mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

わが身から解き放て

2023-07-31 16:55:27 | 日記
 ご近所のストレッチ仲間との飲み会があった。間もなく82歳になる一人の呟きが気になった。
「あなた方はいいよ、孫がいるから。」
 彼は子はいるものの孫がいないから、この後の生き甲斐がないと沈んでいる。自分の時代がよかったなあと言えれば、それでいいのだろうかという響きが籠められている気配。ちょっと複雑な感慨を抱いているようだ。
 でもなぜ、「わが孫」にこだわるの? わが孫の世代ってワケにはいかないの? 
 もうこの年になれば、わが子、わが孫がどうなったからわが人生がどうなるってものではないと私は思うが、違うだろうか。何を寂しがってんのよと応じた。
 彼の人は、自分のDNAが絶えるってことを淋しく思っているのだろうか。私がそういうふうに考えたことがないのは、孫がいるからか。
 だがこの歳になって孫のために何かをして生きていこうと考えたことはない。逆に私が幼かったころ、父や祖父に何かをして貰いたい/貰いたかったと考えたこともない。また実際にもし(何かを)そうされていたら、煩わしくてそれに反発して違う道を探ったかもしれない。それほどに、父や祖父は身近であるが故に、触れないでほしい存在であったと、振り返って思う。
 ただ子や孫の世代が、明らかに未来である(と感じている)ことは、その通りだ。未来を明るい/暗いと価値づけてみているわけではない。ただ単に、私たちは古い世代、彼らの年代は私たちの思いも及ばない困難と向き合うことになるかもしれないと思ったりもする。でもこのとき、わが子、わが孫をイメージして心配しているわけではない。わが子や孫をイメージして受け渡すことというと、具体的な遺産になる。だがそれは、あるというほどない方がいいと思っているから、考えたこともない。むしろ、どんな社会を生きることになるだろうという文化の気風である。でも今更年寄りが受け渡す文化の気風をどうにか出来るわけではないから、ただひとつ、どんな文化の時代をワタシは生きてきたかを、出来るだけ意識化して文章化しておきたいという程度である。
 そこではもう、わが子とかわが孫という特定のイメージは浮かんでこない。
 ふと思い浮かんだのは、宮沢賢治。妹としこが亡くなったとき詠んだ「永訣の朝」。妹を思うが故に妹にとどまらない人たちへ思いが広がって世界へ溶け込んでいく様子をとどめていた。


うまれでくるたて
こんどはこたにわりやのごとばかりで
くるしまなあよにうまれてくる


 と、逝く妹・としこの呟きが聞こえた如くに差し挟まれた「永訣の朝」は、兄・賢治の差し出す「あめゆじゅ」が兜率の天の食となって数多の人々にわたることへと転じていく。これを読んだとき当初私は、賢治のとしこへの思いの深さを感じ取っていた。だがこの歳になって読み返していると、その思いの深さが普遍へと繋がっていく道筋を拓いているように思うのだ。わが子、わが孫というわが身のこだわりがほぐれて、すべてを包み込むが故に一切を放下する領域へと「思い」を昇華させていくように感じたのであった。
 そうして、間もなく82歳になるご近所の方も、「血のこだわり」を解きほぐして、この世の次の世代をまるごと包み込んで一切放下する世界へ、ぼちぼち入域してもいいんじゃないか。そう思った。
 そうして、一年前(2022-07-28)の本ブログ記事「社会の体幹が旧弊旧習」を読んだとき、ああ、同じモンダイを違ったふうな次元で考えていると感じた。それを、下記に添付する。
*****(2022-07-28)「社会の体幹が旧弊旧習」
 今日(7/28)の朝日新聞に林香里(東大教授)というメディア論の専門家が《(メディアが読者大衆の)思考枠組みの議題提起役割》を持っていると話を始め、末尾の方で《日本の新聞社は横並びで(阿部銃撃事件に際しても)同じ見出しを付け、「宗教法人」についても匿名扱いも同じだった》という趣旨の記述をしている。
 市井の老人の私は各紙に目を通すわけではないから気が付かなかったが、とっくに新聞というのは、「人それぞれ」「多様性の世の中」「同調圧力は良くない」と同一性に対して批判的なのだとばかり思っていた。違うんだ。そうか、そう言われてみれば、大手メディアの「記者クラブ」の専横とかいうことが、十数年前の民主党政権の発足時に取り沙汰されていたな。変わらないんだ、この人たちは。というか、資本家社会の情報化時代の社会構造が変わっていないから、こういう大きな社会的なメカニズムは変わらないのかもしれない。相変わらずバブル時代の経済センスで為政者は動いているようだし、林香里が評論した「旧統一教会」と自民党とのお付き合いも、旧態依然、昔の名前は捨てましたといえば、それで通ってるんだ、この宗教集団は。
 うん? オウム真理教の装いを変えた教団は未だ公安の監視下にあるんじゃなかったか。
 えっ? そちらはカルト。こちらは集金集団だから資本家社会的にはクラウドで集金しているのと同じ穴の狢、ってか?
 報道機関といえば大手メディアを(読者としてしか)知らないで、いきなりミニコミに筆を移して喋喋してきた輩としては、ガタイを比べるということをしないで、直ぐそのメディアに記された中味(記事)を問題にして、対等と考えてきた。このメディアの見立て方は、躰をみていないってことかもしれない。図体が大きいってことは、そこにかかわるメカニズムも多々あるわけで、理解するってのは難しい。同じジャーナリズムってとらえたり、同じコミュニケーションって見て取るのは、アタマしか見ていない。人の行動はアタマが決めるものであって、カラダはアタマが使って動かしているという身体観に拠っている。魂と体を分けてとらえ、魂が体を動かしているという自然観は、ギリシャ由来の西欧的なもの。
 因みに、欧米的なアカデミズムにちょっと身を浸しただけの私も、すっかりその自然観を受け容れて育ってきていた。そこからの離脱に1970年からの20年間ほどの、ある意味で幸運なカンケイを必要としたのであった。ま、それはまた別の機会にでも話すことにしよう。
 いつ頃からだったろうか、朝日新聞の記事も記者名が表記されるようになって、デスクのお役目が一歩引き下がったようにさえ思ったものだ。オーナーが報道現場に口を差し挟まないというのは、綺麗ごと。コマーシャルにだって気を遣うんだもの、オーナーに気を遣わないわけがない。ましてオーナーのお友達などへの気遣いなしにこの世の具体的関係が築かれていると思うのは、ナイーブもいいところ。世間知らずの高校生のセンスですね。まして資本家社会の,ここ日本。裏まで探れば、おおよそ目も当てられない人の性がそちこちに転がっていよう。その性は、旧弊旧習というよりも、社会が身に刻んできた慣習を良いとか悪いとか区別せず、何でもかでも違和感のないままに繰り出す気遣いや心配りやおもてなしが、実はそのまんま旧弊や旧習になっているってことである。
 それを突破しないと、口先で言うことと身の振る舞いがしていることのギャップさえ気づかない。その壁が,横並びの大手メディアの習癖になっているというのが、冒頭朝日の林香里の記事を読むことが出来る。つまり、それを超えるには、わが身の無意識を炙り出すように身の裡側へ向かう視線を送ること、返す視線で世の常識的な気風を断ち切って、裂け目を作り出すことが世の人々の視線を変える論議を提供することになる。
 さあ、となると私たち年寄りが、身に備わった世の気風に心地よく触っているだけではおおよそ心許ない。槍を突き立て、異議申し立てをして、それをどうまとめるかは有識者に任せて大いに遣り取りを沸騰させようではないかと、気分が盛り上がる。
 社会の体幹を変えるのは、年寄りが身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれと許りに、前のめりになること。隗よりはじめよというではないか。


トライヤルの成果は、躰に聞け

2023-07-30 08:48:38 | 日記
 さて実は、ここからが笠ヶ岳トライアルの本題。
 経緯をおさらいしておきます。2021年4月に山で遭難して以来2年間、リハビリに努めてきました。毎日の町歩き、低い山歩きや四国のお遍路など、歩くことを主眼に体調の回復を見定めるのが私のリハビリでした。そして今回やっと、北アルプスの高峰を何日かかけて縦走することにわが躰が耐えられるか。どこまで耐えられるか。どこが耐えられないかを細かく躰に聞いてみようというのが、笠ヶ岳でした。
 出発前に心配したのは、足のツリや腓(こむら)返りでした。77、8歳ころからでしょうか、山歩きの途中で太腿がツリそうになったり、脹ら脛(こむら)が固まりそうになったりして、慌てることが起きるようになりました。スプレー式のサロンパスなどを用意していましたが、これは熱を持った筋肉を冷やす一時的な効果はあるものの、ツリや腓返りに聞いているのかどうか不安がありました。薬局で相談すると、芍薬甘草湯という漢方を紹介されました。処方を読むと心臓や肝臓に負担がかかる注意書きがありました。そこで、1回4錠1日3回までという処方を山行中、夜4錠を服用するだけにとどめ持っていきました。それが効いたのかどうかは分かりませんが、ツリや腓返りを覚えることはありませんでした。下肢には筋力補強スパッツを着けています。このお陰か、膝に痛みが来るということもありません。腰は不安定にならないように腰痛ベルトを巻いています。もしそれがなければ、背筋や腹筋の弱りにともなって文字通り腰砕けになる。その危うい感触は感じていました。
 歩くペースをコースタイムに合わせたのは、遭難前の歩行ペースが、喜寿のコースタイム男と私が渾名した山友の歩度にちょうど見合っていたからです。ただコースタイムで歩こうというのではありません。歩いた結果をみて比較し、自分の調子を推しはかっていました。そうかこの程度かと、あとで知るというわけです。
 一日6時間たらずの歩行としたのも、翌日の恢復も考えてのこと。無理はしない。のんびり歩くというのに、山は格好の環境にあります。高度を上げる毎に変わる景観は、目をやる毎に、陽ざしと雲の動きに応じて槍ヶ岳や穂高連山の様子を変えていきます。それにカメラを構える。
 花々も歩度を緩めます。ハクサンフウロはじめフウロの仲間、シナノキンバイかミヤマキンバイか、ハクサンチドリ、ミヤマカラマツとその仲間、クルマユリ、コオニユリ、ササユリは、先日師匠に教わったばかりです。シシウドの仲間、アキノキリンソウ、マルバダケブキ、ミヤマオダマキ、トラノオの仲間、トリカブト、ハクサンイチゲ、ノカンゾウかヤブカンゾウかあるいはニッコウキスゲか、群落をつくっています。
 陽ざしによりあるいは朝露の輝きを添えて、何度もシャッターを押す。歩行速度が速いことは周辺環境を大きく概念化してしまう。それに反してゆっくりと歩むことは環境をさらに細分化して目に留める。ワタシのセカイが広がる感触。ただ感触だけにとどまるのが、門前の小僧の悲しいところ。草木の子細に分け入るには、まだこちらの感受能力が大雑把にしか作動しません。
 山小屋について、わが足腰の微細な様子を受けとる。右足の太股に違和感がある。左腓にヒクヒクと攣る感触が起きている。朝の寝床でそれを受けとると湿布薬を貼って、今日一日の無事を祈るってワケでした。
 こうしておっかなびっくりで何とかトライヤルを終えたつもりでしたが、そうは問屋が卸しませんでした。帰宅した翌日朝、両脚の太股が張って、起ち上がるのに一苦労。歩くのにもよっこらしょっと声をかけながら、用心しながら歩一歩という為体。その日、ご近所の男のストレッチ教室があったのですが、歩くのがやっと。跳んだり跳ねたりはとても及びません。それが3日目の今日も続いています。もしこれが山中で起こっていたら、下山をどうしたかなあと溜息をつきます。
 昨日、「歩けるだけ歩き続けるという思いを身を以て保つほかない」と八十路の山歩きの心意気を記しましたが、そう簡単にはいきそうもありませんね。

八十路トライアル

2023-07-29 16:34:30 | 日記
 八十になって何処まで高い山歩きが出来るか。そのお試し登山を笠ヶ岳で行った。もし新穂高から最短距離を目指すなら、笠新道という急登を上る。標高差1800m。上り8時間半、降り5時間55分。笠ヶ岳山荘に1泊するとしても8時間半を歩く自信はない。そこで、1日余計にかけ、回り道を選んだ。
 一日目、標高差1300m、5時間半を歩いて、鏡平山荘に泊まる。翌日、双六小屋から笠ヶ岳へ向かう稜線上の弓折峠への標高差300mほどに乗り、笠ヶ岳を目指していくつかのピークを越え6時間半を歩く。つまり、笠新道を上るルートを2日に分けて高齢者登山らしくしたわけ。そして降りは笠新道を使うことにし、コースタイム約6時間の下山をやってみようと計画した。
 その歩行については昨日記した通りだが、いろんな登山者とすれ違い、ときどき言葉を交わし、年齢と人と達者の程度にはピンからキリまであることを実感した。
 これから笠新道を上ろうとしている20代の女性と、分岐のところで言葉を交わした。彼女は大きなザックを背負っている。私が翌日鏡平から笠ヶ岳へ向かうと知って、
「じゃあ明日、双六へ向かう稜線上でお会いするかもしれませんね」
 とにこやかであった。双六から鷲羽岳と水晶岳へ向かう予定のようだ。単独行でそこまでの長い縦走を試みるのはすごいと思った。この方とは翌日、
 鏡平へ向かって歩いているとき、何組かを追い越し、何人かに追い越された。若い人たちばかりでなく、70代と思われる二人連れも双六まで向かうという。鏡平からさらに2時間先へ、すごいねと賞賛すると、いやいや、なんのと笑う。降りてくる人もいる。初めは鏡平からと言っていたのが、やがて双六からに変わり、三俣蓮華からという言葉が混じる。年齢と体つきとをみて達者さを推察する。一人まだ30に手が届かないと思われる女性が、雲の平からと応じたのには驚いた。新穂高まで11時間ものコース。今朝3時に出ましたと、疲れも見せずにこやかだ。あと3時間足らずか、頑張ってと声をかけて見送った。
 私が鏡平に着いた1時ころに荷を背負って双六へ向けて通り過ぎる人たちが何人もいる。若い人たちだけではない。テント泊らしき重い荷を担いだ人もいる。いや頼もしい。
 翌日5時に歩き始め1時間ほどで弓折峠に上がると、たぶん双六から来ていた7人ほどのグループがガイドに声をかけられて鏡平へのルートへ下っていった。ベンチに座って、正面に居並ぶ槍ヶ岳から奥穂高の雲がとれるのを待っているカメラマンもいる。稜線縦走ルートからほんのすこしはずれた弓折岳では、鷲羽岳が単独峰のように屹立している。後から上ってきた夫婦がいた。双六にテントを張って、ここを往復しているそうだ。笠ヶ岳へ行くのかと問う。そうだと応えると、笠新道を下るのか、大変ですねと勝手知ったるルートのように話す。私の年齢を聞く。八十というと、お元気ですねと驚く。彼は老人ホームに勤めていて、ふつうの80歳はこんなところには来られないですよと褒める。連れに、ほらっ、そこへと言って、カメラを出す。シャッターを押しましょうかと声をかけると、カメラを手渡す。えっ、これデジカメかなと、一瞬思った。昔の小窓を覗くタイプのカメラのシャッターを切る。
 稜線上を西へと向かう。高山植物の花々が彩りを添える。ときどき立ち止まって振り返ると、陽ざしに露がきらきらと輝いて湧き立つ雲と暑い日差しを言祝いでいる。雷鳥の母子をみたのはここであった。4羽の雛鳥が岩の上から母鳥の方へ羽を広げて飛んだのは、もうそれだけの月日を重ねて大きくなっていたのであろう。花も鳥も立ち止まり、カメラに収めるだけゆっくりと時間をとって笠へと進む。笠ヶ岳は雲の中に隠れ、ときどき頭を出して誘うようだった。ここで、何人かの笠ヶ岳から双六や三俣蓮華へ向かう人に出会う。昨日記した双六往復の36歳と言葉を交わしたのはここであった。また昨日、笠新道の上り口で挨拶した女性とも出会った。彼女が笠の山荘に着いたのは夕方の5時だったそうだ。荷が重くて参りましたと言ったが、登り口で遭ったのは9時頃。とすると8時間で上っている。つまり全行程は9時間。コースタイム8時間半をそれだけで歩けたら、いやたいしたものよと思った。
 このコースでは後から来た何人かの達者に道を譲った。ルートから少し外れた抜戸岳2812mへ寄り道したとき、この山は板状の大岩を積み重ねたような山であることが分かった。上の方はハイマツの掻き分けて進むか大岩の上を辿って山頂部へ向かうかの道。ところが、山頂に来てみると、稜線上の南東側をよく踏まれた道が続き、笠新道に出合って笠ヶ岳へのルートと合流している。なるほどこのルートの主たる立ち寄りピークなのだと思った。地図に「抜戸岩」とあるのがここかとはっきりわかる地点もあった。両側に屹立する岩の間が人ひとり通れるほどに空いていて、いかにも「抜ける」という風情であった。
 笠ヶ岳の山頂と笠ヶ岳山荘を一視に収めながら最後の上りにかかる。テント場が現れるところからは抜戸岳同様に板状の岩が折り重なった上を踏んで、身を持ち上げる。こうして山荘に到着し、11時頃であったが宿泊手続きをしませ、荷を置いて、取り敢えず山頂へ行ってくることにした。上から降りてきて人が、「ちょっときましたね」と手の平を天へかざす。そうか、雨になるか。雨具は置いてきたなと思いながら、15分ほどで誰もいない山頂に着いた。周りはすっかり雲に取り囲まれている。取り敢えず、三角点と山頂標柱とをカメラに収め、カミサンに上ったぞとメールを打った。すぐにおめでとうと返信があった。ふと上を見上げると、なんと青空が一部見えるではないか。もう一度、三角点と山頂標柱を入れて青空を撮り下山。二人上ってくる。軽く挨拶を交わして行き交う。ところが、私が山荘に着くとすぐに、大粒の雨が落ちてきた。登山者が「滑り込みセーフ」と言って駆け込んでくる。あの山頂の二人はどうしているだろう。雨具は持っていたろうか。
 ひと休みして玄関土間のテーブルで、お昼代わりのビスケットをつまみにビールで一人乾杯をする。先程の「滑り込みセーフ」のアラカンの男性が焼酎の瓶やつまみ、水を広げてテーブルの脇に着く。言葉を交わすと「山の会の連れが84歳と83歳と75歳の年寄り、後から来ることになっている」という。なるほどこの若い年では高齢者にペースを合わせると調子を狂わせてしまう。
 でもなんだ? 80代だって? 笠新道を上ってきてるって? この後来週には鷲羽岳や水晶岳に行って裏銀座を高瀬へ歩く予定でもあるだって? 
 いやはや。私の八十路のトライアルなんて甘いこといってんじゃないよ。コースタイム8時間半を上って明日下るという一泊二日の登山をしている八十路半ばがいるんだ。身の程を心得ることも大切だが、静かに消えていくばかりが高齢者の道ではない。ゆっくりでもなんでも、行けるところまで行って、頑張りましょうと発破をかけられたように感じた。
 最終日、いち早く出発した彼らを追い越したのでしょう、杓子平で座って待っている彼のアラカンの山の会同行者に会った。私もお弁当にして貰った朝食をここで食べようと思っていたから、腰を落ち着けて84歳83歳を待つことにした。やってきました。なるほど見た目は私より年寄りに見えるが、足腰はしっかりしている。私は食事を済ませて、断って彼らの写真を撮らせてもらい、先に出発した。
 このアラカンの同行者には、後程道を譲ることになって別れの挨拶を交わしたが、後の3人に追い越されることはなかった。
 そうそう、笠新道を下山中に上ってくる人たちがずいぶんいることに気づいた。その中に、軽装の若者にあった。
「まさか、日帰り?」
「はい、そうです。新穂高を3時に出ました」
 と誇らしげであった。その後にも、同じような遣り取りをした若い者が2人いた。いやはや頼もしい。コースタイムで往復14時間半を駆け抜ける人たちがこんなにいるんだ。八十路の高齢者だからと言って、身を縮めて引っ込んで消えていくのが最良の道とは言えまい。わが身が山に溶け込む感触が私の山歩きの極意だとすれば、山の高いか低いかは問わず、歩けるだけ歩き続けるという思いを身を以て保つほかない。そういう「心の塊」を感じて帰ってきた。面白いトライアルであった。

無事完歩

2023-07-28 10:44:35 | 日記
 リハビリ後初の高山歩き、4日間の笠ヶ岳登山を終え、無事帰還しました。子細は後程ゆっくり記します。登山口に1泊が余計でしたが、ま、八十路登山のトライアルとしては致し方ないと思っています。
 好天に恵まれました。新穂高の登山口を出て戻ってくるまでの3日間、基本的に晴天。夜激しい雷雨に見舞われたり、午後になって崩れたことはありましたが、一度も雨具を使うことなく過ごしました。下界が暑いだろうと思わせるほど、もくもくと入道雲が立ち上がり、向かいの槍ヶ岳から奥穂高岳、西穂高岳の稜線を隠していく。南に離れた焼岳やもっと向こうの乗鞍岳はまだくっきりと姿を見せているという高山の転変と谷間から湧き立って這い上ってくる雲の勢いには、大自然の生命力を感じます。
 笠新道の分岐、左俣林道との分岐、秩父沢、シシウドヶ原、鏡平小屋と、ポイント毎のコースタイムと照らし合わせても休憩も含めて概ねコースタイム、5時間半で歩いています。出発地との標高差1300m、13.3km、歩行時間は約4時間です。のんびりと花々を眺め、青空に映える双六から弓折岳の稜線を見上げ、身体の調子に問いかけながらここに身を運んでいる幸運を味わっていました。
 2日目、鏡平から見える槍~奥穂の稜線は、1900m付近の雲に見え隠れして、定かではありません。でも歩き始めて弓折峠2592mにつくまでの間に雲がとれ、朝日に照らし出された明るい上空の雲を背にした槍・奥穂高のシルエットに、何度もシャッターを押してしまいました。朝露を浴びた花もご機嫌でした。弓折岳2588mから振り返ると鷲羽岳が単独峰の偉容を誇るようにみえ、その先の大ノマ乗越では雷鳥の親鳥が岩の上に立って警戒音を出し、そこへ向けてこちらの大岩から飛び立つ雛鳥が一羽、とみると続いてもう一羽、その飛び立った方ではもう一羽が飛ぶのを躊躇うようにもぞもぞとして、でもついに母鳥の方に飛び立つのがみられました。
 秩父平付近で振り返ると、槍ヶ岳だけを残し見せるように雲がまわりを包み込み、ああ、これはカメラマンには堪えられない瞬間だれろうなあと思いながら、カメラのシャッターを押しました。目を転じて北の方をみると薬師岳が大きな山容を見せ、その左の方に頭一つ高いのは黒部五郎岳か。こちらは上空に僅かな雲しかなく北アルプスの奥深さを感じさせています。抜戸岳分岐までコースタイム4時間10分のところ、4時間40分で来ている。
 ところが抜戸岳山頂から南側ルートを通って笠新道入口分岐に出て笠ヶ岳山荘に着くまでに1時間半ほどを要している。この間は、雲がかかり、お花もあるほどではなく、周囲の景観もない。にもかかわらず、コースタイムより30分ほど多くかかっているのは、どうしてなのか。2日目のくたびれがぼちぼち出始めていたのか。
 何人かの若い単独行者が追い越していった。ああ若いって、そうだったなあと記憶が甦る。前方の笠ヶ岳はすっかり雲に蔽われて見えない。11時半ころ笠ヶ岳山荘に到着。ここも、途中でお昼代わりのビスケットを抓んだりはしたが、20分ほどコースタイムよりかかっている。ま、この程度の抜けない疲労の積み重なりが歳相応の歩き方になるのかもしれない。疲労の自覚は、しかし、それほどない。これは身体反応が鈍くなっているからと私は考えていました。泊まりの手続きをし、部屋に荷を置いて笠ヶ岳山頂へ向かう。午後は天気が崩れると聞いた。
 15分ほどで雲に取り囲まれた山頂に着いた。2898mの標識と傍らの三角点の標石がポツンと立つ。誰もいない。周りは雲ばかり。ふと見上げると、頭上がポツンと抜けるように青くなっている。標識と標石と青空をカメラに収めようとしていると陽ざしまでさしてくる。12時23分。山荘へ戻っている途中で、ぽつりと頭に雨が落ちてきました。小屋に入ることには大きな雨粒になり、ちょうど駆け込んできた登山者が「滑り込みセーフ」と笑っていました。
 標高差はアップダウンがあってわからないが、この日歩いたのは、16.1km、5時間1分。行動時間は6時間半くらいか。
 第三日目。朝食を弁当にして貰い、3時半に起きて出立の準備。早めに仕上がったので、入口のテーブルで弁当を3割ほど口にしました。荷を置き、ウィンドブレーカーを着て山頂へ向かう。ヘッドランプも要らないくらいになっている。後ろから来た若い女性がスタスタと追い越してゆく。う~ん、こうなったかとひとしおの感慨。
 槍ヶ岳の後ろから上ってくる日の出に、上空の雲が照らされてだんだん明るくなってくる。山頂標識のある方はすでに10人ほどの人が屯している。私は神社の祠がある方で明るんでくる穂高と槍の稜線を一望している。日の出は見事であった。槍の北鎌尾根のさらに左方面から上ってきた太陽の頭がみえたのは4時39分。それがまだ丸みを残してカメラに収まったのは44分。
 それから山荘に戻り、皆さんは朝食になるが私は荷を整えて出発しました。何組かを追い越し、何人かに抜かれ、杓子平までほぼコースタイムの2時間10分。ここで朝食の残りをいただき、休憩。ちょうど笠ヶ岳を正面に見据えて抜戸岳からの稜線が一視に入る眺望の素晴らしいところです。ここまでの間にまた雷鳥の母子に合いました。こちらはヒトを畏れる様子もなく、私の後から降りてきた人の足元へと雛鳥が駆け寄り、母鳥は警戒音も出さず、そこへ寄り添って静かに離れていきました。昨日みた雷鳥よりはまだ雛が幼い感じでしたね。
 そこから愈々、笠新道の正念場歩行、コースタイム3時間になります。出たのは7時28分。一つ両線を越えて降りとなり、灌木の間をジグザグに下っていく。足元は大石が積み重なり、踏み跨ぎときに尻をついて下っていく。追い越してゆく若い人の足運びをみていると、そうだったなあ、昔はああやって先を急ぐことが出来た。だがいまは、おっかなびっくりで身体のバランスが悪くなったと感じながら、足を運んでいくしか方途がありません。イイもワルイもこんな私を認めてやらないと、とても山などを歩くわけには行きません。もし万一ここで踏み外したら、転んだら、谷の方に倒れたら、それだけで一巻の終わり。歩一歩毎に身体がそう伝えてきて、いっそう足運びは慎重にならざるを得ません。
 私の先に歩いていた若い女性を追い越したが、すぐに道を譲ることになり、その人の姿も忽ち見えなくなるほど、慎重且つゆっくり。もはやコースタイムも何も気にすることもなく、あるがままの自分をあるがままに受け止めて歩を進めていきました。ただ幸いだったのは、足元の不如意がいつも意識に上って、時間を忘れてしまうくらい緊張を要したことでした。後で思えば、今日の下山の標高差は1800m。富士山の五合目から山頂までの標高差が約1400mですから、それを遙かに凌ぐ大下り。日本最大急登のひとつと言われるほどの傾斜なのです。もっとも、下っているとき、身軽に早くも上ってくる20歳そこそこの若者に出遭いました。えっ、まさか、日帰り? って聞いたら、そうなんです、朝3時半に出ましたというのもいました。他の二人も似たり寄ったりで、そうか、私の2日分の行程を1日で済ませる。倍速の歩きと年齢なんだと、昔日の自分へ思いを致していました。
 とまれ、笠新道の分岐登山口に着いたのは10時40分。3時間12分で降りています。まずまずでしょうか。ここで、朝持って出た水をほぼ飲み尽くしていましたので、約2リットル汲んで土産にし、パッキングをしました。後は林道を歩くだけ。バスは11時55分。心配なく間に合うと思いました。そこへ、やはり上から降りてきた若者に見覚えがありました。昨日、弓折岳から笠ヶ岳に向かう途中で出合って言葉を交わした人。双六小屋へ行くといっていたんじゃなかったか。聞くと、そうです、双六小屋に泊まり、下山してきました。明日は仕事ですからと笑っている。昨日印象的だったのは、私の2日分を一の血の歩行距離にして1日の歩行距離として、じゃあ、4日分を2日でこなしているってワケだ。話ながら彼が歩くのに付き合って、私もスタスタと歩く。「早すぎませんか?」と彼は気遣うが、平地だもの、大丈夫と応じて、50分で登山口の新穂高バス停まで歩いた。道道の話もオモシロかったが、それよりなにより、草臥れて平地をボーッと歩くとますます疲れが滲み出して草臥れてしまう。それをスタスタと運ぶことが出来て、彼の若者には迷惑だったかもしれないが、私にとっては有難い、バイプレーヤーであった。
 こうして第3日は、20.4km、歩行5時間33分。行動時間は6時間30分ほど。無事に下山できたのが、今回トライヤルの成就を示していた。
 バスの時刻と乗り換えと接続の感覚が草臥れた身の動きの鈍さと見合ってほどよく、夕方6時には家に着いていました。


コロナ時代?

2023-07-24 05:54:44 | 日記

時間の感覚と内面世界

 ご近所のストレッチ仲間と飲んでいたとき、大連へ行ったのは何年前だったっか? と誰かが訊いた。「えっ、5年くらい前と違う?」 と答えると、一人が「ほらっ、私と一緒だ」 と言う......

 今朝、出かける前に目にした一年前の記事を読んで、いろんなことがボンヤリと、しかし逆に総体として記憶というよりも印象に残っていると感じる。
《歳をとって…時系列が掻き回される……いろんなことが総体として、時代の空気のように身に刻まれている》
 2020年1月に報道で知ることになったCOVID-19、新型コロナウィルスが、やっとヒトの暮らしに定着参入されるようになって、だが未だ収まる気配がない。私の印象で呼ぶなら「コロナ時代」とでも言えようか。
 これからバスに乗って平湯へ行き、乗り換えて新穂高温泉に入る。本格的な山歩きは明日からの2泊3日。コロナ時代が私の遭難事故と手掌の手術とそれらのリハビリに費やされた。今日はその恢復画期の旅立ちってワケ。
 行ってきます。28日にはまた、この欄でお目にかかれると思っています。ではでは。