mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

不思議に取り囲まれて生きる

2023-01-31 11:28:05 | 日記
 さてどこから切り込もうかと思案している。イギリス映画『イニシェリン島の精霊』(マーティン・マクドナー監督、2020年)を観て、肌の感覚がヒトが生きている不思議の数々を感じ取ってざわついている。
 カミサンに誘われて観に行った。映画館に着くまでタイトルさえ知らなかった。見終わってどこの国の誰が監督した映画かを確認しようとスタッフに声をかけた。チラシを貰おうと思ったのだが「映画がはじまるまでは置いてあるが、はじまってからはパンフレットしかない」という。そのパンフもなかった。うちに帰ってネットで検索すると、「いまなお演劇界・映画界の最前線に立つ鬼才マーティン・マクドナーの全世界待望の最新作」と銘打っている。何だ、知らなかったのは私ばかりなのだ。
 ネットが紹介するコトの始まりを引用する。
《本土が内戦に揺れる1923年、アイルランドの孤島、イニシェリン島。島民全員が顔見知りのこの平和な小さい島で、気のいい男パードリックは長年友情を育んできたはずだった友人コルムに突然の絶縁を告げられる》
 なぜだ? なにがあった? パードリックが疑問に思うだけでない。村の他の人たちも最初は疑念を抱く。だがそのうち、バイオリンを弾き、作曲をするコルムの創作活動は村の人たちに受け容れられ、絶縁宣言をされたパードリックは孤立感を深めていく。
 読書家の妹、頑迷固陋な警察官とその息子である風変わりな隣人、郵便局の女性オーナーの旧弊な詮索好き、島の外からやってきて、コルムと音楽に興じる音楽大学生たち。島の外、青空の、文字通り対岸から響いてくる大砲や銃の音が、イギリスのアイルランド紛争を別世界のデキゴトのように描いて、まさしく庶民の生活感覚が視線の中軸に据えられる。
 ワタシの肌をざわつかせるヒトが生きる不思議というのは、どこを切り口にどう取り出せば良いだろう。ちょっとした台詞、言葉にならない素振りがインスピレーションを誘う。
 平々凡々とした暮らしの日々は、死を待つだけの暇つぶしではないか、と感じるのはなぜか。
 モノゴトを創作するというのには、強い意志的な何か、痛みを伴う苛烈な何かがなくては適わないことか。
 そもそも、生きた証しを名を遺すことと思うのは、なぜか。名を遺せなくとも、「優しい人」として生きるのは、生きた証しではないのか。
 ヒトは何のために生きているのだろうという素朴な疑問が、意思と関係と、その動態的な移ろいの間に、揺れ動き、変わってゆく。
 そこへ、この映画は、ロバや犬といった身近な「パートナー」の存在を置いて、自然と共にあることの原点へと飛ぼうとしている感触を組み込んでいる。イニシェリン島の精霊が「今日は二人死ぬ」という予言をし、その一人がロバであったというのも、一神教的な自然観を突破して、アジア的な自然観に身を投じようとする兆しを思わせる。
 和解を探るパードリックの言葉に揺れ動くやにみえた芸術に向かうタマシイは、さらに苛烈に向き合わねばならないという振る舞いに及ぶ。暮らしとか生活から離陸することによってしか,芸術は成立しないことを意味しているのか、あるいは、ロバの死を悼み、犬の世話をするという生きとし生けるものを媒介にしてやっと、ヒトの暮らしと創造活動は折り合う地点を見いだせるかもしれないという発見なのか。とすると、この映画の落ち着く先は、人の心の赴く究極の地点を探っているのか。
 そして最後に、ああ日本もイニシェリン島ではないのか。ワタシはパードリックではないのか。いや、ワタシのなかにパードリックとコルムが同居してきたと感じる。そういう思いへ誘い込むざわつきを覚えた。
 映画って、こういう思いを呼び起こして、ここが結論という風な結末をつけることなく、観ているの者へと「思い」を投げ渡す。イメージを描き出すカタチで、観る者へと開かれたナニカを伝え受け渡す。一巻完結するよりも遙かに多くのナニカを胸中に遺している。
 原題はThe Banshees of Inisherin。Bansheeというのは「家族に死人が出ることを泣いて予告する女の幽霊」を意味するアイルランドの言葉。「精霊」という日本語のイメージよりも「巫女」に近い。「鬼才マーティン・マクドナー」が死者の視点、彼岸から今の日常を見てとったカタチなのか。そしてそれが、アニミズムと一体化する自然観によって,辛うじて人の営みの過剰さと和解できると示唆しているのか。
 オモシロイ疑問符はつづく。

生まれ変わる

2023-01-30 20:54:07 | 日記
 昨日の表題「死ぬということは死なれるということである」というのは、どうもヘンだ。「死」というのを一人称で見るのか二人称とか三人称で見るのかという違いを指しているだけで、自動詞/他動詞という変転も発生していない。むしろ、「死ぬということは生まれ変わることである」と、人称を固定して表現する方が適切妥当であった。だが、「生まれ変わる」というのもじつは、カタチ(色)を変えてソンザイする(空)というほどの意味であれば、まだ「エイエン」に執着している。「死ねばゴミになる」という一切放下の境地にも行き着かない。
 一切放下は、思えば、空なること。なるようにしてなる必然として、意味も形跡もすべて跡形もないことを是とする観念である。そこまでいって初めて、人類史とか生命体史という普遍と一体化する。普遍とは宇宙の全体。ゴミのような黴菌のような取るに足らない存在のgermが宇宙の全体とひとつになる。「観念」であるから ヒトはそう覚悟せよという思いの到達点である。死への心の準備としていえば「悟り」となり、迷いからの「解脱」となる。
 悼むとか弔うという振る舞いは、普遍に至る過程の儀式と言えようか。亡くなった人に託して表現するが、それが残された者たちにとって必要な儀式であることははっきりしている。墓もそうだ。お盆もそうだ。いずれも生きている者が、先祖という死者と一続きになって受け継いできた末裔として,今ここに存在していることを忘れずに生きて行けという「自戒」として「色」を擱いた。それが、祈りであり、追悼であり、弔いであり、墓や法要となった。生きている者にとってそれは、あくまでも「空」とはならない。呼び戻し、再会し、受け継がれてあることを繰り返し意識することによって、身の裡の無意識に生活の習いとして沈み馴染んでいるものを、意識の表層に思い起こして、歩んできた生命史の全体と一体となっていることを確認する。
 その到達点を一切放下というとき、それが普遍と一体化することであるというのは、同じことを指しているだろうか。ちょっとニャンスは違うなあと感じる。一切放下は普遍すらも空なることとみなしている。つまり観ている視点が、消えている。大宇宙を観るのは、何処に視点を置くと可能か。どこにも視点を置く場はない。観ることも空なることによって初めて視点を獲得する。そういう絶対矛盾的自己同一と呼んでもいいようなアクロバティックな「思い」を惹き寄せることによって、論理的に完結する。
 モノゴトを見て取る、自己省察をする、関係を普遍化して捉えようとするヒトのクセというのは、そのような矛盾を抱え込み、ときには時間を循環することとして空間に変換し、あるいは次元が十一次元に亘ることとして、目に見えない次元を想定して、イメージ世界を完結させないではいられない特性を持つ。その極みが「空」である。何もないところに目を擱くことによって究極の「真理」をみつめる。「空」はワタシにいわせれば、「混沌」と同義である。何もないということは、すべてがあるということでもある。オモシロイ。
 こうしてワタシは大宇宙とひとつになり、空なる混沌に一切放下して一体化する。いってしまうと何てことのない平凡な死生観ですが、いやなかなか良い線行ってるとご満悦です。


死ぬということは死なれるということである

2023-01-29 08:13:40 | 日記
 世間話をしないという私の気質が影響しているかもしれないが、じつは,出逢っていたとき以外のNさんのことをほとんど知らない。熊谷に生まれ育ったことは知っているが、どこの高校を卒業したのか、何人兄弟姉妹か、親御さんはどういう人であったかなど、まったく知らずにきていた。Nさんの奥様の話を聞いていて印象的だったのは、結婚したとき彼が奥様に言ったという言葉だ。
「オレはバカだから、あなたは仕事を続けてしっかり世の中のことを勉強して下さい」
 十人兄弟姉妹の末っ子だったNさんは高校を出てすぐに就職した。そのことを指していたと奥様は「解釈」していた。それを聞いて思いだしたことがある。中学のときによく言葉を交わしていた近所のイワサ君が,高校受験に受からなかった。それはなぜかワタシの所為でもあるように感じられて暫く心に引っかかっていた。当時岡山県は小学区制で、私の住む町には全日制高校はひとつ、定時制高校がひとつしかなかった。大学へ行ってから当時の進学率を調べたら全国平均で、全日制高校へ35%、定時制高校へ15%、合計50%であった。田舎とは言え大企業の有する造船や金属鉱業の町であったから、たぶん全国平均くらいはあったと思うが、残り半分は中学を出てすぐに就職したのであった。そこからさらに大学に進んだのは,4年制大学が7%、短大を含めて10%を少し超えたくらいじゃなかったろうか。昭和36(1961)年、のことである。5年遅れで団塊の世代が高校・大学へ進学する頃、学校設立が追いつかず受験競争が厳しくなった。「15の春を泣かせるな」というキャッチコピーが飛び交ったのもその頃、1960年代の後半であった。埼玉でも高校増設が進み始めたのは1972年以降。1973年までは「金の卵」である「集団就職」の子どもたちが大勢、私の勤める定時制高校に入学してきていた。新潟、山形、秋田などから中卒と同時に家を離れ、定時制へ通わせるのを条件に就職してきた人たちであった。それを考えると、その頃までは中学卒が普通、高校卒は半数ほど、大学へ行くのは1、2割だったろう。Nさんが何を素に「オレはバカだから」といったのかわからないが、彼の仕事回りに「大学卒」の肩書きを持った人たちが多かったせいかもしれない。奥様も大学を出ている。だがNさんのその恒なる自意識が、他者に対する寛容につながったと思う。
 会計処理が人類史的な記録の出発点と前回記した。往々にして、記録に達者な人は粘着質の厳格性を持っているから、他者を見る目が厳しい。同時に他者に対しても厳格厳密を要求することが多い。ところがNさんはしばしば出くわすアクシデントに対して「人のすることですから・・・」と鷹揚な態度を崩さない。ポイントさえ押さえておけば、後は自在に振る舞って,しかし始末はきっちりとついているという成り行きを見て取るような視線を欠かさなかったからであろう。要点は外さない。しかし、形式にこだわるのではなく、最終的な着地点をきちっと決める。前回お話しした、A3の紙をA4に折り畳むやり方のように、始発点と終着点はピシッと決めるが途中経過は自在になっているという振る舞い。文字通り「始末をつける」ことは外さないが、あとは「人のやることですから・・・」という視点を恒に保っている姿が、Nさんの立ち居振る舞いの神髄であったように感じている。言葉を換えて言うと、私にとって彼の振る舞いは人類史が連綿と受け継いできた作法の哲学的な示唆となった。
 そうそう、それでさらに想い出した。寡黙振る舞いの人・Nさんは、グルーピングの発行する機関誌に文章を書くのが苦手であった。それがなぜかはわからないが、言葉にするまでに彼の身の裡に右往左往するイメージに言葉を与えるのに手間取っていた。他の原稿はすでに出そろって印刷過程に入り、折りたたみ作業をする脇で、ページを埋めるのに呻吟する彼の姿をよく目にした。いろんなことにちゃらんぽらんでいい加減であった私は、テキトーなところで折り合いをつけて、ま、こんなことで良いだろうとか、時間が来たから仕方がないと思って切り上げる。ところがNさんは、これが出来ない。どうしてだろう。ひとつは、前記した紙折り作業のポイントのように、どこを押さえたら後は自在に(考えても)成り行きが結論に導いてくれる道筋を探していたのではないだろうか。
 もう一つ思い出すのは、1972年頃だったと思うが、九州への遠征をしたときの文章で彼が「見るということは見られるということである」という文章を書いたことがあった。九州の柳川や福岡の旧炭鉱町の人たちの暮らし方を見てくる旅で彼が、つねに見られていることを意識していたことが記されていた(と思う)。自分たちのアクションがどう外部世界をつかみ取ってくるかが交わされるなかでNさんは、自分たちのアクションが、現地の人たちにどう見えているかをイメージしていたことを端的に表現した言葉であった。
 これも哲学的な示唆を私にもたらした。「(外部を)見る」ということは「見られていることを意識する」ことを通して、じつは「(わが身の裡を)見ること」であると、関係的にわが身を世界に位置づけて見て取ろうとする視線である。生物学者なら「動態的に存在するワタシ」といったであろう。つまり世界を見て取るというのは、わが身を見て取ることと同義である。わが身は人類史だという身体感覚をNさんがもっていたのではないかというのが、私の見立てである。私はいま、ワタシが人類史だとほぼ確信に近い感触をもっている。
 半世紀経って、ささらほうさらの付き合いが到達した地点がここである。この起点に「オレはバカだから・・・」という世界への位置づけがある。私はそれを「germ/黴菌、邪魔物、萌芽」と表現してきた。取るに足らない存在のワタシがみているセカイを描き出さずにはいられないヒトのクセという出発点が、人生の最後に辿り着いたところというのは、何とも皮肉にみえるかもしれない。でも、Nさんに倣って、「死ぬということは,死なれることである」と自動詞と他動詞とを混淆し、関係的に位置づけることで、Nさんをいつまでもわが身の裡で活かしつづけたい。そのわが身はいずれ、どこかで誰かに受け継がれ、germが世界の震えに作用する。
 そうした関わりがカタチを成し、それが崩れて混沌としたイメージとなり、また姿を変えて変転する。それが人類史であり、生命体史であり、動態的世界である。その一瞬の有り様を永遠と呼んでいる。そんな気持ちが、いま働いている。


弔う/悼むということ

2023-01-28 21:11:51 | 日記
 半世紀来の友人・Nさんの家へ弔問に行った。家族葬という葬儀のやり方や香典をお断りすることまで、Nさんは事前に言い置いていたから、通夜前のご自宅へ訪問することとなった。グルーピング「ささらほうさら」のKさんの手配で,まだ現役仕事中の人以外全員が2年7ヶ月ぶりに顔を合わせた。Nさんの奥さんと、Nさんそっくりの風貌の長男さんがいて、もてなしてくれた。Nさんはすっかり痩せこけて、闘病の厳しさをくぐり抜けて安堵したような面持ちをしていた。
 Nさんの闘病経過に関する奥様の話を聞くと、病院とか担当医師が異なればもう少し楽に長生きする道筋があったのではないかと思われるが、Nさん自身は、そうした自分の置かれた立場を蕭蕭と受け容れ、死期を悟ったように自分の死後の準備を整えていったようであった。その話を聞くだけで、モノゴトにきっちりとメリハリをつけ、始末をつけ、後顧の憂いを取り除いて迷惑を掛けないようにするという彼の人柄が浮かび上がってくる。
 彼に教わったことで今でもわが身に刻まれた身の習慣がある。
 A3の紙の長辺を左右長く机に置き、右下の端を親指と人指し指で摘まみ左下端にきちんと重ねる。そうして半分の長さになった下側を右親指で押さえ、左端からまだ折りたたまれる前の膨らみをもった中央部へゆっくりと滑らせていく。中央部に達したら、今度は上へ同じ指でそのまま滑らせて膨らみを押さえていくと、A3の紙がきっちりA4サイズに折り畳める。この折り方を教わったのは、52年ほど前。
 それ間で私は、A3の短辺の左端と右端の辺を重ねて合わせ、折りたたむようにしていた。だがNさんのやり方は、モノゴトの始末の要所をきっちりと押さえれば、他の部分は成り行きで運んでいっても、全体がきちんと折り畳める。以来そうして紙を折ることをしている。この折り方が気に入ったのは、モノゴトの要点をひとつきっちりと押さえる始末の仕方。それと同時に、膨らむ中央部や上への折り線は、成り行きでついてくるという発見であった。その成り行きは、作業手順からみると自在にしているというか、放っておいてもついてくるように,見事に始末の筋道をたどるという自在さの感覚が伴い、身のこなしがスッキリする。傍目には端正な所作にみえる。そう思ってみていると、Nさんの所作には無駄がない。寡黙であると、先日訃報を耳にしたときに振り返ってNさんを評したが、余計なことを口にしないと言い換えた方が、より的確だと思った。
 訪問した場で暫く奥様のお話を伺いつつ、来ている面々が一人ずつNさんをどう見ていたかを振り返って口にした。そのとき、リョウイチさんが、Nさんの食器を洗う手際を見て感嘆し、以後見習おうとしてきた話した。まるで本職の料理人が夾雑物を削ぎ落としてピシッと決めるように所作に余計なものが混ざっていない。洗練された立ち居振る舞いであった。その話を聞きながら、そうだ、その佇まいがNさんだったと、私の胸中にイメージを結ぶ。半世紀も前の話であるが、当時口舌の輩であった私は、以後、深い尊敬の念を込めてNさんと接してきた。彼は彼で、私に対する敬意を欠かない振る舞いをみせ、思えば,このグルーピングを含めて57年の長きにわたって、行動を共にしてきたのであった。
 そういう意味では、通常の社会的仕事とは別にもう一つの人生を歩んできたのが、Nさんにとっても私にとっても、「ささらほうさら」のグルーピングではなかったか。後で記すが、たぶん彼は彼で、私のような口舌の輩から刺激を受け、それなりの敬意をもってみてきたのであろうが、こうした視線が半世紀にわたって身の回りを取り囲むオーラとしてあったことが、私たちの人生に言葉にならぬ余剰をもたらしたのであろうと感じたのであった。
 こうしたNさんのわが身に残したものをとらえ返すことが、悼むということである。そうすることによってNさんの存在をわが身に刻みとどめていく。それをいく人ものかかわった人たちが、それぞれの関わり具合から浮かび上がらせることによって、悼みは弔いに転化していくような気がした。


自己規制解禁のお墨付き

2023-01-27 09:53:51 | 日記
 手掌の手術をして半年の診察、地はビリが思ったようにすすんでいないことに業をにやしのか、医師が訊く。
「手術前に何か運動していました?」
「山歩き、登山です」
「手の平で力を入れて使うってことは?」
「ストックをもつとか、岩場を通過するとか、ときにザイルを使って安全確保するようなことですかね」
「この季節も行ってたの?」
「ええ、奥日光とかですね。事故があってからは,ザイルやピッケルを使う山へは行かないことにしています」
「雪山でしょ?」
「はいそうです。スノーシューで、勝手知ったるところを散歩するようなものですね」
 という遣り取りをして医師は、
「これからはリハビリだけでなく、山歩きなど、左手の平に力を入れるような運動できるだけして下さい」
 という。えっ、どういうこと?
 手術後半年を過ぎたのに、まだ左手指が元のように折り曲げられないというのをリハビリでどうにかしようというのは難しい。むしろ,ザイルを摑むでも岩場にとりつくでもして、無理にも手掌に力を入れるようにしていると、気が付くと昔のように動いているってことがあるかもしれないという。
 この時、この医師は年齢を重ねた体が、若いときのようには動かないってことをほとんど考慮していないと思った。たとえばバランス力は、20歳に比べて70歳は1割に落ちている。80歳ともなると取るに足らないほどになる。だがそう思っていない医師は、意志力さえ伴えば、同じように力を使い、同じように運動できると思っているかのように気軽に「運動しなさい」といっている。気軽に出来ないからリハビリに通っているんじゃないか。
 でも医師の言は、私の自己規制を解除するお墨付きになった。急に気持ちが晴れ晴れとする。そうだね、来週からでも山歩きを再開しよう。むろん、体はなまっている。長時間歩くと、疲れが溜まりやすい。バランスも悪い。平地を4時間歩くのと山を歩くのでは、倍くらいの体力を使う。よほど用心しなくては事故につながる。だがそれでも、医者の診立ては、私がこわごわとわが躰と自問自答してきた境目を取り払い、何でこんなことを自己規制してきたんだろうと思うほど簡単に、超えてしまった。
 1年前(2022-1-25)の記事「市井の老人の感懐」で、遭難事故後リハビリで復調を感じて「最初に思いついたのは四国のお遍路さん」と書き記している。そうだった。去年の感懐をもう忘れて、すっかり病人気分になっている。去年は、そこから歩くことを再開して,4月のお遍路の旅に出かけたのであった。同じような、そしていえば、躰全体の復調の土台は去年よりも遙かに良い。であってみれば、デスクワークばかりしていないで、外へ出ろ。山へ行け。歩きに歩く生活習慣を取り戻せ。そうすることによって、左手掌の難儀などは忘れてしまえと、号砲が鳴った。そう思った。
 自己規制の解除って、案外、そういう外からのほんの一寸した言葉の介添えがあると、ひょいと乗り越えられるものなんだ。たぶん私の整形外科医は、自分の言葉がそういう働きをしているとは、思いもしないだろう。でも医者って、患者にとってそういう役回りをしているのだ。そのために診察を受けているんだと思った。
 もっとも、医師がそういったことをリハビリ士に告げると、リハビリ士は「鉄棒なんかにぶら下がるってのが良いってことですよね」と、的確に日常に引き戻してコメントした。これも、しかし、ユメがない言いようだね。左手掌の握力を測ってくれた。3ヶ月前に「13kg」だったのが、「18kg」になっていた。来月からリハビリが2週に一回になる。省略した部分を山へ行けというわけである。良い節分になりそうだ。