第16回草津Seminarを終わって帰ってきました。今回の主題は、「第九を歌おう」。岡山から、ご夫婦とも音楽家という黒岩Nさんが、700㎞をキーボード持参の車で駆けつけ、歌唱指導をしてくださった。黒岩さんのご亭主は大学で音楽を教えて来た方ですが、じつは実家が草津温泉。あの湯畑の真ん前にある宿を営んでいた家で生まれ育ったとのこと。ご両親はすでになく宿の経営も人手に渡したということですが、ご兄弟が健在でいわば久々の里帰りでもあって、Seminarに関しては黒子役に徹し、Nさんの歌唱指導の現場には立ち会いませんでした。
冒頭に配られたのが、「歓喜の歌」の歌詞のついた楽譜プリント。事前に、「第九なんか歌えるのかね」「そもそもなんで第九なの?」と疑問が寄せられていて、Nさんは返答に窮していた。「(Seminarのコーディネイトをしている)Fjさんが言い始めたこと」と、そちらに話を振る。彼は覚えていない。ただ、この話が持ち上がったのは去年12月3日、渋川で開かれた同窓会の折だったから、12月で音楽の専門家の歌唱指導となると「歓喜の歌」という、なんともイージーな思いつきが口をついて出たのかなあ、と笑う。
はじめに日本語訳の一音符にひとつのことばの音を配置した、歌いやすい歌詞で歌って、小学校4年生の音楽教科書に紹介されているという旋律を思い出させる。ああ、あれかと参加者の想起域を刺激しておいて、今度はドイツ語で歌わせるという手はず。聞くと、国立音大では全学生必須の歌とか。NHK交響楽団が年末に演奏する「第九」の第四楽章の「歓喜の歌」は国立音大がここ数十年ずうっと請け負ってやってきている、という。国立音大生は、だからドイツ語で覚えてしまって、この旋律と歌詞はドイツ語で頭に浮かぶほどだと。
Nさんはしかし、「大きな声で」とか「口をしっかり開けて」とは言わない。私たちも椅子に坐ったまま。旋律に乗って恥ずかしがらずに声を出せればいいと、「指導」の水準を最低ラインに絞っている。ところが、ずいぶん声の伸びもよく響きもいい人が隣にいる。やはり岡山から駆けつけたSさん。「あなたはずいぶん上手だね。カラオケ?」と尋ねてみると、コーラスグループに加わって歌っているという。Nさんが、「高校時代に音楽をとった人は?」と聞くと、なんと、手を挙げたのはSさん一人だけ。Fwくんは「えっ? 芸術科目? そんな選択ってあったっけ?」と、まるで覚えていない。
みんなで歌うコーラスは恥ずかしくないからいいのよと、Sさんは合唱を推奨する。そうか、そういえば昔、学生時代に歌声喫茶ってのもあったっけ。酒に酔って色々な歌も歌ったなあと、放歌高吟したころを思い出す。うまく歌おうと思ったことはなかった。場を共にする者たちが、一緒に声を張り上げて同じ歌を歌う、それが逆に場を共にしているという共感性を高める。フォークソングが、その端境にあったように思う。1970年代のはじめまでは、まだこうした雰囲気が残っていた。こじつけのように見えるかもしれないが、高度経済成長がオイルショックでひと段落したころに、共感性を求める社会的気配も終わっているというのは、面白い現象ですね。それに代わって登場したのが、カラオケでした。
ところが、カラオケというのは、一人ひとりが歌う。歌声喫茶で歌うのとか、肩を組んで放歌高吟するというのとはまるで違う。映像・歌詞付きのカラオケが登場したのは1980年代になったころであったか。そのころから、うまく歌うというのが流行りになった。一緒に歌うというのと違って歌って聞かせようとする。収納曲数が多彩になるにしたがって、みなさん自分が次に歌う選曲に夢中になって、歌っている人の歌を聞いていない。歌う方も、映像と部屋いっぱいに反響する自分の声にうっとりとして、他の人が聞いているかどうかはどっちでもいいようになる。みんなと一緒に来たはずのカラオケボックスで、けっきょく皆、一人ひとりになって、それはそれで満足しているという姿。ナルシシズムですね。まあ、それはそれで人の恒ですので、悪いってわけではないのですが、共感性よりも自己陶然性に重きを置くという傾向が強まったのと、高度消費社会へ移行したことが重なっているのは、やはり何かワケがあったと思えてなりません。今はカラオケも、機械が採点して「うまさ」を表示してくれるご時世。それがTVの番組になってアマチュアもプロも、分野をごちゃまぜにして競うというのですから、時代は変わったものですね。そんな感懐が、胸中をよぎる。
そんなやりとりを挟みながら、それでも二度三度と歌ううちに声も大きくなる。だが大きな声を出すごとに、私は声がささくれ立って、だんだん割れてくる。息も長く続かない。隣のSさんは軽々と声を伸ばしているのに、私は息継ぎの機会を逃して歌もとぎれとぎれになる。まるでローマ字を読むみたいに、ドイツ語を妙なところで区切って音にしているみたい。Nさんが「腹式呼吸って、やってみましょう」とお腹に手をあてて、「すうー ふうー」とやってみせる。ははあ、これが高齢者にいいのかもしれないと、思う。私は酸素の薄いところの山歩きもしてきたから、息が切れると歩けなくなってしまう。当然呼吸法は腹式。意識するのは吐く「ふうー」の方で、吸う「すうー」の方は(放っておいても吸い込まないではいられないから)自然に任せる。ところが歌うときっていうのは、ある音節の途切れるところで、瞬時に大量に吸わなくてはならない。楽譜にそのマークさえつけられているという。胸式の呼吸では(分量が少なくて)長く歌うことができないから腹式にする。しかも、ただ吐くだけでは音にならない。うんと吸った息を音にして少しずつ小出しにする技術が必要になる。意識的に自分の身体をコントロールするという点では、歩いているときの息継ぎでは適わない意識と身体の結びつき方を身に備えなければならない。Sさんは、「コーラスをしていると、ここのあたりが広がってくるんよ」と首のあたりに手を回して、喉を逸らせる。
こうして、何とか「歓喜の歌」をひと小節をドイツ語で歌うことができるようになった。「これで年末にTVの前で歌えるな」とHくんは嬉しそうだ。といっても、皆72,3歳という高齢。思うように声が出なくて落胆するところ。Nさんは、そのケアも、考えていた。さほど他の音域の広くない、むかし懐かしい歌を選び、大声で歌って気持ちを立て直す配慮までしている。どこからか借りてきた歌声の本、人数分そろえてしおりを挟んでいる。なかには、楽譜の歌詞の、折り返すところがわからなくなったり、跳んで繰り返す最終部分がわからなくなったりしながら、5,6曲を歌って、心もちの色直しをして、歌うSeminarは、終わった。バイオリンを習っている、近年躍進の目覚ましいFnくんが、Nさんにあれこれと尋ねている。Hくんは「これまでのSeminarの中で一番良かった」と絶賛する。それがきっかけで、来年もやろうということになった。草津Seminar音楽祭ってわけ。
だったら、「歓喜の歌」をテーマ曲にして、はじめるときにこれを歌いましょう。そして今年はベートーベンだったけど、来年はシューベルトというふうに、色あいを換えてやっていくといいわと、Nさん。9月もいいが、来年は10月上中旬にして、紅葉の草津を楽しめるようにしましょうと、今回の宿の設営を全部してくれたTさん。早めに日程設定をして、皆さんの都合を開けてもらえるようにしようと、話しながら帰途に就いた。