mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

「ささらほうさら」の源流(6)顕現する世界

2023-04-30 09:00:18 | 日記
 ワタシを通じてセカイが現れていると感じるのが「ブンガク」だと私は思っている。いうまでもなく読む側のブンガクであって、世上一般に謂われる文学とは違うかどうかはワカラナイ。4月のささらほうさらの会で講師を務めた作家・鈴木正興が、その作品『〈戯作〉郁之亮江戸遊学始末録』に添付した《自称「小説」謹呈の御挨拶》で本作品以上に興味深い台詞を吐き記している。
《……さて、その後期高齢者界に入域したての頃、小生、これは何をどう血迷ったのか、己が卑小な分際や能力も弁えず、生涯にたった一度でもいい「小説」というものを書いてみたいと、まあいずれとんでもないことを思い立ったのであります。若い頃からごくごく狭い交流範囲内でいづれ拙い雑文、駄文の類いを結構書いてきた経験はあるのですが、何を今更耄碌し掛かっているこの期に及んで「小説」だなんて一体どういう風の吹き回しなのでせう。「おい、オメエ、小説ってのはなあ、今までのどうでもいいような雑文と違って創作の分野に入る歴としたゲージュツなんだぞ」と自分で自分の血迷いを思いとどまらせようとしたのですが、「なにおー、ゲージュツでねえ小説があったっていいじゃねえか。なあに、年寄りの冷や水と揶揄されようが構やあしねえさ」といっかな忠告を聞き入れてくれず、結局その抗弁の勢いに気圧された常識派の方の自分が寄り切られ、「勝手にさらせ」と匙を投げてくれた御蔭で内訌は収まり、斯くして自称「小説」の筆を執り始めた次第です。……》
 本作品以上に興味深いポイントを拾うと、こんなところが浮かび上がる。
(1)上記引用には(この作品に籠められた)この作家の全生涯が現れている。
(2)この後段の自問自答は、人がどのように物事の顚末をワタシの「自然(じねん)」にしようとしているか、その端緒が表現されている。
(3)このような径庭を経て読者の前に現れた「小説」は、すでに作家の生涯とは別物となり、それ自体として読者にも作者にも向き合っている。
 この(3)を「後始末記」として話したのが、今回のささらほうさらの会であった。
 まず(2)から解説する。
 私たちヒトがどういう風に物事を腑に落として納得しているか。実は作家自身は「なぜ小説を書くのか」を腑に落とす必要はない。(1)のような内発性が腑の裡から湧き出てくるのだから、(2)はまったく読者へのサービスである。読者は小説をどう読むか。これは作家が口を出す領域ではない。どう読まれようが、作品はそれ自体が社会的な他者であり、読まれずに神棚に飾ってあったって枕代わりの積ん読になっていても作品は作品である。だからその作品の出来に驚いて、
《さて質より量のこの大冊は……態々計測してくれた所によると厚さ、1.1×10ミリメートル、重さは6.5×10²グラムもあり、中味は寝っ転がって読むに相応しいお気軽なものなのに余りに厚いは重すぎるはでとてもじゃない寝っ転がっては腕が三分と持たないとの由》(「始末録」p1)
 と厚さ重さを量って驚きと歓びを表す人も現れる。この作家は、さらにそれを上回り、
《因みに偏執的なまでの統計数字の好きな私ゆえこの冊子に収容された蟻の如き文字の全長を計算したところ約2200メートルと出た。JR川口駅から南行車両に乗ると荒川、新河岸川両鉄橋を渡って東京都北区域に至る距離だ。またこれを水平方向でなく垂直方向で高さとして考えると雲取山の頂を下に見ることになる》
 と「小説」にびっしりと埋め込まれた文字列の距離の壮大さを計って戯(おど)けてみせる。このジョークもまた、この作家の身を挺した一面を反映しているのだが、それはまた後に記すことにする。
 ではなぜ読者は「どのように物事の顚末をワタシの「自然(じねん)」にしようと」するのだろうか。抑も「ワタシの自然(じねん)」というのは、何か?
 人が何かを納得する内的な経路には、そりゃあそうだよなあという共感というか心に響くものがなくてはならない。必ずしも同感というのではない。そうだよ人ってそういう異質なものへの関心がどこかに潜在しているんだよねと響くものがないと、まるで他人事になってしまう。人の納得の経路は単線ではない。複数の、相反する動きも人の胸中には組み込まれている。それは経験であったり、どこかで触れた知識であったり、何時知らず身に備わって身の裡に潜在しているコトゴトであったりする。小説を読むとその一つひとつが表現を通じて取り出されてくる。その感触が、自分の発見であったりするのが、面白い。むろん「発見」というのは言葉で意識することとは限らない。ワクワクするのも、ハハハと笑うのも、ヘエと感じるのも自分の発見である。こういうことがなくては、読む甲斐がない。
 いやこのワタシの「自然(じねん)」は、小説を読むことに限定した話ではない。人が世の中と接してそこに生起するモノゴトに関心を傾けるのは、ことごとくそのデキゴトにジブンが映し出されるといっても良いほど、ワタシと世界は深く関わり、緊密に相互の関係を紡いでいる。ワタシはセカイの現れなのだ。それが人の心裡と環境や情報との結びつきである。もしこれがなければ、その世界は単なる素知らぬ外部となりワタシにその存在すら感知されない。感知されると、見知らぬ世界となったりジブンにはワカラナイ世界となり、そのようなこととして身の裡に潜在するようになる。世にあふれる情報や専門知は、それを伝える「権威」に介在されて人の裡側に入り込み、さまざまなことが相乗していつしか人の無意識に定着する。それが「自然(しぜん)」である。それは、したがって、人の数だけ「しぜん」があることを意味する。私からすると、私のワタシ以外の他者のワタシが無数に(というか世界には80億人の数だけ)存在するわけだ。
 ところが読書というのは、意識的に私が触れる他者のワタシである。本を読むとき、最初の50ページくらいが一番力が要る。この本が何をなぜどう扱っているのか、まるで見知らぬ人とであって、その人とワタシとの接点を探るのに、思いが総動員されるからだ。ようやくその接点が感じられる頃、読者はその作品の世界にすっかり惹き込まれ夢中になっているか、イヤこれは読んでもしょうがないと見切りをつけるかしているというわけだ。もちろん小説に限らない。映画でもドラマでも、最初の部分で(制作者側から謂うが)接点をつくらなければ視聴者に見放されてしまうから、関心を惹き寄せるためのいろいろな仕掛けを講じる。それと同じだ。ここにワタシの「自然(じねん)」が介在している。
 作家・鈴木正興は「ごくごく狭い交流範囲内」の読者に向けて、手書きの《自称「小説」謹呈の御挨拶》を「まえがき」か「あとがき」かの代わりに添えたのは、作家としてのデビューを、ワタシの「自然(じねん)」と受けとってよという「近況報告」でもありました。そう受けとらないと、なんだよ「あとがき」を書くなんて、村上春樹と同じじゃんと(2年も村上に先んじているのに)思われてしまうことへの恥ずかしさ出合ったかと思うほどだ。作品は出来上がって読者の手に渡ったときには、作家とは別の人格を持つものだからですね。
 それを知っているから、作家・鈴木正興は「後始末記」で、読者から寄せられた「感想」などを記したを紹介しながら、その最末尾に《感想文の番外篇としてもしこの作品が誰か別の人が書いたものだとして私がその読者だとしたらどんな感想を持っただろうと考えるのも悪くはないのでそうしてみる》と前置きして、こう記す。
《私の場合はこいつはいけてるとばかりその日から数日間読み耽って早々に完読しちゃってると思う。なぜならこの小説、自分の書き方の流儀にぴったりだし、殊にはドレミファソラゴトの音感が私の身体的波長に符合しているからだ。早々の完読後こんなふううなものだったら儂にも書けるかもしんねえ、死ぬまでの執行猶予期間中に何とか書いてみてえもんだと寝不足気味の目をしょぼつかせながら独言(ひとりごつ)したものである》
 まだ子離れできない親のような風情が漂う。ひょっとするとこれは、わが子はわが人生畢生の作品と言いたい、この作家の無意識の心持ちが籠もっているのかもしれない。「生涯に一篇の小説を書いてみたい」という思いを成し遂げた全力投入の精華というに相応しい、慈しみ方である。いいなあこういう親父、と私は羨ましくも思う。いま私はこうして文章を書いているが、産みの苦しみを感じつつ絞り出すように作品を創り出したことがないからだ。しかもこの作家・鈴木正興は、この作品を「近代小説」のように読み取ろうとする私のワタシのクセを拒絶して《自称「小説」謹呈の御挨拶》で次のように謂う。
《「小説」と言うと、例えばこの世の不条理、社会の裏面、人間固有の宿痾、生と死の相剋、愛憎の悲喜劇、人生とは世界とは翻って己自身とは等々の抜き差しならぬ問題意識を内在させた仮構空間に違いなく、今そこにある現実の事象と人間の在り様を交叉させながら「ストーリー」として紡ぎ上げるものなのでせうけど、それはあくまで「近代小説」です。ゲージュツとしての「小説」です。考えてもみて下さい。そんな畏れ多いもの小生に書けるはずありません。能力的にも、また嗜好の面から。小生謂う所の「小説」はそうした近代的なものとは無縁の、まあいづれ自分の思い付きに任せて気儘に書き綴った単純読物と称すべく、世に問うもの、人に訴えるものはこれっぽっちもありません。自分は却ってその無近代的な所が取り柄とさえ思っています。》
 そうなのです。この作家は、作品の実在そのものが総体として「近代批判」だと位置づけています。イヤそう言うと、批判対象が狭くなる。「近代」とか「前近代」という「近代」を前提にした遣り取りではなく、それを超越した(その論議枠を取っ払った)「無近代」に位置づけて、「生涯畢生」の、つまり彼の全生涯を掛けたアクションとして突き出している。それを「近代批判」と読み取るのは、「近代」にどっぷり浸かっている自己意識の読者・ワタシの所業なのですね。
 そう考えてみると、作家・鈴木正興はその存在そのものが私にとっては、全身ワタシ批判と読み取れる。付き合い始めてもう16年になる。若い頃の、何処へ向かうかワカラナイ時期のことを思い起こしながら、長くも面白くも刺激的であったなあと振り返る。それが『〈戯作〉郁之亮江戸遊学始末録』を読んでいると、ふつふつと湧き起こってくる。江戸と場を映しているが、まさしくこれは「正興生涯遊學実録」というに相応しい場面に満ち満ちている。人は生涯に一冊は小説が書けると、どなたであったか言っていたが、なることならワタシも書いてみたいと、思ったりするのである。


賑わいが煩わしい

2023-04-29 10:44:05 | 日記
 今日からゴールデンウィーク。まだ現役の勤め人はこういうときしか休めないから、長旅を計画し混雑の中に身を置いて移動する。えっ待てよ、私もそうしたっけか?
 二度ほど計画したことがあったことを思い出す。一度は屋久島へ行こうと計画し、飛行機の切符もとった。カミサンが日本百名山制覇をやっていた頃だったので私も付き合おうとしたのだったが、飛行機に搭乗するのに新幹線に乗るような気持ちで言ったものだから、まだ20分も前だというのに、乗れなかったことがあった。3泊4日くらいの山登りの荷物を背負ってとぼとぼと家へ帰ってきたことを覚えている。
 また一度は、勤務して三十年に一度3日間の休みが取れるというのを連休につなげて東南アジアの最高峰・キナバル山に行ったことがあった。これも、すでに台湾の山を歩いていたカミサンの発案で旅行社の企画に乗ったつもりだった。私にとっては初めての外国旅行。ところが、参加者が4人しかいない。でもそのうちの一人、アラサーの女性が旅慣れているて、現地ガイドとのすべての交渉と乗り換えなどの世話をしてくれると事前の打ち合わせに行ったカミサンが安心した様子であった。マレーシアのクアラルンプールで乗り換えてボルネオ島に渡る。そこで現地ガイドと合流し、キナバル山に上ったあとオランウータンの森とウミガメの産卵を見る観光つきであった。標高4千メートルを超えるキナバル山は面白かった。高度障害にもならず溶岩ばかりの斜面を上る達成感は、後に海外の山へ向かう跳躍台になった。それ以上に印象深く記憶に残っているのは、案内役・アラサーの女性の母親が亡くなったと現地ガイドへ連絡が入っていたことだ。じつは山へ入る直前の山小屋で知らせを受けとった現地ガイドは下山後に彼女に知らせることにしてキナバルへ登った。下山後にそれを知った彼女はすぐに特別手配した便で帰ってしまった。その後の観光と帰国は、私のお役目になった。オランウータンもウミガメも興味深かったがそれ以上に帰国までの乗り換えや手続きなどすべてが初めてのことだったから、あれこれ訊ねながらの緊張した行程が思い出される。
 たぶんそれ以外のゴールデンウィークは、子どもを連れて近場の山へ行ったくらいの日帰りの旅。混雑を承知で飛び込むことはしてこなかった。退職後もこの連休期間は現役の勤め人に場を譲るような気分で、家にいて過ごしている。
 ひとつ気づいたことがある。先日バスツアーの日帰りに行ったときのことは記したが、そのときのこと。あしかがフラワーパークの散策の折、できるだけ人混みを避けて歩いたこと。振り返って考えてみると、ワタシはヒトの群れる中に身を置くことが嫌いなのだ。観光旅行へ行きたいと思わないのは、人混みがイヤなのではないか。ヒトと群れるというのがキライなのではないか。どうしてと問われると返答に困る。ご近所の散策というと、ついつい見沼田圃に足が向く。町歩きと行っても、人気の少ない住宅街の、それも樹木が植わっている森の気配が漂う場所を選ぶようにして歩く。あるいは山へ向かう。山があるからと言うよりはヒトがいないからそちらへ足が向くのではないかとワタシのクセに気づいたのだ。
 ヒトと語り合うのがキライというのではない。夜分トイレにいって戻ってみたら自分の寝る場所がなくなっていたというような山小屋で一夜を過ごすのは勘弁して貰いたいが、ほどよい数の登山者がともに過ごすのはイヤだと感じない。この感触は何だろう。
 男ばかり五人兄弟と狭い家の中で育ったことが身の体感をつくったと思うから、群れていることに忌避感はない。だがそれが、同じような熱狂を共にしているような場であると、できるだけ遠ざかっていたいと思う。映画や演劇は席は共にしているが、抱く感懐はまったくそれぞれのものだから気にならない。だがスポーツ観戦はご勘弁の方に入る。
 この対比が教えていることは、ワタシは他のヒトと興趣を共にするというのがイヤなのかもしれない。たくさんの兄弟の中にいると、序列は自ずから生まれる。言うまでもなく年の順が一番に身につき、兄の振る舞いを真似して弟が背伸びするということも、よくある話だ。兄弟それぞれの振る舞いが受ける周りの大人たちの賞賛も、序列に加わるか。つまり似たようなことなのに同じではないという振る舞いの美意識、価値意識が身に刻まれる。少し大きくなると、なぜか、周りの評価に反発したくなる。それも身の習いになる。
 それが一人のワタシだけではなく、多数の人々のワタシに、その置かれた「関係」の中に於いてそれぞれに刻まれ、身の習いとして無意識に沈んでいく。それはいずれ、ワタシって誰? ワタシって何? と自己を問う時節を迎え一人前になっていく。
 ワタシの固有性が際立つような振る舞い、技、際立つ感性・感覚・思索・言葉。状況把握や理屈、レトリックが語り口を通して、評価を受ける。それぞれに実は社会的な力関係が埋め込まれていて、それを感知しながら「かんけい」を紡ぐのが「空気を読む」ということになる。
 それが多くの人々の共有する「かんけい」となると、何時、何処から、誰がどのように見ているかによってその時、その場の固有性である語り(ナラティヴ)が、情況の連続性と時の流れを組み込みこんで物語り(シトーリー)となり、もっと長いスパンで組み立てて歴史(ヒストリー)になると、もはやヒトの固有性というよりは社会や時代の共有する規模の壮大さに気風や風潮、世界観と呼ばれるものとなる。
 また、そうした人類史的な歩みを、神の目で見るようにして鳥瞰した世界観や価値意識が、学校教育やTV家新聞・書籍などのメディアを通じて本人の意識することなく刷り込まれ、ヒトがジブンに気づいたときにはすでに身の裡深くに沈んで無意識になっている。だから実は、イイとかワルイとかいうことではないのだ。ジブンに世界が現象している。
 私を無化していえば、ワタシを借りてセカイが現れている。ワタシからいえば私がセカイだと。イイとかワルイというませに、ワタシが事実だということである。こう考えるところに「我思う故に我あり」を位置づけると、なるほどと腑に落ちる。
 そんなところから、賑わいがキライというワタシをみつめると、ヒトそれぞれのワタシを無化するようにして世界に熱狂することを忌避しているのかもしれないと感じる。他のヒトにも、ワタシの来歴に目をやって、人類史を背負ったヒトとしてのジブンを起ち上げなさいよと呼びかけたい気持ちになる。
 その反面で、そんな理屈はないよとワタシの内心が呟く。ヒトとしてのジブンを意識するというのは、ヒトをそのように限定することだ。ただ、いま、ここに存在するジブンをヒトとして承知することが、現実存在としてのワタシ=ヒトを受け容れることだ。意識することは、意識したストーリーやヒストリーにジブンを限定して世界を狭くしてしまう。消費的であると謂われようと謂われまいと、そのように振る舞うジブンが、人類史そのもののもたらしたヒトの姿だと訴えている。
 容易に一つの物語りに収めきれない。逆に収めようとする私のヘキを発見する。この問いは、堂々巡りになるが、問い続けなければならない自問自答のように感じている。


「ささらほうさら」の源流(5)ワタシの「自然(じねん)」

2023-04-28 08:53:56 | 日記
 こうして半世紀以上に亘るささらほうさらの源流を総覧していると、ワタシの学生の頃からの関心の傾け方が「浮世離れ」していたことに気づきました。目前に生じているコトゴトから一歩外して、そこに振る舞う人々を眺めているような面持ちです。どうしてそうなったか。上京してきて受けたカルチャーショックで、この人たちと競り合うよりも見てみようという心持ちになったことが大きく作用しているかな。そこへ60年安保の勢いに乗って政治的に活動する人たちの、言葉はむつかしく知的だが理屈に走って宙に浮いた姿が、なんか違うなあと感じられたこと。加えてステップアウトした立ち位置が事態がよく見えると宇野経済学を入口に学んだ方法論的哲学が影響していたかなあ。人の動きを鏡にしてワタシをみる視線は、そのようにしてゆっくりわが身の習いになって行ったように思います。
 二重焦点の空間の中で私は、ささらほうさらの源流グルーピングに於ける自分の立ち位置をマッピングして自ら振る舞うようになっていました。何もかも目の前で起きていることがすべてわが身の反照に思われて、退屈はしませんでした。後に、「突出した癖の強い思想家」の強烈な攻撃を受けたとき何故、このグループを辞めなかったのかと問われたこともありました。そうかそんなふうに彼を(そして私を)みているんだと、その人の受け止め方を鏡にしてワタシを感じている私の次元を意識したことを思い出します。他人事のように眺めていたのかもしれません。岡目八目というか、門前の小僧というか。
 先にも述べましたが、「突出した癖の強い思想家」は本当に率直に自分の印象や感想をすぐに言葉にして発してしまうワルイ癖がありました。自分に正直だったのは確かです。それがしばしば言葉を掛けられた人やその関係の人たちを痛く傷つけるのも目にしました。それで顔を出さなくなった人もいました。この思想家自身が自らの言葉で傷つけたことを何年も悔やんでいたこともありました。十数年以上経って、傷つけた人が重い病で入院したと聞いたとき見舞いに行くという「謝罪」の仕方をしたこともありました。彼は日頃からあれこれと細かく日誌をつけていたようで、それを読み返しては反省することを繰り返していたようです(それと同時に、相変わらず反省もしない自分の心底に似たような振る舞いをするヒトには強烈なパンチを繰り出していましたから、大変だったろうと思います)。つねに世界から押し寄せてくる鏡を前に、そこに映るわが身の無意識と向き合って呻吟していた彼の姿。それにワタシの知らない世界を感じて、私はワタシの卑小さを思っていたのでした。
 また彼に似て癖の強い文芸評論で後に大学教授になった私の親しくしていた人が、この「突出した癖の強い思想家」のことを、「あの人には用心した方がいいよ。底のところで信頼できない人だよ」と私に忠告してくれたこともありました。ああ、どこかで同じ匂いを嗅ぎつけているんだと、私はむしろ、ともどもに私の畏敬する人であったが故に、自分が対極ののほほんとした世界の匂いを持っているんだなあと気づかされたものでした。
 不惑、知命と十年単位でワタシの自己意識を先に記しましたが、仕事現場での関わり方について私が知命の頃に身につけようとしていたのは、本を読んでも映画やドラマを観ても、先ずできるだけそのまんまを受けとることでした。作家や制作者はソレを面白い、意味あることと思ってつくっているでしょうから、その面白い(と思っている)次元が何であるかを探り当て、ソレがワタシの考える次元とどう違うか、その違いは何に由来し、その違いは世の中にどういう効果の違いをもたらすかと思案するように努めました。作家や制作者ばかりでなく、ヒトのさまざまなる舞いをそのようにみていると、わが身の中にソレに似た衝動やその萌芽があることに気づきます。それを梃子にして共感し、何故そうするのだろうと考えていくと、アメリカのトランプにしても、それに強烈に反発する左翼インテリゲンチャにしても、ワタシのセカイに位置づけることができます。もちろんワタシのセカイに組み込めない要素が多々あることはワカリますから、いつもワタシの思案は「とりあえず、こうだ」という限定つきです。ワタシの(生きている)現場ではそうだと次元を限定しておけば、いつでも知らなかったコトを組み込んで再評価し再構成することができます。生きるというのは変わることですから。
 つまり、唯一絶対神的視線からすると、いつまでも揺れ動く、不確定の思案です。でもそれが生きていることだから、致し方がないとジブンをみています。これがワタシの「自然(じねん)」であり、空っぽの本体なんですね。この「自然(じねん)」がもっぱら気に入っています。神と仏の違いをいつか書いたことがありますが、この「自然(じねん)」がワタシの自然(しぜん)、つまり神です。小僧の神様ってことですね。ははは。と笑っているのは私がだんだん仏になっていっているのだと、ちょっと思っています。なんだただの好々爺じゃないかと、大黒さんのふくれたお腹を思い浮かべながら苦笑いしている毎日です。


「ささらほうさら」の源流(4)個が自律に向かう

2023-04-27 09:53:25 | 日記
 個々が起ち上がったというのには、私の目にはそう見えたという視点が伴う。それを抜きにして、あたかも神がみているように「個々が起ち上がった」と客観的なデキゴトのようにいうのが、その頃までの知識人の台詞であった。もし前回紹介した、一人いたという「突出した癖の強い思想家」がそうであったら、癖が強いとも言わないし、ひょっとすると思想家とも呼ばなかったろう。
 1968年に象徴的に集約される思想情況は吉本隆明の『自立の思想的拠点』に表現されている。思想的な軸が何によって支えられているかを、それまで人類史が蓄積してきた知的堆積物をひと度チャラにして、銘々各人が自問自答することを(知識人を自称する人たちに)要求するものであった。ささらほうさらの源流となるグルーピングの、一人の「突出した癖の強い思想家」は、いち早くそれを手がけ、必死に自分と格闘していた(と、出合って後の私は受け止めた)。
 千葉県九十九里の北の方に位置する田舎町の石材店に生まれ、中学を出てすぐに東京に出てきて新聞配達をしながら定時制高校に通って国立の四年制大学に学んだ彼は、「苦学生」という言葉に汲み尽くせない世の中の抑圧と非情とを身に刻んできたと思われた。1960年すでに大学に籍を置いていた彼にとって、60年安保の政治状況の中でいろいろな政治党派の言説の渦の中にいて、流通する言葉の不確かさと空疎さに苛まれていたのではないか(と知りあって後の私は想像している)。
 1960年代の後半に出合ったとき彼は、人の口から吐き出されるいろんな言説が、何を根拠にして(そう述べて)いるのかを恒に常に問いかけた。それはまるで、自立の思想的拠点(と吉本の言う「大衆の幻像」)を彼自身が探し求めているようであった。私からみると彼はすでに自立の思想的拠点を身に備えていた。私の育ったのほほんとした環境に比して、彼の舐めてきた辛酸は世の人に対する見極めを鋭くし辛辣であった。でもひょっとすると彼は、自身のそういう人柄を、苦々しく思い、その衣装を脱ぎ捨てたいと思っていたのかもしれない。彼が批判したり非難したり反問する対象が、何処に身を置きどのように状況を捉えそれがあなたにどう関係するのかを問う。その言説を身の裡に問い降ろし腑に落としてさらに胸中に構成し直して、鋭い槍を突き出すように言葉にしていった。批判や非難や怒りというか憤懣を繰り出すことによって自らの「幻像」を描き直そうとしていると、文化的にはまったくズレた岡山の地方都市から出てきた私は、自身の身に照らして感じていた。
 ささらほうさらの源流のグルーピングにかかわった人たちは、10年、20年というスパンで振り返ってみると、月2回の集まりの毎に何かを感じそれを反芻し、日々のわが身の在り様に問いかけ、自らが変わっていくことに挑戦していたのだと、わが身を重ねて思う。一つは自身の言説であり、もう一つは身の在り様であり、それらを繋ぐ感性や感覚、一つにまとめて関係を感知する「心」のイメージ。そしてそのようにして感受する情況に自らがどう位置しているかをマッピングして、自身の振る舞いを定め、どういう言葉を伝えるか思案する。細かく分節化するとそういうことになるが、それらをいちいち思案していたら、とても現場に起こる事態に即応できない。躰がほとんど反射的に反応するように身の習いにすることがワタシの習慣になった。
 ささらほうさらの源流のグルーピングは、この「突出した癖の強い思想家」がいたことによって、自分の言葉で喋ること、書くことが気風となり、ただ単に個々人は違うという個性次元の話ではなく、自分の得意技をもってこのグルーピングに位置することを各人に要求するものであった。
 それと同時に、「機関紙」の初代編集長を筆頭とする「遊びをせんとや生まれけむ」人たちの存在が大きかった。それを取り込んだ「遊事」や「運事」、作業変格活用によって社会的な気風とは異なる関係の風景をつくっていったのであった。軸になったのは身のこなし、立ち居振る舞いであった。己の抱く人に対する印象や感懐を口にしないではいられなかった「突出した癖の強い思想家」は、その動きによって逆に刺激を受け、面々との関係を作り上げ、自らの身に蓄積された身の習いを浄化再編しようとしていたと、ワタシは言葉の端々に感じていた。
 いま振り返って図式化してみると、ささらほうさらのグルーピングは二つの焦点をもって楕円軌道の気風を描いていたと空間的には言える。それに時間軸が加わり螺旋軌道となってここまでの半世紀を辿ってきた。二つの焦点の一つは思索言説の固有性、もう一つの焦点は躰に刻まれた無意識あるいは習慣化されて意識の奥深くに潜在する身の習いであった。
 前者は「学事」と呼ばれ、後者は「遊事」とか「運事」を含む作業変格活用、「遊び」であった。前者は知の世界の地平に繋がり、後者は血の命脈に結びついていた。当時それを、知意識人と血意識人と表現して面白がり遊んでいたのだが、この二重焦点の動きと関係があったから、ささらほうさらの源流のグルーピングは長く続いたのだと私はワタシの位置づけと変容を振り返って思っている。
 簡略に十年単位で私のグルーピング内での位置づけの変容を言い表すとどうなるだろうか。アラフォーのころワタシは自身の存在領域を限定して生きることに専念していた。まさしく「不惑」であった。仕事もそうだが日々の暮らしも含めて、一つひとつ、いまその現場で起こっていること、そこでの私の振る舞いがワタシを問うていると受け止めた。自問自答である。もっと広い次元とかもっと高い次元でそれが持つ意味を思案するなどではなく、その現場でいま生じている事態がワタシのセカイであると自己限定することであった。
 それはワタシの外部に世界が屹立していることを承知することでもあった。それが普遍世界としてワタシのセカイに触れてくるところで私との関係が生まれ、私がそれを意識的に受け止めたところでワタシのセカイになる。その余はワカラナイ世界だ。そう位置づけてみると、いかにワタシがちっぽけな存在であるかが浮かび上がる。いや、ちっぽけと言うどころか、外部世界にとってはまったく取るに足らない存在である。ちょうどそのころどこかの気象学者がバタフライ・エフェクトと発表しているのを読んだ。一羽の蝶の羽ばたきがメキシコだかテキサスだかに竜巻を起こす。つまり世界は微細にかかわっているという学説だったが、これは私にとって神は微細に宿るという言葉のエビデンスのように響いた。私の現場でワタシは何をしているのか、なぜそうしているのか。そう自問自答することが世界にかかわる私の立ち位置である、と。
 これがアラフィフの頃にもう一皮剝けたと振り返ってさらに思う。二重焦点の螺旋運動の中で「知命」を知った。天命を知ると50歳を別称するがこれは、自身の「在り様の現在」が「天命」であると見極めることだと気づいた。これは仏教用語でいう諦念ではなく、全き自己肯定を意味した。自身の身の裡に湧いてくる欲望ではなく、今此処に於ける自身の在り様がワタシなのだという見極め。これは演繹的な思考法の毒気がすっかりわが身から抜け、現象論的なコトの受け止め方へ転換していたことを示している。ワタシが何をしたいのかと問うと、それは空っぽ。身を置く現場の成り行き任せ。わが感性の赴くままに振る舞い、それに反応する人々の姿が変わるのと応答しつつ、向かうところへ向かう。それは私の自然感にも相応する境地へと退職後に向かう素地を築くものであった。
 そのころ「突出した癖の強い思想家」は何冊もの著書を上梓して教育社会学会に招かれるなど、知意識人としての階梯を上っていた。彼の持つ言説の特異性もあって、論壇の若手哲学者や教育学者立ちにも「何かに依拠するのではなく、あなた自身の言説で十分論壇に通用する」とけしかけられていたのを、私は傍らにいて耳にしていた。彼自身は、しかし、教育現場から繰り出す人間論、社会論、政治論を紡ぐ立ち位置を崩すことなく、ささらほうさらの源流のグルーピングに身を置いていた。
 ところがもう一つの焦点を為していた「遊び」の初代編集長は、70年代の前半で高校教師という型にはまった立ち位置に身が耐えられず、さっさと退職して不動産屋に転身していた。言うまでもなく活計を立てる身過ぎ世過ぎ。その後塾の教師や建設工事現場の作業員、中学校の用務員などを転々とし、そこでもエクリチュールの剰余を排出して「あそび」を貫き通して「ささらほうさら」にしていたのであった。これは私の暮らし感覚が全くの小市民であることを反照することでもあった。これまでも折に触れて述べてきたように作家・鈴木正興の実存は、つねにワタシの在り様に対して批判的に定立し、畏敬の念を呼び覚ます。
 こうして私は、ささらほうさらにおいては、おしゃべりな好々爺として、いま籍を置いている。言葉を交わす面々が私の物書きの原動力になっているのである。


風景全体が見所という公園(2)装う射爆場跡

2023-04-26 09:33:19 | 日記
 さて、栃木県「フラワーパーク」から茨城県「国立ひたち海浜公園」へ移りました。高速道路があってこその「日帰りツアー」です。
 海浜公園は広い。海に面して、南北二つの区画に分かれ、真ん中を高速からの連絡道路が貫いています。その半周ぐるりを回って駐車場に入ったから、その大きさがわかります。「国立の公園」だとその時気づきました。どうしてこんなところに? よく足を運ぶ東松山の「森林公園」も国営ですが、これは1974年設立の明治百年記念事業でした。立川の昭和記念公園は冠通りの記念事業。この「国立ひたち海浜公園」は何なのでしょうね。中央部近くに大きな観覧車が目に止まります。遊園地を意図したのでしょうか。帰ってきてから調べたら元米軍の射爆場であった土地が1973年に返還されて、「公園」とされたとありました。50年も前のこと。古い来歴を持っていたのですね。
 この時期TVや新聞で報道される如く、春のネモフィラと秋のコキアで知られています。後で考えてみると、観覧車はこの公園の象徴的なものでしたね。ネモフィラも一本一本はブルーポピーを小さくしたような花です。薄青いのが一般的。白いのもあります。一つずつをみる花というよりは、丘全面をこの花が覆って彩る景観がウリ。ここも、足利のフラワーパーク同様、風景全体がポイントでした。
 ネモフィラが植わった高さ30mほどの丘の上へジグザグに続く歩道をたくさんの人が上っています。花は一年草、周りを浅緑色のスギナなどが生え、ネモフィラの生長に必要な日影をつくっているのだろうか。でもほとんどそれは今ネモフィラの花の背景を務めています。ネモフィラは一年草だそうですから、毎年植え替えているのでしょうか。秋のコキアもこの丘に植えられて、夏の黄緑から秋の朱色へと葉色を変えていくのがウリになっています。やはり毎年季節毎に植え替えられているのでしょう。人の手によって丁寧に育てられていて、全体としての風景をみるべきものとしてつくっているのですね。足利の藤の花同様、出来上がりを見越して植え付け、剪定していく。これはもはや自然ではありません。壮大な盆栽。囲われた日本庭園のセンス。「日本の縮減文化」と韓国の評論家が言っていたか。
 野草観察を得意とする師匠もそれを感じ取っているのか、手を入れる人の作業を思いやって風景を味わっているようです。そうだ、観覧車はそれを見せようと公園の中央に位置してゆっくりと回っているのだと全体構図を読み取ったわけです。でも残念ながら観覧車には辿り着けませんでした。
 ネモフィラの咲く「みはらしの丘」に上ると、東に太平洋に向かって南北に広がる茨城港常陸那珂港区が見おろせます。その陸側には、火力発電所、日立建機やコマツといった名の知れた工場が建ち並んで、この公園に抱きかかえられているようでした。
 そこを降りて、公園の北側エリアの西の橋に行ってから中央を走る道路に渡した橋を通って、バスの駐車場に行こうと考えたのですが、1時間半の散策タイムではとても回りきれません。歩いている途中でそれに気づき最短距離を通ってバスに戻ったのです。集合時刻の5分前に到着したときには、ほかの方々はすでに席に座っていて、何だか遅刻したようなばつの悪さを感じました。
 実は足を運べなかった南側エリアには観覧車のある公園全体の監理中枢部。その南向こうにいくつものフラワーガーデンが設えられています。さらにその南には、砂丘ガーデンとか香の谷と名付けられた散策道があり、また米軍の射爆場の後だったと思われる大砂丘が広がっていると案内地図には記されていました。おそらく倍の散策時間があってもやっと回れるかどうかだと思いました。エリアの西中央部には休憩所やお店が軒を連ね、子ども連れが遊ぶにも十分な場所でもあるようでした。月曜日というのに、若い人が多かったのも、高度消費社会に入ったサービス業の時代を象徴していることのように思いました。
 そうそう、このツアーには、「いば旅あんしんクーポン」という地域応援クーポンが2千円/人、付いていました。師匠に聞いて知ったのですが、ツアー代金そのものも2割引。とすると併せて4千円/人の税金が投入されていたわけです。だがクーポンを使う時間も使える場所もありません。ガイドもそれを知っていてクーポンが使える高速SAに30分間休憩を取って使うことになりました。何とか2千円分を使おうとあじやほっけの干物などを買い求め、う~んこれって、いいことなんでしょうかね。心配になりました。