mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

見事なお花畑に迎えられた白山(1)

2019-07-31 19:15:06 | 日記
 
 二泊三日で、白山へ行ってきました。梅雨明け直前の雨の中、家を出て、暑い陽ざしの福井駅へ降り立ったのは12時少し前。京都を経めぐってくる方とレンタカー屋で合流し、まず、永平寺へ向かう。寺域の外れにある蕎麦屋で腹ごなしをする。おろしそばを食べたが、私が(習いはじめのころ)下手に打った時のそばに似て、やわらかく、ぶつ切り。建てつけは年代物らしく、木の切り株を椅子にしていた。
 
 門前町の永平寺は賑やかに混みあっていて、駐車場は一杯であった。さすがに750年程の径庭を感じさせる境内は、うっそうと茂る古木と苔むした石垣が参道を飾る。「永平寺全景図」をみると一番奥に「法堂」とある。「そこまで行こうか」と言うとmwrさんは「時間がかかるよ」と応じて、もっと手前で引き返してくるような感触だった。通用門から入り、入場券を買って靴をビニール袋に入れもって吉祥閣から道内の廊下を辿ってすすむ。階段をいくつも上がるが、建物は山の斜面に沿って建てられた平屋建てだ。後で図を見直すと、参拝者の泊まる「衆堂」やお坊さんが煮炊きをする「庫院」などは3階建てになっている。地下階もあると聞いた。結局「法堂」とその脇にある承陽殿まで見て回り、鎌倉期のころからつづく気配に身を浸してきた。
 
 白山温泉永井旅館は「日本秘湯の会」の温泉でもあるようだ。食堂にあった「案内書」では、甚之助谷の大きな地滑りがあって、土石流のために白山温泉のある市ノ瀬の集落も全壊、独りの生き残りが永井旅館を再開して今に至るとあった。平成21年からはじまった大規模地滑り防止のための砂防工事が、今も続いている。永井旅館の温泉は、それほど大きくないが、いい湯であった。ちょうど旅館の前が、土日には一般車輛通行禁止になるターミナル。バスが発着している。キャンプ場もあり、風呂であった今年還暦になる神戸の方は、5月連休に来てテントを張り三日間過ごして気に入り、秋にもまた来るつもりだと湯船の中で話していた。イントネーションの関西訛りが優しく響く。
 
 旅館のつくりは古く、今は使われていないらしい古い家屋が裏山の上の方に鄙びた佇まいを湛えている。8畳ほどと6畳の二間と縁側付きの部屋を4人の私たちに使わせてくれた。山小屋というよりは湯治場の風情であった。帰りにも風呂を使わせてくれ、気分よく山のベースにすることができた。
 
 空は雲に覆われ、見晴らしは利かない。朝食は5時半。6時過ぎに車で登山口の別当出合まで入る。道路わきの空き地に車が止めてあり隙間がない。一番下の何百台か入る広い駐車場まで下り、そこにおいて歩きはじめたのは6時35分。道の脇にオオウバユリが何本もの花をつけてすっくと立っている。10分ほどで別当出合の登山口へ出る。これから登る人たちが大勢いる。大きな吊橋がある。私たちは明日下山してくる砂防新道の道だ。橋を渡らず、観光新道の方へ踏み出す。すぐに上りとなり、ぐいぐいと標高を上げる。

「ニリンソウみたい」
 と、mrさんが指さす。? と思うが、なにかはわからない。帰って調べてみるとツルアリドオシ。その前にみた赤い実も同じものであった。ノリウツギの白い花に勢いがある。オオカメノキの実が赤くまとまっている。大きな白い萼が青や白のたくさんの小花をつけたヤマアジサイ?が葉の緑に映えてみずみずしい。アザミの仲間が赤紫の花を突き出している。
「ああこれこれ、アサギマダラの好みの花よ」
 と、kwmさんがヨツバヒヨドリを指さす。
 
 足元は岩を踏むような急登になる。ニガナの黄色い花が岩を押しのけるように開いている。相変わらずの曇り空がつづく。暑くないのがありがたい。登山口から1時間半で慶松平に着く。コースタイムより10分早い。サササユリが一輪、薄紫の淡い色の花を下向きに咲かせている。東日本ではヒメサユリだが、西日本ではササユリと呼ぶらしい。シモツケソウが蕾から花に変わり始めている。薄紫色のギボウシの仲間がササのあいだから蕾をたくさんつけて伸びあがっている。
 
 背の高いササ混じりの急な上りがある。何しろ今日上るのは標高差1200m。前半の4時間ほどは平均すると20%の登りになる。ヤマハハコが目に止まる。見上げると前方の雲が切れ、雪に抑えられてかたちのひしゃげたダケカンバの樹々の合間に、うっすらと山の頂が浮かぶ。ハクサンオミナエシだろうか。黄色の花がひときわ目立つ。小さな花をつけてミヤマホツツジがひっそりと草木に紛れ㋒。ノカンゾウの花が笹竹のあいだから顔を出す。あれコオニユリがあると言ったら、kwmさんがクルマユリよと葉の形をみて訂正する。ニッコウキスゲの花が今を盛りと咲いている。
 
 「←別当出合3km・室堂3km→」の標識がある。大きな岩が登山道に倒れ掛かって、その下をくぐる。このルートのちょうど半分だ。陽ざしが出てきた。北の方をを見ると白山釈迦岳であろうか、深い谷一つ向こうに聳え立つ峰が雲間に見える。ここからがお花畑であった。またササユリがあった。クガイソウ、その脇に咲いているのはタカトウダイか。ミヤマホツツジ、タカトウダイ、イブキトラノオやダイモンジソウが花をみせる。エンレイソウが大きな葉を広げて黒い実をつけている。シナノキンバイだろうかミヤマキンバイだろうか、群落をつくる。おっ、ヨツバシオガマだ。モミジカラマツソウもある。とうとうハクサンフウロが登場した。標高は2000m。ということは、今日の上りの2/3。そうかここまできたか。殿が池避難小屋ではたくさんの人が休んでいる。9時45分、登山口から3時間、ちょうどコースタイムだ。「いいペースだ」とkwrさんの歩きを褒める。
 
 池の淵にはコバイケイソウも見事な花をつけて、群れを成す。この先には高い木がない。クルマユリが群れている。kwmさんがマツムシソウを見つけた。一度見つけると、次々と目に入るから不思議だ。ヤマブキショウマの咲き乱れる中を登山道はつづく。カワラナデシコも目に止まる。ハクサンシャジンがある。シロバナハクサンシャジンだろうか、白い花をつけたのもある。白味の強い薄い紫のこの花はハクサンチドリかと思ったが、花びらの先が丸い。テガタチドリであった。ニッコウキスゲが斜面一杯に咲いている。それをバックに写真を自撮りしようとしていた若い女性がkwrさんを見て、シャッターを押してくれませんかと頼む。kwrさんは「私はだめなんで」とkwmさんに話を向ける。シャッターを押す。彼女は代わりに皆さんを撮りましょうと、私たちもひと並びする。雲が取れず、見晴らしは利かないが、お花を楽しむには十分なルート。いままさに旬だ。イワオウギの白い花が足元の岩場に垂れ下がる。ミヤマオトコヨモギがたくさんの花をつけて立っている。ハクサンタイゲキが黄緑色の二枚葉の真ん中に黄色の花をつけ、その中央から玉つきの羽根のような蕊を出している。キヌガサソウが花の輪郭をくっきりと示して大きな葉の上に座る。ショウジョウバカマの受粉した後の姿も見えた。おや、頭をもたげて胸を張っているようなのはシナノキンバイだろうか。
 
 上から降りてくる人たちとすれ違う。朝7時ころには土砂降りの雨だったらしい。20人もの大人数のパーティもある。その都度立ち止まって、道を譲ったり譲ってくれたりした。こちらを下山に使うのは考えものだ。
 
 倒れた標識がある。「蛇塚2240mJUDUKA」と標高が記されている。低い草木のあいだを雲に向かって歩く。と、大きな岩が立ちはだかり、それを回ると人がたくさん休んでいる。吊橋で別れた砂防新道との合流点「黒ボコ岩2320m」だ。上る人、下る人の合流点でもある。上ってすぐに私たちが道を譲った単独行の20代女性も休んでいた。話を聞くと「車で1時間かけて来たから、地元かな……。日帰りです」と元気そのもの。ここから1時間ほどかけて山頂に行き、砂防新道を下るという。mrさんもへばっていない。黒ボコ岩に登ってインスタ映えする写真を撮っているのだろうか、ポーズを決めている女性たちがいる。
 
 弥陀ヶ原の木道に上がると、山頂の方に大きな雪渓が見える。室堂は見えない。もう一つ高台に上がったところにある。
 「やあ、すごいねえ」と、周囲の景観の大きさに感嘆しながら、kwrさんは自分をほめている。弥陀ヶ原の「霊峰白山登拝道」の石標があるところで、先ほどの単独行の若い女性が、私たち4人並んだところのシャッターを押してくれ、挨拶をして山頂へと向かった。「木道沿いには花はないよ」と登っているとき教えてくれた方が「でもクロユリが2輪ある」と隠し事でもするように話したことが耳に残り、探してい歩くが、ほとんどササに覆われている。ただ、ササのあいだからコバイケイソウがすっくと立ちあがり、原一面に頭をもたげているのが壮観だ。原の向こうにも木道があるらしく、霧の中に人の動きが見える。

 「(原を)歩く元気あるよ」
 とmrさんはいつものブラフをかける。じゃあ、ひと回りしましょう、と応じると、いや、いやとご遠慮なさる。あった! kwmさんがクロユリを見つけた。木道脇の草叢の陰に隠れるように小さい花を垂れている。
 
 室堂への最後の上りにかかる。大きな石がごろごろしているが、まるで石段を設えたように階段状になって歩きやすい。それを踏み伝って身を持ち上げる。下山してくる人たちとすれ違う。下山の人たちは午後3時ころに別当出合に着くか。必ずしも遅くはない。うしろから飛ぶように登る女性が来るので、道を譲る。だが、少し上で彼女が私たちに道を譲る。彼女の後続がやってこないのだ。途中で振り返ると、山肌の下方が雪を蓄えてくっきりと見渡せる。その緑の中に二本の木道が弥陀ヶ原を囲むように走っている。
 
 11時50分、室堂登山センター着。汗に濡れてはいるが、雨に濡れたわけではない。その向こうに鳥居があり、霊山奥宮遥拝所の建物があり、その後ろの御前峰は雲の中にある。道はまっすぐハイマツを押しのけて山頂へ向かっている。
 「天気が悪くないうちに山頂へ行こうかしら」
 とmrさんが、またブラフをかける。どうぞどうぞと、こちらも口だけでお奨めして、食堂で荷を解いて生ビールで乾杯する。宿泊の手続きは13時から。ビールだけではもたない。宿でつくってくれたおにぎりをつまみに白ワインを追加する。すきっ腹にすんなりと馴染み、それでさらに疲れをいやす。ヘリコプターがやってくる。ロープを下ろし、下の人が荷を二つ付けて吊り上げ飛び去る。建物の建築作業の途上のようだ。宿泊手続きは、受付に列をなしてはじまる。カードに必要事項を書き込むと、1人のスタッフが順番にそれを見ながら費用計算をして書き込む。それを受付に提出して、お金を払う。終わって待っていると、別のスタッフが呼びに来て、部屋に案内してくれる。
 
 二段ベッドが向き合って、ひと部屋32人収容の蚕棚式山小屋。布団は敷き詰めてある。昨年仙丈ケ岳に行ったときの小屋には、仕切りのカーテンがあった。それも無い。頭の上に20センチ幅の長い棚があり、そこにザックなどの荷物を置く。私たちは上の段。垂直な梯子が「たまらないね」とmrさんが感嘆の声を上げる。夕食後は、8時半の消灯まで人の話し声が絶えない。朝は、3時過ぎからガサゴソガサゴソと荷をパッキングする音が響く。夜7時から朝4時まで横になって、身を休める。
 
 夕方外へ出てみると、雲が晴れていて、山頂が見える。御前峰は一面をハイマツに覆われた大きな山体だ。南側へまわってみると、こちらも雲が取れ、正面に姿のいい大きな山体がみえる。別山ですよと、傍らの人が教えてくれた。遠方は雲がかかっている。その彼方の雲のなかの、あれが能郷白山、その右側が荒島岳と教えてくれる。まさに白山は越前の主峰だ。その標高では西日本で一番高かったのではないか。富士山や御嶽山と並んで昔から信仰の山と呼ばれ、参拝者がたくさんあったとkwrさんは調べてきている。(つづく)

魔の山という超常現象の謎

2019-07-28 05:39:01 | 日記
 
 ドニー・アイカー『死に山――世界一不気味な遭難事故《ディアトロフ峠事件》の深層』(河出書房新社、2018年。原題はDead Mountain)を読んだ。書名の「副題」に魅かれた。映像作家のルポルタージュだ。1959年、ソ連のウラル山脈北部の雪山へトレッキングに出た青年たちが遭難した出来事が「ディアトロフ峠事件」だ。
 当時のソ連で「トレッカー」として最上級の資格を手に入れるために、10人のトレッキング・グループの大学生がウラル山脈の北部のオトルテン山へ向かう。厳冬期、1月の末。帰還する予定日になっても帰ってこないことから捜索が始まった。現場は少数の狩猟民族が暮らすほぼ未開の地。「死の山」と恐れられている。
 
 彼らが現地に発ってひと月ものちになって、テントが見つかる。テントの中はきちんと整備され、靴などを置いたまま隊員は皆、姿を消していた。その翌日、1.5キロも離れたところで二人、そこからさらに300m離れたところで二人の遺体を発見。いずれも、低体温症でなくなったとみられるが、獣に食い荒らされた様子。靴も履いていなければ、防寒着も来ていない。3月になってもう一人発見され、さらにふた月ものちになってやっと、残りの人たちも発見された。しかしこちらの方は、人為的に加えられたと思われる力によって、頭蓋骨陥没骨折や肋骨の骨折などの打撃を受けており、それが死因になったとみられる。うち一人は、舌を切られていた、と。あるいは多量の、放射線を被ばくしていたこともあって、軍にかかわる秘密に触れたために殺害されたのではないかと憶測がなされ、当局による抑制が強く行われたためもあって、いっそう「謎」めいた陰謀説もささやかれるようになっていた、という。
 
 その捜索と発見と、大きな謎に包まれたまま蓋をされてきた「資料」が近年になって解禁され、それを読み解き、現地に足を運んだのが、この映像作家のアメリカ人。いろいろな(原因となる)可能性を一つひとつ消していったのちに、ふとひらめいた糸口となる低周波音のことを、その筋の専門家たちに問うてみたところ、そうではないと否定される。
 
 だが腑に落ちない。この映像作家は、テントを張ってあった現地の踏破で得た「画像資料」を全部提供して、この専門家にもう一度検証を依頼する。と、思わぬところに「謎」を解く鍵が潜んでいた、という筋立て。もちろんそれをここで明かしては、興を殺ぐ。読書家の倫理にも反する。
 
 面白いのは、現地の少数民族の狩猟民たちが「恐れている」ことが、近代科学の裏付けを得たということだ。本書でその言葉は使われていないが、「魔の山」として畏れられ敬われていた別の山が、「ディアトロフ峠事件」の「謎」の鍵であったとは。1959年という時点のソ連が、しかし近代的な捜索手法や指揮体系を採用し、なおかつ、必要以上に秘密主義的に人びとに采配を揮う気配が浮かび上がって、むしろ「謎」はソ連の支配体制にあったのではないかと思わせるなど、面白い読み物であった。もちろん著者は、直にそのようなことに触れてはいないのだが。
 
 さて、これから(雨がまだ降っているかな?)白山へ出かけます。「(たぶん)梅雨明け」の晴天の中、絶好の山歩きになるはず。またしばらくブログは、お休みします。ではでは。

団地コミュニティの異変

2019-07-27 11:45:31 | 日記
 
 明日から山に入るので、このところ準備に忙しない。といっても、用具の準備ではない。歯医者に行ったり、留守中の用件を片付けたり、要するに身の回りの始末をそれなりにしておくというのである。昨日歯医者に行こうと外へ出たら、団地の方から「今朝方、何かあったのですか?」と訊かれた。理事長を務めて以来、顔見知りが増え、このように声を掛けられることが多くなった。
 
 そう言えば、朝4時ころ窓の外で男が何人かワイワイ喋っていたのに気づいた。うるさいなあ、朝から、と時計も見ずにいたのに、どうして時刻が分かったのか。新聞配達のバイクの音が聞こえていたから、3時半から4時のあいだと思っていた。しばらくしておしゃべりは止んだからまた寝入ってしまった。声をかけた団地の方は、消防車とかパトカーも来ていたんじゃないかしらという。そうして、向かいの棟の何階かの家のベランダの窓を開けようと消防署員が階段通路から入り込もうとしていたというのだ。へえ、そうですか、何にも知りません、熟睡していたのですね、と受けて、どなたか救急車を呼んだけれども、玄関の施錠をしたままだったのだろうかと思うともなく考えていた。
 
 歯医者の帰りに団地事務所に寄って話を聴こうと思ってはいたが、歩いているうちにそれを忘れてしまっていた。今朝ごみを捨てに外へ出たら、ちょうど一年ほど一緒に理事を務めた方と顔を合わせた。聞いてみると、やはり情報通の彼のこと、よく知っていて、「聞いた話ですよ」と断って聴かせてくれた。
 
 昨日(7/26)早朝の3時半ころ、新聞配達の方が階段を通っていて「異臭」に気づいた。ドアの新聞投入口に近づいてみると、明らかにここから臭う。彼はすぐに119番に電話をし、やってきた救急隊員が事態を察知、この部屋に侵入しようとしたというのだ。彼の世情通の元理事は3階に居住しているから、向かいの棟の一部始終が手に取るように分かったという。わが家の正面の家だ。
 
 こういうことだったと、以下のような顛末が分かり、笑い話となった。
 
 彼の家の方は海外への出張で3カ月ほど留守にしている。ああ、そういえばこの方、じつは今年の理事。留守がちになるので、その間は階段の理事仕事を昨年度の理事が引き受けることになり、(役員交代の時期にすでに出張していたので)当時現役の理事長であった私にも、その話は伝わってきていた。彼の人は出張に際して、家の電源を全部オフにして出かけた。ところが、冷蔵庫の電源もオフになったものだから、その中に入れておいたキムチが、すっかり熟成してか腐ってか、強烈なにおいを放ち、それがついには、玄関の外にまで臭ってくるようになって、新聞配達のお兄さんに伝わったというわけ。私が耳にしてうるさいなあと思った男たちのおしゃべりは、この「異臭」が独り暮らしのこのうちの方の「異変」かどうかと思われたのだ。むろん独居老人というほどの方ではない。
 
 救急隊員は浸入するのに、北側のベランダから入ろうと階段通路の壁を伝た.ってベランダへあがり、網戸を外してはみたものの窓の施錠を外すのに手古摺ったらしい。どうにかして鍵を外して侵入し、上記の事態が分かったそうだ。
 
 で、どうしたんだろう。臭いをそのままにはしておけないし、海外の連絡先は(たぶん今期の理事長も)聞いてはいないだろう。また、キムチをそのままにしておいたのでは、ことがおさまらない。こういうとき、救急隊の権限で措置できることってどこまでなんだろうと、私の推測は飛ぶ。キムチを棄てるわけにもいかず、電源をオンにしておくわけにもいかないにちがいない。消臭措置をして、緊急にそのような措置をとったことを書き置いて、帰国したら連絡してくれと、警察か救急隊の連絡先を記し置いたか。
 
 新聞配達の方がコミュニティの一角を担っているという話は、何年か目から耳にしていた。だが、団地の(同じ階段の)居住者が気づかなかったろうか。気づいても、知らぬふりをしていたのだろうか。それとも、私のように年を取ったご近所の方は臭いを嗅ぎ取る力が失せて、若い新聞配達員だからこその、発見だったのか。コミュニティに鼻の力も問われるのかと、思った。

年寄りは障碍者だ

2019-07-26 21:36:17 | 日記
 
 今日(7/26)、ストレッチの運動の後、ご近所の方々と月例の飲み会があった。商社や外務省や国内企業の退職者などが公民館でやっている会を軸に、月一回、飲み会をやろうというちゃらんぽらんな集まり。その時ふと誰かが、「やまゆり園3年」といったことから、話しがはじまった。はじまりは、被告の彼が「障碍者はいらない」という意見を変えていないこちであった。話は拡散しほかの話題に転じているうちにやはり誰かが、(今の時代は)年寄りを大事にしないと言ったことから、一挙に話題が収束した。
 
 「年寄りって、障碍者じゃない」
 
 「やまゆり園事件」の被告の言説に共感する部分を、もし、持ち合わせているなら、1年寄りは障碍者じゃないか。もしそれにいくぶんかでも共感するところがあるなら、被告の言い分を私たちは、わがコトのように受け止めてもいいのではないかと、話しは展開した。
 
 酔っ払いの話であるから、コトはすぐに収束したが、「年寄りは障碍者」というフレーズは、残った。世の中の役に立たない人たちは、排除されて然るべきだという論理は、どこか私たちの内心に巣くっていて、ときどき(私たちの内心に)頭をもたげる。
 
 年寄りである私たちが、その思いを内心に抱いている。だから、やっかいなのだ。自身のことについて、そのように思っている部分があるということは、別に政府から「国賊」といわれようといわれまいと、私たち自身の立場からケリをつけなければならないと思う。
 
 いますぐにここで、結論を出せといわれてできるわけではないが、なかば同意するような気分がある限り、「やまゆり園事件」の被告と私たちは同じ被告席に座っているのだと、思った。

孤独と孤立の分別

2019-07-25 09:28:56 | 日記
 
 森博嗣『孤独の価値』(幻冬舎新書、2014年)が図書館の書架にあり、目を通した。森博嗣はミステリー作家。20年くらい前だろうか、彼の作品が目に止まり読んだことがある。どちらかというとトリックに工夫を凝らしたもので、社会観や人間観はあまり匂わない。機能的というか、メカニカルな感触の作品だったので、以後手に取ることはなかった。ただ、国立大学の工学部教授をしているという身分がなんとなく気にかかり、名前を憶えていた。その彼のエッセイ。すでに退職しているというから、還暦退職をしたのであろう。結構なことだ。
 
 編集者の求めに応じて、このエッセイを書いたという。だから彼自身が切実に「孤独」を「酷い」とか「侘しい」と思ったわけではなさそうだし、いやそれどころか、むしろ、孤独は悪くない、すばらしいと考えている向きもある。その理由を坦々と記述するときに、世の中では孤独を酷いことという通念があるのを対象において、疑問を呈しながら分節化し、述べる。まあ、物書きの求められた哀しさが感じられる。
 
 それもあって、今世の中で問題にされるのが「孤独」ではなく「孤立」だということが分かっていない。先日も記した「やまゆり園事件」の被告のモンダイは(「妄信」が根っこにはあるが)、「社会的な不遇」が引き金であると記した。(世の中に受け容れられない)と感じるのが、何に拠るのかは人それぞれであるが、自分の思いが相応に遇せられないと感じることは(事件につながらなくとも)多々ある。自分の思いが達せられないではない。相応に扱われないことへの鬱屈は、「格差社会」という言葉が広まる以前から、広く(ことに若い人々の間では)溜めこまれている。「孤立を好ましく思っていない人が無視されるように孤立している」ことに端を発すると要約した。これは社会的な孤立の、現在の姿だ。
 
 「孤立」と「孤独」が違うことは、前者が場におけるありようであるのに対して、後者は心理的な感懐だという点にある。森博嗣のエッセイのテーマの設定自体が「孤独」であるから、彼の記述が心理的な趣に偏るのは致し方がない。とすると、「孤独の価値」という論述が「孤独は酷い」という社会通念を批判するだけでは、深まりようがない。「孤独」が「社会的な孤立」へと移行していく現代社会の構造をモンダイにしてこそ、「酷い」という感懐を掬い上げて、なお、「価値あること」へと展開するのが、物書きの業ってものではないか、と思った。
 
 「孤独」を周期的な波ととらえて、それを微分したところに感情の変化率が現れ、さらにそれを微分すると努力(加速度)の変化が見てとれると展開するところは、なかなか面白い見立てだと思う。山歩きにおける筋肉痛の現れ方で、私も同じように感じているので、なるほど工学的解析というのはこういうものかと、感心した。でもそれは、森博嗣自身が限定をつけているように、限られた条件の限られた局面における、いわば試験管の中だけで「測定可能な」見立てである。だが、「孤独」というのは、その「価値」を論じる森自身が、彼の生涯の総まとめのようなコトゴトを動員して述べるように、いわば、まるごとの人生のモンダイなのだ。とすると、社会的な孤立へも視界を広げて展開してこそ、「孤独の価値」を述べたといえるように思う。
 
 断片において共感するところを感じながら、ということは私にも、森博嗣のような機能的な、メカニカルにものを考える傾きがあるのだと考えながら、読んだのであった。