よさが揺蕩っている。他人の不法や非法、逸脱を非難するとき、非難している当人はご自分の正当性を疑っていない。その人の子細な事情を関知することもなく非難するとき、ご自分の立っている立場が何であるかを、たいていは意識していない。文章になったものを批判するのは、もう少しクールであろうが、その斬り口の鋭さが、どこか留飲を下げる気配を湛えていて、それ自体で批判する意味を見出している。
 
 こうも言えようか。他人を非難したり批判することそのものが、実は自分を優位に立たせる行為である。そうしたい動が、まずあって、非難・批判する正当性や理屈は、後からついてくる。または、あとから編み出される。つまり人が人と向き合うときには、必ずと言っていいほど、優劣の(立ち位置が)編みこまれている。それに気づくと、自分の立ち位置を相対化しようと試みる。意識してそうしていないと、ついつい優越的な立ち位置を求めて(論理性を欠き)批判が非難に堕してしまう。
 
 他人の書いたものを批判するときには、その論理的な欠落を指摘したり、限定条件を突き破って考える次元を変えたりするが、そのとき指摘する側は優越的な位置に身を置いている。批判するという行為それ自体が、世の中(の動き全体)からするとあってもなくてもいいことなのだ。ただ、モノを書くという行為それ自体は、他者に読ませるため(ばかり)ではなく、自分の内心を(描き落とすことによって)対象化し、自らの輪郭を描く行為である。そのとき優越性は、それに気づく前の自分に対する書き落としたのちの自分の優越性を意味する。それはこころの救済のように作用して、自己の外延が広がっていくような気分を味わう。自己満足と呼んでもいい。
 
 だから批判(するという行為)は、自己の輪郭を描き出そうという動機による以外は、(世の中的には)無用のことと言っていい。非難は、たいていの場合、発作的に行われる。発作的というのは、自己を対象的に見ていないことを指している。だから、他人を非難したときには、あとからであっても、なぜそうしたのか、それは自らの裡の何に根拠をおい非難できるのかと、振り返ってみる必要がある。そうしないと、ただ単に俺の方が偉いんだぞと見栄を切ったにすぎなくなる。見栄を切りたくなる自分のこころの救済には、至らない。
 
 年を取ったせいで、他人を非難する意欲がなくなった。「なんだ、あいつ」と一瞬思うことがあっても、(ま、おれとちょぼちょぼやないか)と内心の声が聞こえる。批判するのは、たいてい自己の「せかい」と交叉する何かを感じた時だから、これはこれで大切にしたい。
 
 腹が立つことは、ときどきだが、ある。権力的な立場を棚に上げてか関知せずしてか、鷹揚に、あるいは偉そうに、そして啓蒙的に諭すように、モノを言う人に接したときだ。つい「バカめ! 何様だと思ってるんだ!」とTVの画面に向かって罵り声をあげている自分に、気づくことがある。とても人間が丸くなったと言われるような所作ではない。でもこうして、非力な自分のこころの救済をしているのだなあと、考えるともなく思っている。