mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

発酵する隙が無い

2022-08-31 09:10:43 | 日記
 1年前(2021-08-30)の記事「地図を喪失する」を読んで、昨日と一昨日の記事に付け加えたくなった。この両日の記事は、画像メディアが直に感性に作用するために思索が飛んでしまうことを読書と対照させて考えたもの。底堅い思いを口にすることなく保つことが持続的な身のこなしに通じると、時代物の小説を読んで触発された。口にすると(その思いが)虚ろになる、色即是空と見て取ったと、いつもの結論に持っていった。
 だが、1年前の記事では、藤原辰史の「発酵」という観念を媒介にして、超越的な眺めと即物的な感覚とが身の覚えとして一体化すると、「心身一如」の方へもう一歩踏み出している。1年前に一つ足場を得ていたのに、それを忘れて、「いつもの結論」に跳ぶというのは、その思考が身に染み付いたからなのか、思考過程が粗略になったからなのか。いうまでもない、粗略になったのである。
 画像文化の横溢は、百聞は一見にしかずという俚諺を証明するかのように受けとられた。絵画や漫画が写真に代わることによって迫真性が増したが、絵画や漫画がその制作者の目を通したものであることを隠さないために、みる者は「ほんとかいな」と思いつつ受けとる隙間があった。この隙間で、書いた人のデフォルメとか消去されたモノを勘案しながら絵画や漫画を見ていたのだが、その照らし合わせるときにわが身の感性や思索のセカイを覗いていた。この「ほんとかいな」と(認識主体が)みる行為を「たましひ」の振る舞いと考えていたから、写真に撮られるとき「魂が吸い取られる」と人々が恐れたといえようか。「真を写す」ことが「隙間」を失う、つまり(写真を見る)主体が介在する余地を失うと表現していたのだと思った。
 その静止画の写真が動画となり、観ることそのものが急かされるようにもなった。これは、時間が外在化することである。遠方にあるモノが距離を縮めて眼前にLIVEとしてみえる。距離が縮まるのに反して観る瞬間にしかみえない。オモシロイ。録画とかネットで繰り返し観るという、メディアと時間を飼いならす方法も出現しているが、それとても、何回も繰り返し時間をかけて観るようなことはマニアでもなければしないから、市井の庶民にとっては、画像がLIVEで流れている瞬間に受けとる「世界像」が、そのまま直に感性と認識世界に流れ込み、思索の中で「(主体的に)発酵する」ことなく、世界観として(主体の)セカイに定着する。それがワタシなのだ。
 世のメディアの発達は、そのようにして人を変える。人の感性や世界観に作用して、当人が気づくことなく(まさしく主体的に)いつしか変わってしまっていく。だから私は「(わが)こころ」の主人なのかと疑いを持って吟味しないといけなくなってしまう。つまり主体であることは間違いない個体が思っていることさえ、その根拠を確かめつつ受けとる時代の波の中に、私たちは浮かんでいる。
 幸か不幸か、歳をとって私は、TVを観ているのがメンドクサクなった。映画も2時間くらいが適当で、それ以上長いと分けて観るようになる。ドラマもすぐに飽きてしまって、もういいやと途中で投げ出すことが多くなった。身が我慢できないのだね。
 いや実は、本を読んでいても、身の我慢ができなくなっていることを感じる。ちょっと誇大にいえば以前は、読み進めながらわが身の違和感と同時進行のように対話が進み、著者の言わんとすることと文章から受けとる印象とのズレを、考えるともなく思っていた。だから読み終わってメモを取るときに、該当のページをもう一度繰って引用を正確にして措くこともできた。ところが、その同時進行がどんどんズレてできなくなった。立ち止まるしかない。立ち止まって考えているうちに、著者が想定していたであろう展開の子細を書き込んだ大枠がどこかへ行ってしまい、結局読み終わって、2,3日胸中に放り投げておくうちに、なんとなく思っていたことが再びボーッと浮かんで来ることもあれば、それっきりとなって消えていって仕舞うことも多くなった。惚けたのか、それとも自然の劣化なのか。
 歳をとると身の裡に時間が引きずり込まれる。外部の時の流れに身が合わせられず、結局身の動きに応じた過ごし方しかできなくなる。その(外部時間との)ズレが「隙」となって、巧く作用しているのかもしれない。わが身の受けとる感触が、わが身の所為か、時代の潮流が醸しだしているものなのかわからなくなっている。せめて身の裡で発酵するときを持つようにしているのだが、わが身の発酵の時は、いつしかわが身の秋(とき)となって消えていくことになる。
 ま、だからといって何か不都合があるわけでもないから、ほどよく付き合うしかないか。

自分が「こころ」の主人なのか

2022-08-30 08:38:27 | 日記
 昨日のつづき、「人に対する底堅い思いを持っているかと自問し、わが振る舞いの身のこなしに果たして倫理的制約を課しているかに自答する暮らし方」について考える。この自問自答は、いま思い浮かべている「こころ(わが心)」の感触は本当に自分のものかと問うことにつながる。世の中の(なにがしかの)メディアにマインドコントルールされているんじゃないかと自問自答するワケだ。
 旧統一教会批判が高まる日本のメディアに対して韓国の統一協会会員たちが「宗教弾圧だ」と批判するデモを行なっている画像を見ると、マインドコントロールって何だろうと思う。いま誰かに「あなたは誰かにマインドコントロールされているか」と問われたら、そんなことはない、バカにすんじゃないよと応えるに違いない。
 なぜそう言えるんだろう。「こころ」の感じている世界との関係は、わが身の感じる痛みや不快感、心地よさや快感など、五感の感受した(個体的)感覚を「ワタシのセカイ」として総合的に受け止めたものだから、他の人の個体性とはっきりと異なると、身体的自律性を前提にしている。デカルトの哲学的思考の出立点、「我思う故に我あり」と同じように受け止めている。
 だが、そのワタシもセカイも、私が生まれ生育してくる間の環境がわが身に降りたって堆積し形を成したものという「個体的物語り」に変換してみると、「無意識」とフロイトの呼ぶ「混沌の海」が揺蕩っていることを感知できる。それを腑分けして無意識から引きずり出しコレと言葉にすることができれば、それはすでに無意識から意識の世界へ登場したことになる。「こころ」というセンサーは、無意識界と意識界の端境のところで言葉になる前のイメージ界を表象する。目や耳、鼻や舌、皮膚などの諸感官から飛び込んでくる外部世界が、ワタシという個体の身として総合的に感受したセカイとのカンケイ。その言葉にならない思いが「こころ」(わが心)として感じられる。不都合なものは捨象しているかもしれない。あるいは逆に、不都合なものだけで憎悪を募らせているかもしれない。そこは混沌の海に踏み込んで見なければ誰にもわからないことだが、無理矢理言葉にすると、断片となり、嘘っぽくなって身の底から絞り出してきたものとは違ったこととして表に出る。色即是空、空即是色だ。
 このテーマが江戸の物語として提示するのが相応しいのは、時代のメディアが格段に肌身に近いからだ。メディアというのを歩行にとってみると、せいぜい籠か馬、ときに牛だ。手紙というのも、一つひとつ手書きだし、それを読むのもそれなりの修練を積まなければならない。今となってはメンドクサイことが一つひとつわが身を長年練り上げて備えてきた力によっている。それがやっと、読み取る(書き取る)作業として外からやってくる。読むという行為それ自体が、ワタシの無意識界をかき混ぜ(外からの刺激と対照させて)意識界へ引きずり出してくる作業である。恒につねに自らの無意識を意識化する振る舞いとなる。
 わが言葉がわが思い(イメージ)を表現するのに、いつもずれが生じる。深いところの思い(無意識)が浮かび来る思い(イメージ)に似たように重なっているかどうかは(むろんのこと)わからない。だから人を見るのに、言葉よりも振る舞いに、つまり身のこなしに重きを置く作法がうまれた。と同時に、わが無意識もワタシにはとらえられない。だから、わが身をふり返る。言葉だけでなく、振る舞いを対象化して自省することによって、少しずつ無意識と「こころ」のズレからワタシを知り、「こころ」と言葉のズレをみて、「カンケイ」をとらえ返す。
 今の時代を考えると、写真や画像がイメージそのものとしてわが身に降り注いでくる。その一つひとつを「考え」ている暇はない。言葉さえ、音として心地良く響く。誦経のようにその意味がわからないことが余計に音の連なりとして荘厳さを感じさせたりもする。演説などは、何を言っているかというよりも、その響きが決断力を感じさせたり力強さを伝えたりして、それが心地良いと感じさせる。振る舞い同様に人柄というイメージの好感を盛り込んでいたりする。むろん逆様に感じ取ることも、大いにありうる。その画像に恒につねに晒されて、ワタシの感官はつくられ、鍛えられ、磨かれている。だがそれが、本当にワタシのものなのかどうか。ワタシの「こころ」の主人は私なのかといつも吟味しながら言葉にしていかないと、勘違いしてしまう。基本は、ワタシの感性や思念は、これまでに出逢った環境の(つまり世間の)感性や思念の凝集されたものであり、その凝集過程で(これまた出逢って蓄積された、各個体特有の感性・思念回路を通過して)偏りを持った私の固有性をもっている。その根柢にあるエロス性が「底惚れ」であり「底慕う」に当たる底堅さである。そこまで感知する感性や思念が到達しないと、環境の提供する刺激的なイメージに翻弄され、己を見失う。それをマインドコントロールと呼んでいると思えた。とすると現代社会に生きる私たちは基本的に、時代と社会のマインドコントロールを受けている。そこからの離脱をどう果たすかが、yの銃撃事件で浮かび上がっている主題なのではないか。
 それを根柢の無意識界でどうワタシがみているかは、引き出すように取り出してみなければわからないし、取りだした感触やイメージが無意識をそのまま反映しているかそうでないかも、また、わからない。それを無理矢理言葉にすると、あっコレちょっと違うなあと思うことはよくあること。だから、私自身がワタシの(無意識界の)ことをわかっていないと思うことは、しばしばだ。だから口にしないで(人への、あるいはコトへの)底堅い思いを探り当て、保ち続けることが、無意識につながる率直な「こころざし」を持続するエネルギーの源となる。それが「底惚れ」「底慕う」なのだと感じたわけであった。
 つまり、ワタシはわが心の主人なのかという疑問を抱いていて、ワタシの主体性を保ち続けようとする生涯続く営み。それが生きるということなのだと思っている。

底惚れか底慕うか

2022-08-29 06:08:50 | 日記
 元首相aを銃撃したyが、なぜ母親に恨み辛みをぶつけようとしないのか、あるいは、ぶつける言葉を発しないのか、ずうっと疑問であった。今でも疑問ではあるが、ひとつ思い当たる心根を描いた小説なのかなと思い当たった。青山文平『底惚れ』(徳間書店、2021年)。最近、中公文学賞を受賞したというニュースで思い出した。
 惚れた腫れたを口にできない世の人の出逢いは、江戸ものの作品にはつきものだが、想う人と思いを受けとる人の(立ち位置による)すれ違いが生み出すデキゴトが、これまた悲劇的な命運へ向かってしまうってことも、ままあったことと読むものの心持ちには響くから、その綱渡りを見るように頁を繰る。そして、心底に残る爽やかさの感触は何であろうかと、作品から離れて、わが心裡へと視線は移っていく。
 主人公のわが身の感触にしかわからない底惚れが心を打つのは、その思いがそれとして伝えられないこと。あるいは、酒乱の夫から逃れた女房にとっては妻仇討ち(めがたきうち)と思われる出逢いが、じつは酔いからとっくに冷めて申し訳なかったと酒立ちをしている亭主とわからないという悲哀。読者はいわば神の目を持ってそれを見ているから、そうだよなあ、当事者にはそういう成り行きはわからないもんだよなあと余計切なくなる。
 それを見ている視点をもっと退いて眺めてみると、底惚れと人の振る舞いの関わりにいくつかのポイントがあるように思う。
(1)持続的な人の振る舞いには、底惚れに近い(人に対する)固い思いが重しのように必要なのかもしれない。
(2)それは本人も気づかない無意識界に起因し、倫理的と言っても良いようなある種の制約を振る舞いに課す。
(3)言葉にしないことによって、いっそう上記の倫理性が(神の視線で見ている観察者には)異彩を放つ。そうか、求めて求められない、不可能性の上の探求が持つ人の営みの神々しさか。色即是空、空即是色だ。
(4)ひょとすると、満たされては空無。まさしく「関係的実存」は、このようなものかもしれない。
 こうやってふり返ってみると、yの母親に対する思いが「底惚れ」という言葉では似つかわしくないが、「底慕う」というのに似たような無意識だったかもしれないと腑に落ちる。その切なさが市井の庶民には感じ取れるから、yに対する非難がタテマエ的には発せられるが表だって現れない。非難はもっぱら旧統一教会とそれに結託とか元首相aとかそのご一統の政治家たちは、(関係的実存の)人の切なさという無意してきた政治家たちに向かっている。言葉にするかどうかの端境から見ると、旧統一教会識界に感官のセンサーが届いていない。もっと表層の、欲望を手に入れる、欲求を満たす、願望を叶えるという充足リアル界に身を置き、意識を据え、関係の実存が底堅く保たれる気高さを感じ取る感覚を持ち合わせていない。これが現在日本の統治者のスタンダードである。彼らはわが身をふり返らない。自らの振る舞いを照らす鏡がマス・メディアや文春砲という暴露告発メディアにしかないから、その場凌ぎの歯止めしか目に入らない。言を左右にし、ブログを見てくれとごまかし、綻びた部分の繕いで精一杯の政治活動に勤しんでいる。
 関係的実存に暮らす私たち市井の民は、彼らを反面教師として、時代の(情報化社会という)流れに乗らなくても、人の対する底堅い思いを持っているかと自問し、わが振る舞いの身のこなしに果たして倫理的制約を課しているかに自答する暮らし方をしなくてはなるまい。
 お前さんはどうよ、と私も自問する。自答しようとして、おっと、あぶない、あぶない。言葉にしてしまうとするりと気高さが空無へと抜けていってしまいそうだ。ははは。


学校現場が腐るワケ

2022-08-28 09:00:45 | 日記
 今日(8/28)の朝日新聞にお笑い芸人がお世話になった小学校の教師との人情話が記事になっている。ふ~んと読んでいて、この教師のことを1年前に書いたことを思い出した。
 大阪市立小学校の校長だった彼が大阪市長に現場の苦衷を書き送った所、「訓告処分」を受けたというのが、昨年8月の記事。私は足尾鉱毒事件を天皇に直訴した田中正造を思い出し、「昔と変わらぬ風景」と題して、松井大阪市長の振る舞いを揶揄った。それくらい大時代的な現場教師に対する接遇の仕方であった。
 松井市長にすれば、現場の校長如きが市教育委員会の施策方針について「意見をする」など不届きなことと考えているのであろう。だが。こういう現場の声に耳を傾けず、現場教師を上意下達の命令系統で差配することで学校のモンダイが解決できると考える「強権主義的な統治手法」が、すっかり学校を変えてしまい、学校現場をブラック企業化していると批判を受けている(喜入克『教師の仕事がブラック化する本当の理由』草思社、2021年)。文科省が、例えば職員会議は決定機関ではない伝達機関だと方針を提示して、各都道府県教委に通達したのが、20年ほど前であったか。私はその直後に退職したからその後の変化は目撃していないが、そうした教師に対する管理方針が、現場教師の有り様をすっかり変えてしまい、教師たちを腐らせていったと、ときどき耳に挟んできた。
 松井大阪市長といえば日本維新の会の代表。この政党自身がかつては、既得権益をぶっ壊して大阪府市政を立て直すと旗印を掲げて登場したものであったが、それがどうしてこんな為体になったのか。
 いや、もともと橋下徹市長・知事の統治センスが上意下達タイプであった。意に沿わぬ(大阪都構想に関する批判的な)データを提示した国立大学教師を大学から排除しろと大学総長に迫るような強権むちゃぶりだったことを思い出す。私たち庶民からすると、既得権益者たちも維新の会も、どっちもどっち、強権主義者の権力争いにしか過ぎなかったってことだ。それをつい「既得権益」の破壊者と誤解しただけのことであったか。あるいは、それまでの為政者の身勝手に対する憤懣を、たまたまぶちまけるような気分を、勢いのいい維新の会に仮託しただけであったか。
 1年前の、当の校長がどうしているか気にならないでもなかったから、今日の記事は、無事退職して静かに暮らしているんだなと近況を手にした気分であった。朝日新聞も、この教師の振る舞いの肩を持って、大阪市のやり方を批判したいのであろう。わかる、わかる。そうしたい気分はわかる。だがそれは、こんな人情話からはじめることなのだろうか。江戸の敵を長崎でっていうような感じがするのだが、どうだろう。


言葉と人柄と信頼

2022-08-27 09:37:48 | 日記
 1年前(2021-08-26)の記事、「法的言語と生活言語の齟齬の現在」を読んで、旧統一教会と自民党政治家との関係について、一つ考えることがあった。
 いま旧統一教会が非道い団体であると思われているのは、生活言語世界からの見立てである。銃撃犯yの母親について語る(統一教会に対する)恨み辛みは、聞くだに同情を誘う。自民党の政治家が言を左右にして困惑しているのは、旧統一教会の何が違法なの? と法的言語で語るのと、選挙のときに支援してくれる人を(所属団体などを吟味して)誰何することはできないというのは、生活言語である。
 言を左右にしていると思われるのは、彼らが法的言語と生活言語の都合のいい部分を適宜使って自己防衛をしているからだ。彼ら政治家が法的言語に通じているのは、庶民から見ると当たり前だが、法に反しなければ何をやっても構わないというのは、ヤクザの台詞だ。法的な枠組み以外に社会的な規範があり、それをやっちゃあお終いよという限度が、法的な限界の内側にある。庶民の生活言語は、その曖昧模糊としてはいるが、しかしきちんと了解している規範に基づいている。近頃、同調圧力といって人々の言動に規範がないかのように考える人たちがいるが、それは頭でっかちの知意識人の考え方だ。庶民は、別に同調圧力というのではなく、そりゃあ常識だよと思っている。
 旧統一教会と「今後一切の関係を断つ」などと政治家が口にしても、ほんとかなと信じられないのは、その言葉の軽さ、身勝手さが、身の振る舞いから透けてみえるからだ。じゃあどうすりゃいいの? と当の政治家は思うかもしれない。法的言語と生活言語の使い分けを自分がどうやっているのかを、自分に問い、一つひとつ吟味しながら自答して行くしか、道はない。
 ほんの少し遡ってみてみると、安倍=菅=二階時代の自民党は、上記ご都合主義言語満載の展示場であった。言葉が信用できない。この人たちにとって言葉は、自分の意思を表現するものですらない。彼ら自身が自分の言葉に信を置いていない。その人たちの仕切る政府が選挙を通じて多数の支持を得てきたから、今の社会に於ける多数の庶民の言葉も、そういう頼りなさというか、虚ろな響きを当たり前としているのかもしれない。そう言えば『言語が消滅する前に――「人間らしさ」をいかに取り戻すか?』(幻冬舎、2021年)という哲学者の対談を収録した本があった。これも、私と同じように、虚ろな言葉の蔓延が世の中を覆ってしまう感触をとりあげていた。
 政治世界の言語ってそういう(虚ろな)ものさと見極めるのと、自分もそういう政治家の列に並んでいていいのだというのとは、違う。人の思いと言葉とが齟齬することは、市井の民は長年の(わが身の)経験で十分感じて知っている。だが、言葉と振る舞いとで「関係を紡ぐ」とき、虚ろでいいのだと思って言葉を発していると、そういう浅い付き合いが身の回りに蔓延り、身がそれに馴染んでしまう。それは心の習慣となり、そういう人柄をつくる。人柄とは、その人の紡ぎ出す「カンケイ」の醸し出している雰囲気であり、つまりご当人にはわからないが、周りの人々の「反応」を鏡にして感じられることだと言える。
 言葉は、どんな場面で誰から誰に向けてどのように発せられるかによって、意味合いもニュアンスも伝えようとする内容も異なってくる。だから政治家といえども、法的言語の一面しか持ち合わせていないわけではないし、私的場面でも虚ろな言葉を発し続けているわけではない。だが、政治家が政治家として繰り出す言葉は、公人としての人柄を全面的に体現する。今の情報化時代といわれるご時世、私人としての政治家の有り様というのはほとんど認められていないから、全身政治家として振る舞わないといつ文春砲に撃たれるかわからない。
 これはいつも意識的に「政治家」であることを求められるのだが、今の政治家たちの振る舞いと言葉を見ていると、とても尊敬に値するようにみえない。「言葉が消滅する前に」だけでなく、「振る舞いが目も当てられなくなる前に」も、言い及ばなくてはならない。それも、トランプさんやプーチンさんなどを見ていると、国内政治だけでなく、国際的な政治場面でも同じようなことが横行していると言えそうだ。
 とは言え、断片しか知らないが、メルケルという方もいた。語り口それ自体が尊敬と信頼を醸し出す。あるいはフィンランドの37歳の首相のように「私も人間です」と涙しながら「息抜きもしたい。(人生を)楽しみたい」と訴える言葉を聞くとき、私たちは、私たちができる以上のことをしてくれと要求しているのかと、自らの言葉をふり返ってみる。それはそれで尊敬とは異なるが(人として同じ現実を生きている)誠実さに信頼を置くことのできる響きがある。
 今の日本の政治家たちに、そのような人柄にかかわる尊敬や信頼を感じることができるだろうか。日本のシンクタンクといわれてきた官僚組織に(政治家はだらしないが官僚組織がしっかりしているから日本は大丈夫だという)かつての「信頼感」は抱けるだろうか。言葉よりも、立ち居振る舞いに於いて(つまり身体性において)評価する(日本の)「人を見る目」が是非とも復活してほしい。