mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

どうしてこんなに短いのか?

2015-06-30 19:58:36 | 日記

 曇り空の中、身延町の富士見山に向かう。この曇では富士山は見えまい。いつだったか(圏央道が工事中・通行禁止になっていたとき)のリベンジ登山。快調に中央高速を走り、甲府南ICで降りて、富士川沿いに南へ向かう。ところが高速を降りて「目的地」まで25kmというのに、到着予定時間が1時間もかかることになっている。どういうことだ? 50km/h制限の道を(7時半ころの通勤ラッシュだろう)混んでいる車に連なって走る。でも、ノロノロではない。速度は50km、ときには60km出ている。徐々に、「到着予定時間」は早まる。そうかnaviは、田舎道は時速30km/hで計算しているのかもしれない。ところが、手打沢橋西詰を右折して登りはじめると、ほとんど一車線の細い道がかなりの急傾斜。壊れた舗装をセメントで埋め合わせて補修している路だから、でこぼこしている。標高も、220mから700mへぐんと上がる。なるほどこの道ではスピードは出せないね。

 

 でも、8時15分には歩き始めていた。甲斐やすらぎの宮という仏教寺院。大峰山の洞川を本寺とする修験のお寺さんだ。大日如来とか不動尊を祀るお祭りもやっているらしい。でも「宮」とある。これは神社系統ではないのか。この境内から、堂平登山口がはじまる。寺院のトイレも借りることができるように見える。いきなりの急登、この急登が標高差1000m弱あるというので、登りに来たわけ。コースタイムは7時間20分と私のみたコース記録にはあった。身延町が出している観光マップでも、合計330分とあったから、6時間半。標高差1000m弱なら、このくらいかなと思う。

 

 スギとヒノキの植林地をぐいぐいと登る。今日は初めからストックを出している。バランスをとる支えにして、身体の消耗を防ごうという目論見。ゆっくり歩を進める。私はこういう上りが好きだ。性に合っているのか、こういう上りはゆっくりでも、高度が稼げる。緩やかなルートだと高度を稼ぐのに1時間300mくらいしか進まない。ところが今日は、100mが12分弱、1時間に500mも登る。いつしかブナ林になり、広葉樹が広がる。標高が500mごとに表示されてルートガイドになっている。がんばれと激励しているようだ。その1100mのところに簡易な造りの避難小屋がある。カラマツ林になったころ、三方に分かれる標識があるが、一方は消されたように薄くなり、二本線を引いているように見える。これが「山王分岐」か? コースタイムは2時間とあるが、まだ1時間を少し過ぎたくらい。違うだろう。

 

 尾根筋に登るとアカマツとモミの林に変わる。地理院地図にある「1381m」地点を1350mと表示してある。ここで尾根が少し広い台地状になり、ここから尾根筋を外れて、北側は回り込むようにトラバースしながら高度を稼ぎ、主稜線へ上がるのだが、このトラバースが少し細いが歩きやすい。ピュイッという切れ味の鋭い笛を吹いたような声が響く。シカだ。バキバキと木を踏み砕くような音が下の方でする。みると樹林の間をシカの群れが移動している。ピュイッと別のシカが鳴く。思いついて私が、ピイッと口笛を吹く。すると、それに呼応したのか、またシカがピュイッと鳴く。しばらくそのやりとりをしていたら、頭上でピュイッとシカが鳴いた。上にもいたのだ。彼らが、今日登っている山の北方にある櫛形山のアヤメ平をすっかり絶滅させてしまった。何十年かをおいて歩いてみて、驚いた。アヤメがまったくなくなっているのだ。そうやって見みるとこの山も、草花がない。ニャロメ。

 

 標高1600mの主稜線に上がったのは10時。下から1時間40分ほどで登っている。ここが「山王分岐」か。「←富士見山山頂/御殿山・十谷峠→」「堂平山主下山道↓」とある。登りはじめには、陽ざしが薄雲を通して降り注いでいたが、今はまったく雲の中。富士見山山頂の手前までのコースタイムが2時間とあったから、この先アップダウンもあるのだろうと、気持ちを新たにして歩き始めた。

 

 ところがなんと、10分もかからないで、「平須下山道→」に出た。狐につままれたみたい、とはこのことか。ここから富士見山展望台までは10分の行程。半分の時間で着いた。1639mと表示されたこの山頂は、しかし真正の山頂ではない。北側の樹木が切り払われて富士山がしっかり見えるようにしつらえられた「展望台」なのだ。だが脇には、祠があり小さいが鳥居もあって、奥宮という感じがしている。わずかに、気に隠れるようにして「←山頂まで30分」と小さな看板が掛けられてある。ヘンなの。身延町の観光用山頂というところか。

 

 先の山頂へ足を延ばす。標高で20mほど下ってまた登り、また下り上りと繰り返して、同じ高さの「富士見山山頂 山梨百名山 1639.5m」と書かれた柱と石の三角点がある。カラマツの林になっており、ミズナラやハリギリやツツジが葉をつけている。秋に来るといいかもしれない。雲が接近して、霧の中にいるようだ。早いがお昼にする。15分ほどで済ませ、下山にかかる。遠望台に戻り、平須への分岐に行く。その途次にまた、シカを観た。今度は彼も立ち止まり、こちらをじっと観察している。私がカメラを出してシャッターを押しても動じない。口笛を吹いたら、ハッと気づいたように背を向けて飛び跳ねて緑の森に姿を消した。コアジサイがきれいな花をつけている。これはしかも食わないのだろうか。この展望台からの往復も、1時間とあったのに、それぞれ20分ほど。

 

 1600mの分岐から700mの平須登山口までの下山路は、快適であった。なるほどこちらを下山に使ったほうがいい。ジグザグのルートは、一部は崩れかけて注意を要するが、その大半は、トコトコ歩いて気持ちがいい。ついつい斜面に引きずられて2時間のコースを1時間20分で降りてしまった。しかも、平須登山口から堂平登山口までの林道歩きを、私が調べたネットでは15分とあったが、5分で着いてしまった。なあんだ、こんなに近いんだ。

 

 そういうわけで、出発から帰着まで4時間30分。7時間20分のコースタイムはなんだったんだろう。これなら私の山の会の、秋のコースにでも組み込もうかと思ったくらいでした。


投げやりに放置する悪い癖

2015-06-29 20:05:58 | 日記

 湿度が高いせいか、木々の緑の元気がいい。我が家のムクゲも、白い花をつけて、楚々とした風情を醸している。気温もほどほどだから、過ごしやすい。見沼田んぼの東縁も歩いている人がそう多くない。夏場はやはり、外出を敬遠するのだろうか。明後日から向こう一週間雨になる。山を歩くなら明日。そうだ、何週か前に圏央道の通行止めで行けなかった富士見山に行こうと、準備をする。車のガソリンをいっぱいにしておく。片道170kmくらい。20リッターちょっとで間に合う。目的地の住所がnaviにはない。その近くへ行って探せということか。前回準備した国土地理院地図で、確認する。まあ、現地へ行けば何とかなるだろうと、いつもながらのケセラセラ。

 

 司馬遼太郎の『韃靼風雲録(上)』を読みはじめる。どこへ向かうともわからない風情の語り口が、旅の風情に似ている。急がないで、あれこれしながら、ぼちぼちと読みすすむ。ところが主人公が、韃靼に人を送り届け、世情を偵察して戻って来いと命を受けるところから、俄然、文章が引き締まる。著者自身が何を「旅」していたか、急に分かったという気分が湧き起る。うまいなあと思う。それだけ「資料」を読み込んでいて、世界を構築していてなお結論に向けて急ぎ走らず、主人公とともに物語の世界を歩いているからなのだろう。短兵急に結論付けた浮薄な物言いをして「あれは冗談だった」とか「そもそもマスメディアは盗み聞きしていた」などと戯けるのとは、おおよそ格が違うわいと、読み手の思いも旅をして道に迷う。

 

 その合間に、8月初めの幌尻岳登山の予約faxを送り「山荘」への料金振込をする。郵便局のATMから送るときに「振替用紙」を記入するのかと思って書きこんでATMに向かったら、全部打ち込みでしかも振込通知を「郵送」に(指定)すると、料金が無料ということも分かった。やっぱり全国ネットは違うなあ。ついでに、「幌尻岳・十勝岳登山計画書」を作成する。これは「道内どこの警察署でも受け付け」とあるから、到着したときに新千歳空港の警察署に投げ込んで、帰るときに「下山報告」をすればいいかなと思う。ついでに同行者に「山行計画決定版」をつくりあげ、装備品、留意点などを記して、一人はメールで送りもう一人は会うことにする。この後者は、タブレットなどと使っているのに、メールはやらないというお人。なぜ? 「メールをやるとたくさん来て、煩わしい」という。そうかなあ。メールは、相手の都合に割り込まないから、とても品のいい通信手段だと思う。たくさん来るのはたいていコマーシャルメールだから、「迷惑メール」に入るようにしておくと気にならないよと何度か口説いたが、彼は断固としてメールをやろうとしない。仕方ないから、彼には「郵送」したり、会って手渡ししたりするしかない。今どき、と私は思うが、まあそういう人がいてもおかしくはない。でも、彼の方が私より一回り若いんだよ。ヘンだよなと思う。明後日朝、会う約束を電話でする。

 

 5月末のSeminarの音源を起こす。今まで放っておいた。どうしてかわからない。興が乗らなかったからと言えばそうも言えるし、この夏に向けて作成中の母親の祈念誌の作成にかかりっきりであったと言えば気持ちはそうであったと言えなくもない。だが実態は、まったくそうではない。ところが昨日、「1年前のあなたの投稿記事」というメールが届いてみてみたら、「ゴミ屋敷」の人のことを書いている。簡略に言えば、目前の一つひとつのことを、その都度「完結」させていくことによって、かろうじて私の生活は保たれている。それができなくなって、始末をつけずに放りだしたまんまにするようになったら、そろそろ私も自立生活が難しくなってきたということだ、というふうなことを書いている。それを読んで反省した。「完結」させないで放置するには、まだ早い。興が乗らないのなら、なぜ興が乗らないのか問い詰めてみるのが私の流儀ではなかったか。そこまでやって放置するならいいけど、それもしないで放り出しておくのは投げやりってもんだと、朝から取り組んでいる。1時間分、起こした。起こしながらまた、あれこれ考え込んでいるから、それはそれで面白いのだが、でもなぜ放り出しておいたのだろう。

 

 おや、もう夕方の6時だ。早いなあ、時の経つのは。まあそれでも、まだ生きているのに飽きは来ないから、ダイジョウブ。集団的自衛権の世の中の騒ぎが、ほんとうにばかばかしく思えてしかたがないが、これも、放置しておいていいのかどうか考えなければならんのかね。


子どものリアリティ、大人のヴァーチャル

2015-06-28 17:10:49 | 日記

 金曜日の夜から、2人の孫が来ている。その母親が海外へ出張、父親はこちらに用があったので、やってきてその仕事の間、孫をジジババに預けておこうというわけ。むろん断ることなく、ババは、どう過ごさせるか、あれこれ算段していた。小学校4年と1年。

 

 孫たちを、ディズニーランドへ案内する。親が両方ともアウトドア派、山や川でキャンプを張ることはしても、ディズニーランドは知らんよという人たち。事前に息子に話しておいたら、「子どもらはけっこう楽しみにしている」という。上の子は学校の友達から、土産やらイベントやらいろんなことを聞いてきている。

 

 ジジにも付き合うかというから、子守の必要があれば行くよと言っていたが、迷子予防のために一緒することにした。チケットはババがちゃんと事前に購入している。何時から行くかというから、早く行って早く帰ってこよう、開園時間に行きましょうかと言ったのだが、なんと開園は朝8時。そんなに早く行くことはないよ、だって通勤ラッシュじゃないか。8時ころ家を出ようよ、と。しかもババは帰宅は夜9時ころになるかも、と。どうして? だって、夜の部のパレードや花火もなかなか見所があるという。おいおい、まだ10歳に満たない子ども連れがそんなに遅くまで遊んでいるわけにはいかないよ、と私は止め男。

 

 だが子どもらは、午前5時半には起きだして出かける構え。電車に乗ったのは、8時ころであった。あいにく混雑する通勤電車となるのは千葉県内に入ってからであったから、舞浜まで座っていけた。途中で何かあったらしく「安全確認」のために停車。電車は30分遅れ。入園したのは9時半であった。

 

 私は3度目。いずれも(別の)孫のお供。それでも、こんなに人が多いのかと驚いた。土曜日かと納得していたら、ババがいうには、今日は空いているそうだ。何しろ予約チケットの交換が待つことなくできた、から。多いときは、チケット売り場から駅にかけて行列ができ、入場制限になるそうだ。ふ~ん、そう、と言いながら中に入る。孫たちは駅からのアプローチに、もう目を輝かせている。たしかに、アニメの世界に踏み込むような造りのお城やホテルやディズニー列車が走っている。ふだんテレビもない暮らしをしているこの孫たちが、こういう世界があること自体に驚嘆するのは無理もない。

 

 「わずか20分待ち」というので、最初の「カリブの海賊」に入る。次々に船が来る。4人何列かの乗客が乗ると、船は出帆し、洞穴の中をたどる。船長はいないから自動操縦。いきなり頭上でしゃれこうべが「もう引き返せないぞ」としゃべる。二人の孫はすっかりビビっている。息絶えた骸骨が横たわり、おどろおどろしい音が響き渡る。つぎのブロックに入ると、両岸の海賊たちが鉄砲をぶっぱなし、さらには船の大砲が火を噴く。水柱が上がる。孫をみると、4年生が顔を伏せている。怖いらしい。1年生はときどき顔をあげては目を伏せる。あまりこのままでは仕方がないと思って、「ほらっ犬がいるよ」と声をかけると顔を上げ、しばらく海賊たちのどんちゃん騒ぎをみて、気持ちが落ち着いたらしく、金銀財宝の隠し場所をしげしげと眺めている。

 「怖かったあ」と1年生。4年生はしばらく沈黙。歩きながら、「怖かったけど、あとで考えると、海賊は僕たちに気づいていなかったよ。違う方へ鉄砲を撃ってた。恐くはないよ。」と分析的にみていたことを明かす。なかなか面白い精神作用だと思いながら、「そうか、そうか、なるほど」と話を聞いた。

 

 人の数がぐんと増えている。若い女の人が多い。おそろいのTシャツを着ていたり、頭にミッキーマウスの帽子飾りをつけていたり、アニメから飛び出てきたような服装の子も、そちこちにいる。それがあまりに多くて違和感がないのか、そもそもこの遊園地の設えが、そういう違和感を取り払うようにできているからなのか。もちろん10台の子たちも多いが、20歳を越えていると思われる大学生風や勤め人風の人たちも、数人の群れをつくって歩いている。小さい子を連れた家族も、若いのから私たちのようなジジババまで、右に左にあふれて、歩くのに気を遣うようになる。雨が落ちるかというような天気だのに、まるでお祭り。そうか、お祭りだ。ふだんの町がお祭り気分に装飾されているのを考えると、ここはことさらのお祭り。

 

 つぎに「ジャングル・クルーズ」の船に乗る。これも「25分待ち」。次々と乗り込み、次々と出帆する。今度は船長がいて、あれこれ話しかけながら操船をし、ガイドをする。ワニやゾウやカバや大蛇の、本物そっくりに作られた設え物が、動き声を立て、危うく襲われそうになるほど接近する。滝の裏側を回り込むなどもあるが、大掛かりな模擬展示場である。そこをガイドが「声をそろえて、ハイ、パオ~ん」と呪文を唱えると、乗船客が大きな声で「パオ~ん」とやる。私の脇に坐った20歳代半ばの女性グループも大きな声を立てている。素直だなあと、私は感心する。もちろん孫たちも、「は~い」と声をあげたりして、ガイドとコミュニケーションしている。

 

 「カリブの海賊」と「ジャングルクルーズ」の孫たちの緊張感は格段に違うのだが、それでも傍らの獣たちの動きにハラハラドキドキしている気配が分かる。この孫たちの感じている「現実感」と、同乗している若い人たちの「ヴァーチャル・リアリティ」とはちょっと違うんじゃないか。若い人たちは、絶対安全を信じている。ということは、しつらえられた物語世界に身を置いていることを承知で、ただ浸りきっている自分を演じているのではなかろうか。孫たちは演じているとは思っていない。だから、「海賊は(ぼくたちに)気づいていない」と気がついたわけだ。そういう意味では、孫たちのような小さな子どもに、ハラハラドキドキを体験させることとしては、この遊園地は面白いだろうと思う。だが、大人がねえ、とやはり、大人の感じたいと思っている「ヴァーチャル・リアリティ」は、現実世界からの逃避というか、現実世界に飽き飽きしているというか、もうホントにいやという証のように思う。それが入場お断りにようになるなんて、いったい私たちは今、どこにいるのか。

 

 「パレード」が始まる。七夕パレードと銘打って、「ささのは~さ~らさら……」と曲に乗せて、ディズニーのキャラクターが踊りながら行進する。曲がマンボ調になったり、ジャズ風に変わったりして、行進する仮装面々の踊りも達者なもの。1時間も前から座り込んで席をとり、パレードはほんの10分ほどの間に通り過ぎてしまうのだが、売り物のひとつらしい。2時からのパレードは30分ほどもつづいた。仮装キャラクターが近づいて手を振り、握手を求め、ハイタッチして通り過ぎていくといちばん前に席をとった人たちは、小躍りせんばかりに喜んでいる。むかしからのアニメキャラクターが懐かしさを体に刻んでいるからなのか、そういうスターたちと間近にいることに気分が高揚するのだろうか。何しろ、このパレードの間は、通行規制があるから、ほんとうに歩くのも大変になる。その間は、催し物会場は空くそうだとババは知っているが、パレードを見逃す手はないと、孫を連れて座を占めている。孫は大満足。

 

 孫たちは、ポップコーンを買って、首からぶら下げて歩きながらポリポリやるのが愉しいらしく、ひと箱を開けてしまった。おかげで子どもの方はそれほど飢えてはいなかったが、大人はお昼を食べるのに、苦労した。レストランは「予約」だったり、孫の片方が食べたいものがなかったり。結局バーガーやポテトチップや空揚げを買って、野外に置かれたテーブルで休憩お昼。

 

 「スモール・ワールド」とか「熊のプ~さん」とか「ゴー・カート」とかで遊んで、すっかりくたびれた孫が「帰ろうよ」と言い出すまで連れ歩いた。午後4時過ぎに帰りはじめたが、私はどちらに入口があったか、わからない。ほぼ完全な方向音痴。ババは目印の建物をみながら、あっち、こっちと指図して、パレードの交通規制を避けながら入口に向かった。孫は、土産のあるものを目指していたらしい。ここにはない、と土産物売り場を探し歩いている。店員に聞けばと私は言うが、頑として自分で探す態度を崩さない。まあ、これも愉しみなのだろうと、迷子にならないように(見失わないように)、人ごみをかき分けて着いて回る。1年孫はババがみている。お目当ての土産物をみつけたのは、駅舎と入口の間にある土産物屋さん。ここだと思ったというから、どうしてここに土産物屋があると知っていたのかと尋ねると、学校で友達から聞いていたという。お目当ての土産物は「消しゴム」。角が丸くならないでいつまでもとがった角をつかうことができる代物。なるほど、こういうこだわりってあるんだと思った。

 

 帰りはラッシュ。さすがに4年生孫はへたれないでしっかりしていたが、1年生孫は両手をジジババに預けてしゃがみこんでしまった。見かねた人が席を譲ってくれたが、ババがお礼を言うばかりで当人は声も立てずに、眠り込んでしまった。6時過ぎには帰着したが、遊園地滞在時間7時間半。子どもには結構な行動時間であったと思う。歩行歩数、12000歩強、たいしたことはない。待ち時間が累計すると3時間くらいったかと思う。

 

 さすがに疲れたのか、4年生孫は朝7時過ぎに起こされるまで、熟睡。起きてからまた二人は元気にはしゃいでいた。お昼にそばを打ち、天ぷらをごちそうした。たっぷり大人の一人前を腹に詰め込んで、つい先ほど、孫たちは父親に連れられて、新幹線に乗った。やれやれ。久しぶりに見ると、子どもの生長ぶりが面白い。


クローン人間の切ないもどかしさ

2015-06-25 14:41:07 | 日記

 カズオ・イシグロ『わたしを離さないで Never Let Me Go』(土屋政雄訳、早川書房、2006年)を読む。どういうわけでこの本を図書館に予約したのか忘れてしまった。誰かの文章を読んでいて、気に留まったからかもしれない。久々に「当たり」であった。

 

 最初から最後まで、テーマが解き明かされないままに話しが展開されているという「もどかしさ」を感じながら読みすすむ。子どもの生長とそれにまつわることごとが子細に繰り広げられる。「私」というのが間主観的な存在ということに挑んでいるのだろうかと思うが、そうとばかりは言えない、物語りの歯切れの悪さが浮き彫りになる。つまり、描出される情景の輪郭がぼやけている。いや、ぼかしているのだ。なぜぼかすか、どうしてぼやけるかという謎が、中ほどで垣間見える。その時、ひとつ思い当たったことがあった。

 

 もう5、6年前になるが、学生がクローン技術についてレポートしたことがあった。iPS細胞の山中教授がノーベル賞を受ける前のことだ。その学生は、臓器移植というがクローンをつくってそこから移植すれば生体反応の拒絶が回避されると、ひとつの提案をした。「えっ、それじゃあ、そのクローンの人生はどうなるの?」と私が質問して、その学生は「そこまで考えなければいけないのかなあ」とため息をついて、その話は蒸発してしまった。その時の私は、昔読んだ『家畜人ヤフー』を思い出していた。

 

 カズオ・イシグロは、その臓器提供者クローンを育成し、そのクローンが提供者として遜色がないように「立派に(健康に)」育ち、提供者となり、あるいは提供者となるまでの間をどう生きるかを想定して、物語りは展開する。だから、提供者の「人間形成」が物語られ、彼らの人生がそれ自体として価値を持つかどうかが行間に浮かび上がる。と同時に、それらが「提供者としての人生」として社会的に位置づけられていることも、読み取れるようになる。そう言えば、クローン羊のドリーが誕生したのは、イギリスであったか、アイルランドであったか。

 

 イギリス育ちイギリス在住の作者らしく、ノーフォークという土地が登場する。イングランドの北西端、この本の中では「失せものが集められる場所」とされて、象徴的に描かれている。この本の最後の情景に登場するこのノーフォークはこう描かれる。

 

 《何エーカーもの耕された大地を前に立っていました。柵があり、有刺鉄線が二本張られ、わたしの立ち入りを禁じています。見渡すと、数マイル四方、吹いてくる風を妨げるものは、この柵と、わたしの頭上にそびえる数本の木しかありません。柵のいたるところに――とくに下側の有刺鉄線に――ありとあらゆるごみが引っかかり、絡みついていました。海岸線に打ち上げられるがらくたのようです。……》

 

 この物語に登場する間主観的な存在である複数の「私」クローンが、自らの人生をごみのごとくに置き忘れ、それが吹きだまって「失せものの集積地」に集まり、有刺鉄線の下側に引っかかって絡みついている。死屍累々の情景です。そう読み終わったとき、これはクローンの話ではなく、今の私たちの社会そのものが、人をクローンとして育て、消費し、「海岸線に打ち上げられるがらくたのよう」にしているではないか、と思った。

 

 つまりカズオ・イシグロは、クローンとして育てられる「現代の私たち」の死生観をふくめて、俎上にあげているのではないか。読みながら感じた「もどかしさ」とは、だれがどこで操作しているわけでもないのに、世界が人々をクローンとして生み育て、しかもクローン自身がその状況に適合して自らの死生観を持ち来っている、その哀切さが、「もどかしさ」ではないのか。

 

 そう考えてみると、「輪郭」がおぼろになるのも無理からぬこと。そもそも私たちが何を目的に生きているわけでもない。しかもその中の優秀な作品が選び出されて展示館に飾られ、ひょっとしたらそうした幸運に恵まれたクローンには何か特権が与えられるのではないかという期待も、抱きながら私たちが生きてきていることが、鏡に映し出される。そうして、その果てに、ノーフォークがあり、鉄条網の下側に張り付くごみの山がある。それらが皆、私たちの失ったものだとすると、はて私たちは何ゆえに生きているのであろうかと、自分に問いが跳ね返ってくる。何とも切ない。


絶好の飯縄山、良い一日であった

2015-06-25 09:40:50 | 日記

 朝6時ころに家を出て、長野に向かう。長野着8時10分。アルピコバスのターミナルから「飯縄山登山口」へのバスに乗る。バスの切符を買うのにも、券売機を自分で操作する。画面を見て、どの路線に乗るかわからない。それを教えてもらって今度は、自分の降りるバス停がわからない。その都度、カウンターへ足を運び、お姉さんに教わる。お金を入れるのは、後ということも、やってみてわかる。確か去年の9月にこれをやっているはずなのだが、もうすっかり忘れているのだ。まいったね。

 

 まあ、こうしてチケットを手に入れ、バスに乗る。善光寺が御開帳とあって、人でにぎわう。バスの通りを窓からみていても、電信柱はないし、歩道はきれいなタイルで整備されている。「急行バス」は、善光寺の周りの細い道をぐるりと経めぐって、やがて飯綱高原の山間地に入って、高度を上げる。

 

 別荘地を抜け、「飯縄山登山口」で降りる。標高1120m。周りは緑に取り囲まれている。Khさんが待っている。彼は昨日からこちらに来て、昨日は下山口の中社から飯縄山へひと登りしてきた、という。往復、2時間とか。ほとんどトレール・ランニングだね。

 

 歩き始める。9時半。昨日の大雨と雷が信じられないほどの好天。陽ざしが登山道の両側に枝葉を伸ばすミズナラの街路樹の影を落として、樹陰の散歩のように気持ちがいい。別荘地の手入れをしている方がいる。「cofe」と書いた小さな看板の見える、芝生の喫茶店も開店しているようだ。「るんびに」幼稚園も、昨年同様にひっそりと静まり返っている。15分ほど歩いて、登山口の鳥居をくぐる。やはり昨日の降った大雨が流れ下ったあとが、登山道にしっかりついている。ただ排水性がいいのか、ぬかるんではいない。

 

 「第一不動明王」の標示と石仏があり、「1368m」の標高も添えてある。その傍らに「十三仏縁起」と見出しを掲げた看板が置かれている。「十三佛とは死者の七七にその三十三回忌を司る神なり」とはじまるその看板には、ここから上に登るにつれて十三仏が置かれていたが、そのうちの二つが逸失していたので、誰某が寄進して設えた、と墨書してある。戸隠の高妻山にのぼったとき同じように石仏をおいて、何合目という表示にしていたのを思い出した。信仰の山というのは、死者を弔うように石仏を置き、そこを登りながら、死者の冥福とともに生者の平穏を祈ったのであろう。「第二釈迦如来」、「第三文殊菩薩」と標高差でいうと25mくらいごとにあり、「第十二大日如来」が「駒つなぎの場」に設えられていた。私はいくつかを見過ごしてしまったが、「第十三仏もありましたよ」とあとから登ってきた人が話している。

 

 シラカバが倒れミズナラが幅を利かせる。その梢から小鳥の声が聞こえる。キビタキよ、と鳥好きが教えてくれる。小さい鳥ほど声が高いのだろうかと、歌好きが訊いている。コルリの声が響く。ちょっとした前奏があるから、コマドリではない。すぐ近くでホイチッチッチーと繰り返す。このホイチッチ―は何? ホイチッチならクロジだけれど、何だか余計な声がついてるねえ、とやりとりがつづく。そのうち路は、ジグザグに急斜面をしのいで登り、1750mを越えたあたりで前方の視界が開け、ニセ飯縄山が目に飛び込む。振り返ると、飯綱高原の森と池と別荘地が台地上に広がる。

 

 1830mで戸隠中社への分岐を左に見て、さらにすすむ。レンゲツツジがいくつかの塊をつくって花をつけている。ハクサンフウロがあったとしたから声が聞こえる。サラサドウダンツツジも、小さなつぼ状の花を下に向けてつけている。タニウツギが鮮やかな彩を見せて、花をたくさん開いている。岩を乗っ越すように登ると、やがて飯縄神社のある1909m地点に着く。広くなっている。「飯縄山山頂10分」という表示板が目に留まる。11時45分。いいペースだ。でも雲がかかっていて、山頂は見えない。

 

 少し呼吸を落ち着けて、山頂を目指す。ここからは標高差が10mというから、ほとんど登りはない。上から小学生の集団がおりてくる。130人いますと先頭の教師が断る。歩みを止めて、彼らが傍らを通り過ぎるのを待つ。みな元気がいい。ポンポンと飛ぶように降っていく。長野市の小学校5年生、林間学校のようだ。朝7時ころ出発してこれから一の鳥居へ下山という。付き添いの教師の方が、息が切れて、苦しそうだ。高齢になると教師も大変だねと、どなたかが漏らす。

 

 山頂着12時10分。2パーティ、10人ほどの人たちが、円座を組んで昼食にしている。私たちも「30分」と声をかけてお昼にする。先ほどまでの雲が切れて、北西方向の戸隠連峰がぎざぎざの山並みをみせる。西側にあるおにぎりのような山を指してKhさんが一夜山だと、その地に残る鬼の伝説を話している。あとで調べてみると、天武天皇がこの地に都を築こうと計画したが、それを知った鬼たちが自分たちの住まいを奪われると一晩で山を築いてそれを阻んだ。遷都は行われなかったが鬼は退治され、鬼無里が誕生したとあった。鬼無里にはKhさんの兄弟が住んでいる。(たぶん)そこで仕入れた話をしてくれたのであろう。そう言われてみると、薄雲の下に広がる標高1000mを越えて広がる台地は、奥ゆかしい。陽ざしが当たり、皆さん今日の陽気を寿いでいる。風は涼しく、汗もひいて気持ちがいい。

 

 12時40分、下山開始。Khさんが先頭に立って、戸隠中社へ向かう。下り道は上りに比べてなだらかで、樹林の中。陽ざしも遮られ、快適。1時半ころ、Otさんの歩みが止まった。脚が攣りそうだという。Kwさんが漢方の薬を出して、飲むようにすすめ、攣りそうな太ももに保冷液をかけるようスプレーを出してくれる。たぶんスプレーは、鎮痛効果を持っているのだろう。漢方に即効性があるのかどうかわからないが、この二つの手当てで、Otさんは落ち着いた。あとは順調に皆さんに着いて下山することができた。

 

 私が昨年道を間違えた地点は、わりと簡単に分かった。背の高い笹の間の木にとりつけた「飯縄登山道→」の小さな標示版。これを、快調の飛ばしていた私は、見落として直進してしまったのだ。それさえ間違えなければ、簡単に林道に降り立つことも、分かった。あとは林道を10分余、たらたらと歩いて、中社に着く。14時50分。Khさんの奥さんと鬼無里の兄弟ご夫婦が出迎えてくれ、彼とはここで別れた。さてところが、お目当ての蕎麦屋は、今日は定休日。バスのが来るまでの間、別の蕎麦屋に入って、そばを食べる人、ビールを飲む人とそれぞれに今日の山行が好天に恵まれたことに感謝しつつ、無事の下山を喜んだのであった 我が家に帰着したのは7時少しすぎ。良い一日であった。