mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

思い込みの絶大なすれ違い花の楽園、難行の苗場山

2016-07-28 16:18:04 | 日記
 
 昨日の《帰納的か演繹的か――世界を描くむつかしさ》書いている時に、モノの考え方において大きな違いを生む出発点の思い込みについて、ふと思い浮かんだことがあった。宗教に関することである。欧米的な志向が「希望のあかり」として強く働いていたとthった。高校生の時の西欧思想とはマルクス主義であった。私は経済学を選んだのだが、マルクス主義の思想は、いろんな場面でいろいろな人とメディアを通じて流れ込んできた。その中の一つに、「宗教は民衆のアへンである」というのがあった。
 
 アヘンというとまず私は、アヘン窟を想いうかべる。小学校の3,4年の時だったと思う。タバコやマヤクをのむと(中毒になって)このようになると(今風に言うと)劇画にしてあった小さなんパンフレット。繰り返し見て、今見ているのと別の世界があると強い印象を私の胸中に刻んだ。戦後のヒロポンなどが世の中にまん延するのに対応した啓蒙パンフレットだったのであろう。もう少し大きくなってからは、アヘン戦争の話が当時の清の対応をふくめて頭に浮かぶ。だから「宗教は民衆のアへンである」ということばも、間違いなく不正・不当なことという響きをもって受け止めていた。
 
 ところが1970年前後のことだったと思うが、何かの本を読んだか誰かから話を聞いたか、マルクスは(その言葉を書いた当時)痛み止めのためにアヘンをつかっていたことがあって、言うならば、民衆にとって宗教というのは厳しい人生の痛みを忘れさせる力があると表現したにすぎない、というのである。耳にした当座は、何を言ってるんだかと聞き流していたのだが、ある時ふと、価値的な物言いではなく、事実の指摘だと思ったとき、たいへん大きな思い込みをしていたことに気づいた。つまりマルクスのそれは、宗教を排撃しようという表現ではなく、民衆に対する作用力を指摘したにすぎない、と。中毒になるほど依存すると大変なことになるが、現実生活にはそれなりに必要なものではある、と。そう考えてみると、社会主義国で行われていて、当然と思われていた「宗教の排撃」は大きな間違いをしている。そう思った。
 
 こうした思い違いを、私たちは案外多くしているものかもしれない。自分のはじめから抱いている思い込みには気づかない。幼児期を含む身への刷り込みは、当人には隠されているからだ。だが気付かないまま、価値的にコトを判断してしまうと、今度はそれが根拠となって、次の物事の判断のステップに踏み込む。こうして累積した「思い込み」が、他の人と対しているときの絶大なすれ違いとなり、とてももどかしくて付き合いきれない、という思いに至るのである。
 
 結局、我が身が受け取る感覚や考え方を一つひとつを引っぺがして、その根拠を問い、我が身の輪郭を描きとるようにして世界と対する以外に、向き合うほかない。どこまで行っても、優柔不断の宙づり状態がつづく。でもそういうものかもしれない。「無」だ「空」だと居直って悟り面してみても、少しも「かんけい」は変わらないのだから。
 
 さて、今日から三日間、田舎へ帰ってくる。母親の3回忌。こうして私の身に刻まれた「累積」が緩やかに遠ざかっていく。

花の楽園、難行の苗場山

2016-07-28 16:18:04 | 日記
 
 今日(7/28)の朝日新聞に「東北の高校生 日本一の頂」と見出しをつけて、登山家・田部井淳子さんが富士山へ高校生を案内したことが報道されている。この記事によると「登頂はしなかったものの(田部井さんは)登山道で高校生を励ました」とある。年齢をみると、76歳。おやおや、彼女でもこうなるのか。
 
 というのも、一昨日から昨日にかけて苗場山に登った山の会の最高齢者・Otさんが75歳半。雨の中、5時間ほどかけて登り、山頂で一泊、やはり雨の中を5時間ほどかけて下った。累積標高差は約1300メートル。五合目からの富士登山に近い。この方もマラソンなどを経験しているアスリート。でもずいぶん弱くなったとご本人ももどかしそうであった。だが、田部井淳子がこうであってみると、Otさんはよく歩いている。まだまだへこたれる歳ではない。上りと下りの歩行タイムが同じなのはどうしてか? 一言で言えば、登るときの疲れが山頂一泊では取れないのだ。もちろんこの山は花の季節であるから、コースタイムで歩くことは考えていない。ゆっくりと登り、花を愉しんでこようという趣旨であった。
 
 じつはこの山、昨年夏に上る予定であった。ところが直前になって台風が襲来、中止。Otさんは、やはり山の会のKさんと昨年夏にこの苗場山に挑戦している。日帰り登山。しかし夏の暑さにやられて、神楽峰を過ぎたお花畑のあたりでダウン、Kさんだけが山頂に向かいOtさんはそこから引き返したという。彼にとっても私たちにとっても、リベンジ登山。私自身が昨年の下見登山の折に熱中症にかかり、這う這うの体で山頂までの往復をしている。だから今年は、山頂小屋に一泊するようにした。そこへもってきて、「曇り、降水確率20%」の予報が、「雨のち曇り、降水確率40%」に変わった。天気が悪いというよりも、夏の暑さにやられないで上れると、むしろ喜ぶような気分であった。
 
 越後湯沢駅をレンタカーで出発してすぐに小雨になった。この程度なら涼しく登れるとタカをくくったのもつかの間、登山口に着くころには蕭蕭と降り注ぐ本格的な雨になった。駐車場には3台の車が止まっている。山頂小屋も空いているに違いない。雨具を身につけ、登りはじめる。登山道は水が溜まり、ぬかるんでいる。急斜面では滑りやすく、すでにストックが威力を発揮している方もいる。その道を抜けるとヤナギランが群落をなしている。まだ7月なのに今年は、花の開花が速いのかもしれない。早くも花談義がはじまっている。こちらのは何、あちらのは何と名前の同定がやりとりされる。一人、若い男性が降りてくる。山頂に泊まったのかと聞くと、日帰りだという。4時半に登りはじめ今降りてきた、と。時計を見ると10時手前。5時間半弱で往復している。下山してしまうすぐ手前まで雨は落ちていなかったそうだ。これから雨がとれるか。
 
 25分ほどで和田小屋に着く。一組の男女が休んでいる。これから登るのかと尋ねると、「水場から引き返してきた。道がぬかるんでいて雨もひどくなったから、山頂をあきらめた」と笑っている。汗ばむが暑いほどではない。広いスキー場を左に見ながら樹林への道をたどる。岩と木の根と水浸しの泥道とを踏み分けて登る。ところどころに咲く花が目に留まらなければ、これほどしんどい登りはない。ヤマアジサイが花をつけている。何千キロもわたるアサギマダラが好むヨツバヒヨドリが群落をなす。ノリウツギも白い飾り花を開いて美しい。ミヅキは赤い実をつけている。オカトラノオが白い花穂をゆったりと垂らして群れをつくっている。
 
 下の芝、11時20分。その近くでキンコウカが黄色の清楚な花をつけて群れている。サンカヨウがすでに大きな玉のような実をつけている。イワイチョウが一輪咲いていて、雨の中カメラを濡らさないようにさかさかとシャッターを押したが、ボケてしまった。樹林を抜け中の芝に着く。12時。歩き始めて2時間半。お昼にする。雨も小やみになるが、風が出てきたろうか。気温が低い。食欲もわかない。私も、弁当のおかずを食べただけ、ご飯を口にすることが出来なかった。テルモスに入れたお湯がおいしいと思うほどありがたかった。食べていると、「寒いから歩きます」とMrさん。まだ食べている人がいる。「どうぞ先に行って。神楽峰の分岐で待っていてください」という。Sさんも同行する。Kzさんが慌てて食事を止めて、出かける用意に取りかかる。階段を踏みながら歩く。神楽峰の分岐で待っていた人たちは、最後尾の姿を見ると、さっさと出かける。寒いのだろう。ホソバコゴメグサが咲いている。
 
 ここから少し下る。お花畑にかかる。オタカラコウが黄色い花をつけて群落をつくっている。オニアザミが丸い大きな頭を重たげに下げ、その周りにエゾシオガマが花をつけて取り囲んでいる。赤い小さなクルマユリが緑の草とミヤマシャジンのあいだに背を伸ばして美しい。先行隊は、お花畑で皆さんを待っている。その脇に、ニッコウキスゲが群れてオレンジの花をつける。オニシモツケが蕾になり花になって赤い色どりを添える。キオンが黄色の花を咲かせる。タカネナデシコがたくさん花をつけているが、雨に濡れて力なく垂れさがる。同じく白いモミジカラマツも水にぬれて小さい穂がまとまって垂れている。トモエシオガマが白い花の群落をつくる。緑の葉のあいだにくるくると回るようなトモエ型の花びらだ。ヤマブキショウマが、もう咲き終わりなのか、クリーム色に変わりかけた穂花を開く。ウスユキソウがこれからの準備を整えて、色を変えつつある。クガイソウ、シモツケソウにまじってコキンレイカの黄色の小さな花がひときわ美しく際立つ。セリの仲間であろう、緑の蕾と白い花を天に向けて傘を広げるように開いている。マルバダケブキも黄色の花を咲きっちょに付けて存在を示す。
 
 先行隊はどんどん先へ行く。雲の中に隠れたその姿が、ときどき、パッと雲が取れて目に入る。Kzさんが「いやあ、雲海がきれいだ」と東を向いて声を出す。見ると裾の方へ視界が開け、峰々のあいだに雲が漂う。ウメバチソウが一輪、岩の間に顔を出している。「オオバタケシマランよ、それは」と声がして、植物好きの人がタケシマランとの違いを説明している。赤い実が顔を出す。登山道は厳しくなる。九十九折れに高度を上げる。その脇にオヤマボクチがすっくと立って緑の花をつけている。タカネシャジンがたくさんの青い花をぶら下げて、斜面の眼の高さを覆うように咲いている。前を歩く人の山靴がその向こうを踏んでいく。もうそろそろ山頂と思うが、何度も裏切られる。ひょいと山頂部に出るというよりも、ゆっくりと広い湿原が起ちあがるから、ここが山頂だという感動的な景観が、雲に隠れて見えない。
 
 山頂に達する。14時32分。ニッコウキスゲの群落が鮮やかなオレンジ色の花をつけて、出迎えてくれた。先行者のうちの一人、Sさんが傘をさして待っていてくれる。そそくさと山頂小屋に向かう。入口の脇に「乾燥室」があり、ストーブがたかれている。濡れた雨具をひとつひとつ衣文掛けにかけてロープに干し、靴をそこにおいてから、玄関を入る。部屋は? と訊くと、「どこでも、どうぞ」と奥を指さす。なるほど、一館一部屋。通路と一人分の背の高さ幅で仕切られた寝床がずずずっと繋がっている。泊り客は13人。全部収容で60人だろうか。今日はゆったりとしている。
 
 場所を決めて着替え、荷物を整理してから、食堂に集まる。「資料」をもってきて、今年度後期の「日和見山歩コース」を決めようというわけ。Kwrさんがビールを買ってきて皆さんにごちそうする。Fjaは焼酎を持ち込んでお湯で割っている。おつまみも持ち寄っている。Mrさん、Kwmさん、Sさんのつくってくれた「コース案」を一覧表にしてある。「Odさんのプランは?」とSさんが声を出す。「えっ? 送った?」と私。「送りました。pdfにした地図も付けて」とOdさん。私はみた覚えがない。「わかりました。あとで調べて、皆さんに送ります」と謝る。だが、山の一つひとつのコースの特徴の話に移るや、あれはここがどうと評定がさんざめく。わいのわいのやって、2時間経っても3ヶ月分しか担当者が決まらない。そこで、月ごとの担当者を決め、その方に任せるとした。すぐに決まった。
 
 夕食はカレーのおかわり自由。ずいぶん食べた。お茶がおいしい。お腹をいっぱいにして、7時前のTVをみると、明日は曇りの予報。よかったね、明日の日の出は4時半だそうだから、晴れているといいね、と言い合って、寝床に着いた。
 
 朝目が覚めてみるとちょうど4時半。よほどくたびれていたのだろう、9時間ほど熟睡した。窓を除くと、湿原のコバイケイソウの背の高い葉が雲の中に霞んでいる。曇りかと思いながら、また寝てしまった。起きたのは5時。雨が落ちている。「晴女・大明神の御利益も利かなかったねえ」とKwrさん。ふたたび昨日の、湿った登山着に着替え、荷物をパッキングする。ふと気が付くと、昨日の協議をメモしたプリントがない。あちらこちらを探してもなくて、忘れていなかったかを皆さんにきいて煩わせてしまった。帰宅して荷物を整理していると、残ったおつまみを入れた袋にポンと一緒に放り込んでいたことがわかった。
 
 朝食を済ませて、出発したのは7時10分。別の通路を通って登ってきたところに戻ろうと思ったが、通路が水たまりになってしまっている。雨が降り注ぎ、小屋も全部がすっぽりと雲の中に包まれている。もう一度山頂の木柱にところに行き、記念の集合写真を撮って下山にかかる。下山はしかし、調子がいい。岩が多く注意が必要なところもあるから、急がずゆっくりと下る。花がどこにも咲いているから、飽きることがない。昨日気が付かなかったところにクロヅルがある。オニシオガマも次々といくつも群れて咲いているのが目に留まる。タテヤマウツボグサも、もう一度写真を撮り直す。ヒメシャジンも、昨日見られなかった人たちの目にも入った。花畑を下山する。ハクサンフウロが4輪、梅雨を花びらにつけてきれいだ。トリカブトの仲間もこれからの花開く用意を整えている。リンドウの仲間があちこちに目に着くが、花開いていないので、これと同定できない。オヤマリンドウかと思うのもあったが、写真を撮って同定してもらうと、下の茎から花が出ているのか別の茎の先端に花がついているのかわからないから同定できない、と言われた。イワイチョウがあった。イワショウブも見た。ツルリンドウが一輪目に留まった。ヒヨドリバナの仲間だろうか、きれいだ。キンコウカが登るときよりもきれいに見えるのは、なぜだろうか。中の芝を下るころ雲がとれ、下に湖が見える。雨も止んだ。こうして上から見降ろすと苗場山というのが大きな山体をもっていることがよく分かる。山頂は新潟県と長野県の県境になっているようだ。山頂小屋は長野県栄村の村営だ。
 
 Otさんが下りの脚を慎重に運んでいる。たぶん疲れて、バランスが難しくなっているだろう。「どこも悪くありません。加齢です」というのが医者の見立て、と笑う。ゆっくりでも歩けるのだからいいじゃないとカミサンは言う。たしかに。今朝の新聞じゃないが、あの田部井淳子さんも、自分の名を冠した登山教室で、登頂出来なかったという。76歳。あれほどの山暮らしをしてきた人でさえこうなのだから、ほどほどに山に付き合ってここまで歩いているOtさんは、たいしたものよとカミサンはほめたたえる。そうなのだよね。考えてみるまでもなく、この山の会は高齢者の山の会だ。だったら、それに合わせて山を選び、皆さんがいっしょに行ける山を取り入れて山行計画を組むべきなのかもしれない。8月の鳥海山も、エスケープ・ルートを考慮したり、場合によっては途中で泊まることのできる山小屋を見つけておくことが必要かもしれない。そんなことを考えさせてもらった山であった。
 
 下山後の温泉は、Kwrさんの機転で350円で浸かることが出来た。そのあとの越後湯沢駅中の下山祝いも新潟のお酒のアンテナショップのような店。田舎風のおつまみも、なかなかおいしかった。Kzさんが日本酒の味をKwrさんに教わっていたのが印象的であった。ほんとうに皆さん、お疲れ様でした。

帰納的か演繹的か――世界を描くむつかしさ

2016-07-28 08:31:07 | 日記
 
 「私たちの戦後71年」を話していて、ふと気づいたことのひとつに触れる。乳幼児時代から、子どもにとっての世界は、、帰納的にできている。そう見るのは、大人になって振り返ってみた場合。じじつは、世界に身を浸してそこから感知吸収したことすべてが、我が身をつくる。つまり世界はひとつ、全部が我が身なのだ。それが(自分と違う)「世界」と分かりはじめるのは、「自分」が「世界」から分節化されはじめてからである。学者たちはその「世界」を「子どもを取り巻く環境」と呼ぶが、その言葉はすでに「自分」と「世界」が分節化していることを前提に用いられている。
 
 生まれ落ちた時から戦乱があって、「戦勝気分」が世に満ちていたり、あるいは空襲や「敗戦の混沌」の中にあったりすると、「混沌」が自分=世界、そのものになる。さらに分節化する最初の「大人」である親の立ち居振る舞いは、我が身に流れ込む栄養分のように「自然」と感じられる。その「栄養分」がうまいとかまずいとかいうのは、外から(あるいは後から)それを対象としてみるようになってからである。戦中生まれ戦後育ちの私たちは、混沌とか不安とか貧困とか不運とか悲惨ということを「自然」と感知して育ってきた。我が身に引き寄せていうと、混沌によってアナーキズムへの親和性が育くまれていた。
 
 そこへ投げ込まれたのが、「新憲法」である。GHQとそれとを分けて考えることなど、子どもには到底できないのだが、振り返ってみると、「新憲法」の提示する「基本的人権、民主主義、平和主義」は、その当時の大人の振る舞いとあいまって、子どもの心中にある種の「希望」をもたらした。いまは悲惨であるが、この「希望」のあかりをともし続けて生きていけば……という「あかり」は、歩みすすむ道しるべになる。そうか、そのようにして欧米への志向が我が身の裡に胚胎したのか、そう思った。「新憲法」の示していた道しるべは、いま振り返ると、カントの遺稿「永遠平和のために」と同じ質のものであった。フランス革命がひと段落してヨーロッパ中にそれが広がる気配を漂わせていた時期。「普遍的」のスタンダードとして欧米が私の胸中に居座った。
 
 とは言え私(たち)が受け取る欧米的なあかりは、我が身を通過するときに「身の程」との折衷を施している。それが順接的になるか逆説的になるか韜晦的になるか、世の中の進み方に対して建設的になるか反抗的になるか等閑的になるかは、世の中との相関でもある。その上、親からの自律という青年期の自己形成が重なるから、誰もが一様に同じ道を歩むはずもない。しかも親と子という相関だけで育っているわけでもない。兄弟との関係があり、学校における同級生や他学年生との関係もあり、ご近所や社会全体の動きや偶然のもたらす運否天賦も作用して、自律/自立ということもいろんな道筋をたどった。
 
 一つ私が印象深くいま思い出すことがある。私より5歳上の、後にジャーナリズムの世界で活躍した人が新聞記者になりたての頃に書いた「我が国という視点が世界を狭めている」という一節だ。それは第一次大戦が、それぞれ自国の利害をむき出しにした「帝国主義戦争」であったのに対して、第二次大戦が「ファシズムや軍国主義に対する正義の戦争」と理念的な「正義」を前面に押し出したことに関係している。「新憲法」は、それすらも含めて「我が国」という自国利害第一主義を取り払った「新しい世界」をイメージしていたのであろう。それが身の裡に流れ込み「希望のあかり」へと向かう一つのスッテプとして「我が国」を抜け出よと口をついて出たのであろう。
 
 だがそれは、「我が身を捨てよ」というに等しい。「捨て方」に触れないで「我が国」意識を非難するのは、倫理的な決めつけに過ぎなかった。もっともそのジャーナリストは国際報道に携わり、米国勤務を長く行って「捨て方」そのものにありようを実践的に示していたのではあった。そこが私との違いになったと、ふりかえって思う。私は外国を現場として活動することはなかったから、「我が国」意識をもつのは、本や報道などを通じて識る欧米やアジア諸国との対比においてであった。しかしそれは「我が国意識を捨てる」というよりは、我が国意識を礎にしてどう「普遍的に」世界を見てとるかであった。
 
 こうして私の身の裡で、いつ知らず身に刻まれた我が身の本体/本態ともいえるアイデンティティと、(かくあるべしという)普遍的なコトゴトとが、対立するようになった。いわば、帰納的に刻んだ我が身の本体/本態と、演繹的に志向する「理念」とが相克し、日々の暮らしにおいて出くわすコトゴトのひとつひとつに、なぜ自分がそう感ずるのか、なぜ自分はその「理念」を正しいと思っているのか、いちいち吟味するようになった。もちろん他人に(何かを)問われて、即答することもできなくなる。簡単明瞭に言葉を繰り出す場合も、身の裡の苦しさを捨象しなければならなくなる。こうして、私の中で、帰納法と演繹法が対立し、世界を一様に描きとることが難しくなってきたのであった。

ホントのこと

2016-07-26 06:17:49 | 日記
 
 寝床でふと気づいた「真・善・美」と私たちは教わったけど、「真」が必ずしも「善」とはいえないし、「善」が必ずしも「美」ともいえない。「真」が取り出されるとき、じつは、「嘘」とか「虚」が張り付いている。「善」は「悪」を見据えているから取り出される。「美」は「醜」とともに感じられてこそ成り立っている。ところが、「真・善・美」とまとめて教えられた私たちは、いつ知らず、「真」や「善」や「美」がともに並び立っていることと思い込んでしまう。
 
 もちろん、逆に、それぞれが別様の意味合いで、承知されていることもあろう。「嘘」こそが政治技術の真実であり、隠された「悪」こそが敵を損なう「善」となる。何を美しいと考えるかは、人それぞれと。つまり、「真・善・美」が普遍的なコトを意味するところにあっても、自分の感覚を神が見ているのと同じと誰もが感じていれば、いつでもそれは、「普遍」になる。
 
 こうしたことに気づいたとき、私たちは、乳幼児が体で覚えた「世界」が、ふと気づいたとき、母親との分離であり、突き放されたような孤絶感であり、ひととの違いを感じとる「私」の出発となる。そのようにして、
 「真・善・美」と訣別するとき私たちは、自分の外にその「真実」があると、ひと先ず思う。だがさらに長く生きて世の中のいろいろなことを目にすると、「真・善・美」の裏側に「虚・悪・醜」が隠されていることに思い当たる。
 
 こうしたまた、私は、我が体に刻まれた「真実」に思いを凝らす。その途次にあるのが、「私たちの戦後71年」であったと、寝床で気づいたわけである。酔生夢死。これから山に行ってきます。

今日から「私の夏休み」

2016-07-25 08:48:09 | 日記
 
 まだ梅雨が明けない。でも今日から夏休み。……ン? 毎日が夏休みじゃないの? って思うでしょう。そうなのですが、やはり、世間が「夏休み」のシーズンになって出かける「山」と「旅」とが「私の夏休み」って感じになる。さてどこへ行こうかと思いを巡らせるのが何よりも楽しい。
 
 明日から1泊の苗場山。これは私の山の会の月例山行である。昨年8月に計画していたのだが、台風とぶつかって「中止」した。今年は、そのリベンジ山行。天気予報が二転三転している。いかに何でも26日には梅雨が明けているだろう。絶好の夏山になると踏んで、半年前に計画した。十日前には降水確率80%、まいったなあ、これは。一週間前には降水確率が20%になり、「雨」が「曇り時々晴れ」に変わった。そうそう、こうでなくちゃあと、宿とレンタカーを予約し、参加者に実施連絡をする。去年下見で足を運んだときは、私自身が熱中症に見舞われた。苗場山というのは、山頂が広い湿原になっている。その途次の登りも、あちらこちらにスキー場が広く設えられ、ほとんど樹林がない。暑い陽ざしに照り付けられて、標高差1000m余を登るのを日帰りでやったものだから、熱中症にやられ、山頂手前で一度ダウン。しばらく休んでともかく山頂まで登って急ぎ下山した。だから曇りは、むしろ歓迎。よしよしと思っていた。ところが今日「現地予報」みると、26日は雨になっている。降水確率は1mm程度、暑くなくていいとも思うが、やっぱり雨はいやだなあ。下を向いて花だけを見て歩こうか。
 
 苗場から帰ってきて一日おいて、岡山へ行く。これは法事があるから。ついでに関西に住む子どもたちの家族に会って来る。その手筈はカミサンがやりとりして決めている。そこから帰ってきて、いよいよ夏山に行く。昨年は幌尻岳に行った。今年はどこに行くか、まだ決めていない。来年、白馬岳に案内しようかとも考えている。その下見も悪くない。焼岳や笠ヶ岳も残している。薬師岳には一度足を運びたいとも思っている。例年なら計画は一月前に決めている。アプローチも宿も予約をしてから入山するのに、今年は、どこへ行くかも決めていない。どういうことだ、これは? 
 
 山への意欲が落ちてきているのだろうか? もちろんそれはそれで悪くないと思う。意欲ばかりが先走って力がついてこないというのが、いちばん始末に悪いと考えている。確かに体力は落ちている。何日もつづけて山歩きをするのが、身に応える。昔は「一週間の夏山」がスタンダードであった。北アルプスや南アルプス、朝日連峰や飯豊連峰、東北の山々の縦走などを、わりと気楽に組み立てていた。今は3日か4日の山行が精いっぱい。そのように感じている。
 
 そういうわけで、宙ぶらりん。ならばテントを車に積んで、出たとこ勝負でぶらりと出かけようかとも思う。力が落ちて休養が必要となれば宿に泊まる。一週間分の食糧計画を建て、積み込んで出掛けてしまえば、あとはそれなりに「旅」になるだろう。あらかじめの日程と経路を決めて歩くのは、そろそろ卒業しなさいということかもしれない。
 
 そんなことを考えて、明日の準備をしている。今日から「私の夏休み」だ。