mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

「軽々と」が「やっと」

2018-04-30 14:18:10 | 日記
 
 いま毎朝、TV体操をしている。去年の10月までは毎日カミサンがTV体操をしていたが、私はパソコンの前に座って、フンという顔をして書き物をしていた。ところが昨年の9月、「化石化」で左腕が上がらなくなり、その後、リハビリをすすめられてから、朝の体操をすることになった。それから7カ月、何とか左腕も上がるし、回せるようになった。
 
 片腕を静かに上にあげるだけのことが、耳から後まで行かない。まして反らせることなど、とんでもない。「少し反動をつけましょう」と言って、二度ほど軽く後ろへもっていき、前へ大きく回して下へ降ろし、腰の後ろへぶらんぶらんさせる。これが、二度もやるとしんどいと感じる。おいおい、いつから俺の身体はこうなっちゃてんだと、いまさらながら加齢による体の固まり方に、驚いている。
 
 ラジオ体操もそうだ。ピョンピョン飛び上がるのが、できていない。飛び上がるというよりは、背伸びしているような格好だ。つまり爪先が床からほとんど上がっていない。降りるときの衝撃を和らげることがムツカシイのか、高く飛びあがれないのだ。むかしは手の振り方ひとつとっても、(体操をしている)ほかの方々をみて、ずいぶん手抜きしていると思ったものだ。伸びるところが伸びてない。かがむところもおざなりだ。膝が曲がっていて、これでは体操しているのだか、体操をするふりをして付き合っているだけなのかわからないじゃないかと思ったものだ。体操というのは、一つひとつの動作にどこの何を伸ばし、どこの何を縮めているという「意味」が込められている。それを適当にやっているのは、ほとんど無意味と考えてもいた。その頃、当然ながら、ラジオ体操は運動にもならない軽いウォーミングアップと思ったものだ。まして、TV体操でやっている「右手をゆっくり上に上げてぇ」というのは、バカにすんじゃないよと(そんなことやってこともないから)思ったに違いない。
 
 ところがその動作一つひとつが、いま、私の身に堪える。伸ばすところが伸ばせない。ようやく伸びたと思っても、耳の後ろに行かない。化石化の現場であった左肩などはまっすぐ伸びているかも心もとない。耳まで届かないのだ。つまり、昔の「軽々と」がいまは必死でやって「やっと」の思い。なんともだらしないが、これが私の身体の現実である。
 
 TVの画面に登場するインストラクターの女の子の動きは(体育大学の学生さんたちだそうだが)、ほんとうに見ているだけですばらしいと思う。何を見てんのよ! と叱られるかもしれないが、プロポーションもいい。カミサンは、どうして若い男のインストラクターも登場させないのだろうというし、今日などは、いろいろな年齢の人たちをインストラクターにすればいいのにと、余計なことを言う。婆さんや爺さんが、上がらない腕をよろよろともちあげ、つま先立ちもできない背伸びをしても、「お手本」にはならない。真似ようという気がなくなればまだしも、何とか曲げ伸ばしを「きちんと」しようとしているうちは(その結果、伸びているかどうかは別として)、やはりきちんとしている「お手本」に登場してもらいたいと思う。4月の終わりに、そんなことを考えている。

人を人たらしめている原基

2018-04-29 16:24:14 | 日記
 
 宮部みゆき『孤宿の人』(新人物往来社、2008年。初出は2005年)を旅の途次に読んだ。先月の「ささらほうさら」で「宮部みゆき」をテーマにnjさんが話しをしたとき、この作品のタイトルを耳にした。十年も前の作品だ。図書館の書架にあった。時代物。舞台が、「あとがき」で宮部自身が丸亀に範をとったと記しているのも、親密に感じたひとつ。私の生まれは香川県の高松。育ったのは対岸の玉野。丸亀は海の向こうに見えている(瀬戸大橋を渡った)対岸にある。
 
 江戸時代を舞台にした物語は、身分や男女の壁や社会制度や慣習がもっている歴然たる差別性を前提とするから、「かんけい」が描き出しやすい。読者がもっている(自己形成上の)社会観や世界観の差異をひとまず棚上げして、作家のとりだそうとする輪郭をクリアにするのに格好の舞台となる。もう一つは、そう言った差別性が社会関係の前提になるから、それらを取り払った上でなお、ひととひととの「かんけい」に焦点を当てると、まっすぐ根源的な、原初のと言ってもいい人間の存在と関係の本質に迫るかたちを描き出すことにつながる。宮部の作品は、いつも、そうした視線をもたらしてくれて、私は好感を懐いている。
 
 ストーリーは、ひとまず脇に置く。語り部としての宮部がどのように登場人物を性格づけ、どのように振る舞わせるかという微細な、日常的なところに、宮部の筆はさえる。この物語に登場する舞台回しの「主人公」は、幼い、身寄りのない、目に一丁字ない女の子。江戸時代の舞台におかれたこの子は、身分の序列からも、男女の差別からも、読み書きからも、家族関係からも、ことごとく埒外に置かれている。あほうの「ほう」だと名づけられている。社会関係の波に洗われて力のない庶民は、いわばこの子と同じ存在にある、と私は読み取った。この主人公は、したがって、物語りの大筋を動かしていくことに何の力ももっていない。にもかかわらず宮部は、この子が人の生きる道筋を示す「方角」の「方」であり、ついには、人として生きるにおいて「宝」の「ほう」だと、物語の心柱になる人物に言わしめる。つまり、「ほう」のありように、時代を超えて通底する「人としての存在」の原基をみてとろうとしている。まさにこの子のもっている「気質」「振舞い」「愚直とも言える信頼」につながる日頃の営みにこそ、人との「かんけい」のもつもっともたいせつなことが与えられているとみて、物語の語り部は希望を託していると読み取った。
 
 読み書きを軽んじているわけではない。だが、もっと根源的な人の営みの精髄があると、読み書きのできる作家宮部は視線を下降させていく。拭き掃除をきちんと済ませ、繕い物も丁寧に行い、薪を割り、火を熾し、食卓を整えて、他人様の身体に気遣うという「かんけい」的な振る舞いを、身体に刻まれているかのように愚直に行うことの出来ること(疑うことを知らぬ、ひととの「かんけい」への)信頼感。その振舞いを己自身の手で行っていることのかけがえのなさ。それこそが、人を人たらしめていることなんだよと、宮部は、この作品を通じて述べ立てていると、私は受け取った。
 
 作家が小説の「あとがき」を書いて、モデルは丸亀藩であり軸になる心柱は鳥居耀蔵だと記している。これは珍しいことだ。作品のモデルがあり、全面的にフィクションではないと言い訳をしていると受け取る向きがあるやもしれないが、時代物の、まったくの物語に、どうしてそのような申し開きが必要であろうか。むしろ宮部は、目に一丁字ない(文字通り無垢な)子どもに希望があるといったときの(この作品を書き終わった後の)、作家自身の現存在とのギャップに気づいて、丸亀藩だの鳥居耀蔵だのと目くらましをくれないではいられなかったからではないかと、私は読み取った。どうしてか? 読み終わった読者から、「ではあなたは神のような立ち位置で見ているのですね」と言われては返す言葉がないと思ったからにちがいない。そう、私は解釈している。そしてその態度がまた、私を宮部ファンにしているような気がするのだ。

トカラ列島訪問記(2)――働き手と鳥の減少が比例する

2018-04-29 10:53:06 | 日記
 
 島の探鳥路はおおよそ七つ。
 
 「ガジュマルの森」が一番長い探鳥ルートであった。小中学校のグランドにはじまり、ジャガイモ畑を経て、ガジュマルの森を抜け、樹林の中の水場を覗いて、鉄塔への上り分岐を脇に見て、長い簡易舗装路を海を遠くに見ながら下って、コミュニティセンターの脇へ下ってくる。早朝も、昼間でも鳥の声が欠けることはない。姿もそこそこ見えるが、ムシクイの仲間が何であるかは、ついにわからずじまいであった。
 
 「水源への道」はグランドへの分岐を右に見てまっすぐに進む。突き当りの水源は、何年か前に来たことのある人は「入れた」というが、今は金属の柵を設えて立入禁止になっている。両側がダイミョウチク(大名竹)という背の高さを軽く超えるササのブッシュ。密生しているから、壁のようなものだ。ところどころ隙間があって、その向こうが畑になっていたりする。水が溜まっているところもある。果たしてどこから水が流れ込むのだろうと思うようなところにも水溜りがあったりする。一日目にこのルートを歩いたが、二日目には巨大な重機・ブッシュチョッパーが入っていて、作業をしていて近づけなかった。作業というのは、この重機に取り付けた先端の刃が、ちょうどバリカンのように回転していて、密生するダイミョウチクをバリバリと大きな音を立てて刈り取っている。いや正確には、刈り取るというのではなく頭から刃が降りてきてササを細かく砕いて粉々にしているのだ。刈り取られた後を、覗いてみると、二十メートル四方くらいの広さの真ん中に畑であったらしい緑の草の生えた土地が広がり、一部に水溜りもある。その道の反対側の刈り取られた後は、1メートルほど高台になっていて、重機はその斜めになって岩もあるところのササも上手に刈り取っていた。案外器用に動くんだ。重機には「離島支援事業」というような支援金支出元の事業名が記されていた。同じような記名をした軽トラックやワゴン型の車もあったから、離島振興法に基づいた施策として行われているのであろう。
 
 だが、ダイミョウチクのなかを隙間から覗いてみると、むかし田圃があったと思われる、階段状になって草ぼうぼうのところや水は溜まっているが手入れされていない様子のところが数多い。人家も廃屋かと思うほど傷んでいるが、庭には軽自動車がとまっていたりする。そうそう、平屋鉄骨建ての「へき地診療所」と表示された建物があり、そのドアの取っ手が壊れているので、使われていないのかと思ったら、50ccのバイクが止められていた。何度も来ている探鳥家は、「昔ここにきて裏庭に入って鳥を観ていたら、看護師さんにえらく叱られた」という。そのときここには入院している人もいたというから、一人暮らしのお年寄りや病人は診療所に入院させておいた方が世話をする側にもいいのかもしれない。働ける人の数が減って田や畑が減り、ダイミョウチクが根を伸ばして首を出し荒れてくると、上空から飛来する鳥も、近寄らなくなるようだ。じっさい、私たちの泊まった民宿の、20代後半の若主人は草を刈ったり「畑にキャベツを植えようと思ってる」と話す。出荷作物の話をしているのかと思ったらそうではなく、キャベツには虫が来るから鳥も立ち寄る。草を刈ると虫を啄ばむ鳥が降りてくるようになると考えているようであった。草を刈るといえば探鳥をしていたとき、ずうっと向こうの畑らしきところに這いつくばるようにして何かをしているその民宿の主人がいた。双眼鏡を出してみても、地面の何かを一つ一つ丁寧に扱っているようだったので、あとで「種を植えていたのか」と聞くと「いや、草をとっていた」という。根こそぎ取るようにしないとササや草は絶え間なく生えてくる。ブッシュカッターで坊主刈りにしてからのちの作業がたいへんなのだと思った。もっとも、ダイミョウチクも芽生え始めのやつはタケノコとして湯掻くとたいへんおいしい。マヨネーズに醤油を掛け七味を混ぜてつけると、お酒のつまみにいい。細く刻んで胡麻和えにしているのも口にした。ブッシュの中でガサゴソ音がしていると思ったら、笹をかき分けて爺さんが顔を出し「これで今夜は一杯やれる」と言ってにやりと笑った。
 
 民宿の家の畑は一カ所にまとまっているわけではなさそうだった。いちばん大きなのは私たちがあるいているときにタシギだったかオオジシギだったかが飛び立った先。草取りをして帰ってきた主人が、シギが来てたよと教えてくれたので「シギの畑」。翌朝また観に行ったのだが、残念ながら見つけることができなかった。その畑の手前には水を溜めたミズイモの田んぼが広がっていた。水は山側の斜面からダイミョウチクの足元を抜けて流れ出てきている。それをコンクリ製の道路わきの水路に集め、溜めたところから道路を横切って田圃の方へ流している。小さな島なのにその水量はずいぶんと多い。飲み水は水源からとっている。ダイミョウチクの足元を抜けるように径5センチくらいの導水管が集落のあちらこちらに走っている。ときに潮の味がすると誰かが話していたが、私は泊まっている間にそう感じたことはなかった。埼玉県は海なし県だから、案外潮味に敏感な人が多いのかもしれない。あるいは私の舌がバカになってきているのだろうか。
 
 神社の道、寺の周囲、ヘリポートとそこから山を越えて東の浜に向かうルートと、私たちが降り立った南風(はえ)の浜と、探鳥地は7カ所あった。東の浜へ向かうルートが一番遠いのだが、それでも(たぶん)歩いて1時間もかからない距離だ。私たちは宿の自動車を借りたが、帰りは標高差200mほどを上ることになるから、歩くとくたびれるのは間違いない。要するに宿を確保したら、あとは全島を歩き回る。ブッシュに阻まれるから見るところはうんと限定されるが、声を聞くだけなら、絶え間なく取りに囲まれていることは間違いない。民宿は三軒。車を借りて走り回るチームもあれば、1泊高校生のように手際よく見どころをみて歩くのもいる。高校生はエゾムシクイも見たというから、動体視力がいいのかもしれない。そうだ、ウグイスが妙な鳴き声をしていた。えっ、あれは何? と吾チームに聞いたが、ウグイスじゃないかというばかりで誰もわからない。その(鹿児島から来た)高校生に聞いたら、ウグイスだと返ってきた。島のウグイスは本土とは違う鳴き方をすると教えてくれ、「方言ですよ」と言ったのは、面白かった。
 
 私たちが行っている間雨が降ったのは半日だけ。あとは晴れと曇り。いかにも東シナ海と太平洋に浮かぶ小島だ、風が強かった。鳥に関心の深い宿の若主人は「南東の風が北西の風に変わると鳥がやってくる」と話していた。探鳥の達者の話では、南から本土に渡る鳥は、晴れて南からの風が強いときはそれに乗って先へ行ってしまう。北西の風になると向かい風だから、一休みするためにこの島に降りたつ、という。広い大洋のなかの小島が上空からどのように見えているのかわからないが、田圃や畑がなくなりブッシュばかりになっているところには降り立たないのだろうか。たしかに、雨が降り風向きが変わった日の夕方、コムクドリやアマサギ、ダイサギが何十羽と群れを成して飛来してきた。小鳥がブッシュからブッシュへ飛び交うのを何度も見かけた。グランドにいたムナグロは、すっかりくたびれ果てて餌を啄ばむ元気もないようであった。アサクラサンショウクイという珍鳥も見かけた。
 
 日曜日に訪れた平(たいら)島小中学校の掲示板には、4/14発行の「学校だより」が張り出されていた。そこには3人の新任教員と6人の転入生(小1ひとり、小4ひとり、小5三人、中1ひとり)6人が、顔写真入り、カラー印刷で紹介されていた。同行していた一人の旦那が鹿児島出身であったから話を聞けたのだが、鹿児島県の教員採用試験に受かった人は必ず、離島に赴任しなければならないそうだ。そうそう、帰る日の港で船を待っているとき、村の人たちが船に積んで運んでもらうものを持ってくる。民宿の人たちは見送りに来る。そこへ30歳前後と思われる若い女性が「こんにちは~」と大きな声であいさつをしながら歩いてくる。村のみなさんも挨拶を返して、なんとなくその場の雰囲気が一変したようであった。あの人が教頭さんよ、と民宿のおばさんが教えてくれた。「ええっ、あんなに若くて? どこのお嬢さんかと思った」と同行の後期高齢者の声が飛び出す。村のアイドルのようであった。
 
 そういえば、私たちがいる間に小中学校のPTA総会があると「防災十島(としま)村」が放送を流す。放送は各家庭のリビングにも流れ出てくる。学校の終わる午後3時ころ、通りのそちらこちらから家族と思われる人たちが出てきて、学校へ向かっている。若いカップルもいて、私たちと挨拶を交わす。車で拾いあって向かう人たちもいる。民宿の女将は「島の人全員がPTA会員、会費も払っている」とわらう。会合が終わって帰ってくる先ほどの若いカップルに出逢った。「過半数で(総会は)成立した」とにこやかに話してくれる。
 
 「防災十島村」は船の発着を逐一伝えてくれる。「今夜定刻に鹿児島港を出港します」「7時35分に諏訪之瀬島を出ました。8時20分に平島の東の浜に着きます」という具合だ。風向きによって、南風の浜、東の浜と寄港する場所を使い分けている。その都度、荷物を受け渡したり、来客を送り迎えする村の人たちの集まる場所が変わるというわけだ。「今日は巡回診療があります。十時からと二時から五時まで。二時からの一時間ほどは小中学校の診療が入ります」と丁寧な案内。訊くと月二回、船で医師がやって来るそうだ。吐噶喇列島の島々を経めぐりながら、島民と小中学校を見て回る。それ以外は看護師だけ常駐。真夜中にバリバリと音がしたことがある。私は昼間見たブッシュチョッパーという重機が夜の間に移動しているのかと思ったが、違った。鹿児島から自衛隊のヘリコプターがやってきて、救急患者を移送したという。ドクターヘリじゃないんだと誰かがいうと、ドクターヘリは有視界飛行だから、昼間出ないと飛べない。そういうときには航空自衛隊のヘリが出動するんだと、宿の女将さん。離島暮らしも容易ではない。
 
 鳥の数が多くなかったから、誘ったカミサンは「悪かったわね」と恐縮していた。だが、知らない土地を訪ねる私の吐噶喇列島・平島訪問は、面白かった。はじめて「私のせかい」に吐噶喇列島がはめ込まれた。またこの地の人たちが、離島支援事業の援けを得ながらも、船を出して魚をとり、田を耕し畑を起こし、ブッシュと闘い、観光客を持てなし、山海留学生を受け入れ、若い人たちを加えて幼い子どもたちを育てている姿は、人が生きるということの根源を垣間見せてくれるものであった。いかに都会地に暮らす私たちが、人々に頼り切って過ごしているか、振り返る旅にもなった。土をつくり、食べ物を育て、調理して口にするという「自給自足」から遠く離れて交換経済に身を委ねている間に、地道な(文字通り地を這うような)自律の心根を失ってしまったなあと、思う。これじゃあ、人口減少の時代を生き抜いていく力は育まれない。まあ後期高齢者だから、いまさら育むもないだろうが、日本のこれからの世代もまた、底力をつけるには(大人になってからでも)山海留学でもして身につけなければならないんじゃないか。快適らくちんな暮らしでは「ひとでなし」になっていくような感じがした。

トカラ列島訪問記(1)離島に暮らすということ

2018-04-27 16:29:07 | 日記
 
 20日から昨日まで、吐噶喇列島の平島へ行ってきました。目的は探鳥なのですが、そもそも「トカラってどこなの?」と訊ねられ、「さあ奄美と沖縄の間かなあ」という程度の見当しか持っていませんでした。お恥ずかしい。私に訊ねた人のなかには、外国だと思っていた人もいましたから、まあ、あまり変わり映えはしないのかもしれません。因みに余談だが、このタイトルの原稿を保存しようとしたらパソコンの保存機能が作動しない。後で分かったのだが、吐噶喇の文字をトカラにしたら受け付けてくれて、保存できた。つまり漢字のそれは、機能に障害をもたらす質の文字なのだとわかった。
 
 屋久島の南に点々と島が連なり奄美大島に至るまでの十の島々のことを指していると、今回初めて知りました。その名も、十島村。そのうち三つは水が取れないので人が住まない。人の住む七つの島を経めぐる船に乗り鹿児島の港から200kmの口之島を入口にして、20km、30kmと離れた島々をめぐり奄美大島名瀬港に至る430kmの船便が、週に二便運航されている。私たちが乗った「としま丸Ⅱ」号は4月2日就航という新造船フェリー。三日かけて、この航路を二往復している。訪ねた平島は吐噶喇列島のちょうど真ん中の小さな島。往きの船で早朝に降り立ち、一泊して次の朝の帰りの便に乗って鹿児島へ帰るという高校生らしい探鳥家の姿も見かけた。
 
 この平島は鳥が渡る季節に立ち寄る地点としてバーダーの間では知られているらしく、うちのカミサンは二度目の訪問。面白かったというので、今回私も同行させてもらった。コーディネートしてくれたのは、埼玉野鳥の会のUさん。「まるで鳥かごのなかにいるようにそちらにもこちらにも珍鳥だらけだった」という言葉を聞いて、楽しみでもあった。12人のグループ。吐噶喇列島が初めてというのは、私をふくめて4人。みなさんは鳥の達者たち。私がカミサンにくっ付いてコスタリカとかアラスカとかオーストラリアやモンゴルに行ったときの顔見知りが9人。国内旅行でご一緒した方が2人。一人だけ「初めまして」という方であった。
 
  6時間ほどかけて最初の口之島に着く。島の山が噴煙を上げている。諏訪之瀬島でも御岳が噴煙を上げており、口永良部島の噴火や霧島の新燃岳や硫黄山が噴火しているのに連なる火山列島の南端になるのだろうか。平島についたのは8時半ころ。平島は周囲7.2km、標高の一番高いところが242mほどの、手羽先の手に持つところを南側においたような形。たいていのところは50mくらいの崖になっている。3000トンほどの船のデッキから港の様子が一目で見渡せる。人が降りるだけでなく積み荷を降ろす。それらの受け取りに来る人たち、見送りに来る人たちの乗ってきた軽自動車が岸壁の広まったところに留めてある。コンテナを降ろし、それをフォークリフトが隅の方へ運ぶ。荷を受け取る人たちがそれぞれに積み込んでは自動車を走らせて山の向こうにある集落へ向かう。私たちの泊まる民宿の方が手際よく荷物を軽トラに積み込み、やはり軽のバンに6人乗せて走り去る。残された6人は戻ってくる車を待ちながら、港の鳥を双眼鏡で追う。カモメが一羽もいない。季節のせいもあろうが、漁港の賑わいがない。遠方にイソヒヨドリが一羽見えただけだ。
 
 迎えの車が戻ってきて、私たちを乗せて民宿へ向かう。10分もかからない。途中に十島村の平島支所があり、コミュニティセンターと名づけられている。後で分かったのだが、人口は60人。それでも三年前に来たときよりも10人ほど増えているという。じっさい小さな子どもを抱いたお母さんが港へ迎えに来ていた。人口増えてんだというと、宿の若主人が、いろいろやってみてるけど、なかなか定着しないと話す。北海道から来た人は……と話し始めたのは、村の家賃がゼロとか、補助金支給を目当ての四人家族。父親が定職を持たないので、牛を飼う仕事を村が世話したが、結局続かない。子どもを叱り、家から閉め出したりして、結局見かねたご近所が子どもにご飯を食べさせたりしたという。2年もいつかないで出て行ったそうだ。いまは魚の加工場を村がしつらえ、横浜だかからひと家族が来て頑張っているという。また小中学生の山海留学を募集し、今年6名の応募があり、すでに学校に通っているという。支所の近くに「山海留学・寄宿寮」という看板を掲げた住宅があった。また、日曜日の昼間、ヘリポートの離着広場で四人の子どもと若い大人二人がキャッチボールをしたり、ボールを打って捕る遊びをしているのを見かけた。それにしても、どんな事情からそうしたのかは分からないが、小中学校を親元から離れて過ごすのはどういうものだろうと、思った。
 
 荷物を宿に置きすぐに探鳥に入る。まだ9時ちょっと過ぎだ。ここにサンショウクイがいたとか、アカショウビンの声が聞こえていたのに姿を見つけられなかったと、何度か来た人たちが言葉を交わしている。アカヒゲの声が藪の中から聞こえてくる。あおーあおーとアオバトも鳴いている。と思うと尺八を吹くようなボーっという頼りない声がして、あれはカラスバトだと説明してくれる。声がすると皆さん立ち止まって、そちらの方へ双眼鏡を向ける。小中学校のグランドがある。周りはササ竹の薮とガジュマルの木。松もある。クスノキなどの照葉樹のようにも見える。葉の落ちた枯れ木(のようなもの)もある(が、いまどき葉が落ちているものか)。スギもあるようにみえる。校舎は一段低いところにあるのか、グランドからは見えない。
 
 コンクリ舗装した林道が山の中腹を経めぐっている。その中間点に、大きな「千年ガジュマル」と呼ばれている木が何本も幹を重ね、枝が張り出し、その枝から気根がぶら下がり、一部のそれはすでに地面について太い根になっている。そのような大木がそちらにもこちらにもあり、その周辺はうっそうとしてる。誰かが小さく呼気だけで、「来た!」と声を上げる。薄暗い茂みの途切れたところの小岩をお立ち台にするようにアカヒゲが乗っている。私は半年前に沖縄本島の国頭で出逢っている。首と胸が黒いから雄だ。やがてそれが立ち去り、待っていると今度は雌がやってくる。こうして私たちの吐噶喇列島の探鳥がはじまった。(つづく)

敵もさるもの

2018-04-19 18:05:15 | 日記
 
 ハナミズキが散っている。フジが咲いていると思ったら、これも散りはじめた。何度も感じてそう書いてきたが、今年はずいぶん季節の進行が早い。晴雨の変化もきっぱりしている。気温の寒暖差も、けっこう大きい。冬物を仕舞って失敗と思わせて、翌日は夏日だったりする。こういうことも、温暖化と言えるのかどうかはわからないが、温帯から亜熱帯への緩やかな移行とすると、(気候変動という)敵もさるもの、人が馴染むのを見越して、もてあそんでいるように思える。
 
 雨上がりの街は気持ちがいい。どうして? と考えていて気づいた。花粉が飛んでないのだ。鼻も目もぐずぐずしない。春先には、ひょっとして白内障になったのかと思うほど、世の中が霞んでみえた。それが、文字通り洗い流されたようにくっきりとしている。でも今日は、あっぱれな晴天。目もくしゅくしゅして、鼻水もぐずぐずと頻繁に拭かなければならない。
 
 朝から出かけた。六本木の国立新美術館。私の古い知人が、版画を彫って春陽会という美術展に「合格」したという。国立の新美術館ははじめて。乃木坂の駅の上を這い出るようにして直に美術館に入る。広い。奥行きもずいぶんとある。一階の展示は有料らしく、チケットを買う人、中へ入ろうと並ぶ人で、行列ができている。訊くと春陽会は二階だという。二階の展示場は入口でチケットを販売している。私はその知人から「70歳以上無料」と聞いていたから、入口でそのことを口にすると、「はいどうぞ」という。すると、私の前に入った人が振り返って、「えっ、そうなの? 私は75なんだけど」と言って、直前に支払った入場料を戻してもらう話をしている。
 
 ところが、ものすごく多い展示のどこを見ても、私の知人の作品がない。「一覧表」にも苗字は同じ人が二人いるが、下の名前が違う。う~ん、どこなんだろうと出口の受付の子に聞く。「ああ、版画は三階です」と返ってくる。そういう案内はどこでしているのだろう。三階に行くと「水墨画書道展」の看板があり、「春陽会」の会場もあった。入口にまた別の「一覧表」があり、これには、たしかに知人の名前が掲載されている。やはりものすごい数の出品があって、一つひとつゆっくり見る時間が無くなってしまったが、ほほう、これが版画かと思うほど手が込み、色合いも描画も直に描いたのではないかと思わせるほど細密にしっかりと仕上げられている。
 
 彼の作品は、さすが大学の芸術学科で美術を専攻した人の作品だ。仕事は車のデザインをしていたと言っていたか。だから、版画を彫るというのは、たぶん彼にとっては、リタイア後の暇つぶしなのであろう。でも上等な暇つぶしだ。少々の金をかけても、惜しくない。もしこの作品だけを見ていたら、ひょっとすると余技以上での業で注文も入るのではないかと思わせないでもないが、展示されている数多の作品を見ると、世の中にはスゴ技の人たちがこんなにいるんだと思わせる。大衆と言っていいのかどうかはばかられるが、日本の大衆の芸術的民度も、たいしたものだと言わざるを得ない。
 
 先日、院展の作品を観て感懐を述べたが、なんだか昔ながらの「権威」を背負った院展よりも、全国展開しているらしい春陽会という組織の大衆芸術が、かぶっている衣装の軽さに反比例して、層が厚く、腕にも磨きがかかっているように思えた。前者は、なんとなく余裕の構え、後者は懸命に創作しているという気配。どちらがどうということは、傍目には言えないが、判官びいき、額に汗している方を応援したいという心持になった。でも国立新美術館だ。いわば一流の人たちの舞台であることは間違いない。
 
 そのあと、有楽町へ行って亡くなった大学時代の同期生の追悼をして献杯したのだが、その話はまた、別の機会があったら書き記すことにしましょう。明日から私は、吐噶喇列島の平島へ行く。一週間たぶん、音信不通になる。このブログも、したがってお休みします。ではでは、ごきげんよう。