mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

台風の進路がみせる心身一如の裂け目

2024-08-14 08:33:24 | 日記
 お盆明けに山へ入るかどうか、様子を窺っていた。お盆で駅のみどりの窓口が混むのを避けるには、9日頃までに割引切符を手に入れるのがベター。それを一日延ばしにしてきたのは、まだ卵であった台風7号の動きを案じたから。台風が関東にもっとも近づくのは16日。山へスタートする18日には北海道へ向かっていると、一昨日と昨夜のTVは報じている。よし、行こう。
 この暑い最中、浦和の駅までチケットを買い求めにゆく。往復10km、1時間40分か。炎暑の時速5kmほども、もう馴れた。昨日(8/13)も、7kmほど向こうの生協へ買い出しに行ってきた。
 実は、山へ行くことにして昨日の昼間、私は山から帰ってからの「ささらほうさら合宿」に備えて、月刊紙の発行準備に取りかかっていた。山から帰ってくるのは23日。合宿は27日から。間は4日あるけれど、たぶん下山したらへこたれてしばらくパソコンに向かう気力がないかもしれない。あっても、山行記録を書くのが精一杯、月刊紙の編集をする気持ちにならないかもしれない。
 加齢に伴うわが身の変容は、運動能力だけでなく、気力やその淵源に潜む感覚の作動にも及ぶ。山へ入るという(わりとゆったりとスケジュールを組んだ)遊びでさえ、どれほどわが身に響くものか、推し量らなければならなくなった。
 そうだねえ、瞬発力がなくなって、なんでも当意即妙というワケにはいかない。そうか、身が時間の過ぎゆくのを早いと感じるのは、外界への適応にわが身が必要とする時間がかかるということだ。そのとき、心の用意ができていないと、身と心のとの間に齟齬が生じる。心身一如となって外界に応じてゆくには、まず身の裡で心を合わせなければならないってことか。
 そんなことを考えながらPCの前に座っていると、カミサンが買い出しに行ってくるという。テーブルでキーボードを叩いている私の様子をみて、
「やってることがあるのなら一人で行くから、無理しなくて良いよ」
 と、今日はご機嫌だ。
 そうか、じゃあ、私は編集仕事をするかと思って、作業を続けた。1時間ほど録画を観ていたカミサンが
「そろそろ行こうか。いい?」
 と、私も一緒に行くものという言葉を発する。何だ、最初のことばは、忘れたのかい?
 でもね、半世紀以上も付き添っていると、こういう気分次第というカミサンの気性にも馴れっこになって、こちらの判断を変えるのも「適応」ってもの。編集仕事はすぐに終わるものではないから、出かけようか。歩くのは、悪くない。そう思って飲み物を用意し、外へ出た。
 暑い日差しは容赦がない。だいぶ身が慣れてきた。途中で図書館へ立ち寄って少し身体を冷やし、のんびりと歩く。これまでソファだけであった図書館前のロビーには机と椅子を設え、パーテションで仕切って、何人もの中高生が勉強をしている。そうか、夏休み中か。図書館内のデスクは読書研究用につかうのを原則としているから、勉強道具を持ち込むのは、許可されない。とは言え、この暑さ、冷房の効いた広いロビーを空けておくよりは、こうして机を設えるのは、悪くない。といっても彼らが占めているのは、ほんの一割の広さにもならない。こうした運用も、融通が利くようになった。
 図書館も人が多い。あとで気づいたのだが、生協の駐車場も、火曜日というのにずいぶんたくさん車が止まっている。そうか、お盆休みに入っているのか。図書館に勉強に来る中高生も、自宅には父親も母親もお盆休みでいて煩わしい。外に出て気儘にしていたいのかもしれない。
 生協で買い物を済ませ、カミサンはドラッグストアの安売りに寄っていくと遠回りをする。私は真っ直ぐに家へ向かう。びっしょりと汗を搔いている。荷を然るべき所に納めるのにも、ちょっと気力を振り絞るようにしないと、すぐにとりかかれない。それを片づけると、ソファに座って、しばらくボーッとしているのが心地よい。そうだ、冷房をしようとスウィッチを入れる。
 こうして昨日を過ごし、夕方の天気予報を観て、今日チケットを買いに行くことに決めた。買ってしまえば、行かざるを得ない。行ってしまえば、登らざるを得ない。上ってしまえば、降りざるを得ない。降りれば帰るほかない。
 こういうと何だか、義務的に振る舞っているように響くかもしれないが、そうではない。加齢によって生じるわが身の裡の微細な心境の断裂を、こうやって飛び越える微妙な跳躍をいくつもやっているのだ。心身一如が意思的に行われる身の上になって、そうと、気づいた次第。
 若い頃は、瞬発力があった。ポンと飛び越えるのも、無意識の動きに任せて何の不思議も感じなかった。そうやって振り返ると、若い頃に登った山を何十年か経って歩いてみると、えっ、こんな岩だらけの山だったかと新鮮な思いで感じているワタシを発見する。これも、無意識がそのままで通用した心身一如時代と、一つひとつ意識して歩調を合わせるようにしないと容易に飛び越えられない八十爺の今とが、これまた人生なのだわいと思い知らされている。
 ははは。オモシロイと言えば、面白い。どこかで突き放して自分を観ているのが、面白がる余裕を与えている。


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