mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

水晶岳訪問(1)生きている基本

2024-08-25 05:59:40 | 日記
 5泊6日の水晶岳訪問を無事に終えました。その間のワタシを振り返ってみると、ヒトって、歩く寝る食う飲む排泄するで生きているんだと、すっかり余計なものを削ぎ落としたワタシの体幹骨格が浮き彫りになりました。
 所謂「裏銀座ルート」と呼ばれる槍ヶ岳への行程で、北アルプスの一番奥にある水晶岳2986mを訪ねようという計画です。それが、山小屋の宿泊ができるかどうかで一部行程の変更を余儀なくされました。そのことは、すでに記した通りです。
 一日目、信濃大町駅で宿の「乗合タクシー」に乗って七倉温泉の七倉山荘に向かいました。同乗者は私の他に2名。同宿者は10名くらい。お盆過ぎということもあって、少なくなっていました。山荘と名はついていますが、天然温泉もあって、浴衣も出るという旅館風情。部屋は相部屋です。
 翌朝5時半すぎに今回の山行に同行してくれるKがやってきました。名古屋に住む彼の知人が安曇野に住んでいて、昨夜はそこに泊めてもらい、今朝ここまで車で送ってもらって合流しました。二人はたぶん、久々の邂逅で昨夜はお喋りに興じたことでしょうから、Kにとって早朝からの歩行は、難儀だったに違いありません。でも五十代の半ば。年に何回かはネパールやモンゴルなどの氷河調査で山に入っている研究者ですから、これくらいは何でもないようです。
 この第二日目は高瀬ダムから湯俣山荘まで、3時間ほどの行程。道半ばまでは東電の関係車両も通る林道。その終わるところに「北アルプス金木戸川・高瀬川源流部森林生態系保護地域制札」と表題の着いた大きな木製看板が、文字は雨風に晒され掠れて設置されていました。金木戸川というのはどこにあるのか。黒部五郎岳を源流域として笠ヶ岳に挟まれた地域を南へ流れ下っています。そうか、だから長野営林局と並んで名古屋営林支局の名前も刻まれているのか。
 この制札の脇には、「湯俣温泉登山口」と標題した新しい木製の看板があり、「ここから登山装備が必要です」と注意書きをしています。その先も高瀬川に沿って遡って行く道ですから高低差もそれほどありません。明るい陽ざし、標高1400mへのゆったりとした散歩道でした。
 9時には山荘に到着。泊まる手続きをして、さてどうしようと辺りを見回す。この辺りで合流する湯俣川、水俣川のつくる広い河原をロープにつけた椅子にすわって中空をロープを手繰ぎりながら進んで行き、そのあとを吊橋にのって渡るという面白い渡河。「じっぷろっく」と呼んでいたか。対岸には晴嵐荘という山小屋があり、温泉もあるという。長く休業中であった湯俣山荘が今年開業するまでは、この小屋が湯俣温泉唯一の山登りの拠点であった。昨年、伊藤新道が再建され、今年から湯俣山荘も経営を再開した。
 七倉温泉の宿で湯俣山荘に泊まることを話すと、「いやそれは、残念でしたね。青嵐荘にすれば、温泉もいいし、料理がおいしい」と残念がられた。その青嵐荘へいってビールで乾杯し、お昼を食べた。竹村新道を下ってきた2人連れの一人は、野口五郎岳のスタッフ。仕事が終わって下山してきた人とそれに付き添ってきた方。二人共まだ二十代。
 そのうちの一人の女性が川へ行き、温泉で身体を洗ってきたと笑って話す。
 えっ、さっき私たちが行ってみたときは、緑色に濁っていて、とても入れそうになかったのにと話す。
 いや、その先、川の傍までいくと熱いくらいのと、なんとか入れるのがあるよと返事。食後私たちも行った。滔滔と流れる川の縁に湯だまりができている。傍らにスコップも置いてある。ぽこぽこと砂の間から湯が湧き上がっているようだ。手を入れると熱い。その脇に浅いが広い処もあり、40℃くらいの適温。座って足湯をしてきた。
 ちょうど足湯をしているとき、向こう岸を二人連れの男性がどこを徒渉しようかと流れを見ながらやってくる。少し下流を渡ることにしたのか、川の中にザブザブと入り込み、二人で両腕をつかみ合ってバランスをとり、何とか渡りきった。私が拍手をすると、一人がこちらへ手を挙げて笑顔になった。彼らは青嵐荘に泊まるのかな。
 湯俣山荘に戻る。二十代にみえる山荘の主人と言葉を交わしている男女の二人連れ。これから伊藤新道を遡って三俣山荘まで行くらしい。こういうグループが、宿泊客も含めて何組もいる。ヘルメットを被り、ザイルを用意し、カラビナを腰に下げて装備は万全にしている。後で知ったのだが、この湯俣山荘の主人は昨年の伊藤新道再建の先頭に立って取り組んだ方のようだ。それもあって、長く休業していた湯俣山荘を再開することにまで意欲的だったと三俣山荘のスタッフが褒めちぎっていた。
 山荘の受付窓口には「伊藤新道通行情報」が手書きで描き込まれていた。
《8/19 深いところ(二の沢第3吊橋付近)で太股程。にごりなし。⚠落石事故あり! ヘルメットを必ず着用しましよう。8/16に桟道が斜面崩落により使用不能・第3-5吊橋損傷により使用禁止。徒渉しやすい水量になってきました。川の流れを見極めて徒渉しやすいところを見つけましょう。第一吊橋までいく方も通行届を出しましょう。》
 と呼びかけていた。上の三俣山荘にはできたばかりの伊藤新道を通過した方の記録がノートに記されていた。それによると昨年の7月、朝5:30に(湯俣山荘を)出発して11:55に(三俣山荘に)着いたとあった。吊橋があれば、この程度の時間で上れたということか。なるほど、面白そうだ。だが今年はすでに二つ吊橋が流され、徒渉しなくてはならない。危険度はぐっと高くなり、「バリエーションルート」と三俣山荘では呼んでいた。
 小屋に戻り、一寝入りして、夕食を迎えたとき、信州産鹿肉の煮たものを食べないかと主人に声を掛けられた。鹿肉のいくつかの部分をおなじ味付けて煮込んでいる。五一ワインもあったので、その350mlを一つ頂戴して、明日からの山行の成功を祈って、Kと祝杯を挙げたのであった。それが翌日、これほどに身に堪えようとは、そのときはつゆほども思ってみなかったのでした、
そうだ、その日の夜のことを書いておかねばならない。夕食のときにほうじ茶が出た。口当たりが良く、日中の水分不足も手伝ってかずいぶんと飲んだ。横になってトイレに立つこと何回に及んだろうか。1時間に1回は行ったように感じている。寝床は2階の蚕棚の一角。トイレは(外履きに履き替えて)一度1階に降りて別棟の2階に行く。雨の降る夜中に階段を降り上りして往き来するというのは、安眠のできる態勢ではない。二十数年前、インドヒマラヤの氷河の上でこれがあったときは、寒さも影響していたろうが、閉口した。高度障害を避けるには水を4リットル程飲む、一緒に利尿剤を飲めといわれて、忠実にそれを守っていた所為でもあった。
 だが今回それは不思議なことに、心持ちにおいては、それ程の負担を感じなかった。飲めば出す。昼間の水は汗で排泄される。寝ているときはトイレに立つ。あの、ほうじ茶の所為だ。それにしてもおいしかったなあと今でも思っている。これも、翌日躰に効いて来たに違いないのだが、それは次回にしましょう。


無事帰還

2024-08-24 06:35:24 | 日記
 5泊6日の山行から無事帰ってきました。詳しくはまた後程記しますが、雨具をつけることもなく6日間を過ごせたのは、望外の幸せでした。
 槍ヶ岳の「裏銀座コース」と呼ばれる七倉温泉から湯俣温泉を経て野口五郎岳に上り、水晶岳、鷲羽岳を経て双六小屋から新穂高温泉へ下るルート。その稜線歩きの日が全くの晴れ。北アルプス最奥部の水晶岳からは周囲が見晴らせ、これ以上ないご褒美となりました。
 我が体調のこと、変わりつつある山小屋のこと、若い人が多くなり、テントを交えて元気に歩いていること、中高年の登山者も多く、何だか世の中の移り変わりがいち早く反映されているように感じたこと。やはりよく名を知られた山のコースは、感じどころ満載でした。むろん世間を感じたよりも、わが身が世界の何処にいるかを改めて観る思いでした。 
 帰宅したのは昨日の夕方6時頃。松本駅周辺で信州蕎麦粉を2キロも買い込んだザックを背負って、やあ下界はこんなに暑かったんだとはじめて感じたように汗を搔きながらのご帰還でした。だが、家に帰ったことに身体が反応したのか、玄関口に置いたザックから土産を取り出し冷蔵庫に入れただけ。そのままにしてすぐに夕食を取り、お酒を飲んで横になってしまいました。
 今朝早く出かけるカミサンに付き合うというよりも、山暮らしパターンが身について4時半には起きだして洗濯物を出し、こうして書いているのですが、昨日の夢見を記しておこうと思います。
 夢自体はもっと複雑で、いろんな示唆をすることがあったように思います。だが、あまり整理して記すと、夢の肝心要が捨象されてしまうので、ちょっと感じ残った要点だけをメモしておきます。
(1)ものすごい紙メモの山。そこにはあちらこちらの在所の暮らし模様が記されていて、どこからどう手をつけていいかわからない。そのメモの山の中から、一つの在所の人の長寿と健康の様子と食べ物の関係に目をつけて調べたものが目に止まって、そこから調べがはじまっていく夢。メモの山にのみこまれそうになりながら 、メモを踏み越えてあちらこちらと彷徨っている気配。
(2)選挙だろうか。一適他否、一合一排など、耳慣れない漢語の並んだ文書を読んでいる。選挙管理委員会のお役人が書いたものだろうか。そのなかに、選ばれた首長が行政の主導権を取るとしても、役人には役人の従うべきベースがあり、それは人びとの暮らしに基礎を置くものであって、首長の指図に基礎を置くものではないという記述があった。読んでいるのに、次々と書かれたものが更新されて、記述が詳しくなっていく。論点も移ろっていくように感じたが、じつは詳しく思い出せない。
 上記二つの記憶に残った夢が、つながりがあるものなのか、別々のことなのか、わからない。これが、山へ行ったこと、山から帰ったことと関係があるのかどうかもワカラナイ。だが何か、基本的なことを忘れるなよという私へのワタシからのメッセージのように感じています。
 もしそれが山へ入ったことと関係しているとしたら、山歩きが「動物である原初のワタシ」を意識の表面に浮かび上がらせ、日々の移ろいに目移りしてついつい忘れてしまいそうになる私の脳作業に、警鐘を鳴らしているのかな。そう考えると、山歩きがただの気晴らしというのではなくなりますね。ワタシの大事な「無意識」と「意識」の交感作用を果たしていると言えるのかもしれない。そう考えると、面白いなあ。
 ま、おいおいそうしたことも記していきましょう。
 とりいそぎ、無事帰還のご挨拶でした。

がらりと変えた水晶岳訪問

2024-08-18 06:14:07 | 日記
 さあこれから水晶岳へ行く。
 じつは昨日(8/17)は、忙しかった。山行準備はできていた。
 台風一過の晴天、激晴れ。
 ふと、宿泊の5日くらい前から問い合わせて下さい、部屋が空いている場合がありますと、山小屋の人が言ったことを思い出した。事前に予約するときは「満」のマークで一杯だったが、キャンセル料が発生する直前から空きが出るという。今どきはスマホで容易に予約できるから、皆さんこうして、まず予約しておいて、模様をみて、簡単にキャンセルするそうだ。
 電話をしてみた。一番最初にとまる予定であったが断られた烏帽子小屋も「たくさんキャンセルがあった」という。そりゃあ都合がいい。
 と思ったら、登山口の濁沢で土石流があって、丸太の橋も流され、やってきた人は泥だらけになっていた。明後日までに橋が直っているかどうかはわからない。来週にも雨が降るというから、修理に着工してくれるかどうかもわからない。それでも来るかという。
 前日泊まる登山口近くの山荘の方に聞いてみた。徒渉できなくはないが、膝下まで泥に埋まって歩くようだから、それに対応できる用意はした方がいいねという。
 一日目に泊まる予定のところに電話をすると、こちらへ来るのなら濁沢を渡らなくてもいい。キャンセルしますか、ときく。う~んと考えて、やはり沢を渡らない方を選んだ。
 となるとひょっとして、水晶岳先の、人気の小屋も開いているかもしれないとチェックする。なんと、空いている。そちらに変更しても、その日の歩行時間は、変わらない。まずそちらを予約して、その次の日に下山するか途中で泊まるかを思案する。
 8時間余歩けば下山はできる。でも途中で泊まっても5時間弱と4時間弱。ま、8時間と7時間余を連チャンしたあとだから、空いていたら泊まろうとチェックすると、これも、空いていた。すぐに予約を済ませ、相方にコース変更の連絡をする。おなじところに降りてくるのと、縦走して全く違うところに降りるのとでは、車で動く彼には大きな違いだ。もちろん相棒というより私の付き添いだから、応じてくれた。
 こうして、当初の裏銀座コースを歩くに近いルートに変更できた。ことに水晶岳から笠ヶ岳への分岐までの稜線歩きは、天気が良ければ、周囲の山脈が全部見渡せて壮観である。
「やまのてんきとくらす」をみると、野口五郎岳を出発して水晶岳から鷲羽岳を抜ける日は、晴れのマーク。[A]が付いている。ま、これは、日々変わるものだからそう当てにしているわけではないが、先月の梅雨明け前の黒部五郎岳ほどのことはあるまいと、根拠なく高をくくる。
 あわただしく小屋の空きをチェックし、電話で予約をし、あるいはキャンセルしている私をみて
「何だか昂揚してますね」
 とカミサンが、揶揄う。
 ははは、そうですね。修学旅行に行く子どものように、気分が内側からの期待に膨れていく。デジタル時代の山行なのに、久々に、行き当たりばったりのような予約と変更をして、概ね思いどおりのルートを歩くことができる。アナログ時代に戻ったような気分なのかな。
 そんなことを思いながら、ルートの変更を相方に報せ、その返信に書かれていた「6泊7日の保険」にも入り、「登山届」を2部作成して、一つは我が家に、もうひとつは登山口の投げ込みように用意する。相方にはpdfにして送信した。
 では、行ってきます。7日後にまた、このブログでお会いできるよう、気をつけて歩いてきます。


やつらはそもそも人じゃないんだ

2024-08-17 05:44:00 | 日記
 表題のような台詞を読んで、読み進めるのが止まってしまった。読んでいるのはジェイムズ・クロフォード『国境と人間――文明誕生以来の難問』(河出書房新社、2024年)。今、3分の1ほどのところ。第二部の4「壁を築く」。エルサレムを訪れている著者・スコットランドの歴史家が、お目当ての方、バハ・ヒロに出逢ったときに、彼が喋った言葉。

《人びとを物理的に押し出すわけだが、手始めにやることはそれではない。まずは人間を精神的に押し出すことだ。違うかい? 人から人間性を奪い、それからクズのように扱う。その日の終わりには、こう言うようになる。「まあ、ヤツらはそもそも人じゃないんだ」》

 じつは、これとおなじ台詞を、去年の戦闘が始まったころに私は感じ、口にした。2023-12-24のこのブログ。「人動説が世界をささらほうさらに」で、こう記している。

《イスラエルも、ホロコーストを経験させた戦後秩序の中で欧米の勝手な思惑を受けてパレスティナに本拠を構えることになった。パレスティナ、就中ガザの人たちをアパルトヘイトのようなところに閉じ込めて知らぬ顔をしてきたことが今回の起因だと考えると、欧米もイスラエルも我がこととして責任を負わねばならぬことなのに、人道と人命の尊重という空言しか口にできない》

 そうか、このときはまだ、ハマスの奇襲に対応するというイスラエルの立場にいくぶんの理を認めようとしている。ただそのやり方がひどすぎる、と。当事者でない私が、どういう立場でイスラエルを、あるいはハマスを批判できるのかと躊躇いながら、WWⅡにおけるユダヤ人虐殺の悲哀を知っているだけにイスラエルに対する同情もあったと、今、身の裡を振り返っている。
 パレスチナの棲んでいたところを押しのけてイスラエルが建国したというそもそもの発端で、欧米の諸国に理不尽さを感じていたのは、私の知意識。世界大戦期におけるイギリスのバルフォアとマクマホンの秘密協定。むろんそれにイスラエルの政治力も加わって、植民地であったパレスチナはいいように遇われた。理念を押しのけて進められる国際関係の力の政治に、理念の空洞化を嘆くような論調は、その思考手順そのものが、もはや空洞化していたと、いま思う。
 それについてクロフォードは19世紀からの成り行きをおさらいして、

《1947年11月27日に、国連総会はパレスチナをアラブの国とユダヤの国に分割して、エルサレム市は国際管理のもとに置くことを投票によって決めた》

 と、国境線が引かれたことの起点を取り出す。その国境線が地図に色鉛筆でざっと引いたずぼらなものであった。イギリス軍が撤収すると内戦が勃発した。

《集団虐殺や残虐行為が各地で起こり、村は破壊され、人びとは自分たちの土地や財産を強制的に手放されるかした。パレスチナのアラブ人口の半数にも及ぶ数だ》

 パレスチナをまるで自国領土のように占領地として浸食していった非道さを象徴するように、冒頭のバハの言葉が吐き出されている。行間には、欧米ソ規準で(イスラエルを援護する)国連が、ほぼ無策であったことを示している。そうなんだ。昨年のハマスの「奇襲テロ」からこうなったのではなく、大国の援護を得たイスラエルが、延々とこうやってパレスチナを浸食し、平然と自国に組み込み、アラブ人を出て行くように仕向けている。パレスチナをアパルトヘイトに譬えているのは、まだ優しすぎた。クロフォードが書くように、(私達が追い出したのではない)「ヤツらは出て行ったのだ」とイスラエルは言いたいのだ。もしイヤなら、パレスチナを援護するアラブ諸国へ行けばいいじゃないか、と。
 これじゃあ、ホロコーストと同じことをイスラエルがやっている。歴史をどこから切り取って、由緒由来を語りはじめるかは所説言い分はあろうが、いまから2600年ほど前に奪われた土地の権利を主張して建国するという荒唐無稽な荒技をやってのけたのは、(ドイツばかりでなく)ヨーロッパの人たちの間にユダヤ人に対する殊更な偏見と、ホロコーストに頬被りした自戒の念が働いたのであろうと私は勝手に理解していた。
 もちろんそれが、現代世界の政治に妥当なものであったかどうかは、敗戦国民のワタシにはワカラナイ。だが、財力と政治力と軍事的な力に依って大国を動かして、好き勝手に振る舞うイスラエルには、すっかりロシアとおなじ侵略国家というか、人でなし国家というレッテルを貼り付けて憚らないことにした。トランプもバイデンもおなじだ。イギリスもEUも同列じゃないか。
 そう、中東の国際政治にどういう立場をとっていいかワカラナイ八十路の爺はぼやいている。

やってきた台風

2024-08-16 13:34:27 | 日記
 ひょっとしてと予測していた台風が、やってくる。12日にはまだ熱帯低気圧であった。だが民放のTV番組ではすでにその日に、日本の気象庁だけでなく、アメリカやヨーロッパ、インド?の予報を交えて、進路予報をしていた。最悪の場合、関東を直撃して北西へ進路をとる予報もあったから、ほんのちょっと模様をみた。今言えば、何とも予報の精確なこと。海水温を調べて台風が強まってくることまで報じている。
 こうして台風を迎えてみると、衛星による気象情報の収集をはじめとして、いかに先端的な技術のお陰を蒙っているか、ひしひしと感じる。加えて、それを子細に報道するメディアの存在。もしこれがTVのない離島暮らしだとしたら、準備はおろか、やってきた事態に大慌てで対処するしかない。もし出かけていたりしたら、何としてでもわが身の安全を確保しなければならない。
 今もTVをみて、停電している千葉は大変だなあ。いつだって台風の通り道だし。それに比べると埼玉は災害が少ない。関東平野の真ん中で、大水が出たり竜巻に襲われたりしているけど、それほどの大騒ぎにならない程度に収まっている。そんなことを考えていて、なんだこれは、まるで「翔んで埼玉」じゃないかと笑ってしまう。
 ははは。平和に暮らしている。平和ってのは、いろいろと世の中のお世話になっていることに気づかず、わが身が幸運に包まれて人生を送っているとおもっている状態。平和ボケって揶揄う人がいるけれど、ウクライナやガザをみていると平和で何がワルイと居直っている。やっと八十路爺の歳になって、COVID-19に出喰わしたりロシアのウクライナ侵攻をみて、私の生きてきた、この八十年余が、むしろ稀有なんだと思うようになった。
 戦中の生まれ戦後育ちは、混沌からスタートしたと言っていい。貧しいのも人の性が荒んでいるのも当たり前という世の中だったと、後の世と比較して思う。いやそれは、言い過ぎか。そういう人も一杯いて、混沌の中をくぐり抜けるようにして生きていかねばならなかったと、父母や兄を思い出している。だから、1960年代から70年代にかけての高度経済成長(のもたらした変化)には驚いたし、自分の生活の変化にも実はおどおどしていた。こんな暮らしをしていいのかとしばしば思ったものだ。
 貧乏には強いよ。たぶん災難にも耐えられる。根が貧乏性だから、お金を掛けないで暮らす分には、適応性が高い。腹が減っても戦はしたことがないし、戦をする気がそもそも、ない。ケンカは嫌い。殴り合いは考えただけで、怖気がふるう。殴るって体感に私の腕は縮み上がってしまう。平和ボケに育ってしまってきたから、今さらそういう場に引きずり出されて、さあ戦えって武器を持たされても、力を入れることがデキないと思う。
 そういう具合だから、台風にも直に向き合って対処せよと言われても、たぶん何もすることができず、おろおろとわが身を護る一番安直な方法をとって、身を潜めているしか能がない。だらしないなあと、友人に愛想を尽かされたこともある。そうなんだよ、威勢良く身体を張って敵に立ち向かうっていう勝負事が何より嫌いであった。賭け事もイヤ。
 せいぜい自分と戦うスポーツくらいしかできなかった。だからか、山登りには夢中になった。そうして気づいてみれば、歩くしか能がないワタシの人生。そういえば日々PCに向かってやっている自問自答も、ワタシと向き合って、私の不思議と格闘しているようなものだね。
 いやはや、なんともだらしのない私の人生。いずれクソ爺になる。あっイヤ、九十路爺になるまで生き恥をさらしてふらりぶらりと命を繋ぐか。
 風に吹かれて~というボブディランの歌があったなあ。台風に吹かれては、イタそうだなあ。