mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

1年後のお花見

2021-03-29 06:56:50 | 日記
 
桜吹雪の見沼田んぼ西縁

 昨日(3/27)の天気予報は曇り時々雨。ま、そういうこともあるさと本を読んでいたら、陽ざしが明るく差し込んできた。なに、これ? とTVをみていたカミサンがお昼を食べてから、見沼田......
 

 1年前のこの記事をみて、おお、同じ日に、同じところを歩いてお花見をしたんだと、感慨深かった。ことに、この記事の最後に、一年後も同じようにお花見をしているだろうかと書いていたことが、1年前の不安を表している。

 去年の記事では、曇り空で始まった一日だったが、陽ざしが出て、子ども連れの人出がたくさんであったと記している。今年は、一日曇り空、雨が降るかと気遣われたせいもあって、子ども連れの人はそれほど出ていない。グラウンドで野球をやったり、サッカーに興じているのは青少年。芝生のある東縁の大崎公園でも、高校生らしい5,6人の集団が、いくつも戯れている。春休みだからか、それとも、卒業後の空白時期の「お別れ」会なのだろうか。小さな子どもの姿が、極めて少ない。コロナウィルスへの警戒感は、今年の人出の方がよく体している。

 サクラは、昨年同様にすでに散り始めて、用水路の流れに花筏が浮かんでいる。今年は、東縁から西縁へ移ってひと回りするというロング・ウォーク。サクラは東縁よりも西縁の方が多く、道筋にかぶさるように咲いているのは西縁の方が、圧巻であった。今年も、サクラ吹雪を浴びることができた。

 そうそう、もうひとつ。去年は西縁をかかし公園まで行って、帰ってくるコース。時間がかかっても2時間だったのに、「くたびれた」と記している。今年は、東縁をマルコ辺りまで行って西縁に渡り、ひと回りしたので3時間ほど歩いたが、いつも歩いているせいか、さほど「くたびれた」という感触はない。ただ、「目が少し赤いよ」と言われ、肝臓がつかれているのかもしれないと思ってはいる。つまり、感度が鈍っているのかもしれない。くわばら、くわばら。 


「かんけい」の気色(2)表象的な跳躍

2021-03-28 09:02:29 | 日記

 書こうと思ったことと書いたことが違ってしまうことはよくある。ついつい書き落とした文章に引きずられて、脇道に逸れてしまう。そちらの方が面白いと思ったり、書こうと思ったことを失念したりする。しかし、それはそれで(当人としては)触りはない。
 今日は、脇道に入る。
 昨日《はじめに言葉ありき、と語りはじめることの嘘くささと、でもそうだよなあ、はじめに言葉ありきだよなあ、と感じる真実味の実感とが身の裡に溶け合ってひとつになっている》と書いたことについて、思い浮かんだこと。
「はじめに言葉ありき」という旧約聖書の言葉を、言葉で伝え遺す(書き記す)には、最初にクリアしなければならないハードルだと考え、「ことばの起源」に関する問いを封じてしまうために書かれたことと思って、長く過ごしてきた。だがちょっと違うのではないか、と昨日、考えていたのだ。「はじめに言葉ありき」というのは、じつは、ヒトが自らの生長を振り返ってみたときの実感ではないか。旧約聖書は、メソポタミア地方で発見されたギルガメッシュ神話の焼き直しではないかと、誰かがどこかで論じていたが、神々の世界から現世を語ろうとするとき、その語り伝える「ことば」というメディアがいつどこでどのように誕生したかに触れないで、創世記をかたりだすことはできない。その壁をクリアするための作法として、「はじめに言葉ありき」と枕を振ったのであろう。つまり昔話の冒頭で「むかし、むかし、あるところにじいさんとばあさんがおったとな」と枕を振るのと同じようなものなのだ。
 だが、わが身に引き寄せてみると、ふと自我が芽生えたとき、やはり「はじめに言葉があった」と前提して、自己認識を、つまり「せかい」認知をすすめていたことに、振り返ってみて気づく。そうか、そういうヒトの実感と深く結びついているから創世記への信仰がはじまるのか、と思った。
 そう考えてみると、エデンの園の物語も、生長実感を対象化してみたとき、腑に落ちる。エデンの園で暮らすというのは、「せかい」のすべてが「われ」であり、「われ」のすべてが「せかい」という、まるごとすべてが一つになって不可分になっている混沌の世界である。つまり、大人に保護され、自他の区別も意識することなく、我が儘に振る舞っている幼い子ども。アダムとイヴのように裸であることに何の不都合も感じていない。それが智恵の木の実を食べて、「裸であることが恥ずかしくなった」というのは、神と「われ」の「分別」が生じたことを意味する。となると、思春期から後の「自我の芽生え」に相当する。神は保護者=親に相当するか。木の実を食べるようにすすめ、「邪悪」とされた蛇は、今で言えば「学校の教師」である。とすると、教師が「神:親」に反して「邪悪」なことを生徒に吹き込む役割を担っているのは、昔から世界的当然であったのに、今はそんなことも忘れてしまっている? 
 エデンの園を追われ、食べ物を自ら手に入れて生きていくという物語りは、成長物語であり、そうした物語に身を浸すことによって、「せかい」の連綿たる繋がりに位置していることを意識して伝えていることになる。なんだ、旧約聖書はオレの物語じゃないか。そう実感するところが信じる起点になる。
 これは「かんけい」の気色である。創世記という神話の世界が、具象的な我が生長記とかさなる。つまりこの見事な、表徴的な跳躍が、ヒトのクセ。良いとか悪いとかすぐに決めずに、神と蛇の位置づけを考えると、ヒトの生長の絶対矛盾的自己同一が表象されていることがわかる。良いとか悪いとか決めるように読み取るのは、神を守ろうとする側の組織防衛の観点が強く入り込むからではないか。つまり、教会組織の自己防衛意識がものごとの善悪を剔抉し、善を了とし悪を排斥する志向に転轍してしまうからだ。善悪二元論的に考えるより、善悪どちらも包含する中動態的に考える(昔日の)思考法に戻れば、ヒトの具象的な一体的とらえ方に通じる道が開かれる。
 ヒトの「かんけい」の気色をみるとき、中動態的であることが大事なのは、ことにデジタル化の現代社会において、「イェス/ノー」という色合いをはっきりさせることが社会的な通常文法となって、優柔不断なヒトを追い込んで生きづらくさせているからである。はたして、AIは、この中動態的なニュアンスと表象的な跳躍とを上手に読み込んでくれるのか。おやまた、脇道へ入ってしまったかな。


「かんけい」の気色

2021-03-27 08:58:43 | 日記

 今月で仕事をリタイアする若い方がいる。長い間ご苦労様でしたとご挨拶をし、一緒に山歩きをしませんかと誘ったら、腰痛があって今は無理だが、実は少しずつ大宮第三公園辺りを歩いていると回復を試みていると話しが転がった。歩いていると、自転車や車で通り過ぎていたことと違った世界が見えてきて、気付かないでやり過ごしている世界があったのだと感じ入っているとつづいた。
 そんな話をしたのちの昨晩、寝床で、一つ思い出したことがあった。
 高校生の国語の授業のとき、教師から「抽象するってどういうことか説明してよ」と質問されたこと。そのときは「こころ」を例示して、何かを言った覚えがあるが、後にその教師からダンテの新曲を読むようにすすめられたことが記憶に残っている。何を言ったのか、それを教師がどう受け止めたのか、まったくわからないが、何か思うところがあったのであろう。
 ではいま、「抽象するってどういうことか説明してよ」と問われたら、どう応えるか。
 二つの方向が思い浮かんだ。
 ひとつ。シロバナタンポポが咲き、その傍らに咲いていた黄色いタンポポの花を裏返して萼片をみたらカントウタンポポだった。ということは、セイヨウタンポポが蔓延って、むしろ主流であることをしっていたからだ。そのとき、それらをひとまとめにしてタンポポと呼ぶのは、「抽象している」のではないか。さらにそれらを「花」と呼んだり「草」と名づけたり、もっとさらに「植物」とまとめたり、「生物」とひとくくりにするというのも、「抽象している」振る舞いではないか、と。
 だが、と逆のベクトルに、二つ目が思い浮かぶ。
 そもそも(子どものころに)世界を認知するのは、タンポポが先だ。いや、生物と無生物が一番先で、ついで植物と動物、草と木、花と葉や茎というふうに、全部が一緒であった混沌の世界が、徐々に分節化して「せかい」として受け止めている。その分節化の過程をもし、「具象化する」と呼ぶとしたら、じつは「抽象化する」過程と「具象化する」過程は、思考過程としては似たようなものではないか。つまり「せかい」が現れて、個体に働きかけてくる。それを「働きかけてくる」と表現できるのは、現れた「せかい」を、個体が享けとめているからである。「せかい」をかたちづくる「もの」そのものが「個体」に起ち現れる瞬間、すでにそれは「かんけい」を具えている。
 モノゴトをヒトがどう認識しているかと考えると、じつは「せかい」は混沌として現れ、それを「せかい」として認知することそのものが、「かんけい」の表現である。そう考えると、具象化は抽象化と同じく「せかい」認識のベクトルが異なる方法であって、いずれも意識的に世界をとらえるのに欠かせない思考過程である。マクロの宇宙論とミクロの素粒子論とが実は同じ「せかい」認識であったくらいの、発見であった。何を発見したのか。絶対矛盾の自己同一の再発見か。「せかい」を認知する座標軸が見えるように感じている。それを私は、「かんけい」の気色と総称している。
 座標軸の原点は、「わたし」である。それは認識の原点ということであり、「せかい」の原点でもある。なんだ、それは観念論の最たるものではないかといわれるかもしれない。だが「せかい」は、それをそれとして認知する主体を欠いては成り立たない。ではもし、その主体が消滅したら「せかい」はどうなるのか。当然、消滅する。「せかい」とは認知されている限りの限定的なものだ。
 では、誰が見てもそれが「それ」であるという、「科学的」「客観的」事象はどう捉えることができるのか。誰がみてもの「誰」が多ければ多いほど「それ」の数は多く、多ければ多いほど「科学的」であったり「客観的」である事象が多いと考えてはどうだろうか。一人や二人が消滅したからと言って、「科学的」「客観的」世界は消え去らない。だが、認識の枠組みが大きく変わることがあったら、天動説が地動説に変わったように、「科学的」も「客観的」もがらりと変わる。つまり、「科学的」「客観的」にも(多数派)というか力関係が働いているのかと言われるかもしれないが、(多数派)というのが、単なる(信じている人の数の多さ)というのではなく、(エビデンスとか限定した場での論理的正当性とか説明の簡潔さという)権威(の多数派)が作用していると言えるのではないか。
 いずれにしても、ヒトのすることだ。人間要素を抜きにして、エイデンスや論理的正当性を云々しても仕方がない。もちろんここでいう人間要素はアインシュタインが言っていた人間定数とは意味あいが違うが、人の世界の内側において、「せかい」をつかもうというのであるから、そもそも無理難題を承知でオハナシしていることであった。
 はじめに言葉ありき、と語りはじめることの嘘くささと、でもそうだよなあ、はじめに言葉ありきだよなあ、と感じる真実味の実感とが身の裡に溶け合ってひとつになっている。ヒトは気づいたときには言葉をしゃべりはじめていたのだから。それからおおよそ数万年、哲学者たちの思考過程を勉強して咀嚼することをショートカットして、生きてきた経験則的実感だけで「せかい」を振り返ってみているわけだから、ちゃらんぽらんで、いい加減であることだけはまちがいない。でも、そうやって自分の輪郭を「せかい」として浮かび上がらせるクセだけは、ちゃんと身につけているのだとみてください。言葉は、人類文化の、善し悪しを定めぬクセである。


開放感の田島ヶ原・秋ヶ瀬公園

2021-03-26 08:50:41 | 日記

 一昨日(3/24)田島ヶ原に車をおいて、北の端ピクニックの森まで往復してきた。田島ヶ原自生地のサクラソウは、見事に花開いている。これから2週間ばかりは見ごろだろう。ノウルシも黄色い頭をもたげて蔓延る。アマナはもう消え入りそうな姿になっている。シロバナタンポポばかりか黄色のカントウタンポポが元気がいい。学生風の若い人が自生地の中にしゃがみこんで、何かを吊り除いている。
「?……、ノウルシを採ってるの?」
「ええ、実験ですから、一部だけ取り払ってます」
 サクラソウにどういう影響を与えるか見ているのだそうだ。ノウルシが蔓延るとサクラソウが負けてしまう。でも、ノウルシを採ってしまうと、ほかの植物も少なくなってしまうこともあるという。ノウルシは絶滅危惧種。サクラソウも絶滅危惧種。だからどちらも上手に育てたいという。農大の学生さんのボランティア実験だと、後で聞いた。
 自生地の案内ボランティアの人たちが二十人近くも集まって、主宰者の話を聴いている。今年のボランティアはじめだそうだ。
 傍らの広い芝地では、子どもたちがボールゲームに興じ、小さな子を連れたママたちが敷物を敷いて、ピクニックを愉しむようだ。帰るときにはテントが7張りもあった。緊急事態宣言の明けた公園の風情だ。
 自生地脇の鴨川は中州が見えないくらい水が溢れている。東京湾が満潮だからだと、これも後で聞いた。ヨシガモが2組、オオバンが何羽か、ぷかりぷかりと浮いている。
 長袖一枚で十分だった。子どもの森の辺りでカメラマンが屯している。脇へ寄って、皆さんが見ている方をみると、小さな水飲み場が設えてある。そこにヒレンジャクが1羽きている。覗いているとシメが来る。それを押しのけるようにもう1羽のシメが来る。3羽が入れ代わり立ち代わり水場を争っている。
 さかさかと北へとすすむ。背の高い木に小鳥が飛び交う。こちらに一人、向こうの草地にも二人、入り込んでカメラを向けている人もいる。カメラの方向へ双眼鏡を向ける。黄色い腹が陽ざしに生える。マヒワだ。3羽だろうか、それとも4羽だろうか。その先には、カワラヒワ2羽、ツグミ1羽が草地に降りて何かを啄ばんでいる。森の木立からカケスの声が聞こえる。茂みからウグイスの警戒音がする。鳥たちもぼちぼちペアリングの季節に入ったのかもしれない。
 いやもう、鳥に関して今日は、大満足。テニスコートを過ぎて流れを遮るための土手を越える。向こうの幸福の森の草地にはなん張りものテントが張られて子ども連れがピクニックを愉しんでいる。竹林にも双眼鏡を覗いて何かをみている人がいるが、それが何かわからない。畑を過ぎ、水路を渡り、浦和レッズの練習場脇を通る。広い野球グラウンドで何人かの大人が空に向けて何かを放ち、その行方を見上げている。近くの通りへ進路を変えて、何をしているのか見つめる。紙飛行機をゴムの発射具を使って上空へ向けて放ち、それがくるりと回ってゆっくりと旋回しながら風下へと飛ぶのを見上げているのだ。だが、白い紙飛行機は放たれるとたちまち青空に溶け込んで姿を消してしまう。滞空時間が1分を超えるのがある。
 ピクニックの森は鳥の声が響く。シジュウカラやメジロ、コゲラはわかる。何とも賑やかなのはガビチョウだろう。森の中路を通って、ぬうっと現れるウォッチャーもいて驚かされる。池は亀が甲羅干しをしているほかは静かだ。森の西側にはカメラマンのひと塊がいた。レンジャクが来るのを待っているらしい。
 そこから秋ヶ瀬公園の一番西側の道を南へ戻る。車道との間に連なる灌木と木立を左に、右手に繁みと木立と目下築工事中の大きな土手をみながら歩いて行く。さながら、秋ヶ瀬公園の傍観者という立ち位置だなと思う。おっ、目の前の茂みに小鳥が止まった。双眼鏡で覗く。おっ、おつ、ホオアカではないか。ほおの赤色が色濃くて、ちょっと茶黒っぽく見える。しばらくお立ち台に立つようにじっとしていた。鳥観は大満足が二乗になった。
 結局、2時間半ほど歩いたことになった。汗もかかない。自粛明けの解放感に浸る秋ヶ瀬公園であった。


文筆家・馬野骨男の便り(1)

2021-03-25 09:34:32 | 日記

 五十年来の私の友人がいます。77歳の喜寿。毎月1回便りのやりとりをしています。この方、かつては「エクリチュールの剰余」と褒め称えられた文筆家(ものかき)。中森明夫が絶賛する市井に身を隠す大隠です。便りはハガキの裏表にびっしりと細かい文字で書きこまれたもの。私が独り占めしていることに忸怩たるものを感じてきました。ほんの一片を、何回かに分けてご紹介しましょう。

 2020年12月21日

「無冠」第53号、拝受しました。いつもながらの切れ味鋭利な思索活動寔に以って崇敬申し上げます、と言いたい所ですが、その褒譽の言はいまは一旦留め置きます。何故なら、今号のほぼ半分は明らかに手抜きと称すべく、SMなるどこの馬の骨ともすぐわかる人物の手になる手紙を羅列させて、慌しない年末を当紙面上でもやりくりしようとする魂胆見え見えのp1~p9でありました故。手紙というのはメールと違って書いた本人には下書きすら残っておらず、大抵は何をどう書いたのか忘れてしまっているものですが、馬の骨Sさんも例外たり得ず、復刻版をみせられて、「えっ、俺そんなこと書いたんだ」「まさか、そんなこと言ってるなんて」ってのが続々でした。そう言えばその一つですが、蜜柑の実は成りましたか。将来未完成? 桃栗3年甘吉年。それはそれとして、私信を本人の許可も得で世に晒すのは御法度だが、殊更に悪心私心を以ってのことではないので、なあに構うものかと穴埋め用に供したのでせうが、馬の骨なる人は自分の恥骨を晒されてどう思っていることでせう。「いかがなものか」とやんわりと原否定したのでせうか。それともCOPDのためただでさえ苦しい胸が更に疼いたのでせうか。御安心召されい。こう見えても馬の骨はそんじょそこらの犬、猫、鶏の骨の如き狭量ではござらぬ。斯様な三密駄文でも貴殿の助き働きのために御役に立ち申したと心得れば何のこれしき(※ここら辺我が「小説」の書き方に相似てきました)、「私信(*1)不私心之信(*2)」(*1手紙、*2朋友に信の信)。通信の自由は保障されています。それでは崇敬の念表明を解禁して、毎度の繰り返しで煩く聞こえるでせうが、月に一度と言いながら己が思索の奇跡を原稿用紙にすれば百枚前後も刻むというのは、幾ら頭脳の構造や回路が左様な仕様にできているとはいえ、ただただ畏敬の念を抱くだけです。来年もまた54号、55号・・・と続けるおつもりですか。老爺心ながら月に一度の生理のためにあたら体を、いや頭を壊さないようにと思っております。ところで、馬の骨の骨にこのところ滅法ガタが来ていて、肺気腫を元凶とするこの短期間での指数関数的なガタぶりは甚だしく、これまでは階段や坂道の息切れでしたが、今は普通に歩くのさえは勿論、家の中で何かするごとにすぐハアハアとなってしまうまでになってしまいました。そろそろ携帯酸素のボンベのお世話になるかもしれません。肺は心臓のペースメーカーのような小型代替物はありません。あるのはコロナで有名になったECMOのようなとんでもない装置だけなのが厳しい所です。ああ、そうそうハガキの表側の件、娘に訊ねたら、機械の読み取りの関係で半分が限度だと譴責されてしまいましたので、今回からそれに遵うことにします。