mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

3年間でボケた割合1/16

2020-08-31 19:10:51 | 日記

 運転免許証の更新のために「認知機能検査」を受けてきた。75歳の時に初めて受け、今回は二度目。16個の絵を憶えて、数字をいじる作業をしたのちにどれだけ覚えているか書きだす。前回は12個しか思い出せず、ヒントをもらって16個全部を思い出すというボケぶり。今回は、それぞれ1個ずつボケがすすみ、11個と15個であった。なるほど、3年で1個。これが早いのか、遅いのかはわからない。いずれにせよ、運転免許には支障がないと「通知書」をもらいはしたが、わが身の壊れ行く度合いが見えてきて、ちょっと身が引き締まる思いがした。
 前回と違うのは、運転実技試験と認知機能検査が切り離されたこと。前回は両方が一緒であった。認知機能検査を受けたのちにすぐ実技検査を受けられるように、自動車学校に私が申し込み、受診日時を受け取って、足を運んだ。今回は、隣の市の警察署。裡から7kmほどある。車では来るなというし、電車に乗るのはちょっと心配であったから、自転車で行くことにした。古い町とあって、道は入り組んでいてわかりにくい。2日前に一度自転車で行ってルートを確かめた。にもかかわらず、今朝も道を間違え、ちょっと通り越して、埼京線の方まで行ってしまった。おや、これはヘンだと気づいて、おおよその方角へ修正してすすみ、途中で人に聞いた。40年配の男の方は、親切にもスマホを出してくるくるとスマホの向きを変えて地図を読み取り、次の信号を左折、セブンイレブンのところを右折、その先の右の方にあると、警察署の場所を教えてくれた。私が、自分のスマホでそれをやればいいのであろうが、長年のデジタル育ち。「ありがとう」とお礼を言って、辿りついた。
 集合時刻には30分も早いよと思っていたが、警察署の入口にはすでに担当者が立ち、案内葉書を提示させ、名簿と照らして通過の番号札を首にかけさせ、中へ招じ入れる。手を消毒し、熱を測る。すでに5人ほどがお喋りしながら、待機している。そういうこともあろうかと、待合室の外の椅子に腰かけて、本を取り出して読む。12人が予定されていたのであろうか。うち二人は欠席。指定された座席で、筆記具と水だけを置いて、時計は仕舞うよう注意を受け、定刻まで待つ。職員は二人。問題の説明や回答の指示をするのが一人、もう一人用紙の配布や回収を手伝うのが一人。
 定刻少し過ぎてから「検査」開始。青色の「(問題)カード」と片面だけに印刷された「(回答)用紙」を受取る。どちらも指示に従って、開ける。
 まず、氏名と生年月日を記入する。
 年月日、曜日、現在の推定時刻を記入する。
 次に、4つの絵を描いた大きなカードを4枚、「覚えてください」と言って一枚ずつ見せる。
 大砲、オルガン、耳、ラジオ、テントウ虫、オートバイ、タケノコ、フライパン、ものさし、ライオン、ペンチ、ベッド、バラ、ブドウ、う~んあと二つ、***、***を忘れてしまった(検査を受けてから8時間以上経つ)。
 そのあと、ランダムに書かれた数字を、指示したものを消していく作業を、三回行う。2個消し、2個消し、3個消す。
 そうしておいて、先ほど覚えた16個を全部書き出す。
 それが終わってから、今度はヒントをみながら書きだす。
 最後に、白紙に時計の数字を入れたのを描き、8時20分に針を描きたす。

 以上であった。どういう配点をしているのか知らないが、点数をつけた「結果通知書」をもらい、これをもって免許証の更新手続きに入る。それも、免許更新日の40日前ころ公安委員会から「案内通知」が来るという。何処其処で、講習を受け、実技講習を受けなさいというのだそうだ。これも3年前と違うから、その都合に合わせなければならない。遠方だといやだなあと思うが、どれだけの人数をどういうふうに更新処理しているかわからないから、文句のつけようもない。
 思えば、ボケの管理までやってくれるというわけだ。社会全体の安全確保のためを思えば、年寄りをそのように扱うのも致し方ないかもしれない。私自身の個人管理としては、3年にひとつボケがすすむとすると、あと何年免許更新が面倒なくできるだろうかと、気にしている。それとも、次の3年の間に、自動運転車が完成域に近づいて、「自動運転車限定」という限定免許が発行されるかもしれないのなら、私のボケ進行の気遣いは無用となる。さあ、どちらが早いか。


イワン・デニーソヴィッチの一日

2020-08-30 13:33:21 | 日記

 朝から冊子の編集をした。「ささらほうさら無冠」第49号。月刊で4年前から出してきたが、今年の3月からコロナウィルスのせいで、「ささらほうさら」の会合が行われない。3カ月休刊した。6月に再開したがすぐに第二波と思われる事態になって、ふたたび休止。7月からは会合があるかどうかにかかわりなく、編集して送っている。その8月号をつくったわけ。
 A4判で16ページ。1ページに400字詰め原稿用紙が5枚入るから、約80枚の小冊子だ。おおよそ今月に書いたものばかりのエッセイを12本。スタイルが決まっているから、もとの原稿を推敲しながら、分量を余白に合わせて調整し、二段組みにして収める。
 そうしてご近所のスーパーへ行ってコピーを取り、折り込んで冊子にする。土曜日とあってスーパーの人出は多い。でもコピー機を使う人は多くはないから、すぐに片づけることができた。マスクをしたまま。誰とも口を利かない。
 それを折りたたんで封筒に入れ、宛先を書きこんで、切手を貼る。消費税が8%から10%になったせいで、1円、2円と送料が上がり、古い切手に加えて、べたべたと貼るのが面倒くさい。今日は日曜日とあって郵便局はお休み。買い置きの端数切手があったのと、16ページの冊子の重さが40gもあって、それだけで送料は10円高くなる。94円。いろいろ取り混ぜて貼り合わせるのも、面白い。
 出来上がりをご近所の四つ角にあるコンビニ前のポストへ放り込みに行く。
 と、ちょうどポストのところへ回収車が来ている。間に合うかな。四つ角の信号の直進が、今ちょうど変わるところで、点滅している。ちょっと急ぎ足で渡りきると、ポストの方へ向かう信号が青に変わる。急ぎ足のままポストのところに行く。郵便車はすでにポストの袋をとりかえて出発するところであった。
 手に持った封書を上にあげる私の姿をみて、郵便車が動きを止める。運転者が窓を開け、腕を差し出し、「ありがとう」と手渡す。「いいですよ」と行って受け取った。
 やあ、よかった。なんだか今日は、運否天賦がいいや。
 まるでイワン・デニーソヴィッチの一日みたいだ。

 もう中身は忘れてしまったが、もう半世紀以上まで、当時のソビエトの強制収容所(ラーゲリ)の暮らしの切片を描いた小説であった。もちろん私はいま、自分が強制収容所に身を置いているとは思ってもいないが、ひょっとしたら、監視カメラや認証装置や社会規範に取り囲まれて、私も一個のイワン・デニーソヴィッチなのかもしれないと、思うでもなくイメージしている。人は皆、生まれ落ちた社会で、イワン・デニーソヴィッチとして成長し、自らの内面に規範の檻を育て、後にそれに苦しむ。その檻が自分の意思で設けられたものだと気づくことによって、さらに苦しむこともある。
 何処からどこをみて、どう生きようとするかによって、苦しみが増すこともあれば、苦しみを知らないで過ごすこともできる。どちらが価値が高いとか低いとかいう話ではない。
 そうしてその切片を切りとってみれば、16ページを埋めるだけの原稿があったこと、印刷機がへそを曲げずに作動したこと、スーパーのコピー機が混んでいなかったこと、端数の切手が買いおいてあったこと、何より郵便局の回収車が待って受け取ってくれたこと、いやそれより駆けつけるわが脚の前の信号機がちょうどうまく点滅し、すぐに変わって四つ角を渡ることができたこと。ああ、俺って、運良く生まれついているんだと、幸運に感謝していること。人生って、そんなものかもしれない。


「悪」は常に外――経験を生かせない壁

2020-08-29 07:37:12 | 日記

 昨日(8/28)は午後ストレッチがあり、そのあと夕方から定例の飲み会。コロナ禍時代の「飲み会」は、どこかのキャンプ場でやろうじゃないかと一人が言い、奥日光の光徳キャンプ場がいいと提案し、いやあそこはいま、やっていないよと私が友人から聞いた話をすると、ならば湯元でもいいじゃないかと言い募り、しかしそのためにテントを手に入れ、寝袋を買うってのは、ないだろうと口を挟むと、そういえば湯元キャンプ場の傍には休暇村湯元があるよ、そこに泊まればいいじゃないと、誰かが追加した。皆、誰からも宛にされない身だから、勝手なことをいってワイワイと気炎を上げた。そういう気炎が、でも、そのまんま実行に移されるから年寄りの戯言は、あなどれない。
 
 今朝起きて新聞をみると、「安倍首相 辞任表明」と大見出し。へえそうかい。逃げ切ったねと思った。記事に目を通すと、逃げ切ったと思った記者もいたようで、最後の方で、こんなふうに書いていた。

《……首相自身や昭恵氏の関与が追求された森友・加計学園問題や「桜を見る会」などの問題が相次ぎ、「権力の私物化」と指摘されたことについて、首相は「私物化したことはない。国家国民のために全力を尽くしてきたつもりだ」と反論した。》

 ふ~ん、そうなんだ。この人は、心底、そういうふうにしか考えられない人なんだと、感じる。
 ところが、意図したわけではあるまいが、その脇に置かれたコラムが、こんな言葉からはじまっていた。

《「悪」はつねに外部にあるなら、経験は何度繰り返しても経験にならない――山本夏彦》

 そうしてこの言葉の引用者、鷲田清一はこう続ける。

《エッセー集「毒言独語」(1971年刊)から。当時の世相について、コラムニストは「非は常にことごとく他人にあって、みじんも自分にないと、このごろ相場は決まったようだ」と呆れる。罪を犯しても「こんな私に誰がした」と嘯くと。痛い経験を生かすには過程全体の検証が必要なのに、人はついそこから自分を外してしまう。だからいつになっても同じ過ちをくり返す。》

 山本夏彦がこのエッセーを出版した1971年といえば、安倍晋三は17歳。当時の世相をどう吸収したかは知らないが、お坊ちゃん育ちと見える彼の言動をみていると、「非は常にことごとく他人にあって、みじんも自分にないと、このごろ相場は決まったようだ」と思うことばかりであった。政治家だから表と裏があって、言動にもその鬩ぎあいが現れてくるというのは、裏と表の齟齬を「経験」してきた人物の体現すること。安倍晋三という人は、「こんな私に誰がした」と嘯くことさえしない。コトが身の裡に回帰しない。つねに非は外部にある(とさえ考えていない)から、身の裡を通過することさえしないのだ。トランプさん同様、自分の思ったことを口にする。それがどんなに現実と食い違っていても、(どうしてそれが自分のせいなの?)と不思議に思うばかり。それを私は、「お坊ちゃん育ち」と受け止めていた。だが、そういうふうに考えると、安倍晋三という人ばかりでなく、その時代に育った人たちの共有する社会的エートス(気風)なのかもしれない。
 
 そこへ権力的立場とそれに拝跪する権威主義が加わると、森友や加計学園のようなことが、あるいはそれを隠蔽するために役所の総力を挙げて文書の書き換えをし、しかも口を拭う。隠蔽の貢献者は「出世」をすることで、ますます口をつぐむという構図が出来上がる。そのモンダイの径庭をつぶさに感じているはずなのだが、安倍晋三さんの身の裡にはほんの少しも沁みこまない。「全身全霊を傾けて国家国民のために尽くしたつもり」という、何枚舌があっても恥ずかしくて口にできないことをしゃあしゃあと言えるのは、「非は外部にあり」という基本スタンスが揺るがないからだ。
 
 この新聞記事が絶妙の皮肉な配置をしていたと編集デスクをほめるべきかというと、私はそうは思わない。鷲田清一のコメントをもう少しわが身に引きつけて言い換えると、安倍晋三首相の何年かの在任を「痛い経験」として「生かしていく」ことが要請されているのは、私たち国民であり、日本の政治であり、社会の仕組みなのではないか。つまり安倍晋三さんに「経験を生かせ」と力説しても、もはやそれは意味を持たない。安倍首相の辞任表明を私は「逃げ切った」といった。これ自体が、やめた人を鞭打って辱めるようなことは、やってはいけない。キレイに水に流そうという、古来の知恵が、「経験を活かす」ことを阻んでいる。
 たとえ安倍晋三さんがやめたとしても、森友や加計学園や文書偽造のお役所仕事にケリをつけてはならない。それには、森友や加計学園や文書偽造のモンダイをわが身を通して感知しないといけない。そのうえで、どうしたらそうした事態をくり返さないでやって行けるかと考えてこそ、「経験を活かす」ことができるのだと思う。
 メディアも、これまでのように他人の言葉を借り、自分の都合のいいようにパッチワークをして報道したり、詰問したりするのではなく、わが身を通して、そのモンダイを咀嚼し、わが非として抉り出していくことをしてもらいたいと願う。


散らかる―片づく―片づかない

2020-08-28 14:40:53 | 日記

 山から帰り、山行記録をまとめる。それに写真をつけて、山の会の人たちに送信する。参加した人からの反応や、次のに参加しようとする人からのメールのやりとりが、少しつづく。
 今月初旬に新潟県の巻機山へ行った時に落としたカメラを拾ってくれた方から電話が入っていた。私が瑞牆山へ行っていることをきき、「御礼についてお気遣い無く」とカミサンに伝えてくれた。そうか、ならば、心ばかりのものを贈ろうと地元の和菓子屋に行き、送る手配をする。と同時に、粗品を送りましたと、手紙を書いて投函した。ひとつ片づいた。
 その翌日、拾ってくれた方から電話が入り、「御礼拝領」の言葉と合わせて、彼がカメラを拾った場所や状態、そのルートが崩落して途中で分からなくなっていたこと、彼自身が、至仏山、上州武尊山、巻機山とワンボックスカーに寝泊まりしながら経めぐっていたこと、その後天気が崩れて八海山と苗場山に行けなかったことを話す。話し好きな方のようだ。72歳というから、私の弟と同じ年。団塊の世代のハシリの人だね。元気なものだ。
 
 鹿児島に住む従兄弟から「残暑お見舞い」のハガキが来る。上半分に夜空の写真。「7月21日にやっと撮影できたネオワイズ彗星です」とコメントが添えてある。長く大坂に暮らし、両親の死後、今度は奥さんの親御さんの面倒を見るため鹿児島に移り、そのまま住み着いてしまった。高千穂という長年私も行きたいと願っていた場所なのだが、機会を失している処。百名山でいえば、九州の開聞岳、霧島山、祖母山にまだ上っていないから、いつかは行きたいと仕事をしているときは思っていた。リタイアしてから18年目に入っているのだから、いくらでも行く機会はあったろうに、あれもこれも、あれやこれやをやっているうちに、いつしか遠景に霞んでしまっていた。散乱というか、散らかり放題の私の頭の中みたいだ。
「残暑見舞いへの御礼」をはがきに書き、上半分にみずがきしぜん公園キャンプ場での一枚をモノクロームにして配置し、年賀状以来のお便りを書いた。それだけで私も、ネオワイズ彗星を観たような気分になった。
 
 このところの私の関心が、散らかり放題だ。いや、このところというよりも、昔からそうであった。なにかまとまるときは、そういった機会がどこかからやってくるように降りてくる。ひょっとした気分で取りかかったものが、ちょうど折よく喜寿であったとか、孫の20歳の誕生日を迎える間近であったとか、母親の一周忌であったといったふうに、片づく機会をうかがっていたようにケリがついた。何ごともケセラセラ、なるようになる。為せば成るというのは、取りかかりはじめてからふと、それを為しているということに気づたことを、やめないから言えること。成行まかせで、自分の意思というものが海に浮かぶ木っ端のようにふらりふらりぷかりぷかりと頼りなく、漂うばかりなのだ。
 
 6月から取り組んでいる「山の会8周年の記録」も、すでに原稿は出来上がっているのに、自分でデザインして割り付けして、印刷と製本だけを出版社に頼もうと、ふと思ったのが運の尽き、いいですよと応諾してくれた出版社から、それ以降何の「要請」もないことをいいことに、6年までデザインして、放り出したまんまだ。これは、散乱である。コロナウィルス禍のせいで、それまで定例的に行われてきた山の会の山行が、参加したい人たちの思い付きをまとめたようになって、いわばゲリラ的に行われている。一つひとつは片づくのだが、山の会としては、もうすっかり無秩序化している。それを面白いと思い、散らかり放題なのも、一向に悪いと思わないから、始末に負えない。
 リタイア後の気ままな暮らしってのは、そんなものなのかもしれない。


独裁制を望む「核心的感情」

2020-08-27 08:25:03 | 日記

  2020/8/23に「なぜホンネをさらけ出すのはみっともないのか」を取り上げた。「みっともない」と感じるのは古い道徳規範から来る感覚、今の時代はホンネをさらすのがニンゲンらしいのか、と時代相の変化をみる思いであった。
 イアン・カーショーの『ヒトラー(上)傲慢1889-1936』(白水社、2016年)を読んでいて、平凡なヒトラーが大舞台に担ぎ上げられいく経緯が、本人の言葉と周りの彼を評価する声とで、徐々にかたちを取りながら募っていくのが、手に取るように描かれている。

《私は、大勢の聴衆の前で話をしてみないかと言われた。分かっていたわけではなく、感覚的にはそうではないかと常々思っていたことが、今、確証された。私は、「弁」がたったのだ。――ヒトラー》
《ヒトラー氏は生まれながらの大衆演説家なのだと思う。集会では、その熱情と人を惹きつける語り口のために聴衆は氏に注目し、その意見には同意せずにはいられなくなってしまうのだ。――ある兵士》
《何ということだ。一端のしゃべりだ。彼は使える。――ドイツ労働党指導者》

 まさに人は「人閒」である。ヒトラー自身がユダヤ人に対する憎悪を持つに至るのも、挫折と転落と彼の周囲にあった人と言説とが、「弁」が立つという才能の発見とともに、文字通り彼の内心において核心に近い感情をかたちづくっていく。他人を真似て始まったユダヤ人への憎悪が彼の「せかい」を一挙に集約する役割を果たしたと、後追い的にいえば言える。これは、わが胸に手を当てて考えてみると、同じように思い当たることはいろいろとあった。

 上記引用の「ある兵士」のことばが、ライブのもっている「ちから」をよく表している。「演説に惹きつけられる」のも、「その意見に同意せずにはいられなくなる」のも、聴き手の側にそうしないではいられない「核心的感情」が底流しているからだ。
 そこに目をつけると、ホンネをさらすのが「ニンゲンらしい」と受け止める「核心的感情」にこそ、注目することが必要だ。そうしてなぜ、そうした「核心的感情」が鬱屈しているのか考察して、社会関係や時代の変容が齎している「状況」をとらえることが欠かせないと、トランプの振る舞いをみていて思う。
 
 そうやって考えてみると、果たして「民主主義と自由」がどれほど私たちの「核心的感情」に寄与しているかどうかも、踏み込んで評価しなければならなくなる。むろんこの点で、日本の私たちとアメリカの大衆との間の懸隔も、自律の志も俎上に上げねばならない。さらには、香港の人々の間、あるいは香港と中国本土の人たちとの間の「核心的感情」の懸隔も、とりあげてみなければならない。台湾がそのモデルを提供してもいる。「核心的感情」がもっぱら暮らしの立ちゆきに土台を置いていることも分かる。
 そうして思うのだが、中国政府の独裁的専横を「やむを得ない」と受け容れるのも、13億のひとびとを統治することを前提とすると、あながち否定できない。それは必ずしも、香港の暴力的制圧や、ウィグル族への暴虐をともなう支配を容認するものではないが、だとすると、「統治の視線」ではなく、「自治の視線」を組み込まなければならないのではないか。「自治の視線」を組み込むには、巨大なナショナリティは、持て余してしまう。
 現代の実際の統治は、その両者の視線を組み込んだうえで、バランスをとりながら繰り出されている。だからそのとき、トランプ支持集会の演説に熱狂し、文字通り娯楽のように楽しみ、憂さを晴らすことも、「その意見に同意しないではいられない」回路がいつ知れず流し込まれていくのも、人の性(さが)の為せるワザである。ニンゲンらしいと「惹きつけられる」「核心的感情」が、ホンネを表舞台に迫り上げ、タテマエを誤魔化しとして排斥する流路をつくっている。
 
 独裁的というと、いつもヒトラーをモデルとして考察される。独裁的権限の根拠とか、民衆操作の巧みさを取り上げるが、じつは、「核心的感情」を解放するために、科学も知的理念も近代的社会構成をも排除して、反対し、否定し、排斥しているうちに、あるとき最高権力にいきついてユダヤ人排斥が核となって結晶化が進む。トランプは「#ミー・ファースト」を主軸に据えて、敵をつくりそれを制圧し排除し、宥めたり賺したり脅したり、手持ちのカードを切りながら相手と交渉する。トランプはヒトラーの「弁」同様、「取り引きdealing」の才能に「つねづねそう思っていたこと」に確信を持ち、ほぼそれで人生を送ってきた。ホンネこそが真実という「核心的感情」が芽生え根づいた。そこには、自らが信じること以外はフェイクとして排除し、反対者は敵とみなし、自分好みの人たちに取り囲まれることによって「才能の確信」を再生産してきたのであった。彼に必要なのは、自身の自由であるが、同時に、独裁的権能である。だから習近平と較べてトランプが専制的でないというパーソナルな資質は、ない。近代政治の「民主制」システムが、独裁へ向かう習近平との違いを生み出しているだけである。
 トランプを支持するアメリカの大衆と、習近平の専制を良しとする中国大陸や香港の若干の人々と、そう大した違いがあるわけではない。そう思って観ていると、日本もけっこう危うい時代に向かいつつあるのではないかと、不作為の政府をみて思う。まだ日本は、高度消費社会の余韻を食いつぶしているから露骨化していないが、暮らしそのものが行き立たなくなると一挙に独裁的権力を期待する声が高まる惧れがある。どうしたら、民主と自由の価値を「核心的感情」に組み込むことができるのか。そういうふうに私は、考えている。